すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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「にゃ〜(ねぇ)」

 

「うわぁあっ?!」

 

 

 ぴょん、と机の上に飛び乗った瞬間、予想外の大声が響き、私まで思わず毛を逆立ててしまった。

 

 バナーは、どうやら私がラボに入ってきたことに気づいていなかったらしい。そのまま慌てたように椅子ごとぐらりと傾き、派手に後ろへひっくり返る。

 

 

「い"っ、たた……」

 

「にゃっにゃあ〜?(ごっ、ごめんなさい、大丈夫?)」

 

 

 慌てて机から飛び降り、軽やかな足取りで彼の元へ駆け寄る。床に手をつきながら、ずれたメガネの位置を直す彼は「な、なんだ、君か……」と息を吐き、安堵の色を滲ませた。上半身をよろよろと起こす動作がどこか危なっかしくて、私は思わず体を擦り寄せる。

 

 首飾りに触れていないため言葉は通じないが、ごめんねというように頭を押し付けると、彼は自然に私の頭頂を撫でた。その指先は、思ったよりもずっと優しい。

 

 しかし、はっとしたように手を引っ込め、

 

 

「ごっ、ごめん。今の、かなり失礼だったよね?勝手に触るなんて……」

 

 

 としどろもどろに謝る。

 

 

「にゃあ〜〜(撫でられるのは好きだから大丈夫よ)」

 

 

 わざと大きく鳴くと、意味までは分からなくとも何か通じたらしい。彼は肩の力を抜き、困ったような、それでいてほっとした笑みを浮かべた。

 

 バナーが立ち上がるのに合わせて、私は再び机の上に飛び乗る。金属の感触が肉球をひやりと撫で、思わず身を丸めた。その様子を見て、彼もふっと口角を上げ、椅子に腰を落とす。

 

 

「君も留守番かい?」

 

「にゃ」

 

「あぁ……そうか」

 

 

 軽く促すと、彼はためらいがちに私の首飾りの宝石へ指先を伸ばし、そっと触れた。これでようやく会話ができる。

 

 

「そう、私もお留守番。あそこにいてもつまらないから」

 

「うん、分かるよ。あそこは……なんだか息が詰まりそうだ」

 

「そうなの。どこにいてもフューリーに見られてる気がして」

 

「君も?僕も同じこと感じてたところさ。もうラボにいなくてもいいんだけどね、何かすることがあるようなフリしてる」

 

「ふふ、そのおかげで私にも逃げ場ができたのね」

 

 

 視線が合い、自然と笑みがこぼれる。

 

 正直、初めてハルクの映像を目にしたときは息が止まりそうなほど驚いた。しかし、こうして言葉を交わす今の彼からは、鋼鉄の暴力ではなく、静かな温もりと優しい匂いしか感じられない。ラボに避難して正解だったと心の中で頷く。

 

 

「君は行かなかったんだね」

 

「えぇ、私はアベンジャーズとは違うの」

 

「そうなの?……たしかに君のデータはなかったな……じゃあ、どうしてここに?」

 

「実はよく分かってないのだけど……"ソー"が私をアズガルドに連れて行きたいみたいで、少し話をしに」

 

「ソーが?……じゃあ君、女神様か何かなの?」

 

 

 バナーの瞳が見開かれ、その奥に純粋な好奇心とわずかな怪訝が宿る。

 

 彼は私について何も知らないらしい。それが嬉しいようで、自ら口に出すのがなんだかはばかれた。警戒されたくなかったのだ。

 

 S.H.I.E.L.D.の施設に着いてから、まるで"危険人物"というような扱いを受けてきたから、自分がこの世界においてどれだけ厄介な存在かを知り、余計にそう思ったのだ。

 

 

「えぇ、その、ヴァナヘイムの女神よ」

 

「えっーー」

 

「でも!お願い、そのままでいて。そうだって思ってほしくないの」

 

 

 彼の反応に被せるように言う。彼は驚いた表情のまま私を見る。

 

