するとですね、似た設定の別作品になってしまい、現在迷走中です。
エタったらごめん。
「この土日は勘弁しといてやる!月曜日から荷物持ってラボの宿舎に入れよ、問題児達!」
藤堂室長が豪快に言い放つと、篠原先輩と紫乃先輩の肩が同時にピクリと揺れた。
篠原先輩は苦笑しながら「うっす……」と短く返し、紫乃先輩は俯いたままこくこくと頷いた。
けれど――どこかその顔は、朝よりも晴れやかだった。
罪悪感から少し解放されたのかもしれない。
二人の頬にはほんのり血色が戻っていて、まるで何かをやり切った後のような安堵が漂っていた。
時計を見ると、まだ昼前。
ホログラムの戦闘が終わったばかりなのに、もう何時間も経ったような気がする。
(……さて、午後はちゃんと試験勉強しないとな)
気を抜けば忘れそうになるけど、期末テストは来週だ。
そんなことを考えていると――
「白銀!」
不意に藤堂室長の声が響く。
僕は反射的に背筋を伸ばした。
「お前の装備、さっきので良さそうだったな! それ軸で考えるけど良いよな?!」
「軸って……もしかして、新機体のですか?!」
思わず食いついてしまった。
「当たり前だろ、フレームから設計、構築までしてやるよ。最低300万BPは用意しとけよ」
「え?!BPかかるんですか?!」
「当たり前だろうが!」
室長はニヤリと笑う。
「フレーム設計から構築まで、俺が直々にやってやる。……最低でも三百万BPは用意しとけよ」
「えっ、BPかかるんですか!?」
「当たり前だ! ラボは慈善事業じゃねぇ!それにお前の機体は千成重工と共同開発する部分もあるからな、300万でも安いくらいだぞ」
高笑いを上げながら、室長は資料ホログラムを叩く。
そこには《開発費見積り》の文字と、ずらりと並んだ“パーツ代・設計費・コア調整費”の数字。どれもゼロの桁が多すぎる。
「三百万って、そんな大金どこから……!」
僕の焦りを見計らったように、アストレアさんが一歩前に出る。
「では、私からご説明いたします!」
ババンッと効果音付きのテロップを自ら出しながら、眩しい笑顔で語り始めた。
「夏休み期間中、学内では大会が開催されません。したがって――」
ぱっとホログラムに“学外大会”と大書きされる。
「白銀君には、学外のエイドロンバトル大会に出場してもらいます!」
「えぇっ!? そんな簡単に言いますけど」
「大丈夫ですよ。公式大会では賞金を現金またはBPで選べます」
アストレアさんはウィンクしながら、くるりと指を回す。
「ただし、白銀君はまだ一年生、階級はノービス。賞金が百万円を超える大会には、通常学園が許可しません」
「……ダメじゃないですか」
「安心してくださいね!」
明るい声が重なる。
「その場合、アドバンスリーグ以上のオペレーターとチームを組めば出場可能なんです。
今なら――馬車う、ごほん、積極的に手伝ってくれる、アドバンスリーグ級が2人いまね?」
アストレアさんの視線が、左右にスッと流れる。
篠原先輩と紫乃先輩が、ピクリと反応する。
(今絶対、馬車馬って言おうとしただろ)
「良かったですね、白銀君!夏休みはタッグ戦かチーム戦で荒稼ぎですよ!」
にっこり笑って親指を立てるアストレアさん。
僕は恐る恐る二人の方を振り返る。
「……えっと、二人とも、それでいいんですか?」
篠原先輩は肩をすくめてため息をつく。
「まぁ、慰謝料代わりってことで……」
一方の紫乃先輩は――犬耳が見えそうなほど嬉しそうな顔で、両手を胸の前に組み、
「わん! わん!」
と、満面の笑みで返した。
(紫乃先輩、犬になったら明るくなってませんか)
「決まりですね!」
アストレアさんは満足げに頷き、タブレットを操作し始める。
「大会のエントリーと登録は私の方で進めておきます」
その時、藤堂室長が背中越しに叫んだ。
「お前らも今日はもう帰っていいぞー!」
その声が言い終わる前に、篠原先輩の姿が消えた。
(……早っ!?)
