すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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アベンジャーズ編
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 鉄の匂いと汗の香りが入り混じる、薄暗い地下のトレーニングルーム。湿った空気の中に、金属の鎖がわずかに揺れる微かな音が漂う。

 そこに響くのは、サンドバッグを叩く鈍い衝撃音と、息を吐き切る低い呼吸だけだった。

 

 スティーブは眉間に深く皺を刻み、視線を落としたまま、無心に拳を振るい続ける。拳が革を叩くたびに、関節の奥に鈍い痛みが蓄積していく。それでも止められない。

 

 耳にこびりついた銃声が、

 

 

 「絶対帰ってきて。そうしたらスティーブと、バッキーと私、三人でまた映画を見に行きましょ」

 

 

 彼女の、不安が滲むあの笑顔が、

 

 

 「キャロンが…………死んだって」

 

 「…………え……?」

 

 

 親友の、絶望した顔がーー

 

 怒りに任せた強烈な一撃で、サンドバッグが鎖ごと大きく揺れ、鉄のフックが悲鳴のような金属音を響かせた。静寂の空間に、スティーブの荒い息遣いだけが反響する。

 

 あの日の光景は、何百回も頭を巡った。 

 

 超人血清を打ち込まれ、キャプテン・アメリカという名を与えられた。だが、その肩書きも力も、守りたかった命をすべて救えるわけではなかった。親友を失い、戦場で数え切れないほどの仲間を失った。手のひらから零れ落ちる命の感触が、今も皮膚の奥に焼き付いている。

 

 額を流れ落ちる汗を手の甲で乱暴に拭い、新しいサンドバッグを吊るし直す。鎖がかすかに鳴る。その動作の途中で、耳の奥に声がした。

 

 

 「スティーブ」

 

 

 ……彼女だ。

 

 

 「スティーブ」

 

 

 何度も、何度も呼びかけてくる。

 戦争が終われば、笑顔で迎えてくれると当たり前のように信じていた。だが、その信頼はあまりにも脆かった。突然、音もなく崩れ去った時、胸の奥に走った冷たい痛みを、今も忘れられない。

 

 怒りと後悔をかき消すように、拳を振るう。革が潰れる鈍い音が、心臓の鼓動と重なって響く。

 

 ふと、白い猫の姿が頭をよぎった。

 

 シロが家に来てからというもの、空虚で"生き延びているだけ"だった日々が、少しずつ色を取り戻しているようだった。

 朝、トレーニングを始めると、眠たそうな顔でちょこんとやってきて、丸まってじっと見つめている。スケッチを覗き込み、描き終わると足元にすり寄ってきて、喉を鳴らし、毛の柔らかな感触を押し付けてくる。

 ただそこにいるだけで、自分は一人ではないと感じられた。

 

 彼女と意思疎通ができるようになった時、最初はヒドラの実験か、S.H.I.E.L.D.の監視なのではないかと疑った。時代がどれだけ変わったとしても、猫が言葉を話すなどあり得ない。だが、その双方ならやりかねない、と考えるには十分な過去があった。

 

 けれども、もうとっくにそんなわけがないこのは分かっていた。

 

 理由は数えきれないほどある。あまりにも無防備だったり、"人間らしい"よそよそしい態度だったり、何よりもあの日自分のことを語らった彼女の目には、嘘があるようには思えなかった。

 そう分かっていながら今彼女のことを思い出すのには、理由がある。けれども、どうしてもそれを、認めたくない。

 

 

 「だめ、行かないで。怪我しちゃうわ」

 

 

 ーー違う、彼女は

 

 その邪念を振り払うように、さらに強く拳を叩き込む。

 

 

「眠れないか?」

 

 

 響いてきた低く枯れた声が現実へ引き戻す。

 

 その方を一瞥すれば、黒いコートの男ーーニック・フューリーが立っていた。

 

 

「……七十年眠ったから十分だ」

 

「ならば外へ出て、復帰を祝い、世界を見ろ」

 

 

 まるで訓練教官に諭されているような口ぶりだ。やる気が削がれ、スティーブは視線を逸らしながら、固く巻き付けたテーピングを解き始める。

 

 

「……戦争中に眠りにつき、起きたら"勝った"と聞いたが……多くを失った」 

 

「多くの間違いがあった。……ごく最近もな」

 

「任務ですか?」

 

「そうだ」

 

「外の世界へと戻れと?」

 

「世界を救え」

 

 

 短く鋭いその言葉とともに、フューリーは一枚の用紙を差し出した。白い紙の上に、見覚えのある輪郭があった。だが、二度も見ることがないと思っていた。

 

