片付けを終え、ラボを出たのは十七時を少し回った頃だった。
夕方の空は、すでに群青と橙が入り混じる。
藤堂室長たちに挨拶をして扉を閉めると、外の空気はどこかひんやりとしていた。
振り返ると──紫乃先輩がいた。
いつの間にか、ぴたりと僕の背中のすぐ後ろに立っていた。
距離にして、ほんの三十センチ。息がかかるほど近い。
(……またこの距離感か)
僕が歩き出すと、彼女も歩く。
ピタ、ピタ、と靴音がほぼ同じタイミングで重なる。
2人の影が長く伸び、夕陽がゆっくりと背後に沈んでいく。
「紫乃先輩、お疲れ様でした。今日、乗ってましたね。まさに魔法少女って感じで」
そう話しかけると、紫乃先輩は視線を落としたまま、かすれた声を返す。
「……つ、つかれた……」
「でも紫乃先輩のバトル中、すごくキラキラしてて。可愛いというか、眩しいですよね」
そう言った瞬間、彼女の肩がピクリと震えた。
「……か、かわ……いい、とか……」
途切れ途切れの声。
そのあと、聞き取れないほど小さな声でぶつぶつと何かを呟いている。
(……また始まった)
いつものようにぶつぶつと僕に聞こえない声でつぶやいている。
「可愛いとかもうプロポーズじゃんか」
「うち、かわいいとか男子に言われたの初めてだよ」
「触ってもいいかな?」
「今日も部屋に行っても良いよね?」
その小さな声には、かすかな震えと、甘い陶酔が混ざっていた。
まるで独り言を繰り返しながら、現実と空想の境界を溶かしていくような。
あー、また紫乃先輩自分の世界に入ちゃったよ。
この状態になると、落ち着くまで聞こえてないみたいだからな
僕はそう判断して、前を向いたまま歩を進める。
10分ほどの帰り道。
蝉の声が遠くで途切れ、かわりに街灯が点き始める。
空気が湿り、夜の匂いが少しずつ漂い始めていた。
やがて、僕らが同じマンションの前に辿り着く。
ロビーの自動ドアが開き、冷房の風が足元を抜けた。
エレベーターに乗ると、紫乃先輩も無言のままついてくる。
エレベーターの中、ふたりきり。
沈黙。
電子音と階数表示だけが規則的に鳴る。
狭い空間の中で、彼女の呼吸音がすぐ隣から聞こえる。
僕はなんとなく、壁に視線を向けた。
反射したステンレスの中に、ぼやけた二人の姿が映る。
紫乃先輩は俯いたまま、動かない。
ただ、笑っていた。
口角だけがわずかに上がっている──感情の見えない笑み。
“チン”と音が鳴る。
僕のフロアに着いた。
「あ、紫乃先輩、お疲れ様でした」
「……うん。……“またね”」
「はい、また明日もよろしくお願いします」
扉が閉まり、エレベーターが上の階へと昇っていく。
*
部屋に入ると、すぐに靴を脱ぎ、鞄を置く。
静かだった。
冷蔵庫のモーター音がやけに大きく聞こえる。
(……今日も頑張ったなー)
簡単に晩御飯を作って食べる。
料理もBPに余裕あるし今度から頼もうかな?
水を飲もうとコップを手に取り水をそそぐ。
少しぬるい。
そのままテーブルに置き、シャワーを浴びに行く。
湯気の中で目を閉じる。
今日のシミュレーションを振り返る。
僕は近接の方が得意なのかもしれない。蝶のように舞い、蜂のように刺すみたいな。
藤堂室長もそんな風に考えてる気もする。サブの遠距離装備とメインの近距離。そこに空戦型の機動力が加われば結構強いよな。まだ先輩たちには勝ててないけど、惜しいとこまでいくようになったし。
シャワーを終え、髪を拭きながらリビングに戻る。
その瞬間、ふと──視線を感じた。
窓の外。
カーテンの隙間から、夜風が揺れる。
マンションの向こう、遠くのビルの灯り。
そして──その間に、一瞬だけ、何かが動いたような気がした。
虫? いや鳥かな?
