笑顔は不気味なほど静かで、目だけが猛禽のように鋭く私を捕えている。
逃げなければ。そう思った瞬間、私は小さく身を縮めた。
けれど視線は離れない。檻の中の彼が、たったひとり、私だけを見ているようで。足は檻の前から動かなかった。
「ーーミッドガルドにいると聞いて驚いた」
声は滑らかで、わざとらしいほど緩やかだった。言葉の一つ一つが耳朶に絡みつき、蛇の舌のように胸をなぞる。
「ヴァナヘイムで気ままに暮らしていればいいものを。男どもを転がし、宝飾と酒に囲まれてーーあの女のように、な」
その言い方には、嘲りがあった。彼は長椅子に凭れ、指を組んだまま薄笑いを崩さない。
「見るたびに違う男を連れていた。実に愚かな眺めだったよ。まあ、男どもも等しく阿呆だ。喜んで膝を折り、あの女に心を差し出すのだから」
私は言葉を返せなかった。胸の奥がざらりと波立ち、言い返したい気持ちと、何も知らない自分の無力さがせめぎ合う。口を開いても、声にならない。
「……あなたは、彼女を知っているの?」
ようやく絞り出した問いに、ロキはわずかに目を細めた。
「彼女は私の……いや、ソーの伯母だ」
「ソーの……伯母?」
思わず呟く。知らなかった。知らなかったからこそ、胸がざわついた。ーーだからソーは、私を迎えに来たのだろうか?血筋ゆえに?思考が絡まり、足元が揺らぐ。
「フレイヤ」
名を呼ばれ、はっと我に返る。檻の中の男は、変わらぬ笑みでこちらを見据えていた。
「君の力は重要だ。私とともに来い」
胸の奥で何かが跳ねた。
「……私の、力?」
「知らないのか?」
ロキは心底愉快そうに目を細めた。
「……なるほど。何も知らず、S.H.I.E.L.D.の連中にいいように利用されているわけだ。哀れだな」
利用される?私が?どういうこと?戸惑いのまま問い返そうとすると、彼は畳みかけるように言葉を重ねた。
「君の力は、世界の運命を変えうる。……フレイヤ」
囁きは檻を越え、胸の奥底に直接落ちてくる。
「君の前任は愚かだった。未来を見通す力を持ちながら、決して使おうとはしなかった。救えた争いも、止められた惨禍もーー彼女はただ座して見過ごした。己の責務から逃げ、傲慢に、吝嗇に、力を閉ざした」
淡々と告げられる言葉は、真実とも虚構ともつかず、ただ私の心を乱す。
「だが、私には分かる」
ロキの声が低く沈む。その眼差しは鋭く、けれど同時に甘やかで、抗いがたい熱を帯びていた。
「ーー君は異なると。そうだろう?」
喉が渇いた。心臓が早鐘を打ち、指先が震える。頭では警告を鳴らしているのに、心は彼の言葉に引き寄せられていく。
「フレイヤ。ともに世界を救おう」
檻越しに伸ばされるような声。まるでそこに踏み出せば、手を取られてしまうかのように。
ーー吸い込まれる。
恐怖と陶酔がせめぎ合う。息が詰まりそうだった。
その瞬間。
轟、と世界が震えた。
爆発音が遠方から響き、床がぐらりと揺れた。ここ、収容区画に直撃したのではない。だが、確かにヘリキャリアのどこかで強烈な衝撃が走ったのだ。天井の蛍光灯がきしみ、鋼鉄の壁が悲鳴を上げる。私は咄嗟に身を伏せ、耳を押さえた。空気がびりびりと震え、焦げた匂いが通路を這ってくる。
恐る恐る顔を上げると、目の前のガラスの檻の中。そこだけはまるで別の世界のように静かで、男は長椅子に腰を掛けたまま微動だにしなかった。ロキーー彼の口元には、相変わらず不敵な笑みが浮かんでいる。
