翌日の日曜日――昨日の喧騒とは打って変わって、寮にはゆったりとした朝が訪れていた。
時計を見ると、学校がある日よりも一時間は遅い起床だ。
ベッドの反対側では、テッペイが大の字になって爆睡している。布団は蹴り飛ばされ、無防備に口を開けて寝ている姿で寝ている。
(昨日のバトルでハクロもダメージが入ったし、今日は整備だな)
あの鋭い爪と電磁波を思い出し、白銀の相棒《ハクロ》の装甲の傷が脳裏に浮かぶ。せっかくだし、昨日の罰も兼ねてテッペイに手伝わせよう――そう考えると、少しだけ口元が緩んだ。
身支度を整え、髪を軽く整える。鏡越しに映る顔はまだ眠たげだが、気分は悪くない。
時計の針が十時を指すころ、ベッドから「ううぅ……」と呻く声が響いた。
「……昨日、捗っちまった……寝不足だぁー」
目を擦りながら起き上がったテッペイは、寝癖だらけの頭で洗面所へと向かっていく。
(……何が捗ったかなんて、考えないでおこう。ろくでもないことだろ)
歯を磨いているテッペイの背に声をかける。
「なぁ、今日。ハクロの整備、手伝ってよ」
泡だらけの顔を鏡に映したまま、テッペイは片手を上げて答えた。
「いーぞー」
歯を磨き終え、顔を拭った彼はすでに元気を取り戻していた。
「じゃ、飯食ったら実習棟な! 空いてるラボ探そうぜ」
口調は軽いが、エンジニア魂に火がついたような瞳をしている。こういう切り替えの早さは、ある意味で尊敬する。
「助かるよ」僕も頷き、制服ではなく私服に袖を通す。今日はそれで予定がいっぱいだ。
生徒手帳を開くと、未読のメッセージがいくつも光っていた。
差出人は桃香、七海、この江、そして貴志。
この江からは「今日、一緒に勉強どう?」と誘いが来ていたが、さすがに今日は無理だ。『ごめん、整備があるからまた明日で!』と簡潔に返す。
「おーい!行くぞー!」
着替えを終えたテッペイが、ドアを開けかけながら声を張った。
「はいはい、すぐ行く」
僕は慌てて残りの返信を済ませ、肩にカバンを引っ掛けて部屋を飛び出す。
寮の廊下は休日らしく人の気配が少なく、窓から射す朝の光に床が反射して眩しかった。これから相棒を整えると思うと、自然と背筋が伸びていた。
*
入学式からの一週間
入学式の日、私は胸の奥で小さく決意をしていた。
「高校では、変わりたいな」
中学までは、教室の隅で同じようなタイプの子と小さなグループを作って、なるべく目立たないように過ごしていた。話しかけられると嬉しいのに、うまく返せなくて……気づけば、縮こまってる。そんな自分が、正直もどかしかった。
でも、この学園では違う自分になりたい。せめて、人の目を見て、きちんと返事ができるようになりたい。そう思って臨んだ入学式だった。
整然と並んだ机の列に腰を下ろすと、隣に座ったのは、まるで王子様のような雰囲気をまとった男の子だった。
白銀 白夜くん。
明るい光を背負うように姿勢が良くて、周りを自然と安心させるような柔らかい笑顔。信じられないことに、その彼が、私に向かって声をかけてきたのだ。
「よろしく」
何気ない一言だったのに、胸が跳ねる。
わたしも、思い切って返した。「ょ、ろしく……」
声は小さくて震えていたかもしれない。でも――ちゃんと言えた。今日は朝から一度も声を出していなかったのに。
そのあとも休み時間に白夜くんは自然に話しかけてくれた。黄土くんとも話すことができて――「友達」って呼んでもいいのかな、と思えるくらいに。
中学の時とはあまりに違って、まるで別の世界みたい。……いや、小学校のころはこんなふうに普通に話せていたかもしれない。けど、その記憶は遠くて霞んでしまっている。
嬉しくて、胸の奥がぎゅっとなる。なのに、いざ声を出そうとすると、言葉が詰まってしまう。返したい言葉はちゃんと頭に浮かんでいるのに、声にできない。私の小さな声なんて、彼に届いていたんだろうか……?