多分、聞き終わる前にラボを出てた。
「じゃあ、失礼します」
僕は軽く頭を下げ、出口に向かう。
ぴと、ぴと、と後ろから足音。
振り返ると――やっぱり紫乃先輩がついてきていた。
無言で、少し距離を保ちながら歩いてくるその姿は、なんだか少し微笑ましい。
「紫乃先輩、帰りましょうか」
そう声をかけると、彼女は一瞬だけ迷ったように視線を落とし、
それから小さく呟いた。
「……ありがと、はくや。うち、ちゃんと反省する。……わん」
思わず笑いそうになったけど、こらえる。
「はい、お願いしますね。……わん、も。」
「……ふふっ…わん」
紫乃先輩が小さく笑った。
ラボの自動ドアが開き、外の光が差し込む。
夏の始まりを思わせる白い光。
汗ばんだ空気と、街のざわめき。
戦いの余韻がまだ胸の奥に残っているのに、
その光の下では、すべてが少しだけ優しく見えた。
僕と紫乃先輩は並んで歩き出す。
そしてラボの扉が閉まる音が、静かに背後に響いた。
*
マンションへ向かう帰り道。
初夏の陽射しがアスファルトをじんわりと熱していて、蝉の声が遠くでかすかに鳴いていた。
まだ昼前だというのに、空気の奥にはすでに夏の気配が漂っている。
「……くぅぅん……」
背後から、小さな鳴き声。
振り返らなくてもわかる。紫乃先輩だ。
「どうかしましたか?」
僕が声をかけると、紫乃先輩は一歩遅れて足を止め、両手の指先をもじもじと絡めた。
風に揺れる黒髪の隙間から、赤くなった耳がのぞく。
「お……おなか、すいた……わん」
か細い声。
頬をほんのり染めながら、少し唇を尖らせて言うその姿は――完全に小動物だった。
(……この人、命令ちゃんと守ってえらいな)
「なら、ちょっと何か買っていきますか。そろそろお昼ですし」
そう言うと、紫乃先輩はぱっと顔を上げて、
「わんっ!」
今度は元気よく返事をした。
(喋るより、“わん”のほうが楽そうだな……)
購買部の冷房が肌に心地よい。
棚には学園オリジナルの軽食やパック総菜が並び、昼時の匂いが空腹を刺激する。
僕は手慣れた動作で弁当とお茶を手に取り、晩御飯用に少し食材を選ぶ。
だがその横で、紫乃先輩はというと――
「これと……これと……これも……わん」
ゼリー、ヨーグルト、プリン、スムージー。
ほぼ流動食のラインナップで、カゴはあっという間に満杯になった。
「……それ、食事というより病人食では?」
僕が指摘すると、紫乃先輩はピタリと動きを止めて振り返った。
冷房の風に白い頬が照らされ、ほんのり光を反射している。
「だ、大丈夫……わん。いつも……わん」
声が震えている。
(そんな食事だからこんなにガリガリなんだよな、あー、こういうのは放っておけないんだけど)
レジを済ませて購買棟を出ると、昼の陽射しが一気に照りつけた。
石畳の道が白く光り、木陰の合間を風が抜ける。
「……っわん」
荷物を抱える紫乃先輩の腕は、やっぱり細かった。
陽射しの中で透けるような白さが際立ち、腕の内側に浮かぶ青い血管まで見えてしまいそうだ。
ため息をつきながら、僕は彼女の手元の袋をそっと取った。
「紫乃先輩、荷物貸してください」
「えっ……あっ、でも……はくや……お、おもい、から」
「重たそうだから、僕が持ちます。これくらいなら大丈夫です。男なんで」
自然に笑うと、紫乃先輩は一瞬だけぽかんとした表情を浮かべ――
やがて、顔を真っ赤にして俯いた。
「……くぅぅん」
さっきよりも小さく、柔らかい鳴き声。
潤んだ瞳が、まっすぐこちらを見上げていた。
