再び傘を差して外に出ると、雨はさらに強くなっていた。
夜の街が濡れて光り、遠くのアリーナのライトが雨粒越しにぼんやりと滲む。
(御門先輩との試合、絶対に無駄にはしない。次は勝つ。そのために――)
そう決意を新たにしたそのとき。
「――はーくやーっ!」
雨音の中に、聞き慣れた甲高い声が混ざった。
振り返ると、傘も差さずに濡れながら駆けてくる金髪が見える。
黒崎莉音だった。
「り、莉音なんで……」
言葉を続ける前に、莉音は僕のところまで走り寄り、肩で大きく息をしながら叫んだ。
「傘入れてくれー! 死ぬー!」
「あっ、莉音!? なんで傘持ってないんだよ!」
「だって、天気予報じゃ晴れるって言ってたしー!」
びしょ濡れの髪を揺らしながら、彼女は悪びれる様子もなく笑うと、当然のように僕の傘に飛び込んできた。
狭い傘の下、肩と肩が触れ合う。
彼女の濡れた髪から水滴が落ちて、シャツにひやりとした感触が走る。
「ふぅ……助かったぁ。はくやナイスー」
莉音が僕の顔を覗き込み、にやっと笑う。
「今、傷心中だったんだけどな」
苦笑いしながらぼそっと返す。
「……カップ戦、負けちゃった?」
莉音の表情がほんの一瞬だけ真剣になる。けれどすぐに唇の端を上げて笑った。
「でもさ、いい顔してるよ。悔しいけど、燃えてる顔」
胸の奥で、心臓が大きく跳ねる。
雨音と莉音の声が混ざり合い、不思議と彼女の存在が近く感じられた。
「……ありがとな」
小さく呟いた僕に、莉音はわざとらしく空を仰ぎながら口を尖らせる。
「でもさー、狭い傘で帰るとか、なんか青春ぽくない? 漫画ならここで“いい感じ”になるやつじゃん?」
「……そういう茶化し方やめろって」
「えー、恥ずかしがってるのー? かわいいー!」
からかうように声を弾ませ、楽しそうに笑う莉音。
僕はため息をつきつつ、傘をほんの少し傾ける。
彼女が濡れないように、無意識に。
「……優しいなぁ、はくや」
ぽつりと漏らした莉音の言葉に、僕は返事をできなかった。
けれど、その横顔を見ながら、雨の夜道を並んで歩く自分が少しだけ誇らしく思えた。
ざあざあと降りしきる雨の中、二人の足音が一定のリズムを刻み、寮へと続く道に消えていく。
「――あっ! あーしコンビニ寄りたい!」
唐突に莉音が顔を上げて言う。
その声があまりにも元気いっぱいだったから、思わず苦笑してしまった。
「コンビニ? ……まぁ、僕も軽く何か買って帰るか」
自然と足を止め、彼女と並んで角を曲がる。
コンビニのガラス戸が開いた瞬間、冷たい空気がふわりと流れ込んできて、濡れた頬を撫でた。
蛍光灯の白い光に照らされた店内は、外の雨音が嘘のように静かだ。
棚を回って、僕はパンと缶コーヒーを手に取る。
一方で莉音が抱えてきたのは、ペットボトルのお茶にスナック菓子、そしてなぜかアイス。
「……アイス?」思わず声に出すと、彼女は当然のように言った。
「雨の日にアイス食べるとか最高じゃん! こういうのが分かってないとモテないんだぞー?」
胸を張って笑う姿に、呆れるよりもつい笑ってしまう。
会計を済ませ、再び外に出る。
湿った夜の空気が顔に触れ、街灯の光が濡れたアスファルトに映って揺らめいていた。
遠くの国道から車が水をはねる音が響き、雨上がり特有の土とアスファルトの匂いが鼻をくすぐる。
僕は自然と空を仰ぎ、片手を伸ばしてみる。
もう、しとりと音を立てるはずの雨粒は落ちてこなかった。
(……止んだんだな)
そのときだった。
「ん?」と声を上げた莉音が僕の差し出した手に気づき、嬉しそうに目を細める。
そして何のためらいもなく――。
「はいっ」
莉音が当然のように僕の掌に自分の手を重ねてきた。
「えっ、」
(……あの、僕はただ雨が止んだか確かめたかっただけなんですが!?)
