すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 コールソンが命を落としたという報せを受けてから、空気は重く沈んでいた。さらに、フレイヤがロキに連れ去られたことも加わり、空気の重苦しさは倍加していた。スティーブは沈痛な思いのまま、トニーの姿を追ってロキを閉じ込めていたはずの檻の部屋へ向かった。

 

 扉を開けると、部屋は薄暗く、金属の光沢が冷ややかに反射している。中央に据えられていたはずの透明の檻はいまはなく、空虚な口を開けていた。その傍らにトニーの姿があった。いつもの軽薄な余裕はそこになく、彼の肩はわずかに沈み、遠くの一点を見据えている。その姿に、スティーブは胸が締め付けられる思いで声をかけた。

 

 

「彼に奥さんは?」

 

 

 低く抑えた問いに、トニーはわずかに顎を動かし、乾いた声で答えた。

 

 

「いや。チェリストの恋人がいたらしい」

 

 

 その言葉にスティーブは瞳を伏せ、わずかに眉を寄せた。胸の奥に沈む感情を吐き出すように、静かに言葉を紡ぐ。

 

 

「……残念だよ。いい奴だった」

 

「バカな奴さ」

 

 

 トニーは短く鼻で笑った。笑いと呼ぶにはあまりに冷えた響きだった。その響きにスティーブの眉間が深く皺を刻む。胸の奥に、苛立ちにも似た痛みが走った。

 

 

「ヒーローを信じたから?」 

 

 

 問いかけるように言うと、トニーは視線を逸らし、空虚を見つめたまま淡々と告げた。

 

 

「ロキと一人で戦った」

 

 

 スティーブの心に、悔恨と尊敬が同時に押し寄せる。強い調子で答える。

 

 

「任務を遂行したんだ」

 

「無茶だ。待つべきだったんだよ、助けを」  

 

「逃げられない時もある」

 

「それは前にも聞いた」

 

 

 吐き捨てるような声。トニーはうんざりしたように眉を動かし、早くも会話を切り上げたいという仕草を見せた。

 

 彼は身を翻し、部屋を出ようと足を動かす。だが、スティーブは彼の前に立ちふさがった。青い瞳が真っ直ぐにトニーを射抜く。

 

 

「いつから彼女を知ってた?」

 

 

 唐突な問いに、トニーはわずかに目を細める。だが、口にした言葉は皮肉めいたものだった。

 

 

「もしチェリストを狙ってるなら、僕じゃなくてフューリーにでも聞いたらどうだ」

 

「そうじゃない。分かるだろう。ロキが彼女を拐う直前まで、僕の目の前にいたんだ」

 

 

 声が大きくなる。怒鳴るような響き。しかしその矛先はトニーではなかった。スティーブが責めているのは、他ならぬ自分自身だった。

 

 あの時、強引にでも止めていれば、ロキに連れ去られることはなかったかもしれない。だが止められなかった。彼女を止める権利が自分にあるのか、迷いが生じてしまったのだ。

 

 トニーはそんなスティーブを見上げる。その表情には冷ややかな静けさがあったが、その奥に微かに怒りの炎が潜んでいるようにも見えた。だが、それもまたスティーブと同じく、自分自身への苛立ちであることは明らかだった。

 

 

「……知り合ったのは一ヶ月くらい前だ。うち主催のパーティに迷い込んで"スティーブ"って名前の飼い主と喧嘩して居場所がないんだって泣きつくもんだから居場所を与えた」

 

「……」

 

 

 スティーブの胸に、冷たい刃のような痛みが走る。彼には自覚があった。だからトニーの皮肉めいた言い方に、何も言い返せなかった。

 

 トニーは静かに視線を逸らし、短く吐き捨てるように言った。

 

 

「文句は受け付けないぞ。君に話すなと頼んだのは彼女自身だ」 

 

 

 その言葉にスティーブの喉が詰まる。乾いた声が漏れた。

 

 

「……キャロンは、」

 

 

 トニーは遮るように続けた。

 

 

「キャロン・エヴァンズはすでに死去している。彼女は"フレイヤ"だ」

 

「……"フレイヤ"は、……記憶を取り戻したのか?」

 

 

