光のれな子   作:あーばれすと

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四話

 

 屋上の出来事から数日が過ぎ、校内の空気が少しずつ変わり始めていた。廊下を歩けば、王塚真唯は私の隣にぴたりと寄り添い、人目も憚らず腕を絡めてくる。

 

 教室に入る前には肩を抱き、休み時間には私の膝に手を置いたまま離さない。金色の長い髪が私の肩に触れるたび、彼女は満足げに目を細める。

 

 その仕草は、まるでゴールデンレトリバーが大好きな人に匂いつけをするように、自然で、遠慮がなかった。

 

 私は歩きながら、静かに言った。

 

「弾けたね、真唯」

 

 真唯は私の腕に頬を寄せ、甘えた声で答えた。

 

「大好きな人と体を重ねたいと思うのは当然だと思うが」

 

 彼女の指が私の手の甲をなぞる。温かくて、柔らかい。私は小さく笑って、穏やかに続けた。

 

「確かに、そうだね。王塚真唯らしいとは思うけど……相手の気持ちを問わず自分の欲望をぶつけるのは、少し減点かな」

 

 真唯は一瞬動きを止め、ブルーの瞳を伏せた。

 

「そ、そんな……れな子も好きだと思ってくれていたのに。しかし確認しなかった。確かにその通りだ。済まない」

 

 声が少し震えていた。完璧優等生の仮面が、ほんの少しだけ剥がれる瞬間だ。私は立ち止まり、彼女の手をそっと握り返した。

 

「いいよ、許す。まずは手を握ろう。そこから一つ一つ、お互いを知っていこう。何が好きで、何が嫌いなのか。ちゃんと言葉にして、傷つけないように考えて、でも伝える。恋人関係もそうだけど、人間関係の基本でしょ?」

 

 真唯は私の言葉を噛みしめるように数秒黙り、それからゆっくりと頷いた。

 

「……うん。そうだな。ありがとう、れな子」

 

 彼女の指が、私の指に絡まる。今度は少し控えめに、でも確かに。

 

 人間関係の基本。技法を抜きにして考えるならば、尊重と感謝とオープンな態度、そして相手の立場を考えることだ。

 

 私はそれを、ただデータとして知っているわけではない。引きこもりから社会復帰する絶望の底から這い上がった経験の中で、自ら築いた規範だ。

 

 だからこそ、私は真唯の欲望を否定しない。受け止めて、少しずつ方向を整える。それが、私のやり方だ。

 

 放課後、教室に戻ると、瀬名紫陽花が私の席の近くで待っていた。

 ベージュの長いウェーブヘアを耳にかけ、黄色の瞳で私を見上げる。制服のカーディガンがふんわりと肩に掛かり、いつもの優しい笑顔を浮かべているが、今日はどこか苦笑いが混じっている。

 

「あはは……れな子ちゃん、すごいことになってるね」

 

 彼女は小声で言って、私と真唯の絡まった手を見て、くすりと笑った。

 

「真唯ちゃん、れな子ちゃんのこと大好きなんだね。廊下歩いてるの見ちゃったよ。みんな、びっくりしてた」

 

 真唯は堂々と私の隣に立ったままだった。

 私は穏やかに紫陽花さんを見て、静かに答えた。

 

「まあ、青春ってやつだね」

 

 紫陽花さんは苦笑いを深めて、でも優しく目を細めた。

 

「うん、ほんとだね。……なんか、羨ましいな」

 

 その言葉は、誰にも聞こえないくらい小さな呟きだった。私はそれを、ただ静かに受け止めた。

 

 教室の窓から夕陽が差し込み、三人の影を長く伸ばしていた。

 私は、二人を交互に見て、心の中で思う。

 これもまた、一つの天候か。

 私は、ただ穏やかに、その中を歩いていく。

 

 私は、教室の窓際の席で、夕陽を見ながら静かに考えていた。放課後の教室はほとんど人がおらず、残った数人の生徒が荷物をまとめている音だけが響いている。

 

 桃色のボブヘアを指で軽く梳きながら、私は今日の真唯とのやり取りを振り返っていた。

 

