屋上の出来事から数日が過ぎ、校内の空気は少しずつ、しかし確実に変わり始めていた。
廊下を歩けば、王塚真唯は私の隣にぴたりと寄り添い、人目も憚らずに腕を絡めてくる。教室に入る直前には私の肩を抱き、休み時間になれば私の膝の上に自分の手を置いたまま離そうとしない。
金色の長い髪が私の肩に触れるたび、彼女は満足げに目を細めていた。
その姿はまるで、大好きな飼い主に全力で匂いつけをするゴールデンレトリバーのようで、あまりにも自然で遠慮がなかった。
「……弾けたね、真唯」
前を見据えたまま、私が静かに声をかける。真唯は嬉しそうに私の腕へ頬を寄せ、少し甘えたような声で答えた。
「大好きな人と体を重ねたい、近くにいたいと思うのは自然な欲求だと思うのだが」
「それはそうなんだけどね」
彼女の指先が、私の手の甲をそっと模るようになぞる。温かくて、驚くほど柔らかい。
私は小さく息を吐き、穏やかに言葉を続けた。
「確かに王塚真唯らしい情熱だけど……相手のタイミングや気持ちを確かめずに自分の欲望をぶつけるのは、ちょっと減点かな」
真唯は一瞬で動きを止め、その美しいブルーの瞳を伏せた。
「そ、そんな……れな子も私を好きだと言ってくれたから、てっきり……。しかし、意思の確認を怠ったのは確かにその通りだ。私の配慮が足りなかった。済まない……」
みるみるうちに声が震え、自信の塊のような完璧優等生の仮面がほんの少しだけ剥がれ落ちる。その極端な凹み方に思わず笑いそうになりながら、私は立ち止まり、彼女の手をそっと握り返した。
「いいよ、怒ってないから。まずはこうして手を握ることから始めよう。そこから一つずつ、お互いの心地いい距離を知っていけばいいんだよ。何が好きで、何が嫌なのか。ちゃんと言葉にして、傷つけないように考えて、でも伝える。恋人関係もそうだけど、これって人間関係の基本でしょ?」
真唯は私の言葉を頭の中で反芻するように数秒ほど沈黙し、それから深く、ゆっくりと頷いた。
「……うん。そうだな。独りよがりになっていた。ありがとう、れな子」
彼女の指が、今度は少し遠慮がちに、けれど愛おしそうに私の指へと絡まる。
人間関係の基本。それは技術論ではなく、尊重と感謝、そしてオープンな態度だ。私はそれを本の中の知識として知っているわけではない。
引きこもりという絶望の底から社会復帰を目指し、必死にもがく中で自ら築き上げた生の規範だった。
だからこそ、私は真唯の溢れ出る欲望を否定しない。受け止めた上で、少しずつ形を整えていく。
教室に戻ると、瀬名紫陽花さんが私の席の近くで待っていた。
ベージュの長いウェーブヘアを耳にかけ、黄色の瞳で私たちを見上げる。
ふんわりとしたカーディガンを羽織った彼女は、いつもの優しい笑顔を浮かべていたが、その口元には絶妙な苦笑いが混ざっていた。
「あはは……れなちゃん、なんだかすごいことになってるね」
紫陽花さんは小声で言いながら、私と真唯のしっかり繋がれた手元を見て、くすくすと楽しそうに笑った。
「真唯ちゃん、れなちゃんのこと本当に大好きなんだね。廊下を歩いてる二人を見て、周りのみんなもびっくりしてたよ」
「まあ、青春のワンシーンってやつだね」
私が努めて冷静に返すと、紫陽花さんはさらに苦笑いを深めつつ、でもどこか愛おしそうに目を細めた。
「うん、そうだね。……なんだか、ちょっと羨ましいな」
その言葉は、放課後のざわめきに消えてしまいそうなほど小さな呟きだった。私はそれを問い詰めることもせず、ただ静かに受け止めた。窓から差し込む夕陽が、私たちの影を床に長く伸ばしている。
放課後、一人で席に残り、オレンジ色に染まる景色を見つめながら私は「相手の立場になって考える」という言葉について思考を巡らせていた。
多くの人は、それを「自分が相手の立場だったらどう思うか」という自己の投影で済ませてしまう。だが、真の共感は違う。相手の背景、性格、抑圧されてきた環境を観察し、推察することだ。
真唯は完璧でなければ愛されないという恐怖の中で生きてきた。だからこそ、私という安全な存在を得て、その反動が爆発しているのだ。
彼女にとって肉体接触は安心の証明であり、私の価値観とは異なる。だからこそ、私は自分の感覚だけで拒絶せず、彼女の背景を観察した上で、適切な言葉を選びたいと思う。
判断を急がず、まずは観察する。それが、私の静かな流儀だった。
別の日。
放課後の廊下は、夕陽の赤を吸い込んで静まり返っていた。私が鞄を肩にかけて歩いていると、背後から軽やかな、しかし妙に勢いのある足音が近づいてきた。
──ドン、と心地よい衝撃と共に、背後から柔らかな腕が回される。
「れな子!」
耳元で弾んだのは、聞き慣れた王塚真唯の声だった。彼女は私の背中にぴったりと体を預け、両腕で私の胴体をぎゅっと抱きしめてくる。
金色の長い髪が私の肩に零れ落ち、上品で甘い香りが鼻腔をくすぐった。残っていた数人の生徒がぎょっとして振り返るが、真唯は一切気にする様子もなく、嬉しそうに頬をすり寄せてくる。
「今日も一緒に帰ろう!」
「わわ、真唯、ちょっと突撃が激しい……! ほら、みんな見てるから」
大型犬のような懐きっぷりに慌てる私を見て、通りがかりのクラスメイトが「王塚さん、本当にれな子の前だとキャラ違うよね」「犬かな?」とヒソヒソ笑いながら通り過ぎていく。恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じつつ、私は彼女の腕を軽く叩いた。
「真唯、本当に楽しそうだね」
「もちろんだとも! だって、れな子とこうして触れ合える時間は、私にとって何よりも素晴らしいものだから」
