すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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「にゃー……(わぁ……)」

 

 

 

 これを"家"と呼ぶのなら、私が人間だった頃に暮らしていたあのレンガ造の建物は、一体何だったのだろう。そう思わずにはいられないほど、彼の邸宅は圧倒的に広大で、まるで別世界のようだった。

 断崖の縁に大胆に張り出す白亜のモダニズム邸宅。壁一面がガラス張りで、夕陽の光を受けて鏡のように反射し、滑らかな曲線を描くバルコニーが翼のように左右へと大きく広がっている。

 外観は緻密に計算された直線と曲線の調和が織りなすモダンなデザイン。だがその堂々たる佇まいは、どこか生き物のように生命感を宿しているかのようで、目の前にそびえ立つ姿に言葉を失った。

 

 

「見とれるのも無理はない、世界最高の頭脳が設計した家だからな。もちろん僕のことだ」

 

「に"ゃ?!(えっ、あなたが?!)」

 

 

 通りでパーティが豪華なわけだ。私が驚いたのが伝わったのか、彼は誇らしげにくつくつと笑った。

 

 クッションごと抱き上げられ、彼は歩き出す。門をくぐると、打ち放しコンクリートと黒鉄のフレームで構成された幅広いアプローチが続いている。そのまま中に入りーー「お帰りなさいませ、スターク様。リビングルームの照明を調整いたしましょうか」

 

 

「にゃっ?!(何?!)」

 

「いや、そのままでいい。すぐにラボへ行く」

 

「かしこまりました」

 

 

 辺りを見渡しても人影がないのに、声だけが静かに響いている。まるで邸宅全体が生きているかのようだった。もしかしたら、彼も魔法が使えるのだろうか。

 

 

「J.A.R.V.I.S.。今日はお客様が来てるんだ。挨拶してくれ」

 

「失礼いたしました。初めまして、私はJ.A.R.V.I.S.。スターク様専属の人工知能執事でございます。以後、お見知りおきいただければ幸いです」

 

「にゃー……(人工知能……)」

 

 

 街行く人みんなが持ってる鉄のプレートのことだってよく分かってないのだ。頭の中で何度か反芻するが、きっと自分には計り知れない世界なのだろうと察した。

 

 私を抱える彼が歩みを進めるたび、新しい光景が次々に目に飛び込んでくる。きょろきょろと辺りを見回すうち、やがて階段を降り、一つの部屋にたどり着いた。

 

 高い天井に露出した鉄骨、大型のサーバーラックに巨大なケーブル束、工業用の機械アーム……まるで小さな工事現場のような部屋だ。

 

 

「さて」

 

 

 彼は落ち着かずに辺りを見渡す私をよそに、作業机の上にそっと私を下ろした。表情を伺おうと顔をあげかけたが、彼の方が先にしゃがみ込んで私と目線が並んだ。

 

 

「そうだな。まず自己紹介といこうか。ご存知かもしれないが、私はトニー・スターク。君の名前は?」

 

「にゃうにゃー……(トニー・スターク……やっぱり有名な人なのよね……)」

 

 

 きっと、私が現代に生きる一般人であれば、当然彼の名前を認知しているくらいの人物なのだろうが、生憎私はそうではない。

 

 それでも、トニー・スタークは人語を話さない私に真っ直ぐ目を向けて語りかけてくれる。きっといい人なのだろう、そんな気持ちが胸にそっと安堵の灯をともした。

 

 「ふむ」と彼は片眉を吊り上げ、左手の指先で私の首飾りについた宝石をすくい上げた。

 

 

「もう一度聞こう。君の名前は?」

 

「律儀な人ね。私は……うーん、こういう時なんて名乗るのが正解なのかしら。フレイヤ?そうね、きっとそう」

 

「そうか、フレイヤ。名前はまだ考え中?」

 

「違うの、そういうわけじゃないんだけど………………」  

 

 

 目を見開いて彼を見つめる。

 仮説が確信に変わった彼は、唇の片側をふっと吊り上げた。

 

 ああ、そういうことだったのか。会場では気づかなかったけれど、彼がブリージンガメンの石に触れたことで、私の意思が伝わっていたのだ。だからこそ、わざわざここまで私を連れてきたのだ。

 

 一体どういう意図なのか、緊張が胸を締めつける。ただの興味ならいい。けれどもし、売り飛ばそうとか、実験に使おうというのなら……想像しただけで震えが走った。

 

 