(……いや、そんなつもりじゃないんだけど)
「帰りますよ、紫乃先輩」
僕が歩き出すと、彼女は一拍遅れて足を動かした。
――ぱたぱた、と軽い足音。
「わん、わん」
律儀に返事をして、僕の隣に並ぶ。
歩幅を合わせてちょこちょこと歩くその姿は、まるで散歩中の犬のようだった。
(これ……どう見ても散歩だよな)
マンションまで並んで歩く僕たちは、どこか不思議なくらい静かだった。
「……はくや、優しい、わん」
不意に紫乃先輩が言った。
振り返ると、彼女は照れくさそうに微笑んでいた。
「そうですか? 普通ですよ」
「ううん……うち、あんなことしたのに……。……わん」
彼女の声が風に消える。
罪悪感と、それでも伝えたい気持ちが混ざったような声音。
「まぁ、僕は何されたか、あんまりわかってないっていうのもありますけどね」
苦笑して返すと、紫乃先輩は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。
「……、わん」
短いけれど、確かに嬉しそうな返事だった。
しばらく沈黙が続き、蝉の声が遠くで響く。
「なんというか……こう好きって伝えられて、悪い気しないじゃないですか」
僕がそう言うと、紫乃先輩の目が驚いたように見開かれた。
「うち、もっと……好きになっちゃったかもしれないわん」
頬を真っ赤に染め、恥ずかしそうに笑う。
陽射しの反射で、その瞳が少し潤んで見えた。
僕は頭をかきながら、困ったように苦笑する。
「……さっきも言いましたけど、彼女がいるんで付き合いませんよ」
「わん、わかってる。す、すきでいるだけだわん」
紫乃先輩は、それでも笑った。
まるで、魔法少女がラストシーンで光に包まれながら笑うみたいに――。
(……素直な人だけなんだよな)
*
自動ドアが開くと、昼の熱気が一気に引いて、涼しい空気が足元から流れ込んできた。
マンションのエントランスには静かな冷房の音が響き、磨かれた大理石の床が外の光を反射して淡く輝いている。
硝子越しの外には、まだ夏の名残を残した空。遠くで蝉が、最後の一声を上げていた。
僕と紫乃先輩は、並んでエレベーターへ向かう。
足音がコツ、コツと響くたび、どこか非現実的な静けさが漂った。
扉が開き、僕たちは中へ乗り込む。
パネルの光に照らされながら、僕は自分の階層の「7」と、紫乃先輩の階層の「10」を押す。
一瞬、無音。
エレベーターが動き出すと、微かな機械音だけが空気を震わせた。
紫乃先輩は、壁にもたれかかるように立ち、指先を胸の前で組んでいた。
下を向いたまま、少しの沈黙の後――ふっと顔を上げて、静かに口を開く。
「はくや……ありがと。
うち、ちゃんとした人間なるから……わん」
柔らかく笑うその顔には、無理に明るくしようとする影がなかった。
照明の光が髪を縁取って、ほんの少しだけ儚く見えた。
僕は一瞬、言葉を選びかけて――
結局、苦笑しながら言葉を返した。
「その“わん”がなくなる日、ちょっと寂しいかもしれませんね」
紫乃先輩は目を瞬かせ、驚いたように僕を見つめた。
それから、ほんの少しの間を置いて――
頬を赤く染めながら、小さく笑う。
「……そ、それまでは、いっぱい付き合ってね?」
「……え?」
聞き返すと、少し身を乗り出して、顔を近づけてきた。
「お散歩」
その一言に、思わず苦笑いがこぼれる。
「たまにならですね」
紫乃先輩は嬉しそうに頷いて、唇の端を上げた。
その笑顔は、どこか無防備で、でも確かに“前を向いた”笑顔だった。