 

「私、自分のことがよく分かってないの。女神だっていうほど立派じゃないし、自分の力の使い方すらも分からない。だから、ただの"フレイヤ"として話してくれると嬉しいわ」

 

 

 バナーは再び目を見開き、それから視線を私に固定したまま、何かを考え込むように沈黙する。彼があまりにも語らないから小首を傾げると、彼は「あ、いや……」と首を横に振った。

 

 

「似てるな、って思ったんだ。ごめん、一緒にされたくないだろうけど」

 

「そんなことない。あなたも、力の使い方がわからないの?」

 

「できるようにこれまでいろんな方法を試してきた。でもーーどうかな。強い怒りを感じると、頭を出すんだ。"もう一人の僕"がね」

 

 

 "もう一人の僕"とは、言わずもがな、あの映像で見た緑色の巨人のことだろう。

 

 たしかに、似ている。だからこそ分かる。きっとそれについて多くは語りたくないはずだ。

 

 

「それじゃ、似たもの同士でーー」

 

 

 話題を変えようとしたその瞬間、ビービー、と耳障りな警告音がラボの空気を震わせた。

 

 

「……帰ってきたみたいだね」

 

「えぇ……思ってたよりはやいのね。それだけみんな強い証拠かしら?」

 

「……うん。そうだといいけど」

 

 

 バナーが視線を外へ向ける。私も釣られてそちらを覗くと、武装したS.H.I.E.L.D.のエージェントたちがぞろぞろとラボ横を通過していく。金属の靴音が硬く響き、その列の間から一人の姿が現れた。

 

 ロキだ。その目がこちらを捉えた瞬間、背筋が冷たくなる。彼は気味の悪いほど整った笑みを浮かべ、何事もなかったように通り過ぎていく。

 

 

「…………どうして彼笑ってるの?」

 

「……分からない。けど、いかれてる」

 

 

 いかれてるーー確かに。地球の支配を企む時点で、正気ではない。けれど、あの笑みの裏にある意図が読めないことのほうが、よほど不気味だった。

 

 

「ーー呼ばれたから僕はいくよ。君は?」

 

 

 連絡を受けたらしく、ぴっと薄い板ーースマートフォンを耳から外し、私に尋ねる。

 

 

「……そうね、私も行くわ。連れてってくれる?」

 

「え?あ、あぁ。もちろん。僕でよければ」

 

 

 ぴょん、と勢いよく彼の胸元に飛び込むと、慣れない手つきで彼は私を受け止めた。ラボの扉を押し開けるその腕に、少しだけぎこちなさが混じっている。私をこぼさないように気を遣いながらラボの扉を開け、歩き出す。

 

 彼の足の歩幅に合わせると大変だろうから頼んだけれど、なんだかかえって彼の方が大変そうだ。「大丈夫?」と尋ねると、「あぁ、うん、平気」と返事があったので、そのまま身を預けることにした。

 

 ラボを抜け、広い廊下を進む。金属とガラスが混じった独特の匂いが鼻先をかすめ、遠くから低く響く声が耳に届いた。

 

 

『ーー逃げようとしてガラスを引っ掻きでもすれば、鋼鉄の檻ごと一万メートル落下する。いいな?蟻とブーツだ』

 

 

 ロビーに差し掛かると、フューリーの声が空気を震わせた。しかし彼の姿は見えない。次に聞こえたのは、冷たく張り付いたようなロキの声。あの檻の部屋から音声が流れているのだと悟る。

 

 視線を巡らせると、スティーブとナターシャが無傷で椅子に腰掛けているのが見え、胸を撫で下ろした。さらに目をやればーーソーだ。写真で見たソーが腕を組み真剣な表情でその音声を聴き入っていた。

 

 彼が私に目もくれないことにひそかに胸を撫で下ろす。

 

 

『見事な檻だ。私を入れる檻ではないな』

 

『お前よりずっと強い奴用だ』

 

『……あぁ、噂は聞いてるよ。心のない獣。人間のフリをしている……』

 