(ああ、もったいない……)
初日の帰り道、その悔しさが胸に刺さったまま、私は寮へ戻った。
夜、布団に潜り込み、暗い天井を見つめながら心に誓う。
「明日こそ、ちゃんと会話する」
声に出してみると、少しだけ胸の重さが軽くなった。心臓は高鳴って眠れないまま、それでも私は何度もその言葉を繰り返した。
*
翌日の教室は、昨日よりもざわざわしていた。
あちこちで小さな輪ができ、もうすっかり仲良くなった子たちが笑い声を交わしている。
その中心には――やっぱりいた。白夜くん。
「マザコン王子」なんてからかわれても、彼は笑って受け流し、気づけば周りに人が集まっている。
不思議なことに、教室のざわめきの中でも、白夜くんの声だけははっきり耳に届いた。
(……なんてね。私が意識しすぎなだけかもしれないけど)
胸が高鳴るのを悟られないように、私は視線をノートに落とす。
授業が始まった日も、プログラミングの授業の進みの速さに圧倒され、ついていくのに精いっぱい。コードが次々に並び、頭の中は真っ白になる。ふと隣を見れば、白夜くんは必死にノートを取りながらも余裕そうな顔をしていて――すごい、と思った。
でも、そのおかげで「私も頑張らなきゃ」と思える。引っ込み思案なだけじゃ、この学校ではきっと置いていかれる。
授業が終わると白夜君が話しかけてくれる。昨日どうだった?とか授業早いね!とか。
相変わらず自然で、壁がない。
クラスのいろんな人にも同じように声をかけているのに、必ず私にも話を振ってくれる。
「う、うん……ちょっと早いかも」なんとか答える。
声は小さかったけれど、昨日よりはずっとマシだ。
(……やった。少しだけ前に進めた気がする)
実習の授業終わりだったかな?白夜君がお昼ご飯一緒に食べようと誘ってくれて、その流れで、気づけばクラス全体で食堂に押しかけていた。
誰かと一緒にご飯を食べるなんて、中学ではほとんどなかった。
そこで午後からみんなのバトル応援しようってなって気づけばクラスの大半と一緒にアリーナに来ていた。
私の声も、笑い声の中にちゃんと混ざっている。
(凄いよ、私……! なんか友達いっぱいいる人みたい!)
嬉しさで胸がいっぱいになる。
私の番が回ってきて、《ナデシコ》をフィールドに展開した。
振袖を模した外装のせいか、観客席から「かわいい!」「いや、かっこいい!」とざわめきが広がる。
穴があったら入りたいくらい恥ずかしかった。
でも――薙刀を振るって一戦を終えたとき、観客席から「やったね、影野さん!」という声が響いた。
気のせいかもしれない。でも、あれは白夜くんの声だった気がする。
胸の奥がじんと熱くなり、頬が勝手に緩んでしまった。
次は黄土くんの試合だった。
クラスのみんなと同じように、私は思い切って声を出した。
「頑張って!」
……男子に自分から声をかけるなんて、今までの私なら絶対にできなかったことだ。
(少しずつでいい。変わっていける。きっと――)
そんなふうに胸の奥でつぶやいていたときだった。
気づけば白夜くんが隣に座っていた。試合を終えたばかりの私に、笑顔で声をかけてくれる。
「強かったね」
その一言が、耳にすっと入ってきて、胸の奥にまで広がる。私の耳はきっと、白夜くんの声を拾うためにあるんじゃないかって思うくらい。
応援の声も、ちゃんと届いていたんだ。
だから私は、思い切って口を開いた。
「……応援、ありがとう」
震えそうになる声を押さえ込んで、はっきり言えた。
心の中では――キャー!すごいよ私!ちゃんとお礼言えた!と跳ね回っている。机に頭を打ちつけたくなるくらい、嬉しくて恥ずかしい。
それだけじゃない。
白夜くんが次の試合に向かうとき、私は息を吸い込んで声を張った。
