その日、ブルックリンの空は柔らかく霞んでいた。小さな公園。桜のように咲いた名も知らぬ白い花が、冷たい風にさらわれて舞っていた。
あのとき、まだ4歳だった私の世界は、とても狭くて、とてもきらきらと輝いていた。
母の手を離れて、ひとりブランコに乗っていた。下ろしたてのレースのワンピースが風になびいて、けれどそれは、誰かの嫉妬を引くには十分だったらしい。
「なあ、お前、ふりふりのワンピースなんか着て、かわいくないぞ!」
「きゃっ」
ぐいと腕を引かれ、私は地面に倒れ込んだ。砂利が膝に刺ささって、じわじわと痛むのにつれ、目尻に大粒の雫がたまる。
何も悪いことはしていない。ただそこにいただけなのに。
泣き出しそうになったその瞬間ーー。
「やめるんだ!」
かすれた声が、背後から響いた。
振り返ると、細い身体を震わせながら、ぼろぼろのシャツを着た少年が立っていた。青白い顔に、泥のついた膝。私よりもずっと弱そうなその子が、震えながら、けれど確かに私の前に立ちはだかっていた。
「彼女をいじめるな!」
拳を握りしめ、唇を噛み、必死で守ろうとしたその姿に、私は息を呑んだ。
彼の名前は、スティーブ・ロジャース。
体は小さくて、病弱で、だけど誰よりも強い人。
この瞬間、私の世界に新しい色が加わった。
***
ーーそれから何年も経って。
「スティーブ!」
小さな背中に声をかけると、彼はきょろきょろとあたりを見渡した。
彼の背は昔よりはいくらか伸びたものの、でもまだ痩せていて、声も、仕草も、どこかぎこちない。
やっと彼を見つけて声をあげたはいいものの、人混みの中だから私がどこから呼びかけたのか分からないみたいだ。「ちょっとごめんなさい!」慌てて人混みをかき分けていると、ふと手首をぎゅっと掴まれた。スティーブかも、そう期待を込めて顔をあげるが、そこにいるのはあの優しい彼よりも図体の大きい男だ。
もう、うんざり! そんな気持ちを込めてむっと顔を顰めるのに、彼は何が嬉しいのか頬を綻ばせた。
「キャロン! 俺に会いに来てくれたのかい」
「そんなわけないでしょう!図々しい人ね」
「今日も強気だなぁ!まぁ、そういうところがかわいいんだけど、さ!」
「きゃあっ!」
するりとお尻を撫でられ、そのまま腰を引き寄せられる。つけすぎたチャネルの香水が鼻腔を刺激して、思わずくしゃっと顔を歪める。
「ちょっと!」
「いいじゃねぇか、キャロンちゃん。なぁ、今夜は俺とーーウッ!?」
「彼女を離せ!」
突然彼が呻き声をあげて、私の腰に巻いた手を力が緩んだ。その隙を狙うようにそっと反対方向へと引き寄せられる。
「スティーブ!来てくれたのね」
彼だ。大好きな彼の登場に思わず頬が緩む。彼は背中に私を隠すとーー私のほうが背が高いので隠れ切ってはいないがそれは問題ではなくーーきっと男を睨みあげた。
「ッロジャース、てめぇ……!キャロンの幼馴染だからって調子乗ってるみたいだなぁ……?」
「彼女が幼馴染かどうかは関係ない! 彼女が嫌がってるから止めた、それだけだ!」
スティーブは喧嘩には強くない。きっとこの目の前の男と喧嘩したら、十秒でボコボコにやり返されてしまうだろう。それなのに、また私を守ってくれる。勝てなくても、悪いと思ったことには何度でも挑んで、諦めない。四歳の時から、ずっと彼は変わっていない。
スティーブのシャツをきゅっと掴む。私が不安がっていると思ったのか、スティーブは私を落ち着かせようと「大丈夫だ」と言って私を守るように手を後ろに引いた。こんな状況なのに彼の一つ一つの仕草に胸が高鳴って、つい、うれしい。なんて考えてしまった。