 問いに、トニーは首を横に振る。表情は変わらないが、その目には憂いが宿っていた。

 

 

「いや。思い出したのは自分自身と父親のことだけだ。君のことも話していない」

 

 

 冷静に告げられたその言葉に、スティーブは深く息を呑む。胸の奥に冷たい重石を抱え込むような感覚。彼女は自分を思い出していない。だがそれ以上に、彼女が記憶を取り戻していく過程で、どれだけの苦しみを背負わされているのかを思うと、息が詰まった。

 

 彼女について調べた時、トニーはその情報があまりにも簡単に引き出せることに驚いた。キャロン・エヴァンズ。S.H.I.E.L.D.創設メンバーの一人であるエドワード・エヴァンズの一人娘、当時は医学部に籍を置く学生。成績は優秀で、周囲からの評判も良かったのだろう。残された写真はどれも友人たちと笑顔で写る姿ばかりだった。

 

 その中に、彼も見つけたのだ。軍服を纏ったまだ細身の若者、スティーブ・ロジャースと並んで写るキャロンの姿を。彼女は少し恥ずかしそうに微笑み、スティーブは隣に立ちながらも照れ隠しのように視線を逸らしている。だが二人の距離は明らかに特別で、写真全体が互いに想い合う空気を孕んでいた。

 

 現在のフレイヤの証言とは決定的に矛盾していた。家族も、友人もいないと彼女は語っていた。生前の自分を思い出した結果そう答えたのだろうが、実際には記憶が欠落している。恐らく"一定の条件下"にある記憶が抜け落ちており、その範囲にはスティーブ・ロジャースに関するすべてが含まれているのだ。

 

 トニーは悟っていた。彼女が突然スティーブの前に現れたのは、偶然などではない。だがそれを告げるのは自分の役割ではないと、理性が告げていた。

 

 沈黙を破ったのは彼自身だった。

 

 

 

「彼女自身が望んだんだ。君の前ではフレイヤでも、キャロン・エヴァンズでもなく、"ただのシロ"でいたいと。僕は彼女の意見を尊重する」

 

 

 トニーの口調は淡々としていたが、その言葉は釘のようにスティーブの胸に突き刺さる。

 

 かつて彼はキャロン・エヴァンズを救えなかった。その痛みは、今も深く残っている。だが今さら過去を悔い、埋め合わせのように彼女を助けようとしても、それは彼女が望むことではないーーその警告を、トニーは込めていた。

 

 スティーブは唇を結び、言葉を失った。

 

 

「ロジャース、君にはとことんムカつくが、彼女に免じてこの件に関しての言い合いはなしだ。だが、ロキの件は違う。僕はフューリーには従わないからな」

 

 

 スティーブは視線を落とし、深く息を吐いた。胸に渦巻く悔恨と怒りを押し殺し、静かに言葉を返す。

 

 

「……僕もだ。フューリーの手は血まみれだ。だが、今はそれを忘れ、戦うべきだ」

 

 

 キャロンーーフレイヤのことも、今は隅に置いておくべきだ。スティーブは己の中で決意を固め、顔を上げた。

 

 

「ロキはキューブを使う気だ。一刻も早くーー」

 

「つぶしてやる」

 

 

 トニーが遮る。強く吐き捨てるような口調に、スティーブは一瞬眉をひそめる。

 

 

「……そういうことじゃない」

 

「そういうことだ。ロキの狙いがわかるか?一人ずつ攻撃してきた」

 

「戦力の分断か?」  

 

「そうだ、我々を孤立させた。そうしないと我々を始末できないからだよ。ヒーローを倒し、見せつけたいんだーー"観客"たちに」

 

 

 その言葉に、スティーブは記憶を呼び起こす。

 

 

「そうか、ドイツでも……」

 

「あぁ。あれは予告編。本番の幕が開くのはこれからだ。ロキは主役で目立ちたがる。花束を持ち、パレードをして、聳え立つ塔に自分の名を刻みたいんだ」

 

 

 言葉を紡ぐうちに、トニーの顔色が変わった。自らの推論がどこに辿り着くのか、その意味に気づいたからだ。

 

 短く息を呑み、苦々しい声が漏れる。

 

 

「……まずいな」

 

 