「雨やんでるじゃーん!」
彼女は僕の手を握ったまま、空いているもう片方の手を高く掲げて、ぽつりとも落ちてこない空を確認していた。
莉音は、ようやく自分の行動に気づいたらしい。
「あっ……」と小さく声を漏らし、ちらっと横目で僕を見上げる。
「ま、まぁ白夜もさぁ。あーしと手つなげてラッキーだよねー」
そう言って無理やり軽い調子を装うけど、耳の先がほんのり赤いのが街灯に照らされて分かった。
「……照れてんのかよ」
動揺を隠すように返すと、莉音は袋をぶら下げたまま肩を揺らし、楽しそうに笑う。
「いいじゃん、青春っぽくて。ね?」
そう言いながら、少しだけ指先に力を込めてくる。
湿ったアスファルトの匂いと、足音が揃うリズム。
街灯の下を並んで歩くたび、彼女の横顔が光と影に照らされて揺れる。
手のひらに残るぬくもりが、雨上がりの空気よりもずっと熱く感じられた。
(……照れ隠しかよ。でも、なんか悪くない)
そんな思いが心を満たし、僕は自然と口元を緩めていた。
*
夜の街は、雨上がりの匂いに包まれていた。
濡れたアスファルトが街灯の光を反射し、足元に無数のきらめきを映している。
莉音と並んで歩きながら、手のひらに伝わるぬくもりを意識してしまう。
(……なんで普通に繋いだままなんだ、僕ら)
けど、振り払う理由も見つからず、そのまま歩き続けていた。
「……ねぇ、はくたん」
突然、莉音が口を開く。いつもの軽い調子に聞こえる声の奥に、わずかな真剣さが混ざっていた。
(え? いつのまに【はくたん】に呼び方変わった!? え、え??)
「今日の試合、実はー見てたよ」
横目でちらりとこちらを見ながら、彼女は続ける。
「負けちゃったのは残念だったけど……なんか、すっごいかっこよかった」
「……え?」
意外すぎる言葉に、思わず足を止めてしまった。
「だってさ、観客席でもみんな息飲んでたよ。あーしも“ヤバい!これ勝つんじゃない!?”って本気で思ったし」
わざと明るく笑ってみせるけれど、その瞳は真っ直ぐに僕を射抜いている。
胸の奥が熱くなる。
悔しさで重かった心が、ふっと軽くなるのを感じた。
「……ありがとな」
かすれた声で答えると、莉音は照れ隠しみたいに視線を逸らし、手に提げていたコンビニ袋をぶんぶん振ってみせた。
「だからさー、ご褒美にこのアイス、半分こしてやってもいいよ」
「え、今ここで!?」
「決まってんじゃん。雨上がりの夜に、アイス食べるとか最高でしょ」
そう言って、袋からアイスを取り出す。カチリと割って、半分を僕に突き出してくる。
「……仕方ないな」
受け取った僕と、器用に包装を剥がした彼女。二人で近くの歩道の縁に腰を下ろす。
夜風はまだひんやりと湿っている。
口に運んだアイスは冷たく、甘く、さっきまで胸に渦巻いていた熱を少しだけ鎮めてくれた。
隣で頬張る莉音が、口の端にクリームをつけたまま、にやにやと僕を見上げる。
「ほらね? 青春っぽいでしょ?」
「……まぁそうだね」
自然と笑みがこぼれてしまう。
雨上がりの夜道。
街灯の下で並んで座り、繋いだ手のぬくもりと、半分こしたアイスの甘さ――。
それらすべてが、胸の奥に刻まれて、忘れられない思い出になる気がした。
*
寮の建物が見えてきたころ、夜空にはすっかり雲が流れ去り、ところどころ星が顔を覗かせていた。
隣では莉音が鼻歌を歌っていて、そのご機嫌そうな様子が妙に心地よかった。
(……こうして肩を並べて歩いてるだけで、なんか気楽でいいな)
軽口を叩き合うのも悪くない。むしろ心の奥が温まるような、不思議な安心感があった。
