その後、トニーとバナーはキューブの所在を突き止めるため、足早にラボへと戻った。私はというと、トニーの腕に抱えられたまま流れで連行されるかたちになり、再びラボに足を踏み入れる形となった。
彼らはロキの杖を慎重に検査しながら、次々と機器を操作していく。私は邪魔をしないよう、少し離れた作業台の上で丸くなり、ただ静かにその様子を観察していた。
「ガンマ線の数値はキューブと同じだが……検査に数週間はかかる」
「クラスタに直結すれば600テラフロップで動かせる」
「ふむ、驚くほど速いな」
飛び交う言葉は私には馴染みのない専門用語ばかりで、何を意味しているのか皆目見当もつかない。ただ、互いの言葉を受け止め、即座に応答を返すその姿は息が合っているように見えた。
トニーがスティーブともあんなふうに話せたらいいのにな。二人ともいい人だし。……なんて外から見ている私は思ってしまうけれど、信念や覚悟の方向性の違いが生んだ溝は、きっと私が思っているよりずっと深いのかもしれない。軽率に口を挟むべきではない、と私は密かに自分に言い聞かせた。
「それで、アズガルドに行くのか?」
「…………にゃ?(えっ?)」
完全に研究の話だけだと思っていたので、不意に向けられた問いに、間の抜けた声が出てしまった。
私が退屈そうに見えて気を遣ってくれたのだろうか。そう考えたが、トニーは手を止めることなく、むしろ片手間にこちらへ視線を向けている。私なら到底無理だ。同時に二つのことをしようとすれば、間違いなく口から変な言葉が飛び出してしまう。
アズガルド。ソーが私を連れて行くと口にしたとき、トニーは彼の言葉をどこか疑わしげに受け止めていた。
邪魔にならぬようそっと近づき、首飾りを彼に触れさせる。
「……分からない。けど……きっとこの戦いが終われば分かるわ。ソーと話すことになってるの」
「やつは君の意見は聞かないだろうな。"ロキ、フレイヤ、いっしょ、帰る"!以上だ」
「……そうかしら」
片手に見えないハンマーを握る真似をして、ソーの口調を大げさに真似るトニー。先ほどの共闘で、そういう人物像として彼を認識したらしい。笑うべきか迷い、私は曖昧な苦笑を浮かべた。
ーーまぁ、でも、
「それならそれで、仕方のないことだと思うの。だって、私……なにも知らない。きっとアズガルドに行ったほうがたくさん知れると思うし」
そう言うと、トニーは作業する手を止めて、正気かとでも言わんばかりに眉を上げた。
「僕の知ってるアズガルド人は今のところ二人だが、どっちもおつむがちょっとーーや、かなりイカれてる。あの二人を母体とするのはまともなアズガルド人からしたら不名誉かもしれないがーーまぁ、どのみちよっぽど人間界の方がマシだと思うぞ」
「……ソーのこと嫌いなのね?」
「初対面で握手代わりにハンマーを食らわせてきたのは、あいつが初めてだ。そういう相手は、僕の中では堂々たる"とても嫌い"のカテゴリに入る」
それはもう、フォローの余地もない断言だった。視線を横にやると、バナーも困ったように肩をすくめている。……ソーの話をこれ以上続けるのは、賢明ではなさそうだ。
「だが、もし仮にだ」
話題をどう切り替えようかと思案していたその時、トニーが再び口を開いた。
「君にとって最善の判断がソーとともにアズガルドに行くことならば、事が片付く前に君に共有しておきたい事が何点かある」
口調は軽やかでありながら、その実、言葉の選び方は慎重だった。まるで真剣さをカモフラージュするような声音。
けれども何について話そうとしているのかは、私にはすぐに察しがついた。胸の奥で、ひそかにその話題を待ち望んでいたからだ。息を呑んで彼を見上げると、トニーは私の反応を読み取ったように小さく頷く。
「バナー、彼女と少し個人的な話をしても構わないか?」
「かまわない。僕は席を外した方がいいかな?」
「いいえ、その必要はないわ。あなたもここにいて」
バナーは一瞬、逡巡するように視線を揺らし、本当に良いのかと問いかけるような眼差しを向けてきた。けれどこれから話すことを彼に隠したいことでもないと思ったのだ。