「おっと、そんなに警戒しなくていい。色々と散らかっているが、何も君を実験に使うためにここに連れてきたわけじゃない。レディを実験台にするなんて、僕のアイデンティティに反する」

 

 

 その声音は軽口そのものだった。

 本当かどうかは分からない。けれど、不思議と悪い人ではないのかもしれない、と心は傾き始めていた。

 

 

「……じゃあ、どうして?」

 

「男が美しいレディを自宅に招くのに、理由がいるか?」

 

「……」

 

「冗談だ。そんな怖い顔をしないでくれ。

単純に、興味だよ。本来喋れないはずの猫が喋ったから、つれてきた。どうやって喋ってる?君のオリジンは猫?それとも人間か?」

 

 

 嘘を言っているようには見えなかった。むしろ、私を見つめる目が輝いているようにさえ見える。そして矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。

 

 

「特に僕の興味をひいているのはこの石だ。……実に美しい。この石は、地球の産物かーーそれとも、それ以外か。何故触れている時のみ君と意思疎通できるんだ?」

 

 

 トニーは興味津々といった表情で石を指先で転がし、それから答えを促すようにこちらを見た。

 そんなこと言われても、私にだって分からない。どう返そうか迷っていると、私の戸惑いを察したのか、彼は軽く肩をすくめる。

 

 

「ああ、すまない。見た目は渋みが増したが中身はまだフルスロットルで好奇心にまみれてるんでね。コーヒーは……いや、やめとこう。猫にカフェインは犯罪だな。ミルクがお好みかな?」

 

「え?……あぁ、ミルクで……」

 

「了解。お客様に失礼のないように頼むぞ」

 

 

 そう言って、トニーはそばの鉄の塊を軽く叩くと、ひらりと部屋を出ていった。

 え、今の誰に? と思った瞬間ーー

 

 ウィーン、と機械音。鉄の塊が動き出す。

 思わずびくりと跳ね、全身の毛が逆立った。三本の指を持つ長いアームがこちらを向く。顔があるわけではないが、どうやら首をかしげている……ように見えた。

 

 

 

***

 

 

 

 ぴちゃ、ぴちゃ……とミルクを舐める音が静かな部屋に響く。

 向かいの席で、トニーは足を組み、マグからコーヒーをすすりながら、興味深そうに私を見ていた。

 

 

「仕草は完全に猫だな。やはり君のオリジンは猫?」

 

「にゃー」

 

「おっと、そうだったな」

 

 

 トニーは足を下ろすと、椅子ごとぐっとこちらへ近づいてくる。

 床に置いていた大きめのミルク皿を片手で持ち上げ、もう片方の手を私のお腹の下に差し入れると、ひょいと持ち上げた。

 机の上に移動させられると、彼は私の首飾りの宝石に触れる。

 

 

「そうだな。いろいろと気になる部分はあるがーーまず一番重要な質問をさせてくれ」

 

 

 ごくり、と息を呑む。

 

 一番重要な質問……こうなった以上、どうにかして応えなければいけないことは理解している。私が何者なのか、どうして喋れるのか、なぜ猫の姿をしているのかーー私にだって分からないことだらけなのに、うまく応えられるだろうか。

 

 覚悟を決めて、顔を上げる。

 

 

「君は"女性"だな?」

 

「……そうよ?」

 

「ならよかった。野郎だったらどうしたものかと」

 

 

 一番重要な質問って、それ?呆れて彼を見上げると、彼は「重要だろう。野郎とティータイムなんて千ドル払っても願い下げだ」と真顔で言い放つ。

 

 

「さて、君の番だ」

 

「私の番?」

 

「そうさ。僕ばかり質問するのはフェアじゃないだろう?天才トニー・スタークに質問し放題だ。こんな機会はもう二度と巡ってこないぞ?何でも答えよう。億万長者になる方法、意中の異性を落とす秘訣……あぁ、アーマーの仕組みはNG。企業秘密だ」

 

 

 じっと彼を見上げる。

 彼はどうぞと言うように眉を上げた。

 

 きっと彼からしたら、私はかなり失礼な客だと思う。けど……

 

 

「私……あなたのこと知らないの」

 

「なるほど、そうか。君は人間ではないのか」

 

 

 トニーはショックを受ける代わりに、納得したような口ぶりで言う。

 

 まるで“人類なら全員トニー・スタークを知っている”のが前提であるかのように。実際、そうなのかもしれない。確信を持って否定できないくらい、私はこの時代について知らなかった。

 

 

