最初のうちはドアすら自分の手では開けられないこの体不便で、何度もため息をついたものだった。
けれど、日々が過ぎるにつれて、細い足や小さな肉球の感触にも慣れ、やがてそれは当たり前のものになった。自分の思い通りに動けなくても、道具を掴めなくても、それほど問題ではないと割り切れるようになっていた。
それでも心の片隅では、ずっと思っていた。
不安で押しつぶされそうな時。嬉しくて胸がいっぱいの時。もし両腕で思い切り抱きしめることができたら、と。
あのふわふわの短い前足では、誰かにしがみつくのが精いっぱいだったから。
溢れ出す感情に抗えず、私は勢いそのままにーー猫のときとほとんど変わらぬ跳躍力でーートニーに飛びついた。けれど今回は違う。人間の腕で、彼の首にぎゅっと巻きつくように抱きしめることができた。
「トニー……!ありがとう、私、戻れたわ!ありがとう……!」
耳に届くのは、自分自身の声。その事実が胸の奥まで沁み込んで、もうどうしようもなく嬉しかった。
「あぁ、まぁ……この歳になって、女性とのハグで動揺する日が来るとはな。まったくの想定外だ」
「ふふ、そうね。なんだか変な感じよね。ずっとあの姿だったから」
腕をほどき、改めて彼と向き合う。視線が自然に重なるのも、猫のときにはできなかったことだった。トニーはぎこちなく私の肩に手を置き、何か言いかけるーーその直前、私は嬉しさに耐えきれず、バナーの方へ振り返った。
「博士!見て、私、戻れたわ!」
「あ、あぁ、うん、よかったね」
「えぇ!ねぇ、ハグしてもいい?」
「えっ?」
彼の反応が肯定だか否定だかを知る前に、バナーにもぎゅっとハグをする。人の手があるのが、それが自由に使えるのが嬉しくてたまらなかった。
だが、背中に回るはずの腕は、一向に感じられなかった。顔を上げると、バナーはまるで警察に銃を突きつけられた容疑者のように、両手を頭の横に上げ、必死に私に触れないようにしていた。
もしかして、女性が苦手だったのだろうか。そう考えると、急に申し訳なさがこみ上げてきた。
「フレイヤ、その姿で誰彼かまわずハグしない方がいい。君のためにも、相手のためにも。女性の扱いに慣れてない男には結構効くんだ、こういうの。……ちなみに僕は、いつでも大歓迎だ。ほら、おいで」
手招きされ、私は苦笑した。たしかに、人の姿に戻った以上、配慮は必要なのかもしれない。
「ごめんね、バナー博士」
「や、いい。少し、驚いただけだから」
しゅんと肩を落として謝ると、バナーはぎこちなく口元を緩めた。その優しさにほっとし、私はトニーの方へ戻る。再び腕に包まれると、その温もりに一瞬だけ目を閉じた。しばらくして「よく見せてくれ」と促され、彼の腕から離れる。
今度のトニーはおどけた様子を一切見せず、真剣な顔つきで私の顔に手を伸ばした。まるで高価な宝石を扱うような慎重さで。
瞳の奥を覗き込み、眼球や結膜の色を確かめ、唇や口腔の形を軽く触れて確かめる。輪郭や耳の形にも指先を滑らせ、続いて私の腕を取って、血管の色を眺めた。
「完璧な人間だ……」
低く呟かれたその声に、私の胸は少し熱くなった。だがーーその時だった。
コツ、コツ、と短い間隔の足音が、廊下の向こうから近づいてくる。
その音色に、反射的に耳が反応した。
「彼だわ」
「彼?」
トニーが小首をかしげる。
私は思わず彼の手を取って、顔をぐいと近づけた。
「お願い、彼には私の姿が戻ったこと、秘密にして」
その一言で、トニーの目がわずかに細められる。
「彼……キャプテンか」
「そう。お願い。私……彼の前では、"ただのシロ"でいたいの。バナー博士も……お願い」
あの足音は、猫のときに何度も耳にしたものだ。人間の耳になって少し聞き取りは鈍くなったはずなのに、それでも間違えるわけがなかった。
ぎゅっと目を瞑ると、すっと視線が低くなる感覚ーー身体があっという間に縮み、再び四足の姿へと戻っていた。ラボの扉が開くのは、それとほぼ同時だった。
「……なんだこの惨状は?」
「きみん家のペットがお転婆でね、この有様だ」
えっ?私?