いけない。私のせいで彼がぼろぼろになるのはもう御免だ。覚悟を決めると、私は役に立たない拳の代わりに声を張り上げた。
「ジェームズ、やめて! スティーブは関係ないでしょ!」
「あぁ、キャロン! 幼馴染に情が湧くのは分かるが、そいつといても何にもならないぞ? 俺といれば苦しい思いはさせない。この、ジェームズ軍曹とな」
「決まったの?」
思わず聞き返すと、彼は得意げに口角を上げた。
「あぁ!107連隊さ。だからキャロン、俺と一緒になろう!こんなもやし男じゃなくてーーウッ!!?」
「よく喋るゴリラだな」
ゴッ!! ジェームズの顔面に拳が入り、鈍い音がする。痛そう、と思わず私まで顔を顰めてしまった。 顔面に大玉を食らった彼は情けなくそのままバタンと後ろに倒れる。
「バッキー!」
こんなことできるの、私は一人しか知らない。振り返るとやっぱりあった彼の姿に、張り詰めていた空気が一気にほぐれて彼に飛びつく。
「キャロン、お前は相変わらずモテモテだな」
バッキー・バーンズ。彼もまた私の幼馴染だ。彼は私に余分なひと言を溢しながらも、スティーブと拳を交わす。スティーブは何か言いたげにしていたがーーたいがい助けてもらわなくても構わなかったとかそんなところだろうがーー今は私に発言権を譲ってくれるらしい。
「あなたに言われたくないわよ!ねぇ、スティーブ?」
「あぁ、まったくだ。今日はデートじゃなかったのか?」
「デートに行く途中でお前らが騒いでたんだろ。全く、デートに誘ってくれた彼女にも感謝しないとな」
「一人でもやれた」
言うか言わまいか迷っていたようにみえたが、結局言うことにしたらしい。自分の予想が当たったのでつい笑ってしまいそうになるのを抑えようとしたが、バッキーまで同じような反応をしたから、スティーブは怪訝そうに顔を顰めた。バッキーはそうかもしれないが、私までスティーブを馬鹿にしていると思われるのは勘弁だ。「違うの」と咄嗟に弁解する。
「私……スティーブが来てくれて嬉しかった。本当よ。ありがとう」
彼の両手を集めてひとまとめに包みこむ。ぎゅっと握りしめて彼を見つめると、彼は少し目を見開いて、目を逸らした。
「大したことじゃない……」
「大したことだわ。私……スティーブのそういうところ好きよ」
好き、だなんて大胆すぎただろうか。けれどいつもそれらしいことを言っても何も起こらないのだから、このくらい大胆になったっていいはずだ。
彼と目が合わせられなくて、でもどんな表情をしているのか気になって、ちらり、と目をやると、目を泳がせていた彼と視線がぶつかった。緊張してくれているのが嬉しくて、ふっと目を細めると、スティーブはまた慌てて目を逸らした。
「えっと、……ありがとう」
「う、うん」
何を話したらいいのか、緊張して頭が回らない。ほんの少し、気まずい時間が流れて、助けを求めるようにバッキーに視線を送る。何か会話を続かせてよ!そんな思いで見ているのに、彼はただ肩をすくめる。こんなときに役に立たない男である。
「ーーそれで、なんだった?」
「へ?」
まるで会話の続きのようなスティーブの質問に、思わず頓狂な声が出た。目を丸くして小首を傾げると、彼は言葉を詰まらせながらも、「その、さっき、呼んだだろう?ぼくの名前」と付け足してくれたので、ようやく自分の本来の目的を思い出したのである。
「そうだった!……あっ、えっと」
今度はスティーブが首を傾げる番だ。自分でもおかしなことをしている自覚はある。でも、だって、まだ準備ができてないんだもの。彼を映画に誘う、心の準備が!
