「ーーさて、じゃあ改めて、生前の君について教えてくれないか」
トニーにそう言われ、私は天を仰いだ。薄い蛍光灯の光が、瞼の裏に滲む。どうにも集中できなくて、そっと目を閉じてみる。けれど、思い出せないのは意識の散漫さのせいではなかった。
――生前の私。
その言葉が胸の奥に重く沈む。けれど掬い上げようとしても、何も浮かんでこない。名前も、顔も、どんな性格だったかも。手のひらから零れ落ちる砂のように、あらゆる情報が曖昧で掴めない。私の中に残っているのは、ただ断片的な――記憶の影。
「……病院」
思わず口にした。
「病院?病院名は?」
「……分からない。でも……多分、ブルックリン。それから……白い壁の家」
「白い壁、ブルックリン。ふん、典型的アメリカンな曖昧情報だな。もうちょっとズバッとしたのないのか?」
彼の指先が宙に浮いた青白いデータを弄りながら動く。冗談めかした声なのに、その眼差しは真剣そのものだった。
「身の回りの人は?家族とか、友人とか」
家族?
その響きを反芻してみる。けれど、頭をどれだけ巡っても、それらしい影は見つからない。友人? ……私に、いたのだろうか。
「家族は……いない。ずっとね。友人も……大抵は、一人でいた」
口にしてみて、改めて気づく。なんて寂しい人生なのだろう。これまでそんなふうに考えたことはなかったけれど、客観視してみれば、ひどく退屈で孤独な生。思わず小さく自嘲が零れる。
そのとき、ふいに一枚の映像が脳裏をよぎった。
「……軍服」
「軍服……戦時か?」
「そう……それから、白い服を着た人が何人かいる。机が並んでいて……壁に旗が。鳥のマークが描いてあって、その真ん中に……文字がある」
脳裏の旗に視線を凝らす。滲んだインクのように、その文字が浮かび上がる。
「……SSR?」
「今、なんて言った?」
「SSR。……そう書いてある。戦略科学予備軍?」
「おいおい、冗談だろ。SSRの話を君の口から聞くことになるとはな。SSRのメンバーだったのか……?」
トニーの声が近くなった。瞼を開くと、彼が目を見開き、こちらを覗き込んでいた。その表情には、ただの興味ではなく、真実を突き止めようとする鋭さが宿っている。私はただ、首を傾げるしかなかった。
「……SSRって、何だったかしら?」
記憶としてその言葉は確かに存在するのに、私自身がどう関わっていたのかは全く分からない。断片だけが残り、肝心な部分がごっそり抜け落ちている。
トニーは小さくため息をついた。気が抜けたような声で「そうだよな」と呟きつつも、すぐに姿勢を戻し、青白いデータの群れを器用に操る。
「どうやら早急に解明する必要がありそうだな。謎解きは嫌いじゃない」
「にゃあ〜?(でもこれだけで解明できるかしら?)」
「安心しろ。SSR関連の資料なら腐るほど残ってる。君が本当にそこにいたなら、いずれ引っかかるはずだ。つまり――可能性は見えてきた、ってとこだ」
彼の視線はデータに釘付けで、表情は硬い。遊び半分に見せかけて、頭の中は高速で回転しているのだろう。私は机から軽やかに飛び降り、彼の足元へと移動する。
どうして、こんなにも思い出せないのだろう。ほんの少し前まで、私は確かにその身体で息をしていたはずなのに。けれど、思い出そうとすればするほど、霧が深まっていく。まるで最初から、その記憶など存在しなかったかのように。
……女神となった代償なのだろうか。その瞬間のことさえ、曖昧で霞んでいる。
「にゃー(トニー)」
顔を上げて呼ぶと、彼はデータの渦に視線を泳がせたまま「あぁ、聞いてるぞ」と返事がある。
だがその声色は、八割方聞き流しているときのそれだ。私は小さくため息をつき、気まぐれにラボの中を歩き出した。視界が低いせいで見えるのは机の脚やケーブルばかりだ。退屈凌ぎに椅子を伝ってぴょんと別の机に飛び乗った途端、金属のアームが口を開けてこちらを覗き込んできたので、思わず身体を竦める。
しかしアームは、私を確認すると首を傾げるように動いた。まるで「こんにちは」とでも言っているように。
「にゃー(こんにちは)」
私がぺこりと頭を下げると、アームも真似をして同じ動きを返す。……案外、可愛いかも。そんなふうに笑みを浮かべていると、彼の足元に置かれた黒い冊子が目に留まった。
「にゃ……?(アベンジャーズ計画……?)」
アルバムのような厚みの冊子。表紙の文字を前足で引っかくが、重くて開かない。ちらりとアームに視線をやる。
「にゃあ(ねぇ、手伝って)」
アームは小刻みに震え、明らかに逡巡していた。ご主人の私物を勝手に開くのは気が引けるらしい。だが私はさらに小首を傾げ、こてんと可愛らしく見せて催促する。
「にゃあ〜お(見てないわ。お願い)」
その仕草が効いたのか、渋々ながらアームは器用に冊子を開いてくれた。
目に飛び込んできたのは、赤と黄金に輝く機械の写真――そして、その横にトニーの顔写真。
中に貼られていた写真に、私の目は引き込まれた。
「にゃあう?(これ彼なの?)」