「が、頑張って!」
……言えた。顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。だけど、確かに言えたんだ。私、頑張ってる。
白夜くんの試合が始まった。
観客席から見下ろすフィールドで、《ハクロ》が白い光の残像を描きながら舞う。
圧倒的だった。王子様みたいな見た目だから、というのもあるけれど、それ以上に――彼自身から溢れる自信と強さが、目を離せなくさせた。
観客席は熱狂していた。
「やっぱ王子すげぇ!」と男子が叫べば、女子の声は黄色い歓声となって響く。
その渦に巻き込まれるように、私の口からも自然と漏れていた。
「……かっこいい」
言った瞬間、心臓が止まりそうになった。男子に「かっこいい」なんて言葉を向けたのは、生まれて初めてだ。
幸い誰にも聞かれてはいなかったけど、自分の口から出たことに驚きすぎて、頬がさらに熱を持つ。
(体が……熱い……どうしよう)
胸の奥で芽生えた何かが、もう抑えきれないほど膨らんでいる気がした。
*
寮の自室。カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、部屋をかすかに照らしている。布団にくるまりながら、今日一日のことを思い返していた。
……すごい日だった。
午前中の授業、昼休みの会話、そして午後のアリーナ。
そのどれもで、私は少しずつだけど、確かに“変わろう”って頑張れた。
「応援ありがとう」って言えた。
「頑張って」って声をかけられた。
それだけなのに、胸の奥がじんわり熱くなって、顔が緩んでしまう。
(……私、ほんとに言えたんだ……)
中学までの私なら、きっと無理だった。喉がつまって、声なんて出なかったと思う。
でも今日は違った。
ちゃんと声を出せて、相手に届いた。白夜くんが笑って応えてくれた。
それが嬉しくて、嬉しくて――布団の中で足をバタつかせてしまう。
……だけど。
私の口から思わず零れた言葉。
「かっこいい」って。
あの瞬間のことを思い出すだけで、心臓がばくばくして、布団の中で転げ回りそうになる。
(なに言ってるの私!?男子に、しかもクラスの王子様に……!)
幸い誰にも聞かれてなかった、たぶん。でも自分では聞いちゃった。ちゃんと。忘れられない。
枕に顔を押し付けて呻く。
(恥ずかしい……でも、ほんとにかっこよかったんだもん……)
やっぱり私、少しずつ変わってる。
恥ずかしくても、心臓が跳ねても、声に出せるようになってる。
「少しずつでいい。変わっていける。きっと」
小さく口に出してみる。
その言葉が、自分自身へのお守りみたいに、胸にすとんと落ちていった。
明日は、今日よりもちゃんと話せるといいな。
そう思いながら、私は布団をきゅっと抱きしめて、眠りに落ちていった。
*
そこから一週間は、ほんとうに嵐のように過ぎていった。
気づけば金曜日。慌ただしい毎日の中で、少しずつ少しずつ、私は変わってきている。
その証拠に――今日は、勇気を出して連絡先を聞いた。
私の生徒手帳の連絡先リストの一番上に「白銀 白夜」と表示されたとき、心臓がどくんと跳ねた。
その下に「黄土 貴志」の文字。
(……すごい。クラスで名前を聞いたらみんな知ってる人気者が、私のリストに……!)
画面を閉じても、胸の奥で文字が光り続けている気がした。
そのあと、自然な流れで――白夜くんと二人で勉強をすることになった。
教室に戻ると、放課後の校舎は静かで、教室には私たちだけ。
窓から射し込む夕陽が机に落ちて、ほんのりオレンジ色の世界。
(男子と二人きりって……どうしよう、すっごくドキドキする……!)
