すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

10 / 37
10

 

 

 気配を感じて顔を上げると、シロは慌てて逃げていった。

 机に向かってスケッチをしていると、どうにも彼女は気になるらしい。机の端から小さな顔を覗かせ、こちらをじっと観察しては、またふらふらと部屋の中を回り、落ち着かない様子でうろうろする。

 

 突然、ぼくの前に現れた猫は自身を女神だと語った。

 1945年、内戦により命を落とし、理由も分からぬまま女神として目を覚ましたのだと。そして、この世界でぼくと出会い、ただぼくといたいのだと。

 

 ーー1945年。

 

 その年は、ぼくが北極海に沈んだ年だ。大切な友を二人も失い、戦争と共にすべてが凍りついた年。

 こんな偶然、果たして信じられるだろうか。ヒドラの新たな罠かもしれない。だが、彼女の目は、嘘をつく者のそれとは思えなかった。

 

 もしも彼女の語ることが事実ならーー彼女を救えなかったのは、ほかでもない、このぼくだ。

 その考えが胸に沈んだ瞬間、彼女をS.H.I.E.L.D.に無理やり引き渡すという選択肢は、もう頭の中から消えていた。もし狙いがぼくなのなら、ぼくが眠っている間にだって殺せたはずだ。それどころか思い返す記憶の中で、彼女はいつもただぼくの周りにいるだけだった。

 

 いつの間にかぼくのスケッチを覗き込んで、ちょうど書いている鉛筆の先に、小さな後頭部が重なる。

 

 

「シロ」

 

「にゃっ」

 

 

 名前を呼んだ瞬間、シロは跳ねるように逃げ出した。ぼくに叱られるとでも思ったのだろう。

 

 無理もない。ぼくは彼女に強く警告を与えている。事実、まだ信じるに値するか見極めていない。それなのに、ふと寂しさが胸をかすめたのは、自分でも身勝手だとわかっていた。伸ばしかけた手を引っ込める。

 視線を感じて顔を向けると、彼女が部屋の奥でじっとこちらを見ていた。けれど、目が合っても反応はない。まるで視線だけをこちらに向けて、意識は遠くを漂っているようだった。

 その時、ブーッ、と低い振動音が響く。

 反射的にそちらを見ると、S.H.I.E.L.D.から支給された"スマートフォン"が鉄の板のように震えていた。

 どうやって応答するんだったか……。しばらく画面を見つめ、矢印の表示に気づいて、指示通りに操作する。

 

 

「ロジャース、今家にいるな?」

 

 

 操作は合っていたらしい。聞き覚えのある声が、小さな機械越しに響く。

 

 

「あぁ、任務か?」

 

「そうだ。今すぐ出てきてほしい。場所は36番街高架下。いいな?10分後に落ち合おう」

 

 

 ブツリ。返事を待たずに通信は途切れた。

 呼び出されるということは、おそらくヒドラ絡みか、武器の密輸、あるいはその両方だろう。

 

 スケッチブックを静かに閉じ、椅子を引く音が部屋に短く響く。ジャケットを羽織り、内ポケットから折り畳まれた地図を取り出す。紙は使い込まれて端がわずかにほつれており、フューリーが告げた地点を指先でなぞると、街の立体的な輪郭が頭の中で組み上がっていく。

 

 ……ガリガリガリ。ふと足に重みを感じて視線を落とすと、シロがデニム生地に爪を立ててぶら下がっていた。毛並みが逆立ち、瞳は真っ直ぐこちらを射抜いていた。

 

 

「にゃー!」

 

 

 さっきまで近づくのですら警戒していたのに。首根っこをつまんで持ち上げると、鳴いて何かを訴えているようだった。怪訝に思って首飾りに触れる。

 

 

「スティーブ、どこに行くの?」

 

「……きみは関係のないことだ」

 

「だめ、行かないで。怪我しちゃうわ」

 

 

 シロは必死にぼくの顔を見上げた。瞳には真剣さと不安がにじみ、その訴えはただの甘えではなく、危険を予感しているようだった。

 