トニーは机の上を手早く探り、やがて少し古びた封筒を取り出した。紙の角は丸く擦れ、長い時間を経てきたことを物語っている。
「分かってはいると思うが、生前の君のことだ」
「……えぇ」
「情報は限られていたが、ブルックリン出身で、かつ1945年空港付近での内戦で死亡した人物はそこまで多くなかった。出生についてはいくつか不明点があるが、君の記憶の断片や背景から場所を絞り込んだ結果ーー
おそらく君が死亡したのはロンドン市内……そして」
トニーは封筒から一枚の写真を抜き取り、私の前へ差し出した。そこには、四人の男性と一人の女性が、建物の前に整列して写っていた。
「この男性に見覚えは?」
「……」
「……フレイヤ?」
「私、彼女を知ってる」
気がつけば、無意識のうちにそう口にしていた。
次の瞬間、はっとして、自分が質問とは的外れな答えを返してしまったことに気づく。だが、トニーは咎めるどころか、むしろ瞳をわずかに輝かせ、口角を上げた。
「ビンゴだ、じゃあ恐らく君はーー」
彼女のこと、知ってる。トニーが指した男性の隣で、毅然とした面持ちを浮かべる美しい女性。記憶の奥底に、確かに彼女の姿があった。どこで見たかも、どんな会話をしたのかもーーそもそも彼女が私にとってどんな存在だったかも分からない。
それでも、胸の奥がざわつく。理由は分からない。なぜだか、私が彼女を見た時、私は良い気持ちではなかったような気がしたのだ。
「ーーフレイヤ、大丈夫か?」
「…………えっ?何?ごめんなさい、何か喋ってた……わよね?」
思考に沈み込みすぎて、ほとんど彼の言葉を聞き逃してしまった。せっかく私のために調べてくれたのにーーそう思って眉を下げたが、トニーはむしろさらに前のめりになった。
「何か思い出しかけているな?なら好都合だ。彼女の名はペギー・カーター。S.H.I.E.L.D.創設メンバーの一人だ。そして、こちらがハワード・スタークーー私の父。そして、君の父親は……彼、エドワード・エヴァンズではないかという結論に至った」
「エドワード・エヴァンズ……」
名前を口の中で転がしてみる。しかし、胸の奥から湧き上がるはずの懐かしさは、驚くほどに、何もなかった。
もう一度、写真に視線を落とす。
トニーが指し示したその男性は、隣に立つペギーやハワードよりも、二回りほど年長に見えた。
「彼は1945年に娘をロンドン・ヒースロー空港付近の内戦によって失っている。そしてその後、一度SSRを離れたが戻り、第二次世界大戦後に私の父らとともにS.H.I.E.L.D.を創設した」
トニーはデータのホログラムを指先で操りながら、淡々とした口調で続ける。
「で、君が生前に見たっていう建物。あれは多分、SSRのロンドン戦時司令部だ。君が話してくれた特徴とドンピシャな上に、エドワード・エヴァンズの娘がそこを訪問した記録まで残ってる。君が幼い頃から両親がいなかったという証言とは矛盾するが……」
まるでパズルの最後の一列を埋めていくみたいに、私の記憶とトニーの言葉がはまっていく。
ーーなのに、だ。
どうしても分からない。写真まで見せられても、父の姿はひとつも思い出せない。生まれてから今まで、そんな人はいなかった気がする。最後のピースだけ形が合わず、完成に届かないパズルみたいな、じれったい感覚が胸の奥に残る。
トニーが宙に浮かぶデータを軽く叩くと、一枚の写真が宙に浮かび上がった。
「ーーキャロン・エヴァンズ。彼女に見覚えは?」
馴染みのある、白黒で荒い一枚の写真。そこに映っているのは、絹のような金髪と炎のような瞳ーーではなく、少し癖のある濃い髪と、淡い色の瞳を持ち、友人たちに囲まれて明るく笑っている女性だった。背景からして、何かの集合写真らしい。
分からない。
彼女を覚えてはいない。私の知る自分とは違い、写真の中の彼女は明らかに誰かに愛され、大切にされていた。周囲の友人の顔も一人も知らない。だけどーー
「……彼女は知らない。けど、この場所……私の通っていた大学だわ。それに、この服……私のお気に入りだったワンピースと同じ」
言葉にした途端、頭の中で何かがかちりと噛み合う。
ーー私は、キャロン・エヴァンズ?