さらに力を込めて抱きしめてくる彼女の温かい息が首筋にかかる。離れたくないと言わんばかりに、指先が私の制服の裾を小さく摘んでいた。
私はその様子を、内心で冷静に観察していた。学校中から「王子様」「スーパーダーリン」と崇められる完璧な優等生。誰に対しても上品で、一定の距離を保ちながら人々を魅了するあの華やかな少女が、いま私の背中で無防備に甘えている。
これは、長年彼女を縛り付けていた「完璧であらねばならない」という呪縛からの解放の反動なのだろう。大企業のお嬢様として背負ってきた期待と緊張が、私という安全な器を見つけたことで、一気に素直な欲望となって溢れ出しているのだ。
「真唯」
「なんだい?」
私の声に、彼女は顔を上げてブルーの瞳をキラキラと輝かせた。
「嬉しいのは本当に伝わってくるよ。でも……一旦、落ち着こう? ほら、私の鞄、真唯の胸に押し潰されて形が変わっちゃいそうだし」
「あ、す、済まない! 鞄にそんな負担をかけていたとは……」
真唯は慌てて腕を緩め、今度は私の荷物にまで真剣に謝罪し始めた。その極端な生真面目さに思わず吹き出してしまう。
「ふふ、鞄は大丈夫だよ。ほら、私の荷物、少し重いから半分持ってくれる? 助け合いってことで」
「喜んで! 君の重荷ならば、すべて私が背負おう」
「いや、半分でいいからね?」
真唯は嬉々として私のトートバッグを受け取り、代わりに自分の手を差し出してきた。
私は小さく苦笑しながら、その温かで細い指をそっと握りしめる。
抑圧された心がこれほどの純粋さで喜びを求めるなら、私はそれを丁寧に、傷つけないように受け止め続けたい。
夕陽が作る二人の長い影を見つめながら、私は彼女の横顔を静かに観察し、その穏やかな笑みにそっと視線を合わせた。
また、別の日。
放課後の私たちは、校舎裏にある古びた木製のベンチに並んで座っていた。冬の始まりを告げる風は少し冷たく、木々を小さく揺らしている。
私が身震いするよりも早く、真唯は自分のブレザーを流れるような動作で脱ぎ、私の肩へとふわりと掛けた。
「れな子、今日は少し寒い。風邪をひかないように、これを着ていなさい」
上品で穏やかな声。けれどその響きには、どこか相手に拒否権を与えない命令的なニュアンスが含まれている。
王塚真唯は、優しさを発揮する時でさえ、その行動が世界の正解であるかのように振る舞う癖があった。
「ありがとう、真唯。でも真唯の方が寒くない?」
「問題ない。君が暖かくしているのを見ることが、私にとって最大の防寒だからな」
彼女は当然のように言い切り、私の手を両手で包み込んで、親指で優しく手の甲を撫で始めた。そのまま自然に、私の肩へと自分の頭を預けてくる。
他愛もない授業の話や明日の予定について話している間も、彼女の言葉の端々には「私が決める」「私が守る」という絶対的な自信が滲んでいた。
「明日も私が迎えに行くから、教室で待っているといい」
「れな子の好きな甘味処を完璧にリサーチしておいた。私についてくれば間違いない」
どれも純粋な気遣いであり、私を喜ばせたいという献身に満ちている。しかし同時に、すべてが「王塚真唯の中心的な世界」を基準に回っていた。
天上天下唯我独尊──彼女は周囲の期待に応え続け、世界の中心であり続けることでしか、己の存在価値を証明できない構造の中にいるのだ。
王が臣下を慈しむように、彼女の優しさは上から降ってくる。けれど、その底にある情熱は偽物ではない。
「真唯は本当に……なんていうか、スケールが大きいっていうか、唯我独尊だね」
私の言葉に、真唯は肩に頭を乗せたまま、少し照れたようにクスリと笑った。
「よくわからないが、褒め言葉として受け取っておこう。大丈夫だ、れな子。君が私の隣にいてくれるなら、私は神を撃ち落とすことさえできるだろう」
「いや、神様は撃ち落とさなくていいからね? 平和にいこう、平和に」
大真面目な顔でとんでもないスケールの発言をする彼女に、私は呆れつつも声を立てて笑ってしまった。真唯もそれにつられるように、柔らかく微笑む。
この完璧主義の精神構造は脆い。称賛が途切れれば、一気に無価値感に襲われる危険性を孕んでいる。だからこそ、彼女は私という「完璧を求めない場所」で、少しずつ仮面を外そうとしているのだ。
「……真唯、手が冷たくなってる」
私は彼女の手を今度は私の方からぎゅっと握り込み、ポケットの中に一緒に滑り込ませた。
「あ……」
真唯が驚いたように目を見開く。いつも守る側でいようとする彼女の心を、ほんの少しだけこちら側から支えるための、私なりの助け合いの形だった。
「これなら、お互い暖かいでしょ?」
「……ああ。すごく、暖かいな」
彼女のブルーの瞳が、じわりと熱を帯びたように潤むのを、私は静かに見つめていた。
彼女の気高さも、その裏にある脆さも、すべてを壊さずに少しずつ柔らかくほぐしていく。
冷たい風の中、重なる手の温もりだけを確かに感じながら、私は灰紫色の瞳を閉じ、この穏やかな時間をそっと胸に刻み込んだ。
関わりが見たいヒロイン
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王塚真唯
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瀬名紫陽花
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琴紗月
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小柳香穂