隣に座る白夜くんは、真剣な顔でノートに向かっている。ペン先がリズムよく走る音。
私は……集中、できないよ。
だって、学校であんなに噂されてる人が、こんなに近くで――横顔、きれいすぎる。
まつ毛、長い。目の動きが鋭いのに優しい。唇も……形が整ってて……。
(やだ、わたし何見てるの……!?ノート、文字になってないよ!?)
慌ててペンを動かすふりをするけど、頭に入ってくるのは白夜くんの気配ばかり。
そのとき、白夜くんが「んーっ」と伸びをした。
視線が、ばちんとぶつかる。
……見てたの、バレた? 顔が一気に熱くなる。
さらに追い打ち。
二人で彼の生徒手帳を覗き込んだとき――思った以上に顔が近い。
距離、近い、近すぎる。
まつ毛の影、瞳の奥、息がかかりそうな距離感。
「あ、わ……あわ……」
危ない。今、唇に吸い寄せられそうだった。
ほんの一瞬、世界が止まった気がする。
胸の鼓動が耳の奥で鳴り響いて、息が詰まりそう。
(お願い……このまま時間が止まればいいのに――!)
私は本気でそう願っていた。
あの人が教室に入ってくる、その瞬間までは。
*
廊下の方から――
「あっ!」と鈴のような声が響いた。
顔を上げた瞬間、目を疑った。
すごく、可愛い子。私なんかよりずっと。
白に淡いピンクを混ぜたみたいな髪、透き通るような肌。テレビに出るアイドルより、もっと近くて、もっと眩しい。
あっという間に教室に入ってきて――さっきまで私と白夜くんだけの世界だった空間が、音を立てて崩れていく。
幻だったのかな。さっきまでの時間。
目の前で白夜くんとその子が、生徒手帳を出し合って、自然に、当たり前みたいに連絡先を交換している。
私は……あんなに勇気を振り絞ったのに。
心臓がぎゅっと縮んで、胸の奥に冷たいものが広がる。
中学の私だったら――きっと全部諦めて、笑ってごまかして、それで終わってた。
でも、今日は。今日だけは。簡単に諦められないくらい、頑張ってきたのに。
涙がこぼれそうになる。
その子が出ていったあと、白夜くんが「大丈夫?」って声をかけてくれた。
もしあの言葉がなかったら、気を失っていたかもしれない。
でも、私は強がって「大丈夫」って返した。
――全然、大丈夫なんかじゃなかったのに。
気づけば、口から勝手に出ていた。
「可愛かったね、あの子」
ドロッとした感情が、声ににじんでしまった。
否定してほしかった。そんなことないって、笑ってくれると信じてた。
でも――白夜くんは「そうだね」って言った。
その瞬間、心が折れそうになった。
だけど次の瞬間。
彼は私のうっとしい前髪に手を伸ばして、そっと持ち上げてくれた。
「でも、影野さんも、こうしたらもっとかわいくなるんじゃない?」
ちゃんと、目を見て。
息が止まるくらい、まっすぐな眼差しで。
頭が真っ白になった。心臓が爆発しそうだった。
――その流れで、名前も呼んでもらえた。
「この江」って。
私は舞い上がっちゃたよね!なんかどさくさ紛れで影野さんじゃなくて、この江って呼んでもらえたもんね!
逃げるように出ていっちゃたけど、この江ちゃん大勝利じゃないかな!!
舞い上がって、落ち込んで、舞い上がって。忙しすぎる心がようやく落ち着いたのは、寮の部屋に戻ってからだった。
布団の上でスマホを握りしめる。連絡しようかな、どうしようかな。
たぶん、白夜くんは明日もどこかにいる。アリーナ?自習室?探せば会えるかもしれない。
そんなことを考えながら――気づけば眠っていた。
翌朝。鏡の前で、自分を見つめる。
「今日はきっと、いい日になる」
そう言い聞かせて、三年ぶりに前髪を切った。