混乱の中でも、彼だけは揺らがない。その笑みは、すべてが己の手の内であると告げていた。まるで未来すら仕組まれているかのように。
私は拳を強く握りしめた。負けてはいけない。この笑みに飲まれてはいけない。
「……本当に、あなたがしていることは、世界を救うためなの?」
声は震えていたが、それでも口に出した。問わずにはいられなかった。
ロキの瞳がわずかに細まり、笑みが深まる。
「そうさ、フレイヤ」
名前を呼ぶその声は甘やかで、耳を撫でるように落ちてくる。
「何も分からないんだろう?不安で仕方ないはずだ。ある日突然"神"としての責を負わされ、見知らぬ土地に投げ出された。可哀想なフレイヤ。ーーだが安心しろ。私と君が力を合わせれば、世界を救える」
胸の奥にじわりと冷たいものが広がる。優しくも聞こえるその言葉の裏に、鋭い棘が潜んでいる。
「……世界を救う者は、罪のない人を殺したりはしないわ」
必死に返す。だがロキは、楽しげに片眉を上げた。
「ふっ……おとぎ話のように純粋だな。だが、より多くを救うために犠牲はつきものだ」
彼の声は低く、しかし説得するように熱を帯びている。
「君にべったりのキャプテン・アメリカも、アイアンマンもーー救わなかった命は数え切れない。いや、彼らは"救えなかった"と正義を掲げるのだろう。だが本質は同じだ」
「違う!」
思わず声が上ずった。
「彼らは、救わなかったんじゃない……!」
「本当にそうか?」
ロキは口角を吊り上げる。
「一人と六人、片方しか救えない状況ならば、彼らは六人を救う。では、見殺しにされた一人はどうだ?ーー君の力があれば、七人全員を救えるのだ、フレイヤ」
言葉が胸に突き刺さる。視界が揺れ、心が揺さぶられる。ロキの瞳が檻越しにこちらを捕え、逃がさない。
「さあ、共に行こう」
その声に合わせるように、檻の扉が音もなく開いた。
「……っ」
血の気が引いた。逃げ出そうとしたが、足がすくんで動かない。ロキがゆるりと立ち上がり、こちらへ歩み出る。
「奴に耳を貸すな、フレイヤ!」
鋭い声が響き、振り返るとソーが駆け込んで来るのが見えた。黄金の鎧に稲光を背負い、その姿はまるで戦場の雷神そのものだった。
「ソー!」
全身に張り詰めていた緊張が少しだけほどけて、思わず叫ぶ。
だが、その安堵は一瞬で崩れ去った。
ソーは迷わずロキへ突進し、腕で押し戻そうとする。だがロキの指先がわずかに動いた瞬間、檻の中の魔術が弾けた。
次の瞬間、檻に押し込められていたのはソーの方だった。厚い硝子の内側に閉じ込められてしまったのだ。
胸の鼓動が跳ね上がる。
「また引っかかるとは」
ロキは心底楽しそうに口角を上げた。
ソーは怒りに燃えた目でロキを睨みつけ、ハンマーを振り上げた。轟音と共に、ハンマーがガラスを叩きつける。厚い硝子はひび割れ、鋭い音を立てた。
だが、それと同時に檻を支えている機械が唸りを上げ、檻全体が動き始める。
何かをしなければ。そう思うのに、足が動かない。頭も真っ白になる。
叫ぶべきか、走り寄るべきか、それとも何かを壊すべきか。けれど、どの選択も正しいのか分からない。私はただ立ち尽くし、爪が食い込むほど床を踏みしめることしかできなかった。
そんな私を愉快そうに眺めるかのように、ロキは肩を揺らして笑った。
「我々は"不死身"と呼ばれている。……では、試してみようではないか」
彼が操作盤に手を伸ばす。その刹那ーーロキの仲間が唸り声をあげて床に崩れ落ちた。私は弾かれるようにそちらを振り返る。
