――夜。
時計の針が午前二時を指している。
外では、夏の虫がかすかに鳴いていた。
白夜はベッドの中で深い眠りに落ちている。
勉強と訓練の疲れが、身体の芯まで染み込んでいた。
静寂。
冷房の音も、風の通る音もない。
……なのに。
ぴと、ぴと。
粘質な、湿った音。
その瞬間、部屋の温度が数度下がった気がした。
この部屋に居るのは白夜だけのはずで、音なんて聞こえるはずがないのに。
しかし――音は、確かに部屋の内側からだった。
ぴと、ぴと。
何かが、床をぬらりと這うように動いている。 暗闇の中、わずかな月光を反射して、不透明な小さな影が揺れる。
リビングテーブルの上には、寝る前に飲んだ水の入ったコップがひとつ。
その表面が、かすかに揺れた。
影がそのコップを浮かす――。
――コクリ。
コップの中身が減っていく、喉を鳴らすような微かな音が響く。
数秒の静止。
――そして、空のコップが、まるで初めからそうであったかのように、同じ場所に置かれた。
透明なガラスが、月光を反射してかすかに光る。
そこには、微かに唇の跡のような曇りと、甘ったるい、覚えのない香りが残っていた。
ぴと、ぴと。
足音が、ベッドへと近づく。
まるで裸足で濡れた床を歩くような、ねっとりとした音。
白夜は寝返りを打ち、悪夢にうなされるように、呼吸が浅くなる。
すぅ……、ふぅ……。
空気を吸い込む音。 誰かが、すぐ真横で、彼の匂いを確かめるように、彼の枕元の髪に鼻を寄せている。
暗闇の中、ひときわ白い肌。
長い髪の隙間から覗く、紫に濁った瞳。
「……うん……やっぱり……この距離が、いちばん……」
掠れた囁きが、白夜の耳のすぐそばで零れる。
その声には、安堵と――陶酔が混じっていた。
「今日は……あの女と、楽しそうだったね……」
「でもね、はくや……うち、全部見てたから……」
唇が近づき、白夜の髪に触れる。
冷たい息が首筋を撫で、鳥肌が走る。
「……安心して。うち、怒ってないよ。
だって、こうして……“隣にいる”から」
ぴと、ぴと。
足音が、ベッドの脇を通り抜け――。
カチャリ。
扉のノブが、ゆっくりと回った。
閉まる瞬間、部屋の温度が一度だけ変わった気がした。
静寂。
もう、そこには誰もいない。
ただ、テーブルの上のコップだけが――。
水の代わりに、淡く光る紫色の粒子を残していた。
*
――翌朝。
いつも通りの時間に、目を覚ました。
昨日の疲れが残っていたのか、目覚ましが鳴るまで熟睡していたらしい。
「……ふぁぁ……」
あくびをしながら伸びをし、ぼんやりと天井を見上げる。
外はすでに眩しいほどの朝日。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の埃をきらめかせていた。
白夜はベッドから起き上がり、スリッパを履く。
部屋の中は、昨日と何も変わらない――はずだった。
テーブルに置いてあったコップを手に取る。
昨夜、飲みっぱなしにしたコップ。
洗い物は帰ってからでいいや、そう思って指を滑らせた。
「……あれ?」
ほんの一瞬、違和感がよぎった。コップの内側に、うっすらと紫がかったような、微細な粉末が残っている気がした。
すぐに目を擦る。「気のせいか……」
たしか、半分くらい残して寝た気もする。
でも、そんな些細なこと、いちいち覚えているわけがない。
キッチンへ向かい、朝食の準備を始める。
テーブルの上のコップを軽く水洗いして水をそそぐ。
「……昨日の夜水のんだだけだし、いいだろ」
