気配を感じて顔を上げると、シロは慌てて逃げていった。
机に向かってスケッチをしていると、どうにも彼女は気になるらしい。机の端から小さな顔を覗かせ、こちらをじっと観察しては、またふらふらと部屋の中を回り、落ち着かない様子でうろうろする。
突然、ぼくの前に現れた猫は自身を女神だと語った。
1945年、内戦により命を落とし、理由も分からぬまま女神として目を覚ましたのだと。そして、この世界でぼくと出会い、ただぼくといたいのだと。
ーー1945年。
その年は、ぼくが北極海に沈んだ年だ。大切な友を二人も失い、戦争と共にすべてが凍りついた年。
こんな偶然、果たして信じられるだろうか。ヒドラの新たな罠かもしれない。だが、彼女の目は、嘘をつく者のそれとは思えなかった。
もしも彼女の語ることが事実ならーー彼女を救えなかったのは、ほかでもない、このぼくだ。
その考えが胸に沈んだ瞬間、彼女をS.H.I.E.L.D.に無理やり引き渡すという選択肢は、もう頭の中から消えていた。もし狙いがぼくなのなら、ぼくが眠っている間にだって殺せたはずだ。それどころか思い返す記憶の中で、彼女はいつもただぼくの周りにいるだけだった。
いつの間にかぼくのスケッチを覗き込んで、ちょうど書いている鉛筆の先に、小さな後頭部が重なる。
「シロ」
「にゃっ」
名前を呼んだ瞬間、シロは跳ねるように逃げ出した。ぼくに叱られるとでも思ったのだろう。
無理もない。ぼくは彼女に強く警告を与えている。事実、まだ信じるに値するか見極めていない。それなのに、ふと寂しさが胸をかすめたのは、自分でも身勝手だとわかっていた。伸ばしかけた手を引っ込める。
視線を感じて顔を向けると、彼女が部屋の奥でじっとこちらを見ていた。けれど、目が合っても反応はない。まるで視線だけをこちらに向けて、意識は遠くを漂っているようだった。
その時、ブーッ、と低い振動音が響く。
反射的にそちらを見ると、S.H.I.E.L.D.から支給された"スマートフォン"が鉄の板のように震えていた。
どうやって応答するんだったか……。しばらく画面を見つめ、矢印の表示に気づいて、指示通りに操作する。
「ロジャース、今家にいるな?」
操作は合っていたらしい。聞き覚えのある声が、小さな機械越しに響く。
「あぁ、任務か?」
「そうだ。今すぐ出てきてほしい。場所は36番街高架下。いいな?10分後に落ち合おう」
ブツリ。返事を待たずに通信は途切れた。
呼び出されるということは、おそらくヒドラ絡みか、武器の密輸、あるいはその両方だろう。
スケッチブックを静かに閉じ、椅子を引く音が部屋に短く響く。ジャケットを羽織り、内ポケットから折り畳まれた地図を取り出す。紙は使い込まれて端がわずかにほつれており、フューリーが告げた地点を指先でなぞると、街の立体的な輪郭が頭の中で組み上がっていく。
……ガリガリガリ。ふと足に重みを感じて視線を落とすと、シロがデニム生地に爪を立ててぶら下がっていた。毛並みが逆立ち、瞳は真っ直ぐこちらを射抜いていた。
「にゃー!」
さっきまで近づくのですら警戒していたのに。首根っこをつまんで持ち上げると、鳴いて何かを訴えているようだった。怪訝に思って首飾りに触れる。
「スティーブ、どこに行くの?」
「……きみは関係のないことだ」
「だめ、行かないで。怪我しちゃうわ」
シロは必死にぼくの顔を見上げた。瞳には真剣さと不安がにじみ、その訴えはただの甘えではなく、危険を予感しているようだった。
任務に怪我はつきものである。それが、今のぼくにできることなのだから。怪我の一つや二つで立ち止まるわけにはいかない。
しかし彼女の切実な眼差しがどうしても気になり、わずかに眉をひそめる。なぜこんなにも彼女が不安そうに瞳を揺らしているのか、到底理解できそうになかった。
ぼくは彼女の首飾りに触れていた手を、そっと引いた。
彼女は訴えるように、じっとぼくを見つめる。ただ見つめられているだけなのに、何故だか気まずく感じて逸らしたくなった。
「これがぼくのやるべきことだ」
言葉を冷静に、そして淡々と放つ。
地面に降ろしてもなお、シロはぼくの目を離さず、じっと見上げていた。その視線はまるで、ぼくの内側に入り込んでくるようで、居心地が悪かった。
扉の冷たく硬い手触りが掌に伝わる。振り返ることなく、静かに閉めた。
***
パタン。
薄い扉が、重く閉ざされる。
閉まった扉をじっと見つめ、耳を澄ます。しかし、かすかな靴音はすでに遠く、廊下の奥へと吸い込まれていく。
分かってはいたけれど、必死な思いが彼にまっすぐ伝わらなかったのが悔しくて、視線を床に落とす。
さっき"視えた"のは、何だったのだろう。