少しの間、今日の授業の復習をしておこう。期末テストまで2週間を切ったしこっちも頑張らないとな。
キリの良いところまで勉強し、水を軽く飲んでから
電気を消してベッドに横たわる。
(……今日もぐっすり寝れそうだ)
目を閉じる。
静寂。
風の音と、鼓動の音。
──けれど、眠りに落ちるその直前、
耳の奥で、誰かの小さな声が囁いた気がした。
『……おやすみ、はくや……』
*
「……おやすみ、はくや……」
ほとんど声にならない声で、彼女が呟く。
ゆっくりと唇がほころび、頬が紅潮する。
「うひ……じゃあ、今夜も……一緒、だね」
──夜、午前二時。
白夜の部屋は、闇に沈んでいた。
カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、床にかすかな帯を作っている。
冷房の風は止まり、部屋は湿った静けさに満たされていた。
その静寂を──破る音がした。
ぴと。
ぴと。
湿度の高い粘着質な裸足の音。
廊下の床を、ゆっくりと、這うように。
夜の闇が動く。
玄関の鍵は、かすかな電子音を鳴らして開いていた。
白夜には聞こえない。
眠りの深みに沈んでいる彼の呼吸だけが、部屋の空気をわずかに揺らしている。
ぴと、ぴと──。
影がリビングを通り抜け、洗面所の方へと向かう。
その足取りには、迷いも、音の抑制もない。
“この部屋の主”であるかのような、確信に満ちた歩みだった。
洗濯籠の前にしゃがみ込む。
白夜が使ったタオルが、無造作に重ねられている。
紫乃はその中から、ひとつをゆっくりと拾い上げた。
まだ微かに、石鹸の匂いと体温の名残がある。
「……ぅ……ん……」
喉の奥で、言葉にならない息が漏れる。
彼女はそれを頬に押し当て、静かに目を閉じた。
小さく、震えるように息を吸う。
「……あったかい……」
「……あぁぁ……はくやのにおい……」
薄闇の中、その頬がわずかに紅く染まった。
そして、そっとタオルを胸に抱きしめたまま立ち上がる。
「……ん……やっぱり……はくやの匂い……」
「……大丈夫、ちゃんと洗ってあげるから……」
タオルを胸に抱いたまま、影のように動き出す。
──ぴと、ぴと。
リビングへ戻り、寝室のベッドへ近づく。
白夜の寝息が聞こえる。
穏やかで、規則的な呼吸。
ぴと、ぴと。
足音が止まった。
彼の枕元に立つ。
月明かりがカーテンの隙間から漏れ、白夜の横顔を照らしていた。
紫乃はゆっくりとしゃがみ込み、指先を伸ばす。
そして──白夜の、無防備に放り出された手を、握った。 冷たくも温かい、生命の躍動を伝える感触。
指先が触れた瞬間、紫乃の体が小さく震える。
「……ねぇ……夢の中でも、ちゃんとつながってるよね……」
「……はくやぁ……手つないじゃったよ……」
彼女は眠る白夜の耳元に顔を近づけ、髪が触れるほどの距離で、湿った息遣いとともに囁いた。
「……もう、どこにも離さないから……誰にも渡さない……」
白夜の指を獲物のようにぎゅっと握りしめる。
そのまま、唇でそっと手の甲に残る血管の筋に触れた。
熱が、紫乃の体から白夜へと、一方的に移っていく。
紫乃の呼吸が、微かに喘ぐように震える。
──そして。
白夜の力なく横たわる手を、自分の胸元へ導く。
指先が、薄い布越しに激しく打つ柔らかい心臓の鼓動を感じた。
「……感じる……? はくや……」
「うち、いま……こんなに鼓動が速いの……全部、はくやのせいだよ……」
その声は、まるで熱に浮かされた夢の中の囁きのようだった。
息と共に零れる甘い熱が、白夜の体温と混じり合う。
けれど、白夜は眠っている。
何も知らずに、静かな呼吸を続けていた。
紫乃は、その手を自分の胸元から離すと、白夜の薄い寝間着越しに、彼の肩、胸板、そして腹へと、指先を滑らせた。
「……うちの、もの……だよね……ぜんぶ……」
紫乃は、うっとりとした目でその寝顔を見つめる。
指で彼の頬をなぞり、髪の毛を一房すくい取る。
光に透ける一本の銀。
それを自分の頬に寄せて、微かに笑う。
「……うちの……だよね……」
時間が止まったような静寂。
秒針の音すら聞こえない。
湿った足音が、再び部屋の中を滑っていく。
ベランダの窓が、音もなく開く。
