98,99,100……
彼の胸板が浮き沈みするのを横で眺める。熱く息を吐き、ゆっくりと身体を起こした。額に光る汗が首筋を伝い、Tシャツの襟元を濡らす。そのまま迷いなく裾をつかみTシャツを脱ぎ出したのでぎょっとしてしまった。男性の上裸を見るのには慣れていない。固まっていると、彼がちらりとこちらを見る。飛び跳ねて、私は慌てて寝室に逃げ込む。
全く心臓に悪い。
彼が私を"人間の異性"として認識をしていないから故の行動だろうが、私の魂はまだ人間らしい部分がほとんどなのでどぎまぎしてしまうのだ。少し心を落ち着かせてまたリビングへ顔を出すと、彼はまた薄い板で誰かと喋っていた。
「あぁ、了解」
その薄い板をポケットにしまうと、まだ袖を通していなかったTシャツを乱雑に着込み、ジャケットを羽織って出ていってしまった。
パタン、と戸が閉じる音が聞こえる。
やっと落ち着くことができて一瞬息をついたものの、はっとして私も彼を追うように家を出た。
今日も全く良い天気だ。
雲はないけれど日差しは穏やかで、涼しい風が毛並みを撫でる。
思わず目を細めながら真っ直ぐ縁石の上を歩いていると、やがて隣に黒色の車が私の横に停まった。そちらを向き直すと、人がいるわけでもないのに、ドアがひとりでに開く。
「おかえりなさいませ、フレイヤ様」
「にゃ……(ありがとう……)」
軽く頭を下げて乗り込むと、ドアは静かに閉じた。車内は私の知る横並びの席ではなく、ドアと向かい合う長いシート。その中央に、私専用の柔らかなクッションが置かれている。ひと跳びでその上に落ち着くと、車は音もなく動き出した。
トニーは私の首飾りに"GPS"というものをつけたらしい。そうしてたしかーー 一定の位置を私が通ると、車が勝手に迎えに来るような仕組みにしたらしい。彼が自称する"天才"というのが紛れもない事実であることを感じる。私が"スマートフォン"という、スティーブが使っている薄い板を持っていないことを告げると、彼はたったの10分やそこらでこの仕組みをつくったのだ。
「スターク様は本日、技術会議のためシカゴへ向かわれております。ご帰宅は15時予定ですので、それまでゆっくりお過ごしください。到着後、ミルクをご用意いたします」
「にゃー(ありがとうございます)」
「とんでもございません」
J.A.R.V.I.S.は優しいロボットだ。姿が見えないからロボット……というのは少し違うかもしれないけど。
15時まで待ってくれと言われても、私は全く悪い気はしなかった。だって彼の家は面白いもので溢れてるし、なによりミルクがとても美味しい。今日は何が見られるのかしら、なんてわくわくしている間に、車はそのまま滑らかに滑走路へと入り込んでいった。
待っていたのは、鳥のような小さな飛行機。翼を広げたその機体に乗り換えると、ほどなくして大地を蹴るように空へ舞い上がった。
ものすごい速さで空を駆けるそれは、あっという間にニューヨークからロサンゼルスを繋いでしまう。雲海を抜け、夕陽を追い越すように飛ぶ光景は、私が人間だった頃の旅の常識では到底考えられない速度だった。
気づけば機体はするりと降下を始め、滑るようにトニーの屋敷の敷地へと着地する。夢のような移動の後、ドアが開き、降り立った私を待っていたのは広げられた彼の両腕だった。
「やぁ、おかえり、フレイヤ」
……あれ?