 

「……ヒドラの秘密兵器」

 

「ハワード・スタークが君を探した時、海から引き上げた。……彼は考えたんだ。この4次元キューブが、無限のエネルギーを得るための鍵だと。世界はそれを、求めていると」

 

「……奪ったのは?」

 

「ロキという男だ。彼は、この世界のものではない」

 

 

 その言葉に、スティーブの胸がざわめく。

 

 脳裏に、家で待つ白猫の姿がよぎる。彼女もまた、"この世界のものではない"。だが、そのことをフューリーに口にするつもりは毛頭なかった。

 

 スティーブは眉間に皺を寄せ、渡された資料を凝視する。紙の上の文字と図面は、かつての戦場の記憶を呼び起こし、胸に重い沈殿をつくる。

 

 

「ーー協力するのなら、君には多くの情報を与えねばな。世界は驚くほどに変わったんだ」

 

「……今更、何を見ても驚かない」

 

「驚く方に10ドル賭けよう」

 

 

 これ以上話すことはない。スティーブはサンドバッグを抱えカバンを手に取る。フューリーの声がその背中を追った。

 

 

「部屋に資料を置いておいた」

 

「部屋に?」

 

「今更、驚かないんじゃなかったか?」

 

 

 もう会話を終わらせたはずなのに、足が勝手に止まる。

 胸の奥がわずかにざわつく。

 

 部屋にはシロがいたはずだ。今日だって出て行く時、少し離れたところからじっとこちらを見つめていた。丸い瞳は眠たげなのに、耳だけはこちらの足音を逃すまいと立っていた。今の今だっているはずだ。

 

 フューリーはふっと薄く笑う。

 

 

「孤独を紛らわすために猫を飼うのは珍しくない。君にも人間らしいところがあって安心したところだ」

 

「……放っておいてくれ」

 

「そういうわけにもいかないんだ、キャプテン。あれはただの猫じゃない」

 

 

 その言葉に、スティーブは眉をひそめた。

 そんなことは、自分が一番よく分かっている。

 

 いつから、そのことを知っていた?

 このロキという男が現れてからか、それともーーずっと前から、計画的に。手段を選ばないこの組織のことだ、どこでどれだけの情報を掴んでいるのか、まるで見当がつかない。彼女と直接言葉を交わしてきた自分でさえ知らない事実を、彼らは握っているかもしれない。

 

 フューリーの口ぶりからして、S.H.I.E.L.D.が監視のために彼女を送り込んだ、という線は消えた。皮肉なことに、その一点では胸の奥でわずかに安堵すら感じる。だが同時に、彼女の存在が組織の監視下にあるという事実に、深い嫌悪が湧き上がった。

 

 

「彼女の身柄はこちらで預からせてもらう」

 

 

 低く響くフューリーの声は、宣告のようだった。拒否の余地を含まない。

 

 スティーブは静かに彼を睨む。

 S.H.I.E.L.D.が預かるーーそんな言葉を信じられるはずがない。信頼できない組織に、彼女を預ける?それは、盾を手放す以上の無謀だ。

 

 

「ノーと言ったら?」

 

「残念ながら、彼女はイエスと言ったんだ」

 

「彼女が?」

 

 

 耳を疑う。

 あれほど警察に連れて行かれることを怖がっていたのに?自分以外の知らない場所で過ごすことを怖がっていたのに?そんな彼女が、あっさり承諾するとは思えない。

 

 

「君に随分懐いているようだな。君に危害を加えないことを約束する代わりに了承した」

 

「……やっていることが悪党だな」

 

「ひどい言い草だ。我々にそのつもりはなかった。彼女が勝手に勘違いしただけだ」

 

 

 スティーブの奥歯が軋む。

 

 彼女がなぜあそこまで自分に懐いていたのかは、分からない。自分は、動物にも人にも、無条件に好かれるような柔らかい人間ではないと自覚している。だが、あの小さな存在がそばにいることで、戦後のこの孤独な世界で、初めて呼吸がしやすくなった。

 

 S.H.I.E.L.D.が手段を選ばない組織であることは知っていた。だが、あまりにも、やり口が汚い。

 

 

「安心しろ、彼女は今本部で検査を受けている。焦らないでもそのうち会える」

 

 

 その言葉は慰めのようでいて、逆に胸を冷たく締め付ける。

 

 ぐっと拳を握りしめた。

 

 この男を殴っても意味はない。それは分かっている。だが、次に会うとき、彼女が無傷で、怯えていないことを願わずにはいられなかった。

 

 

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