 任務に怪我はつきものである。それが、今のぼくにできることなのだから。怪我の一つや二つで立ち止まるわけにはいかない。

 

 しかし彼女の切実な眼差しがどうしても気になり、わずかに眉をひそめる。なぜこんなにも彼女が不安そうに瞳を揺らしているのか、到底理解できそうになかった。

 

 ぼくは彼女の首飾りに触れていた手を、そっと引いた。

 

 彼女は訴えるように、じっとぼくを見つめる。ただ見つめられているだけなのに、何故だか気まずく感じて逸らしたくなった。

 

 

「これがぼくのやるべきことだ」

 

 

 言葉を冷静に、そして淡々と放つ。

 

 地面に降ろしてもなお、シロはぼくの目を離さず、じっと見上げていた。その視線はまるで、ぼくの内側に入り込んでくるようで、居心地が悪かった。

 

 扉の冷たく硬い手触りが掌に伝わる。振り返ることなく、静かに閉めた。

 

 

 

***

 

 

 

 パタン。

 

 薄い扉が、重く閉ざされる。

 

 閉まった扉をじっと見つめ、耳を澄ます。しかし、かすかな靴音はすでに遠く、廊下の奥へと吸い込まれていく。

 分かってはいたけれど、必死な思いが彼にまっすぐ伝わらなかったのが悔しくて、視線を床に落とす。

 

 さっき"視えた"のは、何だったのだろう。

 

 脳裏に焼きついて離れない。赤と青のスーツを纏い、鋼のような黒い鎧の男たちを次々と薙ぎ倒していくスティーブの背中。彼の背中を眺めていたら、まるで夢の断片のように、脳の奥に直接流れ込んできた。

 あれが現実なのか妄想なのか、神としての力が見せた映像なのか、それとも過去か未来か何ひとつ確信は持てない。ただ何であれ、彼が怪我をするようなことをしてほしくなかった。

 

 思えば、私はスティーブのことを何も知らない。知っているのは名前だけだ。

 どんな仕事をしているのか、どんな場所に行くのか、何を志しているのかーーほとんど家にいるけれど、危険な仕事をして生活しているのかもしれない。だとすれば、毎日無心で身体を鍛えているのも納得がいく。

 

 

「(……行くしかないわね)」

 

 

 何事もなければ、それでいい。

 少し彼の様子を見にいって、彼の安全が確認できたら引き返す。そして何事もなかったかのように「にゃー」と鳴いて迎え入れればいい。

 

 顔を上げ、玄関のドアに視線を固定する。サムターンのつまみをじっと見つめると、軽い音を立ててかちゃりと上を向いた。

 そっと押すと、ゆっくりとドアが開く。わずかな隙間に身体を押し込み、私は外の空気の中へ滑り出す。

 

 鍵の一つで閉じ込められたと思ったら大間違い。魔法を使えば部屋の扉を開けるくらい造作のないことだ。魔法を実用的に使えたことが嬉しくて、しきりに自信が湧いてきた。

 

 待っていなさい、スティーブ。"女神"を侮らないことね!

 そう心の中でほくそ笑み、勢いよく地面を蹴る。

 

 

 

 ーーそうして、自分の致命的な失策に気づいたのは、出発から十分ほど経った頃だ。

 

 彼がどこに向かったのか、まったく分からない。

 

 心配するあまり、ただ無心で走っていれば自然と辿り着ける、などという無根拠な自信に任せていたらしい。考えなしにもほどがある。

 

 

「(……お腹、すいた)」

 

 

 立ち止まった途端、空腹が一気に押し寄せてくる。天を仰ぎながらため息をつくと、ふいに芳ばしい香りが鼻先をくすぐった。気づけば、足は本能のままに匂いのする方へと進んでいた。

 

 歩みを進めるたびに人の足も増えてきた。その合間を縫うようにして飛び出すと、立派なホテルのような建物が現れた。匂いはそこから漂ってくるらしい。

 ただし、重厚な扉は固く閉ざされ、その前には屈強なスーツ姿の男たちが仁王立ちしている。サングラス越しでも分かる、鋭く冷たい視線。不審者を一歩たりとも通さぬ圧力を放っていた。