トースターをセットしながら、冷蔵庫を開ける。
中には見慣れないヨーグルトがひとつ。
パッケージには、白夜の好みそうなフルーツが描かれていた。
「七海か桃香が置いていったのかな?」
期限は昨日の日付。
(賞味期限だし、1日くらい大丈夫だな)
朝の慌ただしさが、全ての違和感を押し流した。
食パンが焼ける音。
白夜は、いつも通りの朝を迎える。 彼は、昨夜誰かが彼の隣に立っていたことなど、知る由もなかった。
――今日も勉強とラボ頑張っていこう。
*
――同じ頃。
白夜の部屋と同じマンションの、わずか三階上。
朝焼けが差し込む窓際で、紫乃雨音はカーテン越しに下の階を見つめていた。
薄い唇がゆっくりとほころぶ。
「……おはよう、はくや。ヨーグルトおいしい?」
微かな声。
それは囁きでも独り言でもなく――確かに、誰かへ向けた挨拶。
ポケットの中のリンカーが、微かに光る。
白夜のEID信号を一方的に受信できるように改造された、ロマンティックな違法仕様。
「はくや、気づいてたよね?」
紫乃は独り言のように呟く。
目を細め、頬を染めながら、ゆっくり笑う
「昨日の夜、ちゃんと隣にいたの。……分かってたでしょ?」
指先が唇をなぞる。
その仕草はあまりにも自然で、愛おしげで、
けれど、その奥にあるのは――歪んだ確信。
「だって……間接キスしちゃったよね?」
「あんなにはくやの口の跡が残ってるのに、気づかないわけないよね?」
「もう印はつけたんだから。……はくやは、私のものだよね?」
「これって誓いのキスだよね?」
風が吹く。
紫乃の髪がふわりと舞い上がり、
そこに紫色の粒子がちらちらと混ざる。
「ねぇ、はくや。次は雨音おはようって言ってね?」
「また会いに行くからね?私が一番近いもんね?」
「あんなに汚らしい女の唇に触ったんだから、 ちゃんと私のできれいにしてあげないとだよね? 」
「他の女なんて要らないよね?」
その声は風に溶け、朝の光の中へ消えていった。
*
あっという間に放課後になった。
まだ昼を過ぎたばかりで、グッと暑くなってくる。
チャイムが鳴ると同時に、礼人と莉音がいつものように声をかけてきた。
「白夜ー!勉強会しようぜ、期末前だし!」
「うんうん、カフェでもいいよね?」
二人の声を聞きながら、僕は少しだけ間を置いて笑った。
「ごめん、今日もラボいかないといけなくてさ。また今度っ!」
「またか、今度は空けとけよー」
「最近、ラボばっかじゃーん」
軽く手を振って教室を出る。
背中に残るその言葉は、冗談交じりのようでいて、どこか寂しげだった。
いつの間にか、放課後の輪の中心に自分がいないことに気づく。
それでも――僕は迷わず、ラボへと足を向けた。
*
「失礼します」
ドアを開けると、空気が一気に変わった。
機械の駆動音と、冷却装置の低い唸り。
まるで外の世界から切り離されたような、無機質な空間。
その中心で――目を奪われる存在がいた。
アストレアさん。
今日の彼女は――まるで紅の花そのものだった。
深紅と黒のフリルが幾重にも重なったフラメンコドレス、金糸の縫い込みが光を受けて炎のように揺れる。
腰の曲線を強調するコルセットが、白磁のような肌と相まって艶めかしい。
髪には赤い薔薇の飾り、長い銀髪がその花弁に触れるたびに光を散らす。
その笑みは、ただ一度見ただけで男の理性を麻痺させるほどだった。
金色の虹彩がまっすぐ僕を射抜く。
「白銀くん、いらっしゃい」
その声は甘く、しかし冷ややかな音のようでもあった。