ぴんと背筋が伸びる。また私のせいにされた……とむくれようとしたが、事実として自分の仕業であったことを思い出す。
黙って尻尾を巻き、足元で大人しくしていると、スティーブが険しい目つきでトニーを睨みつけた。
「くだらない嘘をつくな、スターク。それに、シロはペットじゃない」
「なんだ、自覚があったんだな。なら話は早い。彼女は君のペットではない。つまり、僕が彼女とどういう関係だろうが君には一切関係がないということだ。以上。まだ何か?」
トニーは口早に言い捨て、再び目の前のデータに向き直った。指先が忙しなく動き、浮かび上がるデータが次々と切り替わる。さっきまで和やかだった空気は、冷たい水を浴びせられたように凍りつく。
スティーブは眉間に皺を刻んだまま、一歩踏み出した。
「そう怖い顔をするな。フレイヤが怖がってる。おいでフレイヤ。ご主人は今ご機嫌斜めだ」
私は視線を右に左にさまよわせる。どっちの足元に行っても居心地が悪そうだ。
「君にとっては全てが冗談か?今はふざけるような時間じゃない」
「笑えるならな」
「みんなを危険に晒して笑えるのか?」
二人の声が、交互に空気を切り裂くように飛び交う。私は耳をぴくぴくと動かしながら、そのやり取りを見上げるしかない。
「問題に集中しろ」
「集中していないとでも?なぜ今長官は僕達を招集した?真相の解明には全ての情報が必要だ」
「……長官は隠し事を?」
「彼はスパイだぞ。秘密だらけだ。博士も苛立ってる」
トニーの言葉に、ようやく話題が自分の方へと振られたバナー博士は、困ったように眉を下げて首を横に振る。
さっきはずっと横から眺めているだけで、何の話をしているのかわからなかった。てっきりロキの杖について調べているだけと思っていたのだが、時折それだけではないように感じたのは気のせいではなかったらしい。難しい話だった上にあまりにも自然な仕草だったから横で聞いていたのに全く察してすらいなかった。
「あー……僕は仕事さえ終われば……」
「博士」
「……さっき、ロキは"温かい光"だって言ってた」
「聞いたよ」
「僕が思うに、それは君のことだ」
バナーが視線で示したのはトニーだった。
トニーは無言で、自身が食べていたスナック菓子をバナーに差し出す。バナーは肩をすくめて受け取る。
「タワーのことはロキも知っているはずだ」
「スターク・タワー?あのデカくて醜い……ニューヨークのビル?」
スティーブの言葉に今度顔を顰めるのはトニーの方だ。
「動力源は自給動力のアーク・リアクター。一年は稼働し続ける」
「試作段階だが。グリーンエネルギー開発だ」
「スタークを研究班に入れず、なぜS.H.I.E.L.D.がエネルギービジネスを?」
「調べるべきだな。機密データが入手できたらすぐに」
「君はーー」
「J.A.R.V.I.Sが入手する。S.H.I.E.L.D.の秘密がわかるぞ。食うか?」
軽い調子でお菓子の袋を差し出すトニー。
けれど、その軽さが逆にスティーブの表情を固くしていく。
部外者の私には、S.H.I.E.L.D.が何かを隠しているらしいーーそれ以上のことは、正直よく分からない。私は尻尾を揺らしながら、床の上から見上げるだけだった。
「だから君は敬遠されるんだ」
「知性を恐れる諜報組織は優れてはいない」
「これはロキの罠だ。我々が結束しないと戦争が始まる。与えられた命令に従え」
「主義に反する」
「主義の方が大事か?」
「星のついた衣装を着た役立たずは誰だ?」
その瞬間、空気がビリ、と震えた気がした。
声の温度は冷たいのに、周囲の温度はじわじわ上がっている。
どうしよう。
二人を止めたいのに、私の口から出せるのは「にゃあ」という間の抜けた声だけ。かといって飛び上がって間に割り込む勇気もなく、私はただ二人の間を小さくうろうろして、タイミングを計るふりをしながら爪を床に引っかける。