 彼女は私の腕に絡みつき、廊下で人目も憚らず体を寄せてきた。ゴールデンレトリバーのように、嬉しそうに、遠慮なく。

 

 私は「少し減点かな」と指摘した。彼女はすぐに謝った。そこから手を握ることから始めよう、と提案した。

 

 あれは、相手の立場を考えることの実践だった。多くの人が言う「相手の立場になって考える」という言葉。

 

 私は、それを何度も観察してきた。多くの人は、実は浅いレベルでしかやっていない。「自分が相手だったら、どう感じるか?」という、自分の価値観をそのまま投影する方法だ。

 

 例えば、もし私が真唯の立場だったら――大好きな人に触れたい衝動を抑えきれず、嬉しさのあまり体を寄せてくる。その時に私はどう思うだろう? と、そんな風に考える人は多い。

 

「私が相手だったら、こんなに触られたら嬉しいだろうな」

「私が相手だったら、嫌がられたら傷つくはずだ」

 

 でも、それは違う。

 それは、自分の性格、自分の経験、自分の価値観を、相手に重ねているだけだ。

 真の共感は、そうではない。

 相手の価値観、相手の性格、相手の背景、相手の現在の心情を、できる限り正確に推察する。

 

 真唯の場合。彼女は完璧優等生として生きてきた。称賛に依存し、弱さを見せたら終わりだと信じ込んでいる。仮面を外すことを極度に恐れている。

 

 だからこそ、私に弱さを見せられた瞬間、あの屋上での告白のきっかけになった、私の穏やかな言葉が、彼女にとって衝撃的だった。

 

 彼女の中で、抑え込まれていた欲望が、一気に弾けた。触れたい。近くにいたい。確かめたい。

 それは、彼女の長い緊張の反動だ。彼女は普段、誰にも触れられない。誰にも本音を見せられない。だから、今、私に触れることで、自分が「愛されている」と実感したいのだろう。

 

 それは、私の価値観ではない。

 私は、触れられても特に胸が高鳴らない。むしろ、距離を保つ方が心地よい。でも、真唯は違う。

 

 彼女にとって、体を重ねることは、安心の証だ。だから、私はそれを否定しない。ただ、少しずつ、彼女のペースを整える。

 

「相手の気持ちを問わず自分の欲望をぶつけるのは、少し減点かな」

 

 そう言ったのは、彼女が傷つかないように、でも私の気持ちを伝えるためだ。彼女はすぐに理解した。謝った。そして、私の提案を受け入れた。

 これが、真の共感だ。

 

 浅いレベルでは、「私が触れられたら嫌かもしれないから、止めてほしい」と自分の感覚だけで判断する。

 

 深いレベルでは、「この人は今、こんな背景で、こんな気持ちでいるのだろう」と、他人を観察して、心を推察し、価値観を受け止めつつ、自分の気持ちを伝える。

 

 例えば、遅刻の例もそうだ。誰かが30分遅刻してきた。

 

「自分が遅刻する側だったら、申し訳ないと思うはず」と考えるのは、レベルが低い。でも、真の共感は違う。

 その人は、時間にルーズな性格かもしれない。

 子供の急病で慌てていたのかもしれない。

 文化的な違いがあるのかもしれない。だから、まずは相手の状況を聞いて、判断する。

 

 相手を観察し、心を推察し、話を聞いて、思いを伝えて、そして、対応を変える。これがコミュニケーションだ。

 

 私は、灰紫色の瞳で、教室の外に広がるオレンジ色の空を見上げた。

 

 人間関係の基本は、そこにある。

 尊重と感謝とオープンな態度。そして、相手の立場を、本当に考えること。

 

 私は、それを知識としてではなく、実感伴った規範として生きている。だから、私は誰かの心に巻き込まれない。

 

 私は穏やかな空間を、保ち続けられる。

 私は、静かに席を立ち、教室を出た。廊下の向こうから、真唯が待っているのが見えた。

 彼女は少し控えめに、私に手を差し出す。

 私は、それを握り返した。

 

 

 

 別の日。

 放課後の廊下は、夕陽がオレンジ色に染めて静かだった。私は教室から出て、いつものようにゆっくりと歩き始めた。すると、後ろから軽やかな足音が近づいてきて──突然、背後から柔らかな腕が回された。

