朝の空気は澄んでいて、窓の隙間から差し込む光が机の上の教科書を照らしていた。
静かで、穏やかな――それが「いつも通りの朝」だと思っていた。
リンカーの通知音が鳴るまでは。
液晶画面に浮かぶ名前を見て、僕は目を瞬かせた。
篠原先輩。
(え? 連絡先、交換してたっけ……?)
頭の中を探っても覚えがない。
ラボ経由か、それとも誰かから聞いたのか?
そんな疑問を抱えながらメッセージを開く。
〈9時に、誰にも見つからないように、1人でシミュレーションルームに来い〉
それだけ。
たった一文だけの、無機質なメッセージ。
今は8時半。
あと30分で9時。ラボまではギリギリ。
(……“誰にも見つからないように”って、どういう意味だ?)
胸の奥がざらりとした違和感でざわつく。
けれど先輩の呼び出しを無視するわけにもいかない。
僕は身支度を整え、急いで部屋を出た。
――エレベーター前。
呼び出しボタンを押すと、上から降りてくる数字が静かに減っていく。
10、9、8――
そして、扉が開いた瞬間、冷気のような空気が肌を撫でた。
中にいたのは、黒い服の紫乃先輩だった。
黒といっても制服ではない。
まるで喪服のような、光を吸い込む生地のワンピース。
白い肌が、暗闇の中でひどく浮き上がって見えた。
「お、おはよう」
声が少し震えていた。
(偶然……だよな?)
「おはようございます、紫乃先輩。どこか行くんですか?」
できるだけ自然に声をかけながら、僕もエレベーターに乗り込む。
「うん……。はくやは?」
視線が、ゆっくりとこちらに流れる。
瞳は赤みがかって、どこか熱を帯びていた。
(やばい、妙な空気だ)
僕はとっさに嘘を口にした。
「礼人、そ、そう!クラスメイトと勉強しに行くんです」
「……勉強。がんばってね」
紫乃先輩はうつむき、かすれた声で言う。
そして小さく唇が動いた。
何かを呟いたようだったが、聞き取れない。
ただ、その声の残滓が、冷たい空気の中で微かに震えていた。
「急いでたから、他の女の子のとこ行くと思ったけど……勘違い、かな?」
エレベーターが静かに止まり、扉が開く。
紫乃先輩は僕と一緒に外に出ず、そのまま手を振って見送ってくれた。
「……じゃあ、またね」
どこか含みのある声だった。
僕は一礼して、そのままラボとは反対方向に足を向ける。
(……大丈夫だよな)
僕は一礼して外に出る。
自分に言い聞かせるように、遠回りの道を選んだ。
視線を感じる気がして、何度も後ろを振り返ったが――誰もいない。
蝉の声が遠くで鳴いているだけだ。
――9時、ぎりぎりにラボへ到着。
セキュリティゲートを通り抜け、人気のない廊下を進む。
足音がコツコツと響き、反響が妙に大きく聞こえる。
薄暗いシミュレーションルームの扉を開けると、篠原先輩が一人立っていた。
「篠原先輩、おはようございます」
返事はなく、代わりにリンカーが鳴る。
〈呼び出して悪かったな。誰にも会ってないな?〉
(……いや、直接話せよ)
心の中でツッコミを入れながら答える。
「はい。エレベーターで紫乃先輩に会ったくらいですけど」
その瞬間、篠原先輩の顔が強ばった。
「くそっ……最悪だ」
低い声で吐き捨てると、手元のデバイスを強く叩いた。
「いいか、白銀。これ一度しか言わねぇから、よく聞け」
