二日目の朝。
昨日よりもさらに教室の空気は張りつめていた。
机の上にはびっしりと詰め込まれたノートや単語カード。誰もが声を潜めて最後の追い込みをしている。ページをめくる音、ペン先が紙を叩く音だけが響き、息苦しいほどの緊張感が漂っていた。
霧島先生が前に立ち、冷静な声で告げる。
「本日午前は《エイドロン運用に関する安全規定および関連法規》、そして《制御工学基礎》。二科目だ。覚えていれば簡単だ。それでは始める」
ざわ、と小さな緊張の波が走る。背筋を伸ばす者、深呼吸する者、それぞれの覚悟が空気を震わせた。
配られた一枚目はびっしりと文字の並んだ法律関係の試験用紙。
(うわ……暗記モノか……)
前世を含めても、こういう条文系はやっぱり退屈だ。けれど、エイドロンを動かす上で必須の知識であることは嫌というほど理解している。
「整備・運用時に未許可の者が単独で行ってはならない作業は――」
「各エイドロンパーツに関する不正取引は――」
引っかけ問題も多い。語尾の「すべて」「一部」が正解を分ける。机をトントン叩く音があちこちで聞こえる。悩んでる人も多いんだろう。確かにややこしい。
一問ずつ丁寧に解き進め、最後に見直しを終えると、ほどなくして終了のチャイム。深く息を吐く音が一斉に教室に広がった。
少し休憩を挟んで、二科目目――《制御工学基礎》。
図面と数式が並ぶページを見た瞬間、僕の中で眠気が吹き飛んだ。
(これは……昨日まで整備で叩き込んだ部分と直結してる!)
「ハイブリッド推進ユニットを用いた時の最適冷却効率は?」
「スラスター出力に対するフィードバック遅延の許容範囲は?」
実機の操作や設計に直結する内容ばかりだ。自然とペンが走る。
(この辺りはテッペイに教えたのと同じ理屈だな……よし、いける)
最後の大問を書き切り、鉛筆を置いた。
まだ結構時間に余裕がある。これはいけたなとぼーっとしていると終了の合図。
「っふー……!」
椅子にもたれた瞬間、張り詰めていた空気が一気に緩む。教室中で「やばかった」「ギリギリだわ」「寝不足だわー!」と声が飛び交い、少しずつ安堵と笑いが戻ってきた。
「白夜君、どうだった?」
隣のこの江が不安げに訊いてくる。
「悪くなかったよ。むしろ昨日より手応えあったかも」
「そ、そう?なら……よかった」ほっとした表情で笑う。その笑顔につられて、僕も少し肩の力が抜けた。
後ろから貴志が机に突っ伏して呻いた。
「白夜ぁ……俺、制御工学の補講に行ってる未来が見える……」
「復習してればいけただろ?諦めんなよ」
声をかけると、この江も「うん、大丈夫だと思うよ」と小さく頷いた。
三人でそんなやり取りをしているうちに、昼休みのチャイムが鳴る。
(……よし、あと一日。乗り切ってやる)
*
午後のアリーナは、昨日と同じく歓声と熱気に包まれていた。
金属の床を踏み鳴らす音、観客が掲げる応援パネルや旗、名前を呼ぶ声――すべてが熱気を帯びて、戦場のボルテージを押し上げていく。
僕の出番は三戦目。相手は同学年の見知らぬ男子だった。だが、知らない相手だからこそ油断はできない。
バングルを操作し、ハクロを呼び出す。観客席から「王子だ!」という声が一斉に上がり、フィールド全体の空気が張り詰める。
開始の合図。
相手は遠距離型――大型のキャノンを備えた機体だった。弾幕を張り、こちらの動きを制限してくる。
「速さで振り切れ、ハクロ!」
僕の指示と同時に、白銀の翼が火を噴く。空中機動で翻弄し、死角から突撃。回避不能の一撃を叩き込み、勝敗は決した。
結果は――これでリーグ戦17戦17勝、パーフェクト。
けれど、ただの快進撃ではなかった。相手のレベルは確実に上がってきている。さっきの一戦も、ほんの数秒の判断ミスがあれば食らっていたかもしれない。
観客の声も変わりつつあった。
最初の頃は「王子だ!」「かっこいいー!」と浮ついた声が多かったが、今では「本物だな」「誰が止めるんだ?」「いつか負ける日が来るのか?」と、挑戦者を見るような眼差しに変わっていた。
その空気は、期待と同時に、重いプレッシャーを確実に僕の背にのしかけてくる。
控室に戻ると、汗がシャツにじっとりと貼りついていた。
(……ふぅ。勝ったけど、プレッシャーはあるよなー)
呼吸を整えながら、額の汗を拭った。無敗でいるということは、勝つたびに次の重圧を背負うということだ。
けれど、このとき――僕は知らなかった。
その裏で「別の戦い」が進行していることを。
*
夕方のアリーナ。
別のコートで、二人の少女が向かい合っていた。
影野この江。
桃色の照明を受けて緊張に揺れる瞳の奥に、決意の光を宿す少女。
そして――佐倉桃香。
「白夜くんと同じクラスの子だよね?私、佐倉桃香!よろしくねっ!」
明るく、太陽のような笑みを浮かべ、手をひらひらと振る。
影野この江(あ、あの人……白夜くんとよく一緒にいる……!)