「まぁいい。僕を知っているかどうかは、そうたいして問題じゃない。だろう?スターク邸の仕組みとか、魅力的に老ける方法とか」

 

「うーん……そうね」

 

 

 特に、ないけれど。彼なりの気遣いを無碍にするのははばかれた。あたりを見渡し自分が"したい"質問を探す。

 

 あ、そうだわ。

 

 

「じゃあ、このミルク、どこの?すごくおいしい」

 

「……うーん、やるね。降参だ。さっそく僕が答えられない質問がくるとは思わなかった。J.A.R.V.I.S.」

 

「はい、フレイヤ様がお召し上がりになっているのは、クロス・マウンテン農場から仕入れた有機ミルクでございます」

 

「だそうだ。気に入ったのならあとで十カートンほど送らせよう」

 

「10カートン?!け、結構よ。お気持ちだけいただくわ」

 

 

 この人工知能というのも随分と便利なものね。知らないことにも、瞬時に答えてくれる。人工知能と言うもの何かよく分からなかったが、機械仕掛けの家政婦のようなものなのだろう、とようやく理解する。

 

 

「さて、僕の番だ。……君は、何者だ?」

 

 

 スティーブのときと同じ質問。だが、トニーの声音には警戒心よりも純粋な好奇心が色濃く混じっていた。

 

 自分が、何者か。

 

 スティーブに問われたときも、答えに自信はなかった。今もそうだ。そもそも、自分が女神だなどと、この世界で素直に語っていいものか。きっと私が人間だった頃に"自分は女神だ"なんて語る人がいたらそう簡単には信じなかっただろう。魔法を見せられても、きっと悲鳴をあげて逃げまわっていただろうと思う。

 

 意識を思考からトニーへ戻す。

 

 

「ヴァナヘイムの女神、フレイヤよ」

 

 

 けれども私は嘘をつくのが苦手だった。

 嘘がバレて彼の顔が疑念に歪むのは嫌だった。

 つけこまれないように、あくまでも自分は"そう"なのだと示すようにはっきりと言う。あぁ、なんか今のって、すごくそれっぽい。

 

 信じているのか信じていないのか、トニーはわずかに眉を上げ、まるで珍しい生き物でも眺めるように目を細めた。それから興味深そうに温かい息を吐く。

 

 

「ほう……"愛と美の女神"か。これだけ美しいのも頷ける」

 

「知ってるの?」

 

「そりゃあ、天才でありヒーローである以前に、僕も一人の人間だ。時には神に願いたくなるときもあるものだよ。ーーなら、この姿は人間界に溶け込むための仮の姿というところか」

 

「え、えぇ、そう」

 

 

 危うく、そうなの?と聞き返しそうになったところをぐっと堪える。ただ見つめられているだけなのに、私の中にある緊張が天才の彼に伝わっているのではないかと心配になる。

 彼は私をじっと見つめ、その視線が毛並みから瞳、鼻先、輪郭のすべてをなぞっていく。

 

 

「見せてくれ」

 

「え?」

 

「君が本当にフレイヤなら、本来の姿は"この世で最も美しい女性"のはずだ。君がそれを証明してくれるのなら、僕は今後一切君の言葉を疑わないと約束しよう」

 

「……ちょ、ちょっと待って」

 

 

 フレイヤは、"女性の中の最も美しい"?初めて聞いた話だ。たしかに、フレイヤはものすごく綺麗だった。それこそ、"女性の中の最も美しい"と言われても納得できるくらいに。

 けど、私は、そうではない。フレイヤのような艶のある金髪も、吸い込まれそうな紅色の瞳もない。あるのはーーあるのは……私にあるものは、何?

 

 ……分からない。

 

 ふと気づく。

 自分が何を見てきたのか、どこで暮らしていたのかーーそういった景色や出来事の断片は思い出せる。けれど、自分の顔が、まったく浮かばない。

 鏡に映る自分を見たときの感覚も、誰かに名前を呼ばれたときの響きも、皮膚感覚さえも曖昧だ。

 まるで、"人間だった時の私"が、白い霧の奥に隠されているように。

 どんな性格だった?何を好み、何を嫌った?笑うときの声は?泣くときの癖は?何ひとつ、思い出せない。

 

 人間として生きていたはずなのに、自分という存在の輪郭が、まるで水に溶けて滲んでしまったかのようだった。

 

 