「わん」
小さく、それでもしっかりと。
まるで約束の合図みたいに、紫乃先輩はそう言った。
エレベーターの電子音が短く鳴り、扉が静かに開いた。
7階のフロアには、午後の光が柔らかく差し込んでいた。白く磨かれた廊下の先まで、淡い陽の筋が伸びている。
「……また、ですね」
僕が言うと、紫乃先輩は少し驚いたように瞬きをしてから、微笑んだ。
その笑みは、どこか寂しげで、それでも温かかった。
「うん。また……わん」
軽く手を振りながら、彼女はエレベーターの奥で立ち止まる。
閉まりかける扉の間際、視界の隅に映ったのは――
満面の笑みと、もう一度「わん」と呟く唇の動きだった。
……ぴん、と扉が閉じる音。
その瞬間、僕は思い出した。
「あ、荷物……」
視線を落とすと、手元には紫乃先輩のビニール袋。
ゼリー、ヨーグルト、スムージー。「食事」と呼んでいたそれだ。
(……完全に忘れてたな)
僕はため息をつき、エレベーターのパネルに手を伸ばした。
パネルを押すと、ランプが静かに点灯する。
機械音とともに、エレベーターが上昇していくのを見送る。
ほんの十数秒の静寂。やがて再び電子音が鳴り、
今度は10階から――ゆっくりと下降を始めた。
(ほんと、いろんな意味で手のかかる先輩だ……)
思わず苦笑する。
軽やかな駆動音とともに、扉が開く。
中にいたのは――案の定、紫乃先輩だった。
うつむき気味で、頬を赤く染め、両手を前でそわそわと組んでいる。
制服の裾を指で摘みながら、目だけでこちらを伺うように見上げてきた。
「……忘れ物ですよ」
僕が袋を差し出すと、彼女は小さく息を呑んだ。
「……ぁ……ありがと、はくや……」
その声は囁くように小さくて、どこか申し訳なさそうで――
それでも、ほんの少し甘えているようにも聞こえた。
「……くぅぅん」
恥ずかしそうに顔を伏せながら、犬の鳴き声をまねる。
耳まで赤く染まった横顔が、なんだか可笑しくて、僕は笑ってしまう。
「……もう、鳴かなくていいですよ。これくらい、普通ですから」
「わ、わん……」
最後にもう一声だけ鳴いてから、
紫乃先輩は袋を受け取った。
その指先が僕の手に触れて、一瞬だけ静電気みたいに熱が走る。
「……ほんとに、優しいね」
彼女は小さく呟いて、目を逸らした。
僕はどう返せばいいかわからず、ただ軽く肩をすくめる。
「今度は忘れないでくださいね」
「……気をつける、わん」
紫乃先輩はそう言って、口元を緩めた。
その笑顔は、ラボで見た時よりもずっと自然で、柔らかかった。
エレベーターが再び閉じる。
ガラス越しに見える彼女の後ろ姿は、ほんの少し背筋が伸びていて――
少しずつ、本当に“前に進んでいる”ように見えた。
静かな電子音が遠ざかり、廊下に静寂が戻る。
僕は買い物袋の軽い音を鳴らしながら、自室へと歩き出した。
(……ほんと、いろんな意味で手のかかる先輩だ)
小さく笑いながら、僕は扉を開く。
もうすぐ、激動の夏休みが始まる。
そんな予感を感じながら。
僕の戦いはこれからだ。
プロローグ
神奈川県・逗子市。
夜明け前の総合病院に、ひとつの産声が響いた。
医療ユニットの照明が柔らかく灯る。
白い防護服を着た助産医たちが、小さな生命をそっと抱き上げた。
赤子の右手には、すでに一つの光――
“卵型の透明結晶”が握られている。
それは、人が生まれながらに宿す魂の証《ソウルコア》。
すべての人間は、生まれた瞬間に一基だけ自らのコアを持つ。