 

 バナーが私を抱える手に少し力がこもった。

 

 何気なく聞き流していたが、今の言葉は彼を指しているのだと気づく。……嫌な言い方をするものね。

 

 

『お前も必死だな、怪物たちを集めるなんて』

 

『私が必死だと?我々に戦争を仕掛け、制御不能の力を奪った。平和を語りながら、殺しを楽しむ。必死にさせたのはお前だ……後悔するぞ』

 

『おぉ……あと一歩だった。悔しいだろう。

あのキューブを手に入れ、無限の力を得られた。……何のために?』

 

 

 まるで檻に囚われた者の声ではない。彼の言葉の端々には、捕らえられた立場であることを忘れさせるほどの余裕と、冷たい愉悦が滲んでいる。スーパーヒーローたちに囲まれ、空に浮かぶ要塞の中に閉じ込められているというのに、その態度は挑発的でさえあった。

 

 

『ーー"温かい光"を人間が共有しても、結局真の王には勝てない』

 

『ーーその王が雑誌でも読みたい時は知らせろ』

 

 

 ぷつり、と映像が切れ、空気が急に軽くなる。ロキとのやり取りはひとまず終わったようだ。

 

 

「ロキは興味深いね」

 

 

 最初に口を開いたのはバナーだった。その声色に怯えや動揺はなく、むしろ分析するような落ち着きがある。先ほどのロキの挑発にも、表面上は動じていないように見えて安心する。

 

 

「時間稼ぎさ。つまりーーソー、きみはどう思う?」

 

「"チタウリ"という軍がいる。アズガルドではなく異世界の軍だ。ーーその軍で地球を襲う。ロキは地球を手にし、奴らはキューブを」

 

 

 ソーの声は静かだが、その奥に硬い決意と焦りが感じられた。

 

 チタウリ……聞き慣れない名だが、異世界の軍がミッドガルドに侵攻するという時点で、常識外れの危機であることは想像できる。胸の奥で、冷たいものが静かに広がっていった。

 

 

「別の宇宙から来る軍隊か」

 

「別の扉を開くため、セルヴィグをさらったんだ」

 

「セルヴィグ?」

 

「宇宙物理学者だよ」

 

「友人だ」

 

「彼ともう一人の仲間がロキの魔法に……」

 

 

 ソーは言葉を切り、眉間の皺をさらに深くした。その横顔には、弟を想う複雑な色と、裏切りの痛みが入り混じっているように見えた。

 

 そして今度は、長く胸に引っかかっていたらしい疑問を、スティーブが口にする。

 

 

「なぜロキは捕まった?軍も連れず……」

 

「ロキにかまうな。どうかしてるんだよ、まともじゃない」

 

「言葉に気をつけろ。ロキはアズガルドの者ーー俺の弟だ」

 

「彼、二日で八十人も殺したのよ」

 

「……養子だ」

 

 

 二日で八十人……とんでもない、大量殺人鬼だ。その上で彼は楽しそうに笑っていた。先ほど彼が笑いかけてきたのを思い出すと、身震いがした。

 

 もう彼は捕まっているというのに、彼の笑顔の裏にはまだ何かあるに違いない。そう思うと、彼と同じ建物にいることでさえも恐ろしく感じた。

 

 

「敵の計画から考えよう。イリジウムで何を?」

 

「安定化だ」

 

 

 バナーの言葉に即答するように、聞き慣れた軽快な声が飛んできた。そちらに目を向ければ、トニーとコールソンが何やら話しながらこちらに歩いてきているところだった。

 

 よかった、彼も無事だったのね。胸の奥で安堵が広がり、飛びつきたい衝動を必死に抑える。今は会議中。私が感情のまま動けば、間違いなく空気を乱してしまう。

 

 

「時空の扉が閉じないようにしてるのさーーフレイヤ!」

 

 

 しかし彼が私を呼んだ。その瞬間、堰を切ったように抑えていた衝動があふれ、私はバナーの腕から勢いよく飛び出した。

 

