ガラス張りのバルコニーから吹き込む生暖かい風が、部屋の中の重苦しい空気を揺らした。トニーはカウンターに歩み寄り、慣れた手つきでボトルを取り出す。その間もロキは悠然と立ち、まるでこの場の主であるかのように振る舞っていた。フレイヤはその隣に寄り添い、薄い笑みを浮かべている。
「私の“人間性”に訴える気なのか?」
ロキの声は冷ややかだった。
「いや、脅しに来た」
トニーは肩をすくめ、グラスに琥珀色のウイスキーを注ぐ。
「ではなぜスーツを脱いだ?」
「まぁ、あちこちがたが来てたし、その杖には敵わない。飲むか?」
ロキは鼻で笑う。
「ハッ。時間稼ぎか?」
「いやいや、脅しだよ。飲まないの?……そんじゃ、失礼して」
軽口を叩きながら、トニーは一口ウイスキーを流し込む。その視線はさりげなくロキの隣へと滑っていった。
白金の髪が月光を反射し、フレイヤは微笑を浮かべながら、まるで恋人のようにロキへ身を寄せている。以前の彼女の奔放で人懐こい笑顔は影を潜め、そこにあるのはまさに神話に登場する女神らしい微笑だった。
「彼女、今どういう状況だ?僕のこと見えてる?」
「見えてはいる。だが思考はない。彼女に助けを乞うても無駄だ」
「レディに縋るほど、僕は落ちぶれちゃいない。意識があるなら今ごろ怯えてるだろうと思って、ちょっと心配しただけさ」
軽く言い放ちながら、トニーは再びグラスを傾ける。琥珀の液体が喉を焼く。
ロキはふっと笑みを深め、軽蔑の色を混ぜて口を開いた。
「随分と肩を入れているようだな。だが、"これ"に情を持つのはあまりにも稚拙だ」
「というと?」
「"フレイヤ"に心を奪われた者は、その心を取り戻すことなどできない。脳みそを失ったサルのように、一生を終えるまで彼女の言いなりになって死ぬだけだ。いつか自分のものになると信じてな」
トニーはグラスをカウンターに置き、皮肉げに口角を上げる。
「素晴らしいじゃないか。一途に思い続けて、一人の女性に人生を捧げる……僕の課題にしてる部分だな」
「フッ……君はわかっていない。彼女は神だ。君たち人間とは違う」
ロキの声音は嘲りに満ち、まるで人類そのものを見下すかのようだった。フレイヤは依然として微笑みを浮かべていた。視線をわずかに上げ、ロキの言葉を肯定するかのように見せる。そこに彼女本来の意志はなく、ただ"神の所有物"として在るだけに見えた。
だが、トニーは肩を竦めてグラスを傾ける。
「ま、そうだな。“神”レベルに美人だ」
「そういう神だ」
ロキは自らの優越を誇示するように、彼女の白金の髪を掬い、唇に弧を描いた。その美しさを誇らしげに示す仕草に、ふっと鼻で笑いを漏らす。
「あー、目の前でそういうイチャイチャは他所でやってくれないか? 知らないかもしれないけど、彼女、心が狭いボーイフレンドがいるからさ」
「キャプテン・アメリカか。ハッ、流石"フレイヤ"だな。新人だろうと手は早い」
ロキの口調には、尻軽をあざ笑うような侮蔑が含まれていた。
「あぁ、かなり嫉妬深くて面倒なタイプだぞ。怒らせないほうがいい。ーーいや、もう怒ってるんだったな。ちなみに、彼だけじゃないぞ。みんな怒ってる」
ロキは唇を吊り上げる。
「それが狙いだ」
「やりすぎたな。彼らが来たら、あんたは終わりだ」
「軍隊がある」
「こっちはハルクだ」
その名を聞いた途端、ロキの眉間に深い皺が刻まれた。
「あいつは行方不明だろう」
「分かってないなぁ。あんたが王座につくことは絶対にないんだ。どれだけ強い軍隊が来ようと、俺たちはあんただけを狙う。地球を滅ぼしてみろ、必ず報復するぞ」
ロキの眼差しに苛烈な光が宿る。
「その暇があるかな。君を相手に戦うからな」
杖の先端がトニーの胸に突きつけられる。蒼白の光が瞬き、アークリアクターにかしゃん、と硬質な音が響いた。だが、トニーに変化はない。ロキはまた眉間に皺を寄せる。
「なぜ効かない?」
「性能不足ってやつだな。不能になる男は多い」
あまりに軽薄な返答に、ロキの表情が一瞬歪む。次の瞬間、彼の手がトニーの顔を掴み、力任せに放り投げた。
床に叩きつけられたトニーは呻きながらも立ち上がり、短く声を発する。
「J.A.R.V.I.S.、いつでもいいぞ」
だがその隙も与えまいと、ロキは再び彼の顔を掴み上げ、勝ち誇ったように低く囁く。
「貴様らはひれ伏すのだ。私に」
「早く出せ、早く……」
ロキの怒りが頂点に達した瞬間、彼はトニーを力任せに投げ飛ばす。厚いガラスが粉々に砕け、トニーの体が夜の空気へと放り出された。
だがその直後、鉄の咆哮がスタークタワーを震わせる。アイアンマン・スーツのパーツが弾丸のように飛来し、ロキの横を轟音と共にすり抜け、彼を追うようにスーツが飛び去った。
ロキの表情が凍りつく。
