すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 眩しさに瞼を上げると、すぐ目の前に影があった。

 

 よく知る顔。強く結んだ口元、しかしいまはその形が震えている。伏せられた目が、悲しみに沈んでいた。

 

 あれ……どうして。視線を横にずらすと、そこには真っ白な天井。見覚えがあった。そう、あの大学病院の天井だ。実習のとき、何度も見かけた無機質な光。だから、間違えようがなかった。

 

 どうして、私……病院に?

 

 状況を飲み込めず、わずかに体を動かす。毛布の布擦れの音が小さく響いた。

 

 その瞬間、彼ははっと顔を上げた。

 

 

「っキャロン……!」

 

 

 掠れた声で私の名を呼ぶ。

 

 

「……お父様?」

 

 

 呼び返すと、お父様は今まで見たことのないような泣きそうな顔をした。驚く間もなく、強く抱きしめられる。

 

 温かくて、大きな腕。その必死さに、逆に息が詰まりそうだった。

 

 状況が分からず戸惑っていると、彼は慌てたように声を張り上げた。 

 

 

「ヘレン!ヘレン!」

 

 

 その名を呼んだ途端、廊下の向こうからコツコツとヒールの音が響く。慌ただしく近づいてきて、勢いよくカーテンが開け放たれる。

 

 そこに立っていたのはーー花瓶を抱えた女性。

 

 息を呑む。

 

 

「お母様?」

 

 

 彼女は目を見開いたまま固まり、花瓶を抱えた腕がわなないていた。

 

 

「キャロン!あぁ、よかった……キャロン……!」

 

 

 パリン!

 

 花瓶が床に落ち、派手な音を立てて割れた。けれどもお母様は破片にも水にも構わず駆け寄り、私を抱きしめた。

 

 お父様とお母様。二人の温もりに包まれ、息ができないほどだった。二人とも泣いていた。しゃくり上げ、声をあげて泣いていた。

 

 どうして……?

 

 胸の奥で不思議な冷静さが芽生えていた。私は病院にいる。でも、どうしてここに。どうして二人はこんなに泣いているの。

 

 

「ねぇ、二人とも……苦しいわ」

 

 

 正直な気持ちを口にすると、二人は慌てて腕をほどいた。涙で濡れた顔が、あまりにぐしゃぐしゃで。私は思わず笑ってしまった。

 

 

「どうしたって、そんなに泣いてるのよ」

 

 

 冗談めかして笑ったのに、二人の表情は変わらない。むしろ、もっと苦しそうに歪んだ。

 

 

「当たり前じゃない……!だって、あなたがーー」

 

 

 お母様の声が震える。

 

 

「キャロン、覚えていないの……?」

 

「覚えてない?なにを……」

 

 

 きょとんと首を傾げる私を見て、二人は視線を交わした。言葉を飲み込むように。

 

 その仕草に、不安が膨らむ。

 

 

「ねぇ、なによ。なにを隠してるの?」

 

 

 問いかけると、母は小さく首を振った。

 

 

「……いいの。きっと、忘れたままのほうがいいこともあるから」

 

「それってーー」

 

 

 胸の奥がざわめき、思わず言葉を重ねようとする。けれど、その続きを発する前にーー

 

 世界がすっと遠のいた。

 

 意識が引き剝がされるように。

 

 気づけば、もう一度瞼を開けようとしていた。

 

 

 

***

 

 

 

「……」

 

 

 ゆったりと瞼を持ち上げる。夢からの覚醒は、重い泥を掻き分けるようだった。

 

 視界に広がるのは、天井。白い。けれど、病院のようなやわらかな光ではなかった。もっと硬質で、冷たい感触を覚える天井。蛍光灯の光が無機質に照らす。

 

 なんだか、変な夢を見ていた気がする。

 

 しばらく、ぼんやりと天井を見上げていた。見覚えのある天井だ。けれど、どうにも落ち着かない。あんまり好きじゃない天井だ。

 

 ……私、何してたんだっけ。

 

 頭の奥に霞がかかったようで、思考がまとまらない。けれど、思考が空っぽな分だけ、感覚は妙に研ぎ澄まされていた。シーツのざらつき、消毒液の匂い、機械の低い唸り。全部が現実だと告げていた。

 

 あまり考えないままに視線だけを動かす。部屋は狭く、壁は冷たい灰色。やはり好きになれない空間だった。体が重く、頭を動かすのさえ億劫だ。だが、天井を見上げ続けるのも窮屈で、意を決して首を横に倒した。