篠原先輩の声が震えていた。
「紫乃は……お前をストーキングしてる。オレも……巻き込まれてるんだ」
「……は?」
意味が、頭に入ってこない。
「オレ、趣味でハッキングしてて……紫乃に頼まれた。お前のリンカーをハッキングしろって」
「……え?」
「弱みを握られてる。……悪かった」
「え?」
沈黙。
ラボの空気が重く沈む。
3人の呼吸音と、機械の低い唸りだけが響く。
「……え? 三人?」
僕はゆっくりと振り返る。
扉の陰、わずかな隙間から顔だけが覗いていた。
白い肌。黒い服。
そして、笑っていた。
口元だけが、にいっと。
「はくやくん、学園に行ったんじゃなかったの?」
心臓が跳ねた。
紫乃先輩。
さっき別れたはずの彼女が、そこに立っていた。
黒いドレスの裾が、ゆらりと揺れる。
その足元には、かすかに“ぴと”という音が残っていた。
「し、紫乃先輩……」
篠原先輩の顔が、見る間に青ざめていく。
紫乃先輩は、静かに一歩、二歩と前に出た。
「二人とも……どうしたの? 怖い顔、して……」
掠れた声が、部屋の壁に湿ったように染み込んでいく。
「し、紫乃先輩こそ……」
僕は何とか言葉を返すが、喉が乾いてうまく出ない。
「篠原くんに用事があって」
紫乃先輩は一瞬だけ笑みを作り――
「浮気じゃないからね、はくや」
空気が、凍った。
「紫乃……悪いな。白銀には全部言った」
篠原先輩が震える声で言う。
「……はぁ?」
紫乃先輩の声が低くなる。
頬の血の気が、一瞬で引いたかと思えば、次には真っ赤に染まる。
瞳の奥がぎらりと光った。
「篠原くん、ハッキングのこ――」
その瞬間、照明がバチッと弾ける音を立てて落ちた。
闇。
空気の温度が、一気に下がる。
*
その瞬間、バチンッ――と乾いた音を立てて、照明が一斉に点いた。
目が眩むほどの白光。
真っ暗闇から一転して、世界が鮮やかに蘇る。
「――そこまでだ! 話は聞かせてもらったぜッ! 思春期共ォォォ!!!」
怒鳴り声とともに、壇上に仁王立ちする影。
そこにいたのは、白衣を羽織った藤堂室長。
その背後では、キャビンアテンダントのコスプレをしたアストレアさんが、まるで舞台照明のようにスポットライトを操作している。
(な、なんだ……朝からホラーだったのに、今度はギャグ……? いや、頭が追いつかない)
篠原先輩は固まったまま、口をパクパクさせている。
紫乃先輩も無表情のまま、一歩後ろに下がった。
緊張の糸が一瞬で切れる。
「この場は俺が預かるぜ!」と室長が指をビシッと突き出す。
「ラボ内の不祥事は、揉み消さないと不味いからですよね、創一?」
と、アストレアさんが爽やかな笑顔で返す。
しかしその口調の裏には、妙に怖い“現場監督の圧”があった。
「ち、違うぞ! アストレア、あくまで教育的指導だ!」
「そうですね、“教育”ですよね?」
「断じて、隠蔽ではない!!」
篠原先輩も紫乃先輩も、ぽかんと口を開けて見守るしかない。
「お前ら、外で“ハッキング”とか“ストーキング”とか口にするなよ!? 絶対だぞ! マジで俺が怒られるからな!!」
藤堂室長はいつになく真剣な目をしていた。
「ばれたらお前らだけじゃすまないんだぞ! 俺とアストレアの愛の巣が終わる!」
(いや……どっちかというと僕の方が終わるけど!?)