それは人の精神波長と結びつき、人格・記憶・感情を蓄積する“魂の記録体”でもあった。
助産医が光を当てると、虹のような屈折がわずかに走る。
まだ何の色も持たない――純粋な魂の形。
「綺麗ね。何色に染まるんだろう」
産台のそばで、女性が疲れた笑みを浮かべる。
白銀澪――ソウル技術庁外部ラボ所属、“空戦型開発チーム”の主任研究員。
魂のエネルギーを空に昇華させる、新時代の推進理論を研究する科学者だ。
彼女は濡れた髪をかき上げながら、我が子を見つめた。
その瞳は、機械よりも、空よりも、確かにこの小さな命を捉えていた。
「ようこそ、白夜……。
あなたの魂は、きっと空を越えるわ」
――白夜。
“夜を照らす白”という名。
父がそう名づけた。
名づけ親の彼――白銀蓮司は、民間エイドロン企業〈アトラス・メカニクス〉の営業主任。
家族の将来に夢を描き、技術と市場の橋渡し役として多忙を極めていた。
その胸の中で、赤子は泣きやみ、微かに笑った。
その笑みを見て、澪はそっと囁いた。
「この子のコアは、きっと素敵な色に……そうね、こんな朝日のように。」
窓の外。
新しい朝が差し込み、海の向こうには建設中の巨大なタワー群が見えた。
後に「エイドロン・キャンパス」と呼ばれることになる人工島。
魂が文明を動かす時代を象徴する、その未来都市の骨格が、うっすらと朝霧の中に浮かんでいた。
――そして、世界は静かに回り始めた。
ひとつの“透明な魂”が、この世界に生まれ落ちた瞬間から。
*
白夜3歳。
白銀家の居間には、穏やかな時間が流れていた。
夕暮れの光がリビングの壁を金色に染め、
電子端末の小さな駆動音と、子どもの笑い声が溶け合う。
澪はソファに腰をかけ、端末越しに研究データを確認していた。
背後では、父・蓮司が小さなプラモデルのようなエイドロン玩具を組み立て、
白夜は床に座り込んで、“機体ごっこ”に夢中になっていた。
「見て、パパ! 《ナイトアイ》発進っ!」
「おっ、いいぞ白夜。翼、かっこよくできたじゃないか!」
「ママのジェットパックつけたら、もっと速く飛べるんだ!」
その無邪気な声に、澪はふっと顔を上げて、笑った。
「そうね。でも本物のジェットパックは、まだ人間には早いのよ」
蓮司が、からかうように声を挟む。
「研究ばっかりじゃなくて、たまには一緒に飛んでやれよ、澪」
その一瞬、ふたりの視線が重なった。
澪は少しだけ眉を上げ、蓮司は照れ隠しのように笑う。
白夜はその空気の意味など分からず、
ただ「パパとママ、仲良しだなぁ」と思った。
白夜の掌には、あの日と同じ無色透明のソウルコアが握られていた。
まだ世界を知らない魂は、淡く白い光を帯びて、
まるでこの家庭の温度を映すように、ゆるやかに揺れていた。
澪は、その光に目を細めながら言った。
「ねえ白夜、その光があるかぎり、どんな高い空でも飛べるのよ」
「ほんとに?」
「ほんと。魂ってね、風よりも遠くへ行けるの。」
白夜は笑って、手の中の光を掲げた。
小さなコアの輝きが、部屋の空気を包み込む。
それは、何よりも温かい“家族の光”だった。
*
白夜6歳。
白銀家のダイニングには、静かな電子音だけが響いていた。
合成コンロの蒸気が上がり、皿を置く小さな音が鳴る。
それ以外のすべては、まるで時間が止まったように沈黙していた。
澪はまだ研究所の制服のまま、髪をひとつにまとめ、端末を片手に食卓についていた。
指先が画面を滑るたび、淡い光が頬を照らす。
隣の席では、父・蓮司がネクタイを緩め、無言のままホログラムニュースを眺めている。