分からない。けれど、もしそうだとしたら、どうして彼女をーーいや、自分自身をーーここまで忘れてしまっているのだろう。
トニーは、にやりと笑うでもなく、真剣な目でモニター越しに私を見た。
「ほら来た。やっぱりそうだ。君は死んで神になるまでの間に、ある条件下で特定の記憶を消されてる。僕が思うに、"自分自身"に関する情報だ。両親、友人、自分の名前まで、存在ごと最初からなかったかのように。だから君が出生について勘違いしてても、筋は通る」
「……記憶を、失ってる」
「そうだ。誰の仕業かまでは断言できないがーー"女神さま"ならやれるんじゃないか?ーーそれこそ、以前のフレイヤであれば。君を神として生まれ変わらせる際に不都合だったから消した……」
トニーの話を一度全て真実だとして飲み込むと、恐ろしいほど断片的な記憶の納得がいく。それこそ、"フレイヤ"と話をした際の記憶が曖昧なこと。トニーが言う通りならばーーもし彼女が私の記憶を操作したのならば、消す過程の記憶ごと消えていてもおかしくない。
ーーじゃあ、本当に、彼女が……
宙に浮かぶデータの光を、触れられないと知りつつ指先でなぞる。
「キャロン・エヴァンズ……」
それが、私の前世の名前。
最後のピースは、ずっと裏側にひっくり返っていたようだった。それを戻して、あるべき場所に差し込んだ途端ーー金色の光が目の前を埋め尽くした。
そっと目を瞑る。
脳裏に、彼女ーー私自身ーーがいる。
そうよ、私はキャロン・エヴァンズ。長らく背景のようにぼやけていた前世の記憶に、鏡の中で見た自分の姿が一つずつ戻ってくる。
それから、……そうよ。エドワード・エヴァンズは私の父。大好きな、父。私の記憶に戻ってきた彼はーーあの写真よりもずっと、いつも楽しそうだった。
どうして今まで忘れていたのだろう。写真を見ても、ちっとも思い出せなかったのだろう。
そっと瞼を上げる。
目の前で、トニーとバナーが同時に目を見開いていた。バナーはロキの杖を机に押さえつけているが、それ以外の軽い書類や器具は、以前ラボでやらかした時のように宙を舞い、散らばっている。
「あっ、ごめんなさい、私またーー」
慌てて紙を拾おうとして、自分の"手"に気づく。もちろん今までも手はあった。けれど、ふわふわとした猫のそれではなく、確かに血が通う人間の手だった。
「美しい……」
トニーが熱い息を吐くように一言だけ呟く。その後ろでバナーも短く頷いた。
頬に触れる。温かく、柔らかくーー確かに人間の肌の感触。
「わ、私……」
トニーは私から視線を逸らさず、後ろ手で金属パーツを一つ掴み、差し出す。
磨かれた表面に、私の顔が映った。
そこにいるのは、キャロン・エヴァンズ。確かに私の顔なのに、髪は透き通るような白金、まつ毛まで同じ色で、炎のような紅い瞳を縁取っていた。