 その声は、檻の中に広がる静寂に吸い込まれ、重く沈んだ。

 

 

 

***

 

 

 

 

 スタークタワー、最上階。

 

 アメリカの昼を切り裂くようにそびえるタワーの屋上は、人工的な光と機械の唸り声に満たされていた。青白い光が装置の中心から脈動のように広がり、空を穿つ柱のように立ち上っている。その元に立つロキは、悠然とした歩みで床を横切った。

 

 彼の視線の先、豪奢な椅子に腰掛ける一人の女。白金の髪は月光を受けて絹糸のように輝き、紅玉のような瞳は虚ろでありながらも、洗脳を受けてさらに妖しく燃えている。人形のように整った容姿は、まるで作り物めいた美を帯びていた。

 

 

「フレイヤ、答えろ。奴らの作戦はどうだ?」

 

 

 ロキの声は穏やかだったが、その眼差しは鋭く、彼女を試すかのように突き刺さる。

 

 

「ごめんなさい、知らないの」

 

 

 柔らかな声色で答えるが、そこに嘘をつくための工夫も、抗う意志すらなかった。

 

 ロキの唇が歪む。

 

 

「ならーー視ろ。君の力なら、奴らの手の内を覗けるはずだ」

 

「……使い方が分からないわ」

 

 

 その答えに、ロキは苛立ちを隠さず、舌打ちをした。人形のように美しいが、役には立たない。そう思えば思うほど、余計に腹立たしかった。

 

 だが次の瞬間には苛立ちを振り払うかのように肩をすくめ、にやりと笑う。

 

 

「まぁいい。いずれ軍勢は到着する。こちらが不利になる要素など何ひとつない。君の力は別の場面で使えばいい」

 

 

 フレイヤの瞳が一瞬だけ揺らぎ、だがすぐにまた人形めいた微笑みを取り戻す。ロキはその様子を愉快そうに眺め、言葉を続けた。

 

 

「力を使えずとも……君が"フレイヤ"であることは変わらない。アイアンマンも、キャプテン・アメリカも、君には手出しできまい」

 

 

 フレイヤは答えない。ただ緩やかに微笑むだけ。その無垢さにも似た反応が、逆に彼女の存在を特別なものに見せていた。ロキはその沈黙を気にも留めず、満足げに唇の端を吊り上げる。

 

 その時、建物の外から金属の軋むような轟音が響いてきた。高周波を放つような耳障りな音が、蒼穹を揺らす。装置の外壁を叩き壊そうとする衝撃だ。ロキは耳を澄まし、すぐにその正体を悟る。

 

 

「奴が来た。ーーフレイヤ、共に来い」

 

 

 口元に笑みを深めながら呟く。

 

 

「はい」

 

 

 命令に、フレイヤは一切の逡巡なく従った。ロキが差し出した手のひらに、彼女は白い指先を静かに重ねる。その細い腰を支えながら、ロキは優雅な足取りでバルコニーへと進んだ。

 

 暖かい風が吹き込み、彼女の白金の髪がふわりと揺れる。ロキはその様子に一瞬陶然とし、だがすぐに外の光景へと目を移す。

 

 その時だった。

 

 轟音とともに、赤と金の装甲を纏った影が夜空から降り立った。スラスターの光を尾のように引きながら、戦場に戻ってきたのはトニー・スタークーーアイアンマンだった。

 しかし、その姿はこれまでの"鋼鉄のヒーロー"ではなかった。装甲はあちこちに焦げ跡を残し、表面は無数の裂傷で覆われている。戦いの痕跡を纏ったその姿は、もはや誇示するための鎧ではなく、命をつなぎとめる最後の砦に過ぎなかった。

 

 トニーはバルコニーの縁に軽やかに着地すると、まるで自宅に帰ってきたかのように落ち着いた仕草でスーツを解除し、建物の中へと歩みを進める。その間もロキの視線は鋭く、彼を見据えていた。嘲るように、挑発するように。そして何よりも誇示するようにフレイヤの腰をさらに引き寄せる。

 

 トニーは横目でちらりとその光景を見やり、ほんのわずかに目を細める。だが、すぐに何事もなかったかのようにロキへ視線を戻す。

 

 不気味な静寂が、屋上に広がった。

 

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