藤堂室長が横で笑いながら手を振る。
「よく来たな、白夜。今日も収穫のある訓練にしようじゃないか」
部屋の隅では、紫乃先輩が静かに座っていた。
長い前髪の下から覗く目だけが、薄く光っている。
「紫乃先輩、こんにちは」
声をかけると、彼女は小さく頷いた。
――ただの挨拶なのに、背筋に微かな寒気が走る。
そのとき、背後の扉が開き、篠原先輩がこちらに向かってきた。
シミュレーションを終えて帰るところなのか、息が荒い。
「お疲れ様です」
僕が声をかけると、篠原先輩は一瞬だけこちらを見て、
低く、掠れるような声で「……ごめん」
とだけ呟いて、視線を逸らした。
そのまま扉を出ていく。
――ごめん? なんのことだろう。
僕は少し首を傾げたが、すぐに気を取り直した。
(……まぁ、考えても仕方ないか)
「今週は紫乃とだ」
藤堂室長がコンソールを叩きながら言う。
アストレアさんが微笑を浮かべて補足する。
「白銀くんは初めての期末テストですから、今日は十七時には切り上げましょうね」
時計を見ると、ちょうど十四時を少し過ぎたところだった。
二時間半――十分に濃い時間だ。
僕は姿勢を正し、紫乃先輩の方を向く。
「紫乃先輩、今日もよろしくお願いします!」
その瞬間、紫乃先輩の唇がゆっくりと動いた。
「……うん。いっぱい、ヤろうね」
その声は囁きというより、湿った空気のように耳の奥へ滑り込む。
一瞬、胸の奥にざらついた違和感が残る。
でも、戦いが始まれば、そんなものは吹き飛ぶはずだ。
1戦目――火力の差で圧倒された。
開始と同時に、眩い光弾の雨。
ルミナメイジの光弾が空を覆い、白い閃光が連続で視界を焼く。
ハクロの装甲が軋み、警告アラートが赤く点滅した。
反撃もままならず、僕の射撃は拡散光に飲み込まれ、敗北。
「すっごいっ……! 今のはくや、ほんとにキラキラしてたよっ!」
紫乃先輩の声が通信に響く。
そのトーンは、まるでライブ会場のファンみたいな熱狂。
けれど、それは演技ではない。
本気で――戦いの中の僕を“美しい”と感じている。
*
スピードで勝負をかけた。
だが、ルミナメイジの機動制御は異常だ。
僕が旋回する前に、紫色のリボンが滑るように先回りしてくる。
攻撃を回避するたび、背後で煌めく七色の残光が追いかけてくる。
そのたびに通信が弾む。
「ハクロの動き、風みたいだった! あのステップ……完璧! ねぇ、はくや、ほんとに成長してるねっ!」
モニター越しに見えるルミナメイジの姿が、まるで踊っているようだった。
戦闘データを取るというより、彼女に“見せている”気がしてくる。
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
*
高高度からの全弾射撃。
だが、ビームは全て反射された。
紫色のシールドが幾重にも広がり、ハート型の光がこちらを包み込む。
オーバーヒート警告。制御反応が鈍り、視界が光で埋まる。
撃墜。
「ねぇはくや! あの瞬間の光――まるで、運命の軌跡だったよ!
私、感じちゃったよ!…ハクロとルミナメイジの光が、ひとつになった“奇跡”を!」
……完全に自分の世界に入り込んでいる。
だが、どこか羨ましいほど真っ直ぐだ。
僕の中の“勝ちたい”という欲とは別の――
彼女は戦いそのものを“恋”として捉えているように見えた。
*
近接武装を選択。
距離を詰め、一撃に全てを賭ける。
ビームブレードが光を裂き、機体がぶつかるたびに衝撃波が走る。
「いまの、いまの動きっ! 最高っ!!