 

 そこへ、腕を組んだドレス姿のカップルが現れる。女性がカバンから上質な封筒を取り出すと、男たちは中身を確認し、わずかに会釈をして扉を開けた。

 

 招待制、というわけね。

 あの封筒さえあれば猫でも……いや、無理に決まっている。

 

 けれど、入るなら今しかない。

 私はカップルの足取りに合わせ、自然を装ってすっと近づいた。

 

 

「ん?猫?……おいコラ!」

 

「にゃあお!!(ごっごめんなさい!)」

 

 

 やっぱりこうなるわよね……!

 

 分厚い手が降ってくる一瞬、心の中で「ごめんなさい」と呟き、全身に力を込めて押し返す。女性のヒールの間を縫い、私は弾かれるようにして駆け出した。

 

 

「きゃあっ!猫?!」

 

「中に入ったぞ!捕まえろ!」

 

「にゃあ〜あ!!(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜〜!!)」

 

 

 こうなることは想像できたはずだ。いや、99.9%こうなるって想像はしていた。けれどなぜか0.1%の可能性にかけてしまったのだ。もう後戻りはできなかった。

 

 会場の中は、絹やベルベットを身にまとった紳士淑女で埋め尽くされていた。

シャンデリアの光に照らされた笑顔と、くすくすと上品に響く笑い声。

そこへ土足でーーいや、肉球でーー飛び込んでしまったものだから、当然「きゃあっ!」と悲鳴が上がる。驚いて反対方向へ駆ければ、また別の悲鳴。悲鳴は連鎖し、騒ぎは雪崩のように広がっていく。 

 

 ど、どうしたら、どうしたらいいの?!

 

 慌ててクロスの裾をくぐり、テーブルの下へ滑り込む。上から「何事だ?」「猫?!」と人間たちのざわめきが降ってくる。

 

 人間の姿なら、いくら魅惑的な匂いに誘われても、招待されていないパーティーにのこのこ入るなど絶対にしない。絶対にしないのに!

 猫の本能とは、かくも恐ろしいものである。

 

 息を整え、落ち着いて、そして何事もなかった顔で窓から抜け出すーーそう決めた矢先。

 

 

 

「ここかぁ!!!」

 

「に"ゃーーーーッ!?」

 

「うおっ!!?」

 

 

 クロスが跳ね上がり、目の前いっぱいに屈強な男の顔面。

 驚きと防衛本能が同時に爆発し、思わず爪を立ててしまう。男は呻き声を上げ、豪快に後ろへひっくり返った。

 

 やってしまった。私、これ、お巡りさんに捕まっちゃう……?!

 恐怖と後悔で頭が真っ白になる。

 場所がバレた以上、残された選択肢はひとつーー逃げるのみ!

 テーブルクロスから飛び出すと、「あそこだ!捕まえろ!」と声が飛んでくる。猫は視線が低いので人の足を掻い潜るので精一杯だし、どこにボディガードたちがいるのかも分からない。

 机の上に飛び乗れば、そこには色鮮やかな料理の数々。香りが鼻をくすぐる。……あれ、サーモンのマリネじゃない?

 

 

「大人しくしろ!!」

 

「に"ゃあっ??!」

 

 

 サーモンに見惚れていたら背後から怒声。振り返ると、男の両手が捕獲態勢で迫ってくる。

ごめんなさいごめんなさいもうしません!ーーそう心で叫んだ瞬間、男の動きが宙でぴたりと止まった。どうやら無意識に魔法を使ったらしい。はっとして横に飛び退くと、魔法が解ける。

 

ガッシャーーン!!