尋ねると、アームは得意げにカクンと頷いた。私は思わずトニーへと視線を向け、改めてラボを見渡した。無数の装置、金属の匂い、光を散らすデータの数。すべてが、この写真と彼を繋げているのだと理解した。
さらに隣のページへと目を滑らせ――息を呑む。
「……にゃー(スティーブ)」
赤と青のスーツを纏った、あの人。夢か幻かと思っていた姿が、写真としてそこにあった。胸がざわめき、視線が離れない。平和に見えていた日々の裏で、まだ戦争は続いているのか。疑問と動揺が胸に押し寄せる。
そのとき、不意に人間の手が横から伸びてきて、冊子はぱたりと閉じられた。
「イタズラはメッだぞ、子猫ちゃん」
顔を上げると、いつの間にか真横にトニーが立っていた。鋭い眼差しでアームを睨むと、アームは気まずそうに体を引っ込めた。
トニーはひょいと私を抱き上げ、軽々と宙に浮かせる。
「スティーブと知り合いだったの?」
「スティーブ?さて、どのスティーブだ?なにせ知り合いが多いものでね」
「スティーブはスティーブよ。赤と青いスーツを着てた。私、今彼の家に住まわせてもらってるの」
私がそう告げると、トニーは一瞬言葉を失ったように眉を寄せ、それから深々とため息を吐いた。指先で額を押さえ、天井を仰ぎ見る。
「……おいおい、冗談だろ。よりによって、喧嘩中の飼い主がキャプテン・アメリカ?」
「キャプテン・アメリカ?」
「知らないのか。まぁ、僕の顔を見てもピンと来ないくらいだ。驚くほどでもないな」彼は肩をすくめ、薄く笑った。「戦時中のポスター・ボーイさ。星条旗みたいなタイツを着て、国民に『勝利のために貯蓄を!』なんて叫んでた男だ。君が生きていた時代なら、新聞の一面に飾られてもおかしくない有名人だったと思うけど」
その声音は皮肉をふんだんにまぶしているのに、不思議と柔らかな響きを帯びていた。
「どういう経緯で彼のところに?」
「この世界に来た時に、変な男たちに売り飛ばされそうになってたの。……そこを助けてくれたのよ。行く当てもなかったから、そのまま彼の家に住まわせてもらってる」
「ふん、ヒーローらしいお迎えだな。……じゃあどういうわけだか、偶然、キャップの近くに落っこちたわけだ」
「えぇ、そう。出会う前は彼のことなんて知らなかったわ」
「まぁ、だろうな。君はほとんど記憶を失ってる」
彼は顎に手を添え、静かに思索へと沈んだ。琥珀色の瞳が私を射抜く。単なる興味本位ではない。未知の存在を解き明かすべく、科学者としての全神経を集中させている眼差しだった。スティーブと彼がどんな関係なのかは知らない。けれど、決して友好的ではないことだけは、その表情から読み取れた。
トニーはふいに指を鳴らす。その仕草に心臓が跳ねる。突破口でも見つけたのかと期待を込めて彼を見上げると、返ってきた言葉は実にあっけらかんとしたものだった。
「時間をくれ」
「……そうね、簡単なことじゃないもの」
「誤解するなよ。僕が手こずってるわけじゃない」彼はすぐさま付け加える。「ただ、他に処理しなきゃいけない案件がある。世界を救う系のやつとか、ディナーの予約とか」
「戻れるかも分からないのに、もう予約するの?」
思わず問い返すと、彼は当然だろうと肩を竦めた。
「戻れる。あの光を見て僕は確信した。僕は金持ちだけど、無駄遣いは嫌いなんでね」
その断言は、根拠を超えた自信に満ちていた。無謀ともいえるのに、彼がそう言うと「きっとそうなのだ」と思えてしまう。胸の奥が熱くなり、うまく言葉を紡げなかった。
「さて、女神様?ディナーには何をご所望かな?」
「……ふふ、そうね。お魚がいいわ」
「猫らしい回答だな。それとも、人間だった頃から猫らしいものが好物だったのか?」
「えっ?違う!……成熟したのよ。一人前の……猫として」
こんな状況で女神を自称するのも烏滸がましいような気がして、
苦し紛れに言葉を濁すと、彼は堪えきれずに声を立てて笑った。軽やかな笑い声が部屋の空気を満たし、胸の奥がむず痒くなる。恥ずかしさに耐えきれず、思わず鋭い視線を向ける。
「怒っても可愛いんだな、子猫ちゃん」
「子猫じゃないもの! 私はもうにじゅう……あれ? 待って……。私って何歳になるの? 七十年経ってるから……きゅ、九十六……?!」
自分で言っておきながら衝撃に目を見開く。トニーは「あー」と気の抜けた声を上げ、腕を組んで考え込んだ。
「いやいや、生まれ変わったんだろ?なら単純に考えればゼロ歳リスタートだ」
「……そうかしら?! ゼロ歳……それならいいのよ、それなら」
私は勢いよく頷いた。胸の奥にあった重苦しい計算が一気に霧散する。そんな私を眺めながら、トニーは楽しげに口角を上げた。
「よし決まりだ。ゼロ歳の子猫ちゃん、初めてのディナーに相応しいレストランを見つけてやる。君がスプーンを落としても、ウェイターが舌打ちしないレベルの店をな」
「それは……ありがたいわね」
「礼はいらない。どうせ爺さんはデートに誘うセンスが皆無だろうからな。少しは大人の世界を知っておいて損はないだろ」
皮肉混じりのその言葉には、妙な優しさが滲んでいた。彼はことさら軽口を叩きながら、私の不安を紛らわせてくれている。そんな気がして、胸の奥に小さな灯がともるのを感じた。