ふと思い出して、口を開く。
「そういえばさ、莉音って先輩知り合いでも居る? 昨日、見かけたんだけど」
「あー、うん、ーまぁね」
その瞬間、さっきまで明るかった笑顔がほんの一瞬だけ曇った気がした。
けれど次の瞬間にはいつもの調子に戻っていて、僕の気のせいだったのかもしれない。
「人混みの中であーしのこと見つけるなんて……はくたん、あーしのこと好きすぎでしょー?」
わざとらしくニヤニヤ笑いながら肩を揺らしてくる。
「そんなんじゃないって。ただ莉音は目立つからすぐ分かるんだよ」
必死に弁明すると、彼女はわざとらしくため息をつき、からかうように続ける。
「そこは『好きだよ』とか『むしろ愛してるよ』でよくないー?」
「なんでやねん!」
思わず口から関西弁でツッコミが飛び出す。
莉音はけらけらと笑いながら、階段の前で立ち止まった。
「ははっ。――あーし、先に帰るわ!」
そう言うやいなや、濡れたアスファルトを蹴って駆け出していき、寮の自動ドアへと姿を消した。
僕は少しだけ呆れたようにため息をつき、けれど口元は自然に緩んでいた。
「まったく……莉音はすぐ調子に乗るなぁ」
ぽつりと呟きながら、僕も歩を進める。
悔しさも、決意も、そして――ほんの少しの温かさも抱えたまま、僕は寮の扉をくぐった。
*
寮の自室に戻ると、テッペイがベッドの上で寝転びながらポテチをつまんでいた。
顔を上げるなり、気の抜けた声が飛んでくる。
「おかー」
間延びした声が飛んできて、思わず苦笑しながら「ただいま」と返す。
「で? どうだったんだよ、カップ戦」
漫画を閉じ、興味津々といった目を向けてくる。
「……負けたよ。やっぱ上級生は強いな」
正直、言葉にするとまた悔しさがぶり返すかと思ったが、不思議と自然に言えた。
――多分、帰り道で莉音と話したおかげだろう。胸の重さが少し軽くなっていた。
「えー? 白夜でも負けんのかよ」
「それはそうだろ。1年の中でスタートダッシュ決めただけだし。まだまだ実力差はあるよ」
肩をすくめて答えると、テッペイはニヤッと笑って枕を抱えたまま体を起こした。
「いやいや、“空の王子”が負けるとか信じらんねーなー」
わざと大げさに肩をすくめてみせるテッペイ。
「でも、また挑戦するんだろ?」
「え?」
思わず問い返すと、テッペイはじっと俺の顔を見てくる。
「なんかうまく言えねーけどさ、お前……顔つきがちょっと変わった気がするんだよ。ステージ一個上がった、みたいな?」
「なんだよ、その顔」
「だからうまく言えねーって言っただろ」テッペイはポテチをばりっと噛み砕きながら、カラカラ笑う。
その様子につられて、俺もつい口元が緩む。
「……まぁ、次は絶対勝ちたいな。今日負けてみて、分かったことがあるからさ」
「おーおー。頼もしいこって」
テッペイは大げさに腕を組み、うんうんと頷いてみせる。
「まぁ……次はハクロを強化してからだな。最近、操作に機体が追いついてない感じしてたんだ」
「え、お前あれより速くできんの?」
テッペイが口をあんぐり開けてポテチをぽろっと落とす。
「多分な。ハクロとも波長が合ってきたっていうか……」
「はぁー……」
テッペイは目を丸くして、ぽりぽり頭をかく。
「バトル強い奴は考えてることもレベル違ぇわ。俺にはさっぱり分かんねーけど、なんか説得力あんな」
「まぁ、俺自身もまだ手探りだけどな」
そう言いながら、ふっと天井を見上げた。
(御門先輩との差――埋めてやる。そのためにもっとハクロを強くしないと)
テッペイはあくびをひとつして、またベッドにごろんと横になる。