「にゃうにゃ……?(シカゴじゃなかったの……?)」
「君がくると聞いて会議はキャンセルしたんだ。女神様を待たせるわけにもいかないだろ?」
「ちょっと、そんなことしていいの?」
猫の毛がつくのも気にせず、彼はひょいと私を抱き上げる。
「どうせジジイに質問攻め食らうだけの退屈な会議だ。さあ、行こう」
「えらい人に怒られても知らないわよ……?」
「怒られるのには慣れてる。それよりもっとおっかないのと戦ってきたんだぞ?」
彼を言葉で表すなら、自由奔放。まさにそんな感じ。この言葉が彼以上に似合う人なんてこの世に存在しないんじゃないかと思う。
彼は私をラボの机に置くと、「そうだ、君に見せたいものがある」と言って"スマートフォン"よりも大きい薄い板を操作し始めた。
たしか、"パソコン"という名前だ。図書館みたいに調べたり、お買物も、なんでもできる魔法の板。
「北欧神話における"フレイヤ"という存在について調べた」
突然目の前に何かが横切ってびくっと飛び跳ねてしまった。
まるでポスターが宙に貼ってあるみたいに、透き通った光の集合体が、いくつもの絵を描いている。トニーが手を動かしただけで、宙に写真が浮き出したのだ。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだが。技術の進歩は素晴らしいだろう?」
「にゃあ……(え、えぇ、すごい……)」
しばらく見とれたあと、ようやくその内容に意識を向けた。
黄金の髪に、炎のような紅色の瞳をもつ美しい女性が描かれた古い絵画。周囲には複数の男性が控え、その首元には見覚えのある首飾りが燦然と輝いている。
私が人として生きていた時代よりも、さらに遠い昔に描かれたものだろう。粗く太い線にもかかわらず、その美は忠実に表現されていた。
「これを見てくれ」
トニーが指先を軽く滑らせると、今度は彩色された絵画が浮かび上がる。
そこに描かれていたのもまた、同じ女性ーーフレイヤ。だが、彼女は精緻に飾られたソリに乗っていた。その絵を見た瞬間、トニーが何を私に見せたかったのかすぐにわかった。
「……猫ね」
フレイヤの乗るソリを、猫が引っ張っていたのだ。
「君の今の姿、そのルーツはおそらくここだ。神話では、フレイヤの美しさは種族を問わず見る者を魅了したとある」
彼は宙に浮かぶデータを操作しながら、まるで自分の思考を声にしていくように続けた。
「そこで、仮説を立てた。君はこの世界に馴染むために、意図的に姿を猫に変えているーーもしくは、自分以外の手によって、変えられた。それこそ、旧フレイヤによって」
「……なるほど」
「もし僕の仮説が正しければ、旧フレイヤにできたのなら君にもできるはずだ」
彼の言葉は妙に説得力があり、否定する余地がないように思えた。
トニーはデータから視線を外し、真剣な眼差しを向けてくる。
「試したことは?」
「実は何度か……ただ人間の姿に戻れって思っただけだから、きっとやり方が違うんだと思うわ」
「ふむ。だが君は、自分が人間だった頃の顔を覚えていない。そうだな?」
「ええ……そう」
「生憎僕は種族上は人間ということになってるから、神の力の使い方は知らないが……何かが欠乏している可能性が高い。そう、たとえば、この姿を想像してみてくれないか?」
「えぇ、やってみる」
トニーに促され、ぎゅっと目を閉じる。
フレイヤと出会ったあの時のことを思い出す。ところどころ思い出せないけれど、彼女の美しい姿は薄まった記憶の中でも強く存在感を放っていた。
風になびく長い金髪、紅玉のような瞳、羽のように柔らかい衣。彼女がそっと私に微笑みかける。
これが、私の本来の姿?……分からないけど、きっと、そうなのよ。きっと、前からそうだったーー本当に?
