水族館の自動ドアをくぐった瞬間、外の賑やかな秋晴れの光は消え去り、そこには静謐な、深い青の世界が広がっていた。
薄暗い通路の壁に、ぽつりぽつりと浮かび上がるガラス窓。その向こうでは、神秘的な深海魚や色鮮やかな熱帯魚たちが、重力を忘れたように優雅に浮遊している。
水槽の底から湧き上がる泡が、人工の光を浴びて青く、白く、星屑のようにきらきらと輝いては消えていく。
「わあ……綺麗」
私は思わず、目の前を泳いでいく半透明の魚の群れに目を奪われ、小さな感嘆の声を漏れる。
「うん、本当に綺麗。……誘ってくれて、ううん、一緒に来てくれて本当にありがとう、れなちゃん」
隣を歩く紫陽花さんが、ふわりと目を細めて微笑む。そのオレンジ色の温かな瞳には、水槽の青い光が反射して、まるで深い海の底に佇む人魚のようで。
「ううん、私の方こそ。こうして紫陽花さんと、静かで穏やかな時間を過ごせるの、すごく嬉しい」
私はそう答えながら、胸の奥に小さな、だけど 確かな温かさを感じた。
紫陽花さんはいつも、誰にでも優しくて、どんなことも平均以上に器用にこなしてしまう、頼れる存在。だけど、その器用さの裏側にある「本当の自分」を人に見せるのを、彼女はとても怖がっていた。
いつか彼女が零した、あの寂しげな背中。だからこそ、今日この時間は――他の誰でもない、隣にいる瀬名紫陽花という一人の女の子の呼吸に、ただ寄り添っていたい。
「れなちゃん、見て。あの子、なんだかゆっくり泳いでて可愛い」
紫陽花さんが、ガラスを指差して子供のように無邪気な表情を見せます。
「あ、本当だね。ちょっとマイペースな子なのかな。……ふふ、見ているだけで癒される」
お互いに特別なことを話すわけでもなく、ただ「綺麗だね」「可愛いね」と、目の前の小さな世界を共有する。
肩が触れ合うほどの距離で、お互いの体温を感じながら歩くそのペースは、驚くほど自然で心地よい。
巨大な大水槽の前に差し掛かったとき、紫陽花さんが足を止め、ふと青い光の海を見上げたまま、静かに口を開く。
「ねえ、れなちゃん。……私ね、ときどき怖くなることが多かったの」
「え……?」
私は彼女の横顔を見つめました。青い光に照らされた紫陽花さんの横顔は、信じられないほど繊細で、触れたら壊れてしまいそうなほど儚げに見えた。
「みんなの前では、いつも『お姉ちゃん』みたいに、しっかりした私でいなきゃって思うんだけど……。こうして、れなちゃんと二人で静かな場所にいると、自分の弱いところが、全部透けて見えちゃいそうだった」
彼女は小さく自嘲するように微笑み、ぎゅっと自分のカーディガンの袖を握りしめる。
「何でもできるねって言われるたびに、本当は空っぽなんじゃないかって不安になる。……でもね、れなちゃんだけは、そんな私の『役割』じゃないところを見つけて、名前を呼んでくれた」
彼女たちは、私にとって「誰か」ではなく、一人ひとりがかけがえのない、傷だらけの愛おしい存在なのだと、私はかつて泥臭く学んだ。
私はゆっくりと、紫陽花さんの方へ体を向けました。そして、彼女が驚かないように、そっと、だけど優しくその手を包み込むように重ねました。
「紫陽花さん」
「……れなちゃん?」
「私は、紫陽花さんが何でもできるから、一緒にいるわけじゃない。器用なところも、本当はちょっぴり怖がりなところも、誰かを守るために自分を犠牲にしちゃう危なっかしいところも……私は、その全部を知りたいし、ちゃんと見ている」
細められた私の瞳に、まっすぐな光を宿して、彼女のオレンジ色の瞳を見つめ返します。
「答えを急がなくても、特別の形が分からなくても大丈夫。一度乗り越えたから、あとはもう大丈夫なんてことはフィクションだけ。苦難は何度も起こるし、辛いし苦しい。だから、一人で苦しいときは、いつでも私を呼んでね。私たちは、一緒に考えればいいんだから」
私の言葉を聞いた紫陽花さんは、一瞬だけ瞳を大きく見開く。
それから、ぽろぽろと零れ落ちそうな涙を堪えるように、嬉しそうに、だけど今にも泣きそうな表情で、私の手をぎゅっと握り返してくれた。
「……うん。ありがとう、れなちゃん。やっぱり私、れなちゃんには敵わないや」
青い光の底で、重なり合う手と手。
たとえその愛が、いつか「相手を守るために嫌われても止める」という歪んだ覚悟に変わるとしても、今この瞬間、私たちの間に流れる時間は、どこまでも優しく、温かな光に満ちていていた。
「さあ、次はクラゲの展示エリア。行こう! 紫陽花さん!」
「ふふ、うん。行こう、れなちゃん」
繋いだ手の温もりをそのままに、私たちは再び、静かな青い海の中へと歩き出した。
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