「そこを離れろ」
低くよく通る声。コールソンだ。重々しい兵器を構え、ロキに真っ直ぐ銃口を向けている。その存在は、まるで暗闇に差し込む光のように心強く思えた。だが同時に、妙な不安が胸の奥でじわりと膨れ上がる。
ロキはゆっくりと操作盤から手を離し、薄く笑みを浮かべる。その眼差しは、獲物を弄ぶ蛇のようだった。
その瞬間だった。
頭の奥で、鋭い痛みが弾ける。視界がちかちかと白く明滅し、意識が引きずり込まれる。頭の中に、警告のように映像が流れ込んでくる。ーーコールソンの胸を、ロキの杖が突き破る。血に濡れた光景。その背景は、まさに今目の前にあるこの部屋。
「これはどうだ?君の兵器を基にした試作品だ。私さえ威力を知らない。試そうか?」
ロキの声が耳に重なる。
「にゃ、ーー」
気づいた時には、もう遅かった。
脳裏に流れ込んだ映像が、そのまま現実へと重なった。ロキの杖がコールソンの胸を容赦なく貫き、鈍い音と共に深く刺さる。コールソンの顔が苦痛に歪み、そしてゆっくりと膝を折った。
私は声をあげようとしたが、喉が凍りついたように動かない。恐怖と絶望で全身が固まり、ただ目を見開いて立ち尽くすしかなかった。
「やめろーー!!」
ソーの怒号が檻の中から響く。分厚い硝子をハンマーで叩きつけ砕こうとする。ひび割れは広がるが、檻を支える機械が唸りを上げ、びくともしない。
私は必死に息を吸い込む。叫びたいのに声にならない。恐ろしくて、足が床に縫いとめられたように動かない。こんな時に、何もできない自分が情けなかった。
ロキはそんな私の姿を見て、楽しげに微笑んだまま、悠然と操作盤を叩いた。
「フレイヤ、いいのか?私を止めなくて」
ふと、ロキが手を止め、私を見た。
その目は冷たく、私の心を見透かすようだった。ずっと、彼は私に直接語りかけていた。他の誰でもなく、フレイヤに。だからこそーー何もできない今の私の意思そのものを、残酷に突きつけている気がした。
「……どうしたら、止めるの?」
絞り出すように問いかける。
「私とくると約束しろ」
「フレイヤ、よせ!」
ソーが檻の中から拳を叩きつけ、声を張り上げる。その声は確かに私を揺さぶるけれど、どうしても視線を逸らせなかった。
私は唇を噛みしめ、震える声で言った。
「分かった、行く、行くわ」
「ほう、勇敢だな、フレイヤ。これで、晴れてただの役立たずではないことが証明できたわけだ」
ロキは愉快そうに目を細める。その言葉の直後だった。
檻が大きな轟音と共に動き、底が外れた。
一瞬、何が起きたのか理解できなかった。けれど遅れて気づく。ロキが最後のボタンを押したのだ。檻は開かれたのではない。真下に投げ落とされたのだ。中にはまだソーが囚われていた。
私は愕然と立ち尽くした。
「どうして……」
「私とくると約束しろと言っただけだ。そうすればやめるとは言っていない。さぁ、フレイヤ、約束通り行こうではないか」
「そんなこと……!」
「約束を破るのか?いいさ、言っていればいい。君は恐ろしいほど無力だ」
「やめーーっ!」
ロキの手が伸びてきた時、強烈な衝撃が走り、彼の体が横へ吹き飛んだ。煙と焦げた匂い。視線の先で、倒れたままのコールソンが試作兵器を握りしめていた。
「フレイヤさん、逃げて。彼は君を狙ってる」
かすれた声。血の気を失った頬。その必死な言葉に胸が締めつけられる。彼を、なんとかしなければ。そう思い、姿を人に変え、彼のぐったりと倒れた頬に手を添える。