 トニーは私を抱き上げ「あぁ、かわいい子猫ちゃん。元気そうで安心したよ」と柔らかな手つきで毛並みを撫でた。喉の奥で自然とぐるぐると音が鳴る。

 

 

「雷神様には何もされてないか?デカブツくんにも?喧嘩中のご主人にも?」

 

「ちょっと待て、どういうことだスターク。なぜきみが彼女を知ってる?」

 

 

 スティーブが思わず立ち上がった。その動きで私はようやく気づくーーあ、そうだったわ、私がトニーと訓練をしていたことは、まだスティーブには内緒だった。

 

 私が慌てて言葉を探すより先に、トニーがひょいと私の向きを変え、スティーブと目を合わせられないようにしながら、笑いを含んだ声で応える。

 

 

「すまないね、キャプテン。大声では言えない関係なんだ」

 

「にゃ?!(トニー?!)」

 

「……彼女を離せ」

 

「待て」

 

 

 鋭い視線を向けながらスティーブが歩み寄ろうとしたその瞬間、止めたのは意外にもソーだった。止めるというよりは、会話に割って入ったという表現が正しいだろう。

 

 

「今、この猫のこと、何と言った?」

 

「おっと……彼に自己紹介がまだだったか?すまない、ネタバレするつもりはなかったんだが」

 

「応えろ、スターク。応えろ!!」

 

 

 ソーが突然声を張り上げる。これまでこちらを見もしなかった彼が急に感情を露わにしたことに、びくりと肩が跳ねた。

 

 

「そう大声を上げなくても聞こえてる、聞こえてるよ」

 

「トニー、私、彼と話すわ」

 

「……そんなに気になるんだったら彼女と直接話したらいい」

 

 

 トニーは、私の声がソーには届かないことを承知のうえで、私がそう告げた時にだけ目を合わせ、そして私の体をくるりと回し、ソーの正面へ向けた。

 

 ソーは信じられないものを見るような目で私を凝視し、ゆっくりと手を伸ばして、私の首飾りに触れる。

 

 

「ブリージンガメン……じゃあ、君が……」

 

「……そう、フレイヤよ」

 

 

 ブリージンガメン。この首飾りの名前だ。彼女から譲り受けた時から、名は教わっていないはずなのになぜか知ってた。けれどその名前を音として聞くのは初めてだった。それが、彼がミッドガルドの人間ではないことを改めて実感させる。

 

 

「フレイヤ……なぜそんな格好をしている?俺はてっきりバナーの飼い猫かと」

 

「えっ?……わ、分からない。気づいたらこうだったの」

 

「そうか。まぁいい、いずれにしろ君とロキはアズガルドへ連れ帰る」

 

 

 "連れ帰る"ーー彼がそう口にした途端、空気が一気に凍りついた気がした。トニーが私を抱える腕にぐっと力を込め、ソーの背後ではスティーブが冷たい眼差しで彼を睨みつけている。二人の間に見えない火花が散った。

 

 ソーはその視線を感じ取ったのか、眉間に皺を寄せる。

 

 

「なんだ……?」

 

 

 彼自身、この反応を予想していなかったらしい。困惑とわずかな苛立ちがその声色に混ざっていた。私も正直、何が起きているのか理解しきれていない。

 

 

「ソー、その話はロキの件が片付いてからだ」

 

 

 張り詰めた空気を断ち切ったのは、フューリーの低い声だった。その言葉にソーは渋々視線を外し、トニーとスティーブを睨み返しながら一歩下がる。

 

 スティーブは最後まで座ろうとしなかったが、トニーが私を抱えたまま作戦の話に戻すと、ようやく不承不承腰を下ろした。それでも彼の瞳には氷のような冷たさが残っている。

 

 ……なんだか、嫌な雰囲気。

 

 胸の奥でそう感じたが、それを口にすれば火種を増やすだけ思い、ぐっと黙っておくことにした。

 

 

 

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