光の投影には「エイドロン駆動事故」「試験中止」「安全審査再開」の文字が流れ、空気をさらに重くしていた。
食卓の中央には、白夜の大好物――ハンバーグ。
けれど、皿の上で立ち上る湯気だけが生きているようで、匂いさえ遠く感じた。
「……ねぇ、ママ。今日ね、学校で“ソウルコアの色”の話をしたんだよ」
白夜の声は、無音の部屋にやわらかく響いた。
「そう。何色になるって言われたの?」
澪は目を離さずに答える。
「うーん、先生は“白かな”って。だって、ママみたいに空を飛びたいから!」
一瞬だけ、澪の手が止まった。
画面の光が頬に映り、静かに瞬く。
やがて彼女は微笑んだ――けれどその笑みは、どこか遠かった。
「そう……頑張って。きっと飛べるわ」
父がため息を混ぜた声で口を挟む。
「また飛行の話か。まだ成功してないんだろ? 危険なんだから白夜を巻き込んでやるなよ」
澪はゆっくりと端末を閉じた。
その音は小さかったが、部屋全体の空気を震わせた。
「“危険”じゃないわ。これは未来のための研究よ。あなたが理解しようとしないだけ」
「理解してるさ。ただ……家庭を置き去りにしてまでやることか? おまえも母親なら、もっと家にいてやれよ」
白夜はスプーンを止めた。
言葉の意味は分からなかったが、胸の奥がひやりとした。
空気が重く、見えない線が家族を分けたように感じた。
小さな手の中、ソウルコアがわずかに震える。
透明な光が一瞬だけ灰色を帯び、すぐに淡く戻る。
それを、誰も気づかない。
「……もういいじゃない。せっかく帰ってこれたんだから」
澪はそう言って笑おうとしたが、唇が少しだけ震えた。
その疲れた笑みを見て、白夜はおずおずと口を開いた。
「ねぇ、明日……みんなで公園に行こうよ。ナイトアイで遊ぼ?」
蓮司は答えず、澪もわずかに視線を落とした。
ニュースのホログラムが再び音を立て、“エイドロン実験事故、ソウルコア喪失者数名”というテロップが流れる。
父の目が険しくなり、母の手が膝の上で強く握られた。
白夜の手の中のコアが、もう一度だけ揺らめいた。
その光はまだ透明だったけれど、
どこか遠く、冷たい風が吹き始めているような気がした。
――生まれたときから、ずっとこの光を見てきた。
けれど、最近は少しだけ曇って見える気がする。
母が昔言っていた言葉を思い出す。
「魂は、心の形を映す鏡よ。きれいに笑ってる人のコアは光るの」
白夜は、笑ってみようとした。
けれど胸の奥のどこかが冷たくて、うまく笑えなかった。
*
白夜7歳。
夜更け。雨が降っていた。
古い木造住宅の屋根を叩く雨音が、白夜の小さな寝室を満たす。
その奥で、押し殺した大人の声が響いていた。
「……また帰りが遅いのね」
「仕事だって言ってるだろ。おまえみたいに研究に籠ってるわけじゃないんだ」
母と父の声。
低く、荒く、時折止まりながら続く。
「わたし、知っているのよ。あなたが他の人と――」
「おまえが家庭を顧みないからだ。俺が悪いのか?」
胸の奥がざわざわして、どうしても眠れない。
「――」
「――!!」
乾いた音がした。
テーブルを叩く音か、手を払う音か。
白夜には分からなかった。
彼は布団の中で体を丸め、耳を塞いだ。
心臓の鼓動が早い。喉が苦しい。
それでも、外の雨よりも父の声の方が怖かった。
口論。
そのあと、硬い靴音。ドアが閉まる音。
外の雨よりも、その音の方が大きく響いた。
白夜は、布団の下から小さなソウルコアを取り出した。