「あぁ、コールソン、だめよ。私、私、止められたかもしれないのに」
「……君は、何もしてはいけなかったんだよ。正しい、判断をしたんだ」
「そんな……」
「逃げるんだ」
どうしても受け入れられなかった。私は無力だ。助けられなかった。けれど、彼の言う通りなら、今すべきは逃げることだけ。私がここに留まれば、ロキが戻ってきて、彼を再び襲うかもしれない。
コールソンの言葉に背中を押され、私は裸足で駆け出した。冷たい床を蹴り、角をいくつも曲がり、遠くへ遠くへ。足の裏が切れても気にも留めなかった。
なんで、どうしてこんなことに。
涙が頬を伝う。悲しみに押し潰されそうで、それでも走り続けなければ正気を保てなかった。
***
近くで銃声が連なり、爆発が響く。ヘリキャリア全体が揺れている。誰かが戦っているのだろうか。けれど、私には何も分からない。
私が行けば邪魔になる。けれど、知らないままでいいの?ーー耳を傾けてはいけないと思いながらも、ロキの言葉を思い出して、疑問をもつ。「何も知らず、S.H.I.E.L.D.の連中にいいように利用されているわけだ。哀れだな」悔しいほどに図星だった。確かに私は、いつも何も知らない。でも、アベンジャーズ計画を実行させた、ロキという男が、私の力を欲してる。私にだって、知る権利がある。
覗き込むと、外の光が目に飛び込んだ。船体に大きな損傷が走り、裂けた外壁から青い空が広がっている。崩れかけた骨組みに必死に掴まり、今にも落ちそうになっているスティーブの姿が見えた。その周囲では武装した男たちが銃を構え、彼を狙っている。
「スティーブ!」
思わず叫ぶと、男たちの銃口がいっぺんにこちらに向いた。途端、足がすくんで、息が詰まる。
助けなきゃ。怖い。でも助けたい。コールソンを救えなかった私が、今度こそスティーブまで見殺しにするなんて、絶対にいやだった。
スティーブが大きく目を見開いているように見えた。強い風の中、何か言葉を叫んでいる。けれど、私には聞こえない。ただ、その青い瞳の必死さだけが胸に突き刺さった。
足がすくみそうになる。でも、踏みとどまる。
手のひらを男たちへ向ける。まるで、あの夜。トニーに会うために、こっそりスティーブの部屋の扉を開けた時のようにーー覚悟を決めて、力を解き放った。
空気が震え、銃弾の軌道が狂う。弾丸は逆流するように男たちへ突き刺さり、隠れていた骨組みまでもぐしゃりと歪ませた。鉄が軋み、男たちの悲鳴が響く。
呼吸が乱れる。胸が大きく波打った。
……ころして、ないわよね?
足が震え、視界が揺れる。
でも、今はそれよりもーー
視線を必死に上げる。
「スティーブ!」
怖い。私まで落ちてしまうかもしれない。けれど、その恐怖よりも先に、彼に手を伸ばさずにはいられなかった。
スティーブが何かを叫んでいる。けれど轟々とうなる風にかき消されて聞こえない。「何?!」と叫び返すと、彼は私に伝わらないことがわかったのか、自力で綱を登るように片手を動かした。
「……レバー!!」
近づいた時、ようやくその声が耳に届いた。
レバー? 唐突すぎる言葉に一瞬ぽかんとしたが、すぐに彼の視線の先にあるものに気づく。私のすぐ横、壁面に据え付けられた制御用のレバー。それを動かせ、と言っているのだ。
考えるより先に、両手で掴み、力任せに押し倒した。油の焦げる匂い、機械が悲鳴を上げるような音が響く。
これで、いいのよね……?