僕は半ば呆れながら、口を挟む。
「えっと、室長、あの……僕、被害者側なんですけど」
「そうだな。被害者は白銀!」
「はい、たぶん」
「加害者は篠原と紫乃だな?」
「……はい」と篠原先輩が小さく頷く。
紫乃先輩は、頬を赤く染めてうつむいたまま黙り込んでいた。
「よし!」と室長が両手を打つ。
「全員、俺のラボ所属だ。ならば解決法は一つしかない!」
「……まさか」
「そうだ! バトルで決める!」
「はああ!?」
アストレアさんは優雅にうなずく。
「公正な勝負ですね。合理的です」
「ちょっと!僕はまだ二人に勝てたことないんですけど!」
室長は話を聞かない。
「いいか! 白銀が勝てば、篠原と紫乃は白銀の命令に従う!」
室長が高らかに宣言する。
「逆に篠原と紫乃が勝てば――白銀、すまんが許してやれ!」
「いやいやいやいや! どういう理屈ですか!?」
思わず叫ぶ僕。
「僕、被害者ですよ!? しかも今“許す”っていうの、なんかおかしくないですか?まだ何されたのかもわかってないんですけど」
「勝ちゃいいんだよ、勝ちゃ!」
室長が親指を立てて笑う。
「なぁ、アストレア!」
そんな中、紫乃先輩が顔を上げ、静かに口を開いた。
「……うちが勝ったら、白銀くんは……うちの言うことを聞くの?」
(……いやな予感しかしない)
「反省してないな、紫乃?」と室長が眉をひそめる。
「まあいいか。じゃあそれで」
「あっけらかんに決めた?」
アストレアさんが笑みを浮かべ、すっと横に立つ。
「白銀くん、安心してください。命までは取られません。せいぜい貞操くらいです」
「全然安心できませんよ! 今“せいぜい”って言いましたよね」
「大丈夫です。統計的に、初めてが年上のお姉さんなんていいじゃないですか」
「いやそんな慰めいらないんですよ!?」
その瞬間、紫乃先輩が小さく呟いた。
「……はくやの、はじめて……」
顔を真っ赤にして、両手で頬を押さえている。
「……きゃ」
「やめてください先輩! 全然反省してないな!」
「僕、彼女がいるんですよ!」と慌てて叫ぶ。
「……グフッ」
紫乃先輩が小さく口を押さえたかと思うと、口の端から赤いもの、吐血――いや、たぶん比喩的なやつ。
「精神攻撃とは……やるな、白銀」
ニヤリと笑う藤堂室長。
(……ああ、やっぱりこのラボ、まともな人間いないんだ……)
そしてその瞬間、アストレアさんが白い手を鳴らした。
乾いた音が静寂を切り裂き、ラボ全体に電子的な反響が広がる。
《シミュレーションバトルモード、起動》
「さあ、青春の裁判、開廷だ!」
藤堂室長が片手を天に突き上げ、まるで戦隊モノの司令官のように叫んだ。
白衣の裾がひらりと舞い、背後ではアストレアさんがまるでステージ照明のようにライトアップを担当している。
彼女のキャビンアテンダント風の制服が、青白い照明の中でやけに鮮やかに輝いて見えた。
僕はただ、静かに頭を抱えた。
*
「よーし! じゃあ《バトル・オブ・ピュアハート》と洒落込むか!」
室長が拳を掲げると、アストレアさんがすぐに反応し、ラボの照明を劇場風に切り替えた。
赤いランプが床に灯り、天井のライトが回転しながら色を変えていく。
(……どこにピュアがあったんだよ)
「ルールは簡単だ!」
藤堂室長が演説のように言い放つ。
「白銀チーム対、紫乃・篠原チーム! 使用機体は自由! 勝った側が、負けた側に“言うことをひとつだけ聞かせる”!」
「僕ひとりなんですけど」
冷静にツッコむ。だが、室長の耳には届かない。
「……あー、そうだったな」室長が頭をかく。
「どうするアストレア? 2連戦にするか?」
「いえ、手っ取り早く補充すればいいだけです」
アストレアさんは静かに通信端末を操作し、マイクに手を添えた。
『御門、御門 隼人君。至急シミュレーションルームに来てください』
「よし白銀! 準備しとけ! 戦いの舞台は整った!」
「御門先輩とチームで良いんですか?」
「ちょうどいいだろ、さすがにまだお前じゃあの二人に勝てんだろ」とははっと笑う。
扉の向こうから、重い足音が近づいてくる。
金属音を残して、分厚い扉が開いた。
そこに現れたのは、整った金髪と鋭い眼差し――
学院最強クラスの実力者、御門隼人先輩だった。
運動着姿のまま、落ち着いた歩調で入室する。
「失礼します。訓練ですか?」
その落ち着いた声に、一瞬で場の空気が引き締まった。
室長が親指を立てて言う。
「おう、来たか! お前、白銀とチームだ!」
「分かりました、白銀来い」
御門先輩は何の疑問もなく頷き、コンソールの前に立つ。
(……いや、話が早すぎません? 状況の説明とか無いんですか!?)
