水族館。
水族館の内部は、現実から少しだけ切り離された場所だった。
天井から落ちる青い光。
巨大な水槽から反射する揺らめき。壁や床に映る波紋のような影が、ゆっくりと形を変え続けている。
館内には静かなBGMが流れていた。
遠くから聞こえる子どもたちの笑い声。
水槽の前で足を止める人々の小さな声。
すべてが穏やかで、時間の流れだけが少し遅くなったような感覚があった。
「……綺麗だね」
隣を歩く瀬名紫陽花さんが、小さく呟く。普段の彼女は、どちらかと言えば明るいけど受動的な人だ。
自分の感情を大きく表に出さず、相手のスタイルに合わせることを優先する。
誰かのために自分を後回しにする。
そんな人。だからこそ、今の彼女の横顔は少し珍しかった。
水槽の光を見つめる瞳には、子どものような純粋な興味が浮かんでいた。
「紫陽花さん、水族館好きだったんだ」
「好き……というより」
彼女は少し考える。
「安心する、かな」
「安心?」
「うん」
紫陽花さんは水槽を見る。
「ここにいる生き物たちはね、自分の役割を知っているの」
「役割?」
「泳ぐ。隠れる。食べる。逃げる。守る」
淡々とした声。でも、どこか優しい。
「迷わない」
私は少し笑った。
「人間は迷うからね」
「うん」
紫陽花さんも微笑む。
「だから難しい」
最初に向かったのは、小型展示エリアだった。巨大なサメやイルカのショーがあるわけではない。
派手さはない。けれど、説明文を読めば読むほど面白い。小さな水槽の中にも、それぞれ違う世界が存在している。
「あれ」
私は足を止める。
そこには小さなタコがいた。岩陰に隠れるようにじっとしている。周囲の岩と同じ色になり、ほとんど姿が分からない。
説明文を見る。
『狭い場所を好み、自分の身体が通れる隙間なら入り込む』
「……器用なやつだ……コイツ」
「安心できる場所を探しているのかな」
紫陽花さんが言う。
「広い水槽なのに、わざわざ狭い場所にいる。人間も似ているね」
彼女は静かに続けた。
「自由を求めると言いながら、本当に欲しいものは安心できる居場所だったりする」
私は頷く。
「好きに生きたい。でも一人は怖い。縛られたくない。でも誰かには必要とされたい」
「矛盾してるね」
「人間らしい……それこそが人間なのかな」
紫陽花さんはそう言って笑った。
次の水槽。
クラゲがいた。透明な身体。ゆっくり揺れる触手。青い光の中で漂う姿は、時間という概念すら曖昧にしてしまうようだった。
『海流によって数百キロ移動することもある』
「自分で進んでないのに、遠くへ行くみたい」
紫陽花さんが呟く。
「人生みたい」
「人生?」
「うん」
クラゲを見る。
「自分で全部決めているつもりでも、実際には出会いや環境に影響されている。私みたいに誰かのために行動する生き方しかできないみたいに。今はれなちゃんが寄り添ってくれたからこうしていられるけど」
私は少し考える。
「でも」
言葉を続ける。
「流されることも選択だと思う」
紫陽花さんがこちらを見る。
「逆らうだけが意思じゃない」
「……」
「流れに乗るって決めることも、自分の選択だから」
紫陽花さんは少しだけ目を細めた。
「れなちゃんらしい、素敵な感想」
「そうかな」
「そうだよ」
彼女は穏やかに言う。
「れなちゃんは、相手を変えようとするより、まず把握しようとするから」
その後、タッチプールへ向かった。
ヒトデやナマコに触れる場所。
私は迷わず触る。
「意外と平気なんだ」
「紫陽花さんは?」
「……少しだけ緊張しちゃう」
珍しい。
何でも受け入れる彼女が。
指先を伸ばし、そっと触れる。
「……生きてる」
「まぁ、うん、そうだよね。どう? 感想は」
「知識として知っていることと、実際に触れることは違うなぁって」
紫陽花さんは小さく笑う。
「人間関係も同じ」
「?」
「分かったつもりでも、触れてみないと分からない」
その言葉に、少しだけ真唯のことが浮かんだ。
人は簡単には理解できない。でも、理解しようとすることはできる。
途中、ペンギンの展示へ向かう。
一羽のペンギンが、なぜかこちらへ近づいてきた。
「……」
「……」
二人で見つめ返す。
「懐かれましたね」
「紫陽花さんが?」
「れなちゃんじゃない?」
真顔。
「魚の匂いがするとか? さっき触れ合ったから」
「夢がないなぁ」
珍しく、紫陽花さんが少し笑った。
その笑顔を見て、思う。
この人は、笑えるんだ。誰かを支えるだけじゃなく誰かと一緒に楽しむこともできる。
最後に大水槽へ向かった。
巨大な水槽。無数の魚が群れを作り、光の中を泳いでいる。
二人で並んで眺める。しばらく、何も話さなかった。でも、不思議と気まずくない。
沈黙が嫌ではない相手。
それは、きっと特別なことなのだと思う。
「れなちゃん」
「ん?」
「今日は、海の生き物を見に来たつもりだったの」
紫陽花さんは水槽を見つめたまま言う。
「でも」
少し間を置く。
「一番観察していたのは……れなちゃんだったかもしれません」
「私?」
「はい」
彼女は微笑む。
「れなちゃんは、生き物を見る時も、人を見る時も……同じ目をするから」
「同じ?」
「どうしてそうなっているのか勉強する姿勢」
青い光が、彼女の横顔を照らす。
「だから、少し安心する」
私は何も言えなかった。ただ、水槽の中を泳ぐ魚を見る。広い海の中で、それぞれ違う生き方をしている。
隠れるもの。
流されるもの。
群れるもの。
戦うもの。
きっと人間も同じだ。
違う生き方をしている。
違う傷を持っている。
それでも、誰かと出会うことで少しだけ変わる。
「また来ようか」
私が言うと、紫陽花さんは少し驚いた後。
「……はい」
静かに頷いた。
その表情は、水槽の光よりも少しだけ柔らかかった。
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王塚真唯
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小柳香穂