振り返れば、スティーブが風圧に抗いながら機体側へと身を這わせ、骨組みを掴んで進んでいた。もう少しで手が届きそうだ。
はっとして、私も手を伸ばす。
「スティーブ!掴んで!」
一瞬、彼は戸惑ったように目を見開いた。けれど私がさらに必死に手を伸ばすと、硬いグローブの感触が私の手をしっかりと掴んだ。
魔力を込めて引き上げる。けれど思った以上に力を込めすぎてしまったらしく、その身体を勢いよく引き寄せてしまう。
「うわっ!」
そのまま、彼の重みが私に覆いかぶさる。背中が床に打ちつけられ、視界にはただ天井が広がった。
胸に圧し掛かる重さと、耳元にかかる熱い息。私は目をぱちぱちと瞬かせ、声も出せずに固まってしまう。
スティーブも同じだった。ほんの数秒、硬直しているのが伝わった。けれど彼はすぐに我に返り、慌てたように身体を起こす。
「す、すまない!」
重みがふっと消える。私はようやく息を吸い込むことができた。
そして、顔を上げた。
至近距離にある、青く澄んだ瞳。驚きと安堵、そして言葉にできない揺らぎが宿っていた。
胸の奥が熱くなり、思わず伸ばしていた手が彼の首へと回っていた。
「スティーブ!よかった!私、わたし……」
安堵の気持ちが溢れ出し、震える声で言葉をこぼす。無意識に、彼の頬に指先を触れさせて、その顔を確かめる。そう、人の手で。
ふと気づく。
私は、今、人の姿をしている。これまでスティーブに抱かれていた、あの小さな猫の姿ではなく。秘密にするはずだった、私の本来の姿ーーキャロン・エヴァンズの姿で。
息が止まる。言葉が、頭からすべて吹き飛んでしまった。
どうして、今。どうして彼に見られてしまったのか。言い訳も思いつかない。私は慌てて腕を解き、後ずさるように立ち上がった。
「あ、えっと……」
しどろもどろに口を開くが、言葉にならない。視線が宙をさまよう。スティーブはただ目を見開き、私を凝視していた。その瞳の奥にあるものを読み取るのが怖くて、彼の目を直視できなかった。
スティーブが口を開こうとした、その時だった。
「フレイヤ」
耳を打つ声に、背筋が氷のように凍りついた。弾かれたように振り返る。しかし、そこには誰の姿もない。ロキの声。確かに聞こえたのに。
そうだ、私、行かなきゃ。
「わたし、逃げなきゃ……」
「待ってくれ、キャロン!」
彼を巻き込みたくない。もしスティーブが追いかけてきたら、ロキと直接対峙してしまう。そんなこと、絶対にさせられない。後を追われないよう、通路の扉を閉め、魔法で捻じ曲げる。鉄が軋み、二度と開かぬように歪む音が響いた。
背後から聞こえたスティーブの声は、もう私には届かなかった。
きっと、彼は近くにいる。
逃げなきゃ。私を逃がしてくれたコールソンのためにも。そう思って、とにかく走った。息が切れても足を止めず、階段を駆け上がり、屋上へ飛び出す。
そこに、トニーが立っていた。
「トニー!」
胸がじんと熱くなる。見知った顔を見つけた安心に、思わず声が震えた。
「フレイヤ!無事だったか!」
彼はにこやかに答える。けれど、その笑顔に、ほんの僅かな違和感を覚える。
「うん、私……」
息を整えかけたとき、ふと気づいて顔を上げた。
「……トニーは中にいたの?」
彼も確か、スーツを着て戦うヒーローだったと思うが、今回はバナーといっしょに中で待機していたのだろうかーー最後に見た姿と変わらない。何故、無防備なままここに……?
胸に嫌な予感が広がる。
「……バナー博士は?トニー。どうしたの?」
何かが、おかしい。後ずさりながら尋ねる。トニーは軽く肩をすくめ、唇を吊り上げた。
「あぁ、彼なら大暴れしてどこかに落ちてったよ。まったく、どこまでも間抜けな奴だ」
その声音に、ぞっとした。トニーらしい皮肉のようでいて、決定的に違う。
「……あなた、トニーじゃない……」
震える声で告げた瞬間、彼の顔に不気味な笑みが広がる。
「ご名答。君から来てくれて助かったよ」
逃げなきゃーーそう思った矢先、手首をがしりと掴まれた。氷のように冷たい指先。そのまま胸元に押し当てられる、杖の先端。
次の瞬間、鋭い光が体の奥へ突き刺さった。
熱い。焼けるような感覚と共に、何かが流れ込んでくる。身体が勝手に震え、声を上げようとしても喉が塞がれる。心臓の奥にまで黒いものが絡みつき、全身を支配していく。
抗いたい。いや。コールソンの顔が浮かぶ。スティーブの声が蘇る。ここで屈したら、全部が無駄になる。ーーなのに、力が入らない。
意識が霞み、視界の端が暗く染まる。最後に残ったのは、ロキの顔。冷たい緑の瞳と、底知れぬ笑み。
「さぁ、行こうか、フレイヤーー世界を救うために」
その言葉が、頭の中に直接響く。反発しようとしても、もう届かない。心は絡め取られ、思考は深い霧の中に沈んでいった。
そして私は、ロキの傍らへと歩き出していた。