外の風が流れ込み、カーテンがゆらりと揺れた。
紫乃は振り返る。
寝ている白夜の方を──名残惜しそうに、じっと。
「……おやすみ、はくや。
うち、また“帰ってくる”からね……」
月光がその頬を照らし、紫の瞳が一瞬だけ光る。
ぴと。
その足音が最後に一度だけ響き、
次の瞬間、紫乃の姿は夜の空気の中へと溶けて消えた。
残されたベッドの上──
白夜の掌には、淡く温もりが残っていた。
そして床には、小さな紫色の粒が、光を放ちながら揺れていた。
*
それからの一週間は、まるで同じ日を何度も繰り返しているようだった。
昼食を終えるころにはもう、僕の意識はラボへ向かっている。
授業中も頭の片隅では、昨日のデータをどう応用するか、紫乃先輩のルミナメイジや篠原先輩のミラージュリザードの動きをどう攻略するか、そんなことばかりを考えていた。
礼人たちに「今日もラボか?」「たまには一緒に勉強しようぜ」と声をかけられても、笑ってごめんと返すしかない。
僕は「ごめん、また今度」と言いながら、気づけば距離を取っていた。
一緒に笑って過ごしていた昼休みの輪の外に、いつの間にか僕自身が立っている。
その瞬間、少しだけ空気が沈んだ気がした。
莉音も、この江も、何か言いかけてやめる。
僕が以前より、彼らとの間に“距離”を感じているのは、気のせいじゃない。
(……でも、今は仕方ない。ラボで掴めるものの方が、ずっと大きい)
そう言い聞かせながら、校門を抜けた。
*
「失礼します」
そう声をかけると、コンソールの前に藤堂室長、隣に立つアストレアさん、そして部屋の隅で黙って座っている紫乃先輩の姿があった。
「おっ、来たな白銀!」
藤堂室長が手を振り、上機嫌に笑う。
「今日は収穫が多いぞ。お前のジェットパックの父親さんな、千成重工の開発部長だってな? いやぁ、まさかの大物だ!」
「えっ……父さんと話したんですか?」
「したした! まさかお前が、あの“空冷スラスター特許”を出した家の息子だったとはなぁ!」
そう言って、室長は両手を広げ、アストレアさんの肩を抱き寄せる。
「これで夢が広がるなぁ、アストレア!」
「ええ。白銀君、あなたの存在が“翼”そのものです」
アストレアさんが微笑む。その笑みは、どこか艶めいていた。
今日の彼女の衣装は、深紅と黒のフリルが織り重なったドレス。腰のラインから伸びるリボンの揺れが、まるで炎のように見える。
胸元に飾られた一輪の赤いバラと、耳元で光るガーネットのピアス。
人工知能とは思えないほど人間的な艶やかさで、彼女は室長に軽やかに抱きつき──
「ふふっ。本当に持ってますね、創一」と囁くように笑った。
そのまま、頬から額にかけてキスの雨を落とす。
「おい、アストレア! お、おいっ!」と室長が慌てる声が、研究室に響き渡った。
……よっぽど嬉しかったんだろうな。
僕は苦笑しながら、その光景を少し引いた位置から見ていた。
ただ、紫乃先輩だけは──相変わらず無言のまま、じっとこちらを見ていた。なんかタコの口まねをしていた。
午後の訓練。
紫乃先輩とのシミュレーション戦は、毎日続いていた。
結果だけ見れば、僕は一度も勝てなかった。
けれど、手応えは確かにあった。
ハクロの出力安定率、レスポンス速度、同期時間。どれも少しずつ改善している。
ソウルコアの成長率も順調で、内部値はレベル98に達していた。
数値を見た藤堂室長が、目を丸くして唸る。
「やっぱりお前、只者じゃねぇな。機体の方向性もだいぶ見えてきた」
「本当ですか?」
「ああ。次は脚部を改良して、重心を軽くする。お前の親父さんの会社のスラスターの資料を見せてもらえば、世界最速レベルの専用機が作れる!」
その言葉に胸が高鳴った。
確かに、今のハクロはまだ未完成だ。
けれど、目の前の先輩たちとこの環境があれば、僕はもっと上を目指せる。
これも全部、御門先輩を──越えるために。
「……おつかれ、はくや」
小さく、紫乃先輩が声をかけてくれた。
振り返ると、相変わらず視線は落ちたまま。
けれど、ほんの一瞬だけこちらを見たとき、その瞳の奥が微かに揺れた。
何かを隠すように、言葉を飲み込んでいるようだった。
僕は笑って返した。
「ありがとうございます。先輩とやると、毎回勉強になります」