だが、次の瞬間、人々の視線をさらに圧倒する光景が広がった。
上空に据えられた装置がついに起動し、耳をつんざく轟音とともに蒼白のエネルギーが天を貫いた。空間が裂ける。漆黒の空に巨大な門が開き、その奥には無数の光が蠢いていた。
異形の兵士たちーーチタウリの軍勢が空から溢れ出すように飛び出してきた。鋼の騎兵が咆哮を上げ、浮遊艇が編隊を組みながら都市へと向かう。
ニューヨークの青空が、一瞬で戦場へと塗り替えられた。
トニーが空中で体勢を整え、完成したアイアンマン・スーツのブースターを噴射させる。街を見下ろす彼のヘルメット越しの視界には、これから始まる地獄絵図が鮮明に映っていた。
ついに、扉は開かれてしまったのだ。
「フレイヤ、君は装置を守れ。ヒーローどもに指一本触れさせるな」
ロキの声が鋭く命じる。彼の瞳には勝利への確信が宿り、その口元には不気味な笑みが浮かんでいた。
フレイヤは小さく頷く。
屋上では、空間を繋ぎ止める装置が轟音を立て、青白い光を放っていた。その周囲にはすでにエネルギーのバリアが展開されている。フレイヤはその前に立ち、まるで番人のように静かに構える。
下を見下ろせば、街は無数のチタウリ兵によって荒廃していた。銃火器を持つ兵士たちがビルを駆け、空中では滑空する戦闘艇が火線を撒き散らす。人々は逃げ惑い、車は爆炎を上げて横転している。だが、その惨状を目にしても、フレイヤの表情には何の反応も浮かばなかった。
そのとき、背後からかすかな身じろぎの音がした。振り返ると、地面に崩れ落ちていたセルヴィグが、洗脳の影響から解放されたばかりの瞳で、焦りに満ちた表情を浮かべてこちらを見上げていた。
「き、君もS.H.I.E.L.D.の人間か?」
「いいえ」
冷ややかに答えるフレイヤ。その一言に、セルヴィグは息を呑む。彼は必死に声を振り絞った。
「……目を、覚ますんだ。装置を止めないと、地球は滅ぶ!」
その必死の叫びに、フレイヤは横目でちらりとセルヴィグを見ただけだった。
「そう。ロキが喜ぶわ」
皮肉な微笑みと共に吐き出された言葉に、セルヴィグは血の気を失ったような顔になる。
彼自身、洗脳に囚われていた恐怖を知っている。だからこそ、目の前の女もまた内心では抗っているのだと信じたかったのだ。
「なぁ、目を覚ませ。自覚はあるんだろう。自分に負けるんじゃない」
「触らないで」
「ゔッ…………!」
フレイヤが手を向けると同時に、セルヴィグの喉が見えない力に締め付けられる。空気が肺に入らず、顔色が瞬く間に青ざめていく。足が地を離れ、苦しげに宙をもがく。紅に輝くフレイヤの瞳が、冷徹にその様を見つめていた。
「やめ、ろ……!君も、後悔することになる……!」
呻く声を無視して、フレイヤはしばらく彼を宙に吊したままにする。そして興味を失ったように、ぽいと投げ捨てるように手を解いた。セルヴィグの体は地面に落ち、荒く息を吸い込みながらむせ返る。
「……ロキの、杖があれば止められる。手遅れになる前に、やらないと……!」
それでも彼は、必死に言葉を紡ごうとした。
だが、フレイヤは冷笑を浮かべる。
「もうとっくに手遅れだわ」
「な、何をしてる……?」
そう言いながら、彼女は装置へと手をかざした。赤い光が彼女の指先から溢れ、装置を守るバリアがさらに強固に包み込むように脈動する。セルヴィグは目を見開き、その光景に絶望の影を落とした。
「良いことを教えてくれてありがとう、博士。この装置を止めたきゃ、私も殺さなきゃ」
「な……」
「ヒーローたちに、できるかしら」
唇に浮かんだ笑みは、美しくも不気味で、どこかロキを思わせる邪悪さを孕んでいた。
視線を下へ向けると、ロキがソーに追い詰められ、激しくぶつかり合う姿が見えた。雷鳴の轟き、ハンマーの火花、そして兄弟の叫び声ーー。
やがてロキは建物の縁から転げ落ち、下の戦場へと合流していく。
「ど!どこへ!」
セルヴィグの声を背に、フレイヤは素足で屋上の縁に立った。風が髪を揺らし、青空に広がる異世界の光が彼女を照らし出す。
「隠れるの」
囁くように言い残し、彼女はそのまま後ろへと身を投げた。
「待て!」
セルヴィグが慌てて縁に駆け寄り、身を乗り出して下を覗き込む。だが彼の視界に映ったのは、すでにチタウリの戦闘艇の上に軽やかに立ち、振り返って彼を見下ろすフレイヤの姿だった。
紅い瞳が細められ、笑みを浮かべる。その視線には、もう人の言葉が届かない冷ややかさが宿っていた。
「待て、待つんだ……」
セルヴィグは手を伸ばすが、空を切るだけだ。自分の声が届かないと知りながら、それでも彼は拳を地面に叩きつけ、悔しさに顔を歪めた。
空はさらに暗く、そして騒然と響いていた。ニューヨーク決戦ーーその混沌のただ中で、フレイヤはロキの影として、戦場へと飛び込んでいった。