対する篠原先輩は頭を押さえ、紫乃先輩は静かに一歩前へ出た。
その表情は、いつもの“夢見がちな先輩”ではない。
瞳の奥が熱を帯び、まるで恋心をそのまま戦意に変えたように輝いていた。
「うちが勝ったら……はくやくん、うちの言うこと、なんでも聞いてくれるんだよね?」
「吹っ切れてるな!? 紫乃先輩!」
「勝つためには、手段を選ばない」
「いやいや、それ恋愛ものの台詞じゃないですから!」
藤堂室長が腕を組みながら、どこか満足げに頷く。
「いいぞ、その熱量だ。青春とは、すなわち狂気と紙一重!」
「まけないよ?たとえ、御門先輩が立ちはだかろうとも2人の運命は引き裂かれないっ!!」
バトル前なのに魔法少女が出てきていて、完全にヒロイックな表情を浮かべている。
(あなたストーカーですよね?)
藤堂室長は顎をさすりながら満足げに頷く。
「ま、イケメン代ってことだな。ざまぁみろ」
(私念はいってんじゃねぇか!)
アストレアさんが涼しい声で続ける。
「では――ルールを最終確認します」
ホログラムに青い文字が浮かび上がる。
《バトル・オブ・ピュアハート》ルール
1. 使用機体は自由。
2. 勝敗はEID戦闘システムによる自動判定。
3. 勝者は敗者へ“命令権”を一度だけ行使できる。
「……もう引けないってことですよね」
「ま、なんとかなるだろ」室長が肩を叩く。
「勝てば青春、負ければ純愛。お前ら若いんだから、命がけでやれ!」
「命ってよりも貞操がかかってるんですけど」
紫乃先輩は唇を吊り上げ、にやりと笑った。
「……勝つよ、篠原くん」
「……く、なんで、オレまで……」
篠原先輩の顔には明らかな怯えが浮かんでいるが、紫乃先輩の勢いに押されて立ち位置につく。
御門先輩は冷静にハクロのシステムを起動させた。
淡い光が床から機体を包み込み、仮想空間へのリンクが始まる。
「準備は完了した。白夜、集中しろ」
「は、はい!」
紫乃先輩がその言葉に小さく反応し、視線を鋭く細めた。
「……ふふ、はくやと同じチームかぁ、いいなぁ。負けないけど」
その一言で、また室長が両手を広げて叫ぶ。
「よっしゃ開戦ッ! 愛と青春の戦場へ、いざ!!」
アストレアさんが一歩前へ出る。
銀の髪が光を反射し、その姿はまるで天上の審判のようだった。
「各員、位置についてください。――シミュレーション、リンク開始。」
床が震え、視界が一瞬で白に染まる。
重力の感覚が消え、代わりに無音の浮遊感。
次の瞬間、僕らの機体は“戦場”に立っていた。
見渡す限りの都市跡――崩れたビル、吹き荒れる砂塵。
それは、現実とは違う、けれどゴーグル越しに見えるそれは確かに手の届く“仮想の世界”だった。
「白銀。俺が後衛を受け持つ。お前は前を頼む」
御門先輩の声が通信に響く。
「了解です!」
紫乃先輩のルミナメイジが背中のリボンを展開し、虹色の軌跡を描いて跳躍する。
その口元は、どこか笑っていた。
「――はくや、逃げられないよ」
藤堂室長の声が響く。
「戦闘、開始ィィィ!!!」