「……そ、そう。うちも……たのしい」
「僕もです」
その一言に、紫乃先輩の唇が微かに震えた。
頬が赤くなり、彼女は視線を逸らす。
その仕草が、いつもよりほんの少し長く残った。
*
金曜の夕方。
期末テストまで、あと一週間。
「来週は勉強しとけよー!」
藤堂室長の声がラボに響く。
「お前のハクロは順調だ。お前自身の脳味噌を鍛える番だな!」
「了解です!」
そう返して笑う。今週も充実してた。
(……もう期末まで一週間か)
ラボを出てからの帰り道、背後に気配がひとつ──。
足音が、ほぼ同じタイミングで重なる。もう聞き慣れたリズムだ。
振り返ると、案の定そこには紫乃先輩。
白いシャツの袖をぎゅっと握り、俯きがちに歩いている。
その距離、ちょうど三十センチ。
僕の歩幅に合わせ、影みたいにぴたりとついてくる。
「……今日も、まっすぐ帰りますか?」
声をかけると、ほんの少し間があって、
「……う、うん……」
とか細い返事。
それ以上の会話はない。
けれど、背後で刻まれる足音が、僕の歩幅にぴたり重なることが──不思議と、安心を連れてくる。
──気づけば、今週はずっとこうだった。
月曜から金曜まで、毎日ラボで訓練して、帰りは二人で同じ道を歩き、同じエレベーターに乗る。
マンションのエントランスへ。ガラス越しの冷気が足元を撫でる。僕はリンカーをかざし、二人でエレベーターに乗り込んだ。閉まる扉に、淡い反射で僕らの輪郭が二重に重なる。
「7階と10階、押しときますね」
僕がパネルに一瞬早く触れた、紫乃先輩の淡い指先が10のボタンの上でぴたり止まる。
「紫乃先輩、押しときましたよ」
「あ、ありがと……」
するり、と空を切った指先は行き場をなくして、裾をぎゅっと握る。密閉空間に、微かなシャンプーの香りと、冷房の金属臭が混ざる。
沈黙。
階数表示の数字だけが、上へ上へと規則正しく跳ねていく。
僕はなんとなく、鏡面ステンレスの壁を見た。
ぼやけた反射の中で、俯く紫乃先輩の口角だけが、わずかに上がっている──
「紫乃先輩、今日もお疲れさまでした」
「……は、はくやも……おつかれ」
顔を上げないまま、小さな声で返す。
その声が、エレベーターの密閉された空間の中に静かに響く。
「またよろしくお願いします」
そう言って軽く頭を下げると、紫乃先輩は少しだけ間を置いてから、
「……うん。……またね」
と呟いた。
ほんの一言なのに、妙に長く残る声だった。
言葉の奥に、何かを含ませるような、熱を押し殺したような響き。
僕はそのまま自分の階で降り、軽く手を振って別れた。
エレベーターの扉が閉まる直前、紫乃先輩の視線がわずかにこちらを向いた。
廊下を歩きながら、僕はため息をつく。
今週は本当に充実していた。
戦闘データの精度も上がり、機体の方向性も見えてきた。
期末テストの準備もあるけれど、きっと乗り越えられる。
そう思いながら部屋に入る。
照明がつく。
静かな部屋。
作業机の上には昨日の資料。
──けれど、ふと違和感が走った。
あれ? こんなペン、持ってたっけ?
キャップの色が微妙に違う。僕が使うシリーズはグレー寄りの黒なのに、これは黒にわずかに紫が混じるような、妙な艶がある。
洗濯から戻したタオルは、積んだ高さで枚数がわかる。一枚……足りない?
(いや、別に、どこかで使ったかも)
玄関に置いた消臭スプレーをなんとなく手に取る。
ノズルを軽く押すと、いつもより甘い香りが、わずかに鼻腔に残った。
(……気のせい、だよな)
苦笑いして、制服をハンガーにかける。
ベランダの外はもう夜の手前で、隣のビルの窓がパラパラ点いては消え、風が薄いカーテンを膝の高さで撫でていく。
(……明日からは、勉強に集中しよう)
期末前一週間、朝からしっかり勉強する。優先度を切り替えるだけだ。
コップに水を注ぎ、口をつける。
少し、ぬるい。テーブルに置いたとき、ガラスが月光をかすかに拾って、白い筋が底に沈んだ。
電気を落とす。
薄闇に目が慣れるまでの数秒、ファンの回転が影になって天井を滑る。タオルケットを引き上げ、仰向けに息を整える。
(……そうだ。僕はちゃんと前に進んでる)
まぶたを閉じる。
僕は、そのまま眠りについた。