手の中で、まだ透きとおる光が、弱々しく脈を打っている。
(どうして……泣きたくなるのかな。)
喉がつまって、うまく息ができない。
母の声が、どこか遠くで揺れていた。
「……白夜には、関係ないのに……」
母のかすれた声が聞こえた。
泣いている。その事実だけで、胸が締めつけられた。
手探りで枕元のソウルコアを掴む。
掌の中で、弱々しい光が震えている。
コアが淡く波打ち、白い光の奥に黒い筋が差した。
それを見た瞬間、息が詰まる。
怖くて、目を閉じた。
(なんで…しろくなって、しろくなってよ…)
けれど、闇の中でその光は消えず、ゆっくりと混ざり合っていった。
夜は長く、雨は止まなかった。
白夜の世界が、確かに変わる音だった。
*
翌朝。
雨は上がり、街はまぶしいほどに晴れ渡っていた。
食卓には、母だけがいた。
「おはよう、白夜。……今日は、お父さん、出張なの」
その声は穏やかだったが、笑顔の影に疲労と孤独が滲んでいた。
白夜は静かに頷き、食卓につく。
掌の上で、ソウルコアが淡く光った。
――白い中に、黒い影。
昨日までは白一色だったのに、今はマーブル模様を描いている。
「……ママ、これ、変になっちゃった」
澪は息をのんだ。
掌の上で揺れるマーブルの光。
それはただの色変化ではない。心の揺らぎが形を成した証。
“白と黒の二色の魂”として形を定めていく。
光が朝日に照らされ、ゆっくりと白と黒を溶かし合う。
母は唇をかみ、そして小さく笑った。
その瞬間、母は理解した。
この子の中に、矛盾と痛みの共鳴が刻まれてしまったことを。
それでも、澪は優しく笑った。
「大丈夫。……それは、あなたの心がちゃんと成長している証よ」
白夜は頷いたけれど、意味は分からなかった。
ただ、心の奥が少し痛くて――
その痛みが、初めて「世界の冷たさ」を教えてくれた気がした。
*
その日を境に、父は家に帰って来なかった。
――夜中、寝室のドアがわずかに開いていた。
研究室の明かりが漏れ、そこに母がいた。
机に突っ伏しながら、静かに泣いていた。
「……どうして、わかってくれなかったの……」
白夜は、どうしていいのか分からなかった。
でも、泣いている母を見ているうちに、胸の奥で何かが熱くなった。
(……泣かないで、ママ。)
(僕が、お父さんの分まで……)
気づけば、彼は両手で自分のコアを握りしめていた。
マーブルの光が、ゆっくりと脈を打つ。
その中心には、白と黒が絡み合いながら、かすかな銀色の閃光が走った。
白夜は、その光をまっすぐ見つめた。
涙を拭いて、ひとりごとのように呟く。
その瞬間、幼い胸の奥で何かが決まった。
「大丈夫だよ、ママ。
おれが……ママを守る。
王子様みたいに、カッコよく。」
その言葉を聞いたわけでもないのに、母は小さく顔を上げ、
誰もいない部屋の空気が、ほんの少しだけやわらいだ。
白夜は、胸の中で静かに誓う。
――おれは、もう泣かない。
誰も泣かせない。
おれがママを照らしてみせる。
けれど、白夜はあの夜を忘れない。
泣きながら見た、あのマーブルの光。
それは“壊れた家族のかけら”であり、
同時に、“自分だけの心”が生まれた瞬間でもあった。
幼い胸の奥で、何かが確かに形を成した。
白夜は掌のマーブルコアを見つめた。
その光は夜の闇を淡く照らし、
やがて彼の中でひとつの仮面を作り始めた。
それは、世界に立ち向かうための最初の鎧――“王子の仮面”。
こうして、少年は初めて、自分の魂の色を知ったのだった。
*