その瞬間、胸に走ったのは嫉妬でも敵意でもなく――圧倒的な陽キャの存在感に対する戦慄だった。
「か、影野です……よ、よろしくお願いします……」
必死に絞り出した声が、アリーナの広さに吸い込まれる。
桃香はにこにこ笑いながら言った。
「恨みっこなしだよー!」
そして手を掲げると、光の粒子から《シャイニング》シリーズの機体が姿を現す。
対するこの江も、小さく頷き「……カグヤ、お願い」と声をかけた。
白銀と藍をまとった《ナデシコ》系の機体が静かに立ち上がる。その仕草はどこか舞を思わせ、観客席から「きれい……!」という声が漏れる。
審判が二人に確認を取る。
「両者、準備は良いな?――始め!」
開始の合図と同時に、観客席が一気に沸き立つ。
女子同士の対決、それも《シャイニング》と《ナデシコ》。
誰もが知る人気シリーズ同士の激突だ。
桃香はにこにこと手を振りながら、明るい声を響かせる。
「ベル、行こっ! 距離とってビームで押すよ!」
シャイニングの《ベル》が両腕を上げ、光の弾を連射する。
観客の声が渦を巻く中、二機の間合いが高まっていく。
シャイニングの《ベル》はホバーを軽やかに使い、少し浮いた状態からのビームを連射して距離を支配する。
一方の《カグヤ》は地を這うように前進し、薙刀でビームを弾きながら着実に間合いを詰める――正反対の戦法だ。
「か、カグヤ、お願い!前へ!」
この江の声は少し震えていたが、必死さが響いていた。
ナデシコ《カグヤ》は薙刀を振るい、ビームをはじき飛ばしながらじりじりと距離を詰めていく。
「うおっ!正面突破かよ!?」「あれを弾きながら進むのか!?」観客席がざわめく。
「させないよ!ベル、ホバーで下がって!」
「まだまだいくよー!」桃香が明るくベルに指示をする。
背中の羽根型冷却ファンが羽ばたき、ホバーで素早くまた距離を広げる。ナデシコが着実に詰めていた距離は振出しに戻った。
「……また振り出し……!」この江は唇を噛む。
「で、でもこのままいけばビームの熱処理が追いつかないはず」
少し希望を見出したかのように頭を振り絞る。
桃香は胸を張って、子どもみたいに無邪気に言う。
「ベルはね、ファンと推進ユニットで冷却完璧なんだよ!熱処理待ちなんて通じないんだから!」
「そ、そんな……じゃあオーバーヒートを狙えない……?」この江の弱音が零れる。
(――けど、ここで引いたら意味がない)
机の下で震えるペン先を握る彼女のような緊張と同じものが、今ここにあった。だが、この江は諦めない。いつだって、一歩ずつ確かめるように進むしかないのだ。
この江の頬がわずかに引き締まる。腕のバングルを握りしめ、指先を震わせながらも冷静にコマンドを打つ。
〈薙刀、迎撃モード〉
薙刀の芯が青く光り、ビームを繰り返し受け流す。金属音がシャープに響き――観客席からは思わず息を呑む声が上がる。
この江は必死に声を張る。
「カグヤ、近づいて……!絶対に当てるんだから!」
薙刀を構えた《カグヤ》が、光を浴びながらも一歩ずつ迫っていく。
桃香はにこっと笑って指を振る。
「ベル、もっと光らせて!そのまま押し勝つよっ!」
光の弾幕が走り、観客が叫ぶ。
「眩しいっ……!」「あの子、本当に楽しんでバトルするなぁ!」
「わ、私は……負けない!」
この江の声が、弾幕の中でもはっきりと響いた。
桃香は一瞬だけ目を丸くして、それからさらに笑顔を深めた。
「私もまけないよ!」
二人の声が交錯し、観客席のボルテージがさらに高まる。
薙刀とビーム、冷却ファンと気迫。
ただの一戦に過ぎないはずなのに、そこには“意地”がぶつかり合っていた。
「かわいい女の子が全力でやり合ってる……これ以上のエンタメあるかよ!」観客が総立ちで叫ぶ。
その光景は――ただの対戦カードではなく。
未来、ひとりの少年を巡って交わされるかもしれない因縁の、前哨戦のようにすら見えていた。
*
「ベル!決めるよ!」
桃香の声は明るく楽しげなのに、その攻撃は容赦がない。
この江は額に汗をにじませ、必死に叫んだ。
「カグヤ、まだ下がっちゃダメ! 前に――前に出て!」
ナデシコの薙刀が火花を散らしながらビームを弾き、そのたびに観客席から「おおっ!」と歓声が沸く。
それでも被弾は避けられない。肩や装甲に熱が走り、カグヤのシルエットが少しずつ焦げていく。
(だめだ、このままじゃ削りきられる……!)