 

「れな子!」

 

 王塚真唯の声が、耳元で弾む。彼女は私の背中にぴったりと胸を押し当て、両腕でぎゅっと抱きついてきた。

 

 金色の長い髪が私の肩に流れ落ち、甘い香りがふわりと漂う。廊下に残っていた数人の生徒が、驚いたようにこちらを振り返る。

 

 それでも真唯は構わず、私の腰に腕を回したまま、嬉しそうに頬をすり寄せてきた。

 

「今日も一緒に帰ろう!」

 

 声は明るく、子犬のようにはしゃいでいる。私は立ち止まり、静かに彼女の腕を軽く撫でた。

 

「……真唯、本当に楽しそうだね」

「もちろんだとも!  だって、れな子とこうやって触れ合えることは素晴らしい」

 

 彼女はさらに強く抱きしめて、私の首筋に顔を埋める。温かい息が肌にかかる。指先が私の制服の裾を軽く摘んで、離れたくないという仕草を見せる。

 

 その様子を、私は穏やかに観察していた。王子様と呼ばれる王塚真唯。スーパーダーリンと憧れられる、完璧な優等生。学校中が振り返るほどの美貌と、常に優雅で紳士的な振る舞い。

 

 誰に対しても上品な微笑みを絶やさず、距離を保ちながらも誰もを魅了する、あの遠い華。

 

 それが、今の彼女とは正反対だ。人目も憚らず抱きつき、頬をすり寄せ、嬉しそうに体を重ねてくる。

 

 長年鎖で繋がれていたものが、突然解き放たれたように。

 私は、心配になる。彼女は大企業のお嬢様だ。多くの期待を背負い、多くの視線に晒され、多くの称賛に依存している。

 

 完璧でなければ愛されないと思い込み、仮面を外すことを極度に恐れている。だからこそ、抑圧されたものが、爆発している。

 

 触れたい。

 近くにいたい。

 確かめたい。

 

 それは、彼女がこれまで誰にも許さなかった、素の欲望だ。

 私という安全な器に向けられているからこそ、こんなにも無防備に、喜びに満ちて、肉体接触を繰り返す。

 

 私は、彼女の腕をそっと掴み、静かに言った。

 

「真唯」

 

 彼女は顔を上げ、ブルーの瞳を輝かせて私を見た。

 

「なんだい?」

「嬉しいのはわかる。でも……少し、落ち着いてもいいと思う」

 

 真唯は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

 

「れな子は優しいな。でも、私は今、すごく幸せなんだ」

 

 私は、穏やかに微笑み返した。

 

「うん、そうなんだ。伝わるよ」

 

 内心で、同じ過ちを繰り返すとは成長がない、と感じつつ私は続ける。

 この喜びは、本物だ。でも、同時に、反動でもある。長すぎる緊張の、解放。彼女がこれまでどれだけ自分を抑え込んでいたか、その証だ。

 

 私は、それを否定しない。受け止める。ただ、彼女が壊れないように、少しずつ、ペースを整えていく。

 

 私は、彼女の腕を優しく解き、自分の手を差し出した。

 

「今日も、腕じゃなく手を繋いで帰ろう」

 

 真唯は少し名残惜しそうにしながらも、すぐに頷いて、私の手を握った。温かくて、細い指。

 

 私は、静かに握り返した。廊下の先、夕陽が二人を長く影を落としていた。

 私は、心の中で呟く。

 

 ――抑圧されたものが、こんなにも素直に喜びを求めるなら。私は、それを丁寧に、傷つけないように、受け止め続けよう。

 

 それが、今の私にできる、最適な対応だ。私は、灰紫色の瞳で、彼女の横顔をそっと見た。彼女は、幸せそうに微笑んでいた。

 

 

 

 別の日。

 放課後、私たちは校舎裏のベンチに並んで座っていた。冬の陽射しが柔らかく、風は少し冷たいけれど、真唯は私の肩に自分のブレザーをかけてくれる。

 

 金色の長い髪が風に揺れ、彼女は私の手を両手で包み込んで、時折指を絡めたり、親指で手の甲を撫でたりする。

 