脳裏に焼きついて離れない。赤と青のスーツを纏い、鋼のような黒い鎧の男たちを次々と薙ぎ倒していくスティーブの背中。彼の背中を眺めていたら、まるで夢の断片のように、脳の奥に直接流れ込んできた。
あれが現実なのか妄想なのか、神としての力が見せた映像なのか、それとも過去か未来か何ひとつ確信は持てない。ただ何であれ、彼が怪我をするようなことをしてほしくなかった。
思えば、私はスティーブのことを何も知らない。知っているのは名前だけだ。
どんな仕事をしているのか、どんな場所に行くのか、何を志しているのかーーほとんど家にいるけれど、危険な仕事をして生活しているのかもしれない。だとすれば、毎日無心で身体を鍛えているのも納得がいく。
「(……行くしかないわね)」
何事もなければ、それでいい。
少し彼の様子を見にいって、彼の安全が確認できたら引き返す。そして何事もなかったかのように「にゃー」と鳴いて迎え入れればいい。
顔を上げ、玄関のドアに視線を固定する。サムターンのつまみをじっと見つめると、軽い音を立ててかちゃりと上を向いた。
そっと押すと、ゆっくりとドアが開く。わずかな隙間に身体を押し込み、私は外の空気の中へ滑り出す。
鍵の一つで閉じ込められたと思ったら大間違い。魔法を使えば部屋の扉を開けるくらい造作のないことだ。魔法を実用的に使えたことが嬉しくて、しきりに自信が湧いてきた。
待っていなさい、スティーブ。"女神"を侮らないことね!
そう心の中でほくそ笑み、勢いよく地面を蹴る。
ーーそうして、自分の致命的な失策に気づいたのは、出発から十分ほど経った頃だ。
彼がどこに向かったのか、まったく分からない。
心配するあまり、ただ無心で走っていれば自然と辿り着ける、などという無根拠な自信に任せていたらしい。考えなしにもほどがある。
「(……お腹、すいた)」
立ち止まった途端、空腹が一気に押し寄せてくる。天を仰ぎながらため息をつくと、ふいに芳ばしい香りが鼻先をくすぐった。気づけば、足は本能のままに匂いのする方へと進んでいた。
歩みを進めるたびに人の足も増えてきた。その合間を縫うようにして飛び出すと、立派なホテルのような建物が現れた。匂いはそこから漂ってくるらしい。
ただし、重厚な扉は固く閉ざされ、その前には屈強なスーツ姿の男たちが仁王立ちしている。サングラス越しでも分かる、鋭く冷たい視線。不審者を一歩たりとも通さぬ圧力を放っていた。
そこへ、腕を組んだドレス姿のカップルが現れる。女性がカバンから上質な封筒を取り出すと、男たちは中身を確認し、わずかに会釈をして扉を開けた。
招待制、というわけね。
あの封筒さえあれば猫でも……いや、無理に決まっている。
けれど、入るなら今しかない。
私はカップルの足取りに合わせ、自然を装ってすっと近づいた。
「ん?猫?……おいコラ!」
「にゃあお!!(ごっごめんなさい!)」
やっぱりこうなるわよね……!
分厚い手が降ってくる一瞬、心の中で「ごめんなさい」と呟き、全身に力を込めて押し返す。女性のヒールの間を縫い、私は弾かれるようにして駆け出した。
「きゃあっ!猫?!」
「中に入ったぞ!捕まえろ!」
「にゃあ〜あ!!(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい〜〜!!)」
こうなることは想像できたはずだ。いや、99.9%こうなるって想像はしていた。けれどなぜか0.1%の可能性にかけてしまったのだ。もう後戻りはできなかった。
会場の中は、絹やベルベットを身にまとった紳士淑女で埋め尽くされていた。
シャンデリアの光に照らされた笑顔と、くすくすと上品に響く笑い声。
そこへ土足でーーいや、肉球でーー飛び込んでしまったものだから、当然「きゃあっ!」と悲鳴が上がる。驚いて反対方向へ駆ければ、また別の悲鳴。悲鳴は連鎖し、騒ぎは雪崩のように広がっていく。
ど、どうしたら、どうしたらいいの?!
慌ててクロスの裾をくぐり、テーブルの下へ滑り込む。上から「何事だ?」「猫?!」と人間たちのざわめきが降ってくる。
人間の姿なら、いくら魅惑的な匂いに誘われても、招待されていないパーティーにのこのこ入るなど絶対にしない。絶対にしないのに!
猫の本能とは、かくも恐ろしいものである。
息を整え、落ち着いて、そして何事もなかった顔で窓から抜け出すーーそう決めた矢先。
「ここかぁ!!!」
「に"ゃーーーーッ!?」
「うおっ!!?」
クロスが跳ね上がり、目の前いっぱいに屈強な男の顔面。
驚きと防衛本能が同時に爆発し、思わず爪を立ててしまう。男は呻き声を上げ、豪快に後ろへひっくり返った。
やってしまった。私、これ、お巡りさんに捕まっちゃう……?!