この江の胸が強く脈打つ。観客の声も、桃香の笑顔も、一瞬遠ざかった。
――白夜くんの隣にいるために。
せめてこのバトルだけは、あの子に勝ちたい。
ここで負けるわけにはいかない。
「わ、わたしは、白夜くんの隣に……いたいんだ!」この江の心の中の言葉が、命令となって腕輪へと送られる。技術と感情が一点に結びついた瞬間だ。
彼女の声に応えるように、ナデシコの装甲が淡く光り始める。
観客席がざわついた。
「なにあれ!?」「スキルか!?」
桃香も目を丸くする。
「えっ……この江ちゃん、スキル持ってたの!?」
この江は震える声で、それでもはっきりと叫んだ。
「――カグヤ、《八艘跳躍》!!」
叫んだ瞬間、薙刀を棒高跳びのように突き立て、カグヤの全身が大地を蹴る。
爆音とともに跳躍。
光弾が当たる寸前に残像だけを残し、カグヤの姿は掻き消えた。
「え、消えた!? どこ!?」
桃香が必死に視線を走らせる間に、カグヤは八艘飛びのごとくフィールドを縦横に駆け抜け、一気にシャイニングへと肉薄する。
「来る!? ベル、迎え撃って!」
シャイニングがビームガンを撃つ。しかしその刹那、カグヤの薙刀が斜めに閃光を走らせた。
「これで……っ!」
この江の叫びと同時に。
至近距離、誰も気づかぬ一瞬で、ナデシコは袖から散弾を発射した。
「うそっ、何それ!?」桃香の驚きの声が、痛快な歓声と混ざる。観客席からは一斉に拍手と驚嘆の声が飛ぶ。女子同士の真剣勝負だからこそ、誰もが声を上げずにはいられない。
一瞬の迷いをついて、この江は薙刀を振るい、機体ごと飛び込みながら至近距離でエイムを合わせる。ショットの衝撃でホバーが乱れた《ベル》はわずかに傾く。
「今だ、カグヤ――決めて!」
薙刀の先端が、ベルの装甲を抉るように突き刺さる。電光が走り、ビームの放電が止まる。システムが赤く点滅し、ついには《ベル》の動作が鈍る。
観客席が大爆発のような歓声に包まれる。
「決まった――!!」
煙の中でシャイニングが片膝をつき、システムが停止した。
審判の旗が振り下ろされる。
「勝者――影野この江!」
*
観客席からは拍手と歓声、驚嘆の声、そして「えっ、まさか!」と信じられないようなざわめきが混じる。女子同士の対決は、予想を超えた熱戦の末、この江が僅差で勝利を手にしたのだ。
桃香はしばらくデバイスを下ろせずにいた。やがて大きく息を吐き、悔しげに笑ってこちらに歩み寄る。
「負けちゃったなぁ、強いね影野さん」
汗で頬に髪が張り付いたまま、この江は呆然と立ち尽くしていた。
デバイスを操作していた手が震えている。
(……勝った? わ、わたしが……?)
桃香はそんなこの江に苦笑して、
「……ぅん!やっぱり悔しいね負けると!」
悔しさをにじませつつも、その明るさは失われない。
むしろ太陽のような眩しさで、敗北すらエンタメに変えてしまうのが佐倉桃香らしかった。
この江は唇を震わせながら、深く頭を下げる。
「あり、がとう……ございます……」
やっと絞り出した声は掠れていたが、その中には確かな誇りがあった。
アリーナを後にする二人を、観客は惜しみなく拍手で見送った。
その音の中、この江は小さく胸に手を当てる。
(白夜くん……わたし、少しでも近づけたかな)
その想いは声にはならなかった。けれど、熱気を帯びた会場のざわめきが、その答えを代弁しているように思えた。
一方、桃香は明るく笑いながらも、心の奥底で燃えるような決意を抱いていた。
(次は絶対に勝つんだ!)
歓声の余韻が残るアリーナ。
その舞台の上で交わされた一戦は、少女たちの友情と意地、そして淡い感情を乗せた――間違いなく記憶に残る名勝負だった。