「でもよ、そういうのカッコいいと思うぜ?俺は絶対無理だけどな!」
「はいはい。テッペイは食って寝てれば幸せだもんな」
「おう!俺は観客席でポップコーン食いながら応援する役でいいや!」
ベッドの上でだらしなく寝転がるテッペイは、スナックの袋を片手に開けたまま、もう片方の手で次々と中身をつまんでは口に放り込み、足をぶらぶらと投げ出していた。けれどその目だけは妙に真剣で、僕の顔をじっと観察している。
「……でもよ、実際ハクロの強化ってどうすんだ?」
ようやく袋を閉じてから、テッペイが口を開く。その声はいつもの軽さよりも、少しだけ現実的な響きを帯びていた。
「ジェットパック自体、発売されたの先月だろ? 白夜以上に飛べる奴なんてそうそういないんじゃねーの?」
「いや、いたんだよ」僕は短く答える。「御門先輩っていう三年生だ。その人に負けたんだ」
テッペイの表情が固まる。「……マジか。もうそんな奴がいるのかよ」
「しかも、多分だけどハクロのジェットパックより改良されてた。重量がある機体なのに、動きは僕より速い。操作技術だけじゃない、明らかに性能差を感じたんだ」
「なにそれ……改良型もう出てんのか?!」
ベッドから飛び起きたテッペイは、目を見開いて手帳端末を急いで操作し始める。
「どっかのラボで裏でやってんだろこれ。待てよ、探せば……あった!」
彼が画面を突き出してくる。そこに表示された文字――≪藤堂ラボ≫。
「藤堂ラボ……?」
「そうそう! ここだ! ほら、御門って先輩、所属してるって載ってる。去年、外部の研究所から特別に勧誘されて、学園の専属になったぽいぞ」
僕も生徒手帳で調べてみる。
「若い人みたいだね。ほんとだ御門先輩がメインテスター兼専属」
「やっぱりな。良いラボに所属してると、設備も揃ってるし開発環境も段違いだ。下手すりゃ企業の先端技術に近いもん作れるんじゃねーの?」
テッペイが興奮気味に言う。その声はどこか羨望混じりだった。
(……ラボか。やっぱり、そこに属してるかどうかで差がつくんだな。螺子川先生のラボはもちろん信頼できるけど、御門先輩のところ……金成先輩にでも聞いてみるか)
ぼんやりそんな考えを巡らせていると、テッペイがふぅと息を吐いてベッドにごろんと転がった。
「あーあ、俺もいいラボ入りてぇなぁ」
「技術科はラボに所属できても来年からだろ?」
「まぁそうだけどよ、できれば螺子川ラボがいいなー。……下心とか一切なくな!」
「いや絶対あるだろ」
じとっとした目を向けると、テッペイは「な、ない! 本当にないって!」とわかりやすく狼狽え、声が裏返っていた。
「分かりやすすぎなんだよ」思わず吹き出す。
「ま、とにかく俺は勉強と実習頑張るしかねーな。成績良いと希望ラボに通りやすいって聞いたし」
そう言ってまた端末を手に取るテッペイの横顔は、少し真剣だった。
「ふーん……そういやテッペイ、今回のテスト何位だったんだ?」
軽く聞いたつもりが、彼の口元がにやりと歪む。
「俺? 2位だぜ」
「……は?」
「つまり! 俺は白夜より賢い!!」ドヤ顔で親指を自分に突き立てるテッペイ。
「え、うそ……だ、ろ?」僕は思わず素で声が裏返った。
「事実だもーん。ほら、俺だってやればできるんだよ。これで螺子川ラボも夢じゃねぇな!」
彼は再び大笑いして、ベッドの上で転がりながらポテチの袋を開け直した。
(……いや、ほんとに2位なのか?確かに毎日帰ると勉強してるし……でも、キャラが違うだろ)
半ば呆れつつも、少しだけ見直した自分がいた。