男が料理の山に突っ込み、皿が砕ける音が響き渡った。……ま、またやってしまった。

 

 

「何の騒ぎだ!」

 

 

 どこに逃げよう、どっちに行こう、どうしよう!きょろきょろと辺りを見渡していたその時、鋭い声が場の喧騒を切り裂いた。靴音が、コツ、コツと早いテンポで近づいてくる。

 そのとき、首根っこをがしっと掴まれ、視界が浮いた。「に"ゃ?!」料理に顔を突っ込んだ男に捕まったのだ。

 

 ……もう、終わりね…………

 

 どうしようもできず足音が近づくのを待つしかなかった。

 

 

「スタークさん、申し訳ございません。会場内に猫が侵入しーー」

 

「猫?むさ苦しい男どもが十人も集まって猫とお遊びか?」

 

 

 きっちりと後ろに流した髪、薄く色の入ったサングラス、シワひとつない三つ揃いのスーツ。

 光沢を帯びた靴、指先まで計算された所作、そして何より場の空気を一瞬で自分の色に染め上げる存在感。

 周囲の視線と空気感から、このパーティの主は彼だと直感した。

 

 彼は冗談を言う温度でボディガードにそう言うと、首根っこを掴まれたままの私を見る。

 

 

「にゃあ……(ご、ごめんなさい……)」

 

「ふむ……」

 

 

 彼はしばし黙って、観察するようにこちらを見た。まるで精密機械を点検するかのような視線だ。毛並みの艶、瞳の色、そしてーー首元に輝く首飾り。

 眉を上げてサングラスを少しずらすと、ガラス越しでは隠されていた鋭い視線が、宝石の光を捕らた。

 

 チャリ、と微かな金属音が耳に届く。

 

 私はもう観念して、ただ天井のシャンデリアをぼんやりと見上げていた。きらめくガラスの粒がゆらゆら揺れ、まるで遠い世界の光のように現実感がない。

 

 これから待ち受けている自分の運命を想像すると、恐ろしくて……けれど言い訳もできないので、伝わらないけど何度も謝るしかできない。

 

 

「もう絶対にしないから、ころさないで……」

 

 

 そのときーー視界の端で、彼が弾かれたように勢いよく顔を上げた。

 不意の動きに、胸の奥で小さく鼓動が跳ねる。何事かと視線をシャンデリアから下げると、彼は手のひらに私の首飾りの宝石を乗せたまま、驚きと疑念が入り混じった眼差しでじっとこちらを見つめていた。

 

 

「おそらく、飼い猫だと思われます。飼い主を探し出して今回の件はーー」

 

「いや、いい。猫はいたずらが仕事だろう?それに、いたずらされる側の人間にも問題があると思わんかね?」

 

「も、申し訳ございません……では、猫はこちらで"処分"致します」

 

 

「しょっ、処分?!いや!お願い!もう二度と、絶対のぜったいにしませんから……!」

 

 

 言葉は通じないのに、ただ黙って成り行きを見ていることができず、必死に訴えかける。

 処分って、何? 本当に飼い主がいないと分かったら……殺されちゃうの?想像しただけで、心臓が耳元で暴れ出す。

 

 

「その必要はない」

 

 

 低く、よく通る声が空気を切った。

 

 

「この子猫ちゃんは、私が預かる」

 

「え……?」  

 

「す、スターク様。でもこいつ、かなり凶暴です……!」

 

「ほう、私に口出しするのか?」

 

 

 「と、とんでもございません」屈強な男が一瞬で口を閉ざす。その背筋がぴんと伸びる様子から、目の前の男の持つ権力の大きさが嫌でも伝わってきた。

 

 

「それから、君。品のない持ち方はしないでくれ。彼女は、私の大切なゲストだ」

 

「申し訳ございません!スターク様」

 

 

 ……大切なゲスト?なぜそんな言葉が自分に向けられたのか、まったく理解できない。

 状況は私の知らないところでどんどん進んでいく。

 

 気づけば、私の運命はあっという間に彼の言葉で書き換えられていた。少なくとも今すぐ命を取られることはなさそうだ。けれど、果たして彼に気に入られたことを喜ぶべきなのかーーそれとも別の意味で恐れるべきなのか。

 答えの出ないまま、私はふかふかのクッションの上に丁寧に置かれ、次の瞬間には彼の車の助手席に乗せられていた。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。