「フレイヤ、僕は君のことを信じたいんだ。でなきゃ君をS.H.I.E.L.D.に突き出さなきゃいけなくなる。僕としてもそれは避けたい。お互い平和的に行こうじゃないか」

 

 

 私が言葉に詰まったのを、拒絶の沈黙だと受け取ったのだろう。トニーは眉をわずかに下げ、悲観的な声色で"な?"と私を促した。

 

 そんなことを言われても。

 頭の中は、霧の中で迷子になったようにぐるぐると回り、答えなんて見つからない。

 それに、どうやって姿を変えるのかも……そもそも、自分の姿すら分からないのに。

 

 

「……できない」

 

「フレイヤ、それじゃ、」

 

「違う、私だってあなたに信じてもらいたいわ。けど、できないの。だって……やり方を知らない」

 

 

 つけこまれないように、平然を装うつもりだったのに。結局こうだ。私は彼みたいに天才じゃない。うまく立ち回る方法なんて知らない。ただ、正直に話すしかなかった。

 

 なんて不安定な存在なんだろう。思えば分からないことばかりだ。思えば、分からないことばかりだ。自分の姿も、神としての在り方も、どうして自分が選ばれたのかも分からない。胸を張って「神」だと言えるほど、私はフレイヤのような絶対的な存在からは程遠い。スティーブにも、トニーにも、疑われても文句は言えない。

 

 

「……というと?」

 

「わ、私、なったばかりなの。人間として生きていたけど、死んでしまって、それでーー」

 

 

 まるで堰を切ったように。今日会ったばかりの彼にーー彼がどんな人間なのかも分からないのに、気がつけば、助けを求めるように全て吐き出してしまった。

 

 昨日まで、この世界で名前を知っているのは、まだスティーブ・ロジャースだけだった。自分が"女神"になったことを分かっていたはずなのに、向き合わなかった。ただ、彼と過ごす時間が楽しかったから、それでいいと思い込んでしまった。そして、その彼にさえ疑われた。

 

 だから、この世界で名前を知った二人目の彼に、すがるしかなかった。

 

 

「もういい、十分伝わったよ。辛かったな、フレイヤ。君はよくやってる」

 

「ちがう、私、何もしてないの、何かを、すべきなのに……うぅ、ごめんなさい……」

 

「フレイヤ……すまない。君を泣かせるなんて、紳士失格だな」

 

 

 涙がぼろぼろと零れる。トニーの大きな手が、私の小さな後頭部を包み、抱き寄せる。その温もりに、抗う気にはなれなかった。

 いつから私はこんなにも弱くなってしまったのだろう。ーー否、覚えていないだけで、昔からずっと弱虫だったのかもしれない。

 

 

「ごめんなさい、今日初めて会ったばかりのあなたにこんなこと言って。大切なパーティもめちゃくちゃにした上に、こんなこと……」

 

「パーティのことは気にしなくていい。むしろ、退屈な金持ちの自慢話を聞かずに済んで感謝してる」

 

 

 私の目の周りの毛に乗った雫を掬い上げ、彼は私を慰めるように笑う。なんて優しい人なのだろう。

 

 

「今重要なのは、僕が君を泣かせた事実だ。紳士として、これほどダサいことはない。……挽回のチャンスをくれ。僕には世界一の頭脳がある。君が君自身を理解するための手助けをさせてくれないか」

 

「そんな、どうして……今日会ったばかりなのに。」

 

「こうなる運命だったのさ。時間は大した問題じゃない」

 

「私……あなたに返せるものが何もない」

 

「僕は自分が果たすべき責任を果たしたいだけだ。困っている女性を助けるのは、僕の趣味みたいなもんだ。それに、女神である君が本来の姿を取り戻す手助けができれば、僕の学術的好奇心も満たされる。見返りは求めない」

 

「でも……」

 

「あぁ、分かった、分かったよ」

 

 

 私が「でも」と言ったその次の息を吸う間すら逃さず、トニーは食い気味にかぶせてきた。

 

 

「じゃあこうしよう。君が姿を取り戻したら、改めて、僕が君を素敵なディナーに招待する。それでイーブンだ」

 

 

 彼はばちん、とウインクした。

 何も私が返せるように思えないけれど、そんなことでいいのだろうか。

 私が少し迷ったのを彼はイエスと捉えたのだろう。

 

 

「決まりだな」

 

 

 まるで、秘密の約束を交わす子供みたいに、彼はいたずらに笑った。

 

 こうして、女神の姿を取り戻すための、彼と私の奇妙な特訓が始まった。

 

 

 

 

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