ハクロのブレードが光の中を切り裂いて――っもう、かっこよすぎるぅ!!!」
通信越しに響く歓声。
ルミナメイジが両手を掲げ、魔法陣を展開する。
「でも負けないよ! だって私は“愛と希望の魔法少女”、ルミナメイジだもん!」
その声が響いた直後、紫の光翼が一斉に展開される。
背部ユニットがオーバードライブ状態に突入し、全方位から光の奔流が放たれる。
「信じる気持ちは、誰にも壊せないんだからっ☆」
視界を埋める光。
そして、轟音。
爆発的な衝撃が機体を吹き飛ばし、敗北を告げる通信音が鳴り響いた。
*
静寂。
通信越しに、紫乃先輩の声が届く。
「はくやの笑顔、もっと見たいなぁ……」
囁くような声。
その甘さが鼓膜を撫で、心臓の鼓動がひとつ跳ねた。
通信が切れる直前、彼女の声が微かに漏れる。
「……次は、もっと……できるようにするね」
意味が分からない。
けれど、その瞬間、首筋にぞわりとした寒気が走った。
それは、どこか夢を見るような、甘く溶ける囁きだった。
どこか陶酔しているように聞こえた。
「ありがとうございます。次は、勝ちます」
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
でも、手のひらは汗でじっとりと濡れていた。
僕は深呼吸しながら、ハクロの格納する。
戦闘データが保存され、静寂が戻る。
(……強くなっている。確かに、少しずつ)
自分にそう言い聞かせながら目を上げると、
紫乃先輩がシミュレーターの前でうつむいていた。
先ほどまでのルミナメイジの凛とした気配はどこにもなく、
小さく縮こまり、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。
「お疲れさまです、紫乃先輩」
声をかけると、彼女の肩がわずかに震えた。
「……ぁ……あの……」
蚊の鳴くような声。
何か言おうとしては、喉の奥で詰まる。
僕が一歩近づくと、紫乃先輩はびくりと体を硬直させた。
「……す、すごかった………」
ようやく絞り出すように口にした言葉。
その瞳には焦点が合っていない。
それなのに、唇だけは柔らかく持ち上がり――
まるで感情の抜け落ちた人形のように、ゆっくりと笑った。
そして、誰にも届かないほど小さな声で、
自分の世界に沈み込むように呟く。
「……やっぱり、うちのこと……好きじゃん、はくや……。
こんなに話しかけてくれるなんて……相思相愛すぎる……」
僕は思わず一歩、後ずさる。
胸の奥に、ひやりと冷たいものが走る。
ほんの一瞬、紫乃先輩の瞳孔が――濡れたように震えた気がした。
そのまま彼女は、逃げるように出口付近へと歩いていった。
残された僕は、なんとも言えない気持ちで立ち尽くす。
――さっきまであんなに強気だった人と、同一人物とは思えない。
(けど……この人、ほんとはこういう性格なんだなぁ)
そう思いながらも、なぜだか胸の奥に冷たい汗が残った。
あの“魔法少女”の声と笑顔が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
*
訓練が終わり、アストレアさんが拍手を送る。
「戦闘データ、非常に精度が高いです。
白銀君の成長速度は目を見張りますね」
「ありがとうございます。……でも、まだ勝てないです」
「勝敗は過程のひとつです。
戦うたび、あなたのソウルコアは少しずつ“経験”を蓄えていますから」
彼女の笑みは凛としていて、それでいて炎のように艶やかだった。
フリルの裾が揺れ、香水の匂いがふと鼻を掠める。
人工知能なのに、人よりも“人らしい”。その存在感に、僕は毎回どきりとする。
藤堂室長がコンソールを閉じながら言う。
「今日はここまでだな。白銀、よく集中していたな」
「ありがとうございます」
「紫乃、お前も……うん、相変わらず安定している。今週も頼むな」
「……ん」
紫乃先輩は離れた場所から小さく頷くと、ちらりとこちらを見た。
その目は――どこか、笑っていた。
データ整理を終えたあと、アストレアさんに話しかける。
「アストレアさん、今日の紫乃先輩……なんか雰囲気違いませんでした?」
「ええ、そうですね」
彼女はゆっくりと頷き、細い指で唇に触れる。
「感情の振れ幅が、いつもより大きかった。
けれど、それは悪い兆候ではありません」
「悪い兆候じゃない……?」
「はい。――“誰かへの強い想い”は、
ソウルコアを通して能力を高める要因になりますから」
アストレアさんは、わずかに唇の端を上げた。
その笑みは穏やかで、けれどどこか探るような色があった。
「誰への想いなんでしょうねぇ」
その言葉の後、アストレアさんは小さく指を唇に当てて、
「ふふっ」と笑った。