スティーブにバレないように、バッキーが肘でこづいてくる。分かってる、分かってる!セリフはバッキーに事前相談済みだ。おかしなはずがない。あとは言うだけ、そうだ、言うだけだ……よし。私は覚悟を決めて小さく息を吸う。
「ぇ、……え、映画!」
「映画?」
「そ、そう。映画、見に行かない?パパがチケットくれたの……」
「へぇ、いいね。どんなの?」
「あの、カートゥーンの……最近、よく話題になってるやつ……ねっ、いいでしょう?見に行きましょう?……三人で!」
「え」
最悪最悪最悪! スティーブが明らかに勘違いしてたから、ついバッキーに腕を回して巻き込んでしまった! バッキーから、計画と違うぞ、という痛〜い視線を感じる。わかってる、そんなことは。自分が一番分かってる……!
「す、スティーブ、明日はどう?あ!ダメなら明後日でも!明々後日でもいいわ……!」
「ぼくはいつでも」
「二人ともすまない、デートの予定が入ってるんだ」
バッキー!! 今日ほどにあなたがいてくれてよかったと思った日はない!目を輝かせる私とは対照に、スティーブは残念そうに、且つ怪訝そうに「明日も明後日も明々後日も?」と聞く。「明日も明後日も明々後日も。モテる男は大変なんだ」
スティーブは「そうかい」と呆れたように肩をすくめる。それから、気まずそうに私の方を向き直す。
「……じゃあ、その、」
「う、うん」
まさか、まさか……本当に……!
「来週にしようか?」
「……」
そんな気はしていた。ふるふると拳を振るわせる私に、笑いを堪えて肩を振るわせるバッキー。それから、なんの気もなさそうに、なぜ返事がないのだろうと困ったように私たちを見るスティーブ。
「いい、いいって。来週もデートの予定でパンパンなんだ。この可哀想なプリンセスと一緒に行ってやってくれねえか?」
「えっ?でも……いいのか?」
「いいってなによ!いいに決まってるじゃない! もうっ、私たち二人だけで楽しみましょ!」
可哀想なプリンセスって言い方にむっとして、スティーブにも少し当たりが強くなってしまった。だって、彼も彼で鈍すぎるのだから仕方ない。……嘘、八つ当たりは仕方なくないけど。
バッキーはケラケラ笑うと、「それじゃあ俺はデートなので」とわざとらしく言ってみせた。からかって私の頬にキスをするふりをして、こそっと「貸し1つだな」と意地悪に笑った。ひらひらと手を振って呑気に離れていく。
たしかに助かった、助かりはしたけど!「もうっ、なによ!男ってなんでみんなあんななのかしら」別に、恋人ができないわけじゃない。言い寄ってくる男の人は何人かいるけど、ただスティーブが好きだから、バッキーみたいに遊ばないだけだ。決して可哀想ではない。
息がかかった頬がくすぐったくて、ごしごしと手の甲で拭きながらそんなふうにぶつくさ文句を言って、ふと、スティーブが困ったように立ち尽くしているのに気がついた。しまった、まだ彼の前だった。
「あの、すまない」
「え?」
私が弁解する前に、彼から意外にも謝罪の言葉があった。何に対する謝罪なのか、全く意図が汲み取れず目を丸くしていると、彼は矢継ぎ早に付け加えた。
「映画のこと。もしぼくと行くのが気まずいなら、彼には行ったということで話しておくから」
一瞬何を言われているのかわからなかった。彼、というのは言わずもがなバッキーのことだろうが、……なんで?!行ったことにして話す……?!
「そ、そんな。行きましょう、私、すごく楽しみにしてる。……その、一人で行くのは嫌よ」
こんな言い方をするのは、少しずるいだろうか。けれども、彼の良心に訴えかける以外、方法がわからなかった。
スティーブはほんの少し眉を下げて、ふっと優しく目を細めた。
「うん、行こう。……行こう、君とぼくで」
そうしてやっと、私は彼とデートの約束をこじつけることに成功したのである。