恐怖と後悔で頭が真っ白になる。
場所がバレた以上、残された選択肢はひとつーー逃げるのみ!
テーブルクロスから飛び出すと、「あそこだ!捕まえろ!」と声が飛んでくる。猫は視線が低いので人の足を掻い潜るので精一杯だし、どこにボディガードたちがいるのかも分からない。
机の上に飛び乗れば、そこには色鮮やかな料理の数々。香りが鼻をくすぐる。……あれ、サーモンのマリネじゃない?
「大人しくしろ!!」
「に"ゃあっ??!」
サーモンに見惚れていたら背後から怒声。振り返ると、男の両手が捕獲態勢で迫ってくる。
ごめんなさいごめんなさいもうしません!ーーそう心で叫んだ瞬間、男の動きが宙でぴたりと止まった。どうやら無意識に魔法を使ったらしい。はっとして横に飛び退くと、魔法が解ける。
ガッシャーーン!!
男が料理の山に突っ込み、皿が砕ける音が響き渡った。……ま、またやってしまった。
「何の騒ぎだ!」
どこに逃げよう、どっちに行こう、どうしよう!きょろきょろと辺りを見渡していたその時、鋭い声が場の喧騒を切り裂いた。靴音が、コツ、コツと早いテンポで近づいてくる。
そのとき、首根っこをがしっと掴まれ、視界が浮いた。「に"ゃ?!」料理に顔を突っ込んだ男に捕まったのだ。
……もう、終わりね…………
どうしようもできず足音が近づくのを待つしかなかった。
「スタークさん、申し訳ございません。会場内に猫が侵入しーー」
「猫?むさ苦しい男どもが十人も集まって猫とお遊びか?」
きっちりと後ろに流した髪、薄く色の入ったサングラス、シワひとつない三つ揃いのスーツ。
光沢を帯びた靴、指先まで計算された所作、そして何より場の空気を一瞬で自分の色に染め上げる存在感。
周囲の視線と空気感から、このパーティの主は彼だと直感した。
彼は冗談を言う温度でボディガードにそう言うと、首根っこを掴まれたままの私を見る。
「にゃあ……(ご、ごめんなさい……)」
「ふむ……」
彼はしばし黙って、観察するようにこちらを見た。まるで精密機械を点検するかのような視線だ。毛並みの艶、瞳の色、そしてーー首元に輝く首飾り。
眉を上げてサングラスを少しずらすと、ガラス越しでは隠されていた鋭い視線が、宝石の光を捕らた。
チャリ、と微かな金属音が耳に届く。
私はもう観念して、ただ天井のシャンデリアをぼんやりと見上げていた。きらめくガラスの粒がゆらゆら揺れ、まるで遠い世界の光のように現実感がない。
これから待ち受けている自分の運命を想像すると、恐ろしくて……けれど言い訳もできないので、伝わらないけど何度も謝るしかできない。
「もう絶対にしないから、ころさないで……」
そのときーー視界の端で、彼が弾かれたように勢いよく顔を上げた。
不意の動きに、胸の奥で小さく鼓動が跳ねる。何事かと視線をシャンデリアから下げると、彼は手のひらに私の首飾りの宝石を乗せたまま、驚きと疑念が入り混じった眼差しでじっとこちらを見つめていた。
「おそらく、飼い猫だと思われます。飼い主を探し出して今回の件はーー」
「いや、いい。猫はいたずらが仕事だろう?それに、いたずらされる側の人間にも問題があると思わんかね?」
「も、申し訳ございません……では、猫はこちらで"処分"致します」
「しょっ、処分?!いや!お願い!もう二度と、絶対のぜったいにしませんから……!」
言葉は通じないのに、ただ黙って成り行きを見ていることができず、必死に訴えかける。
処分って、何? 本当に飼い主がいないと分かったら……殺されちゃうの?想像しただけで、心臓が耳元で暴れ出す。
「その必要はない」
低く、よく通る声が空気を切った。
「この子猫ちゃんは、私が預かる」
「え……?」
「す、スターク様。でもこいつ、かなり凶暴です……!」
「ほう、私に口出しするのか?」
「と、とんでもございません」屈強な男が一瞬で口を閉ざす。その背筋がぴんと伸びる様子から、目の前の男の持つ権力の大きさが嫌でも伝わってきた。
「それから、君。品のない持ち方はしないでくれ。彼女は、私の大切なゲストだ」
「申し訳ございません!スターク様」
……大切なゲスト?なぜそんな言葉が自分に向けられたのか、まったく理解できない。
状況は私の知らないところでどんどん進んでいく。
気づけば、私の運命はあっという間に彼の言葉で書き換えられていた。少なくとも今すぐ命を取られることはなさそうだ。けれど、果たして彼に気に入られたことを喜ぶべきなのかーーそれとも別の意味で恐れるべきなのか。
答えの出ないまま、私はふかふかのクッションの上に丁寧に置かれ、次の瞬間には彼の車の助手席に乗せられていた。