「スティーブ、怪しいと思わないか?」
そこでバナーが静かに口を開いた。緊張の糸が一瞬だけ緩む。私は思わず耳をそちらへ向ける。
「……キューブを見つける」
スティーブはそれだけを言い残し、背を向けた。硬い足音が遠ざかり、ラボの扉が閉まる音が響く。一歩遅れて追いかけようと足を踏み出したけれど、その頃にはもう、ドアは無情に閉じていた。
私はその場に立ち尽くし、ぽつんと扉を見上げる。背中がやけに寒く感じるのは、空調のせいじゃない。
「あのお堅いじいさんのことは放っておけ」
「にゃあ……(でも……)」
「フレイヤ、しばらく一緒に住んで情が移るのも分からなくはないが、気を遣ったところで君が損をするだけだぞ」
トニーは顔をしかめたまま言い放った。先ほどのやり取りは、スティーブにもトニーにも非がある。二人は生き方も信念のあり方もあまりに違っていて、互いに相容れない。それは彼ら自身の問題であって、私がどうこう口を挟むことではない。
けれど、スティーブがそのように言われるのはどうにも胸が痛んだ。私は思わず作業台に跳び乗り、トニーと視線を合わせるように首輪へ顎を寄せる。彼が肩をすくめ、仕方なさそうに指先を触れてくれた。
「気を遣ってるんじゃないわ。ただ、スティーブが悲しむのを見たくないの」
「悲しむ?むしろ随分と気が立ってるように見えたが?」
「そうね。でも、彼も人間だから。あなたもよ、トニー。私はあなたの冗談楽しくて大好きよ。不安な気持ちも吹き飛んじゃうもの」
「……食うか?」
ぽつりと差し出されたのは、机の端に置いてあった袋菓子。トニーは相変わらず表情を崩さないまま、私の頭のてっぺんをこしょこしょと撫でながら袋を揺らした。「え、それって猫も食べられるのか?」とバナーが驚いた声をあげると、トニーはばつが悪そうにお菓子をすっと引っ込めてしまう。
私は「にゃ」と鳴いて机から軽やかに飛び降り、扉の前まで歩いて振り返った。開けて、と頼む代わりに、もう一度鳴き声を洩らす。
「……まったく、君はお人よしだな」
「にゃあ(ありがとう)」
小さな吐息と共に、扉が音を立てて開いた。私はその隙間を縫うようにすり抜け、廊下へ駆け出す。
スティーブを探さなくちゃ。
ヘリキャリアの内部は金属と機械油の匂いで満ちている。けれど、彼の匂いはその奥に確かにあった。洗剤の香りと、どこか懐かしいインクのような匂い。子供の頃に嗅いだ紙の束を思わせる、誠実で乾いた香り。鼻をひくつかせれば、細い糸を辿るように進んでいける。
通路は広いのに閉塞感があった。白い蛍光灯に照らされた壁がどこまでも続き、無機質な空気が肌を撫でていく。すれ違う兵士や職員たちは私を一瞥し、けれど咎められることもなく通り抜けていく。
「にゃ……?」
やがて匂いは角を曲がった先へと伸びていた。だが、その途中でふと足が止まった。ーー何かに呼ばれたように。
空気が変わった。背筋に冷たいものが走る。甘ったるいような、しかし底冷えする匂い。鉄錆にも似て、同時に香水のように鼻に残る奇妙な香気。理性よりも本能が"行くな"と囁いていた。けれど、身体は逆らえなかった。
私は吸い寄せられるように別の廊下へ逸れた。足音を吸い込むような静けさがそこにはあり、遠くで低く唸る機械の音が反響している。
やがて重厚な硝子の壁に囲まれた広間に出る。中央には檻のような構造体が据えられていた。透明な壁の中に、ひとりの男が腰を掛けている。
彼は私を見ていた。まるでずっと前から、そこに現れることを知っていたかのように。
白磁のような顔に、緑の瞳が冴え冴えと光る。細い唇がゆるりと吊り上がり、にんまりとした笑みが浮かんだ。
「……」
声は出なかった。出せなかった。
背筋にぞわりと震えが走る。心臓が小さく跳ね、爪が床をきゅっと鳴らす。
その男ーーロキは、檻の向こうから楽しげに私を見下ろしていた。