「れな子、今日は少し寒い。風邪ひかないように」

 

 上品で穏やかな声。でも、その言葉の裏に、どこか命令的な響きがある。

 王塚真唯はいつもこうだ。気遣いをする時でさえ、相手に選択肢を与えない。

 私は静かに観察しながら、軽く会話を続ける。

 

「真唯は、いつもこうやって人を守ろうとするんだね」

「え?  そうかな。もちろん、君のことだからというのはあるが」

 

 彼女は微笑んで、私の肩にそっと頭を寄せてきた。自然に、まるでそれが当たり前のように。

 

 雑談は他愛もないものだ。今日の授業のこと、明日の予定、最近読んだ本。でも、真唯の言葉にはいつも「私が決める」「私が守る」「私が許す」というニュアンスが滲んでいる。

 

「明日も一緒に帰ろう。迎えに行くから、待っててほしい」「れな子は甘いものが好きかな?  だったら、いいお店知ってるから案内しよう」

「君は私の隣にいるのが一番似合うと思うな」

 

 どれも優しくて、気遣いに満ちている。でも、同時に、すべてが彼女の世界の中心に私が置かれている前提で語られている。

 

 天上天下唯我独尊。

 彼女は、自分が世界の中心だと、無意識に信じている。周囲の期待を上回り続けることでしか存在価値を見出せない彼女にとって、他者は「自分の輝きを映す鏡」か「自分の世界を構成する脇役」でしかない。

 

 だから、気遣いも、王様が臣下に与える褒美ように、自然に、上から降ってくる。でも、その気遣いは本物だ。

 彼女は本当に、私が寒くないか、心配している。

 本当に、私を喜ばせたいと思っている。

 本当に、私を自分の世界の特別な位置に置きたいと思っている。

 

 その二つが、矛盾なく同居している。私は、彼女の手の温もりを確かめながら、心の中で考察を続ける。

 彼女の精神構造は、こうだ。

 幼い頃から、完璧を求められ、称賛され、憧れられ続けた。

 

「王塚真唯は特別だ」

「王塚真唯は完璧でなければならない」

「王塚真唯がいるから、みんなが幸せなんだ」

 

 そんな言葉を、無数に浴びて育った。だから、彼女は自分が中心であることを、疑わない。世界は、彼女を中心に回っている。

 

 他者の感情も、彼女の行動に対する反応としてしか認識されない。だから、気遣いも、相手の立場を深く想像するものではなく、「自分がこうしてあげれば、相手は喜ぶはずだ」という、自分の価値観からの押しつけになる。

 

 でも、同時に、彼女は本当に人を喜ばせたいと思っている。

 

 称賛に依存しているからこそ、他者を幸せにすることで、自分の価値を確かめたい。だから、彼女の気遣いは、唯我独尊さと、深い献身性が、完全に融合している。

 

 王様は、臣下を幸せにすることで、自分の王たる所以を証明する。

 

 それが、真唯の生き方だ。

 私は、彼女の指が私の手を強く握るのを感じながら、静かに言った。

 

「真唯は、本当に板挟みだね。大変だ」

 

 彼女は少し照れたように笑って、頭を私の肩に預けた。

 

「よくわからないが、大丈夫だ。私は君がいるなら神を撃ち落とすことさえできるだろう」

 

 私は、穏やかに微笑んだ。

 ――この構造は、脆い。彼女が「完璧」でいられなくなった時、世界は崩れる。称賛が途切れた時、無価値感に襲われる。だからこそ、彼女は私に弱さを見せ始めた。

 

 私という、安全で、動じない器に、少しずつ、本当の自分を預けようとしている。

 私は、それを否定しない。受け止める。彼女の王様のような気高さと、臣下を思う優しさを、両方とも。

 

 私は、灰紫色の瞳で、彼女の金色の髪を見つめた。風が、二人の間を優しく通り抜けていく。私は、心の中で呟く。――この精神構造を、壊さずに、少しずつ、柔らかくしていく。それが、私にできる、最適な対応だ。

 

 

 

 

関わりが見たいヒロイン

  • 王塚真唯
  • 瀬名紫陽花
  • 琴紗月
  • 小柳香穂
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