一度疑念が頭をよぎる。
いいえ、私は彼女じゃない。彼女は……"フレイヤ"であり、私じゃない。私はどんな顔をしてた?私、私……
「……だめ、できないーー……どうしたの?」
思考をやめ、そっと瞼を上げる。
目を開けると、トニーがわずかに目を見開いていた。
ふと気づけば、ラボの机にあった資料も工具も、まるで嵐が通り過ぎた後のように散らばっている。
「フレイヤ、成功だ」
「えっ?」
成功?もしかしてと思って顔を下に向けるが、そこにはまだふわふわの毛もピンク色の肉球もまだそこにある。
「何も変わってないわ……?」
「いや、確かに変わろうとしてた。分からなかったのか?ほら、見てみろ!今、君がやったんだ!」
興奮しながら手を広げるトニー。何一つ理解ができていないが、どうやら部屋が散らかったのは私の仕業らしい。
「ごっ、ごめんなさい」
「何を謝ってる?君はもっと喜ぶべきだ!光が君を囲んでた、大きな第一歩だ!J.A.R.V.I.S.、今のを彼女にも見せてやってくれ!」
ぱっと宙に映像が映し出される。そこには私とトニーがいて、私の周りが突然光りだす。かと思ったらどこからともなく風が渦を巻き、部屋中をかき乱す。光は徐々に強くなり、私が目を開くと同時にぴたりと止んだ。
……すごい、全く、気づかなかった。
「今、何が足りなかったんだ?どうしてやめた?」
「自分の顔が思い出せなくて、それで……フレイヤの姿はフレイヤのもので、私じゃないような気がしたの、何となくだけど……」
「……生前の君か」
ぱっと思いついたように呟くと、トニーはこちらを見る。
「少し時間をくれないか?それから、生前の君について教えてほしい。現時点で分かることを全てだ。それからーー」
「ちょっと、今の何の音?」
コツコツコツと焦ったヒールの音が降りてくる。トニーがハッとして咄嗟に私を背中に隠す。彼の背中から少し顔を出して覗くと、スーツ姿のきれいな女性が眉を寄せてラボを覗き込んでいた。
「……これは、どういう状況?」
「や、やぁ、ポッツくん。今日も麗しいね」
「ちょっと……猫?」
「あぁ、まぁ、ちょっとね。"金持ちはヨットか猫を飼う"って言うだろ?僕は猫にしてみたんだ。燃費はいいし、毛並みもいい」
彼女の視線が私に落ちる。信じられないというように私とトニーを交互に見る。
「技術会議ドタキャンした理由が、猫?トニー、あなたまだ私に秘密にしてることがあったのね?」
話し方からして、きっとトニーの恋人なのだろう。呆れを含んだ温度でトニーを責める。彼はただ手伝ってくれているだけなのに、何だかものすごく申し訳ない気持ちになる。
彼女にも石を触ってもらって私から説明すれば誤解が解けるかも、と一瞬考えたが、同時に悪意がないとはいえ女の私が彼と秘密裏に会っていたと分かれば、それはそれで嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
ちらりと見ると、トニーは言葉を探して沈黙し、あの天才的な口先も妙に鈍い。猫の姿だし私にできることはーーあぁ、そうだ。その手があったか。
「にゃあ」
甘えた声を放つと、彼女の視線が私に向いた。
ぴょんと軽やかに床へ飛び降り、彼女の足に身体を擦り寄せる。
「にゃ〜〜あお」
「……っ!」
彼女のヒールの上に寝転んで、ごろんとお腹を見せると、かまってくれというようにふわふわの手で彼女の足をつんつん突いてみる。
彼女がしゃがみこむ。恐る恐るといったように私の頭のてっぺんを撫でたので、すかさず
「ぅにゃあ〜〜」
これみよがしに甘えた声をあげてみせた。
「……っ、…………っ!なんて……かわいいの」
「そうだろう?君も気にいると思ったよ。サプライズにしたかったんだが、バレてしまったものは仕方ない」
「……いいわ、今回はそういうことにしておいてあげる」
作戦大成功だ。
彼女はまたしばらくーーいや、相当長くーー私の頭やお腹を撫でてから、名残惜しそうに立ち上がった。
「まだ寄らなきゃいけないところがあるから行くわ。これを渡しにきただけだから。またね、子猫ちゃん」
そう言って私の頭を撫で、トニーに軽くキスをしてラボを後にする。
演技のつもりだったのに……最後のほうは純粋に彼女と過ごす時間を楽しんでいた気がする。
トニーは肩の力を抜き、安堵の息を吐いた。
「……女神さま、助かったよ。まるで本物の猫にしか見えなかった」
「にゃー……(ま、まぁね)」
本当は、神としての自分を忘れてすっかり猫に成りきりそうになっていたけれど、そんなこと口にできるわけもなく。
そんな小さな秘密を胸に秘めて、私はただ女神らしく、得意げに笑ってみせた。