 

 すぐ横に、人がいた。

 

 椅子に腰をかけ、両腕に頭を抱えるようにして座っている。肩幅の広い背中。見慣れた輪郭。

 

 

「悲しいの?スティーブ」

 

 

 声を出した途端、喉が焼けつくように痛んだ。ひどく掠れた声だった。言葉というよりも、吐息に近かった。思考がまだ半分眠っているまま、口だけが勝手に動いていた。

 

 スティーブはびくりと体を震わせ、勢いよく顔を上げた。

 

 目が合う。その青は、今にも崩れてしまいそうに揺れていた。

 

 

「あ……」

 

 

 彼は言葉にならない声を漏らし、立ち上がると壁際のボタンに手を伸ばしかける。だが直前で躊躇し、視線を私に戻した。その顔には、言葉にできないほどの葛藤が滲んでいた。

 

 

「い"っ……」

 

 

 上半身を起こそうとした瞬間、腹に激痛が走った。鋭く、骨の奥まで響くような痛み。唇を噛み、思わずうめき声を漏らして蹲る。大きな手が慌てて私の背中に回る。鋭い痛みに、一気に思考が現実へと戻ってくる。

 

 

「……フレイヤ、まだ横になっていたほうがいい。君は、ロキに洗脳されていたんだ」

 

「ロキ、に……」

 

 

 低く告げられた名が、脳裏を鋭く抉った。

 檻の中から微笑む顔。あの緑の瞳。甘い声。

 瞬時に、全身の血が冷たくなる。

 

 そうだ、私……ロキから逃げようとして、それでーースティーブがいてーー徐々に思い出してくる。弾かれたように視線を下せば、もうとっくに、私は本来のーー人の姿だった。擦り切れた掌、白い布で覆われた腕。包帯の下に残るひりつく痛みが、生々しい現実を物語っていた。

 

 胸の奥でざわめくものがある。そうだ、スティーブに隠そうとしていたーーそして、うっかり彼に見せてしまって逃げたーーあの姿だ。

 

 必死に言い訳を考えようとしたが、彼の顔を見た瞬間、その努力は霧のように消えた。

 

 悲痛に歪んだ表情。強靭なはずの彼の眼差しが、こんなにも弱々しく揺れている。

 

 よく見れば、彼自身も傷だらけだった。額には裂傷、頬には痣。目の周りは腫れ、深い疲労の色が刻まれている。私が洗脳されていた間に、何があったのかーー想像するだけで胸が痛んだ。

 

 

「……私、スティーブを傷つけた?」

 

「君に傷つけられたんじゃない。……だが、君に傷を負わせたのは、僕だ」

 

 

 その声は低く、かすかに震えていた。

 どうして、そんなに悲しそうに言うのだろう。私には分からなかった。

 

 でも、彼の肩越しに漂う沈痛な空気だけが胸に残る。

 

 

「そう、スティーブが、助けてくれたのね」

 

 

 元気出して。そんな気持ちを込めて笑いかける。一瞬、彼の目が大きく開かれた。けれど、すぐに影を落とすように伏せられ、首が横に振られた。

 

 

「違う、僕は、君を助けたんじゃない……」

 

 

 重く沈む声。

 

 そして次の瞬間、スティーブは私の両肩に手を置いた。その掌が熱いほどに強く、まるで支えを求めるようだった。

 

 彼はそのまま、崩れるように顔を伏せた。広い背中が震え、額が私の胸に近づく。表情はもう見えなかった。きっと、隠したのだろう。悲痛に歪んだ顔を、私に見せまいとして。

 

 どうして、こんなにも悲しそうにするのだろう。彼の悲しむ姿は、とても見ていられなかった。

 

 腕の気だるさに抗い、私はスティーブの背中に手を回す。ぴくりと彼の身体が反応する。日頃鍛えているだけあって、とても包みきれそうにない。けれども気持ちの分だけ、引き寄せるように力を込めた。

 

 

「ごめんね」

 

 

 ぽん、ぽんと、彼の広い背中を軽く叩いた。固く張りつめていた筋肉の感触が掌に伝わる。どんな戦場でも折れないはずの背が、今は小さく震えているように思えた。

 

 

「……なに、が」

 

 

 伏せられた声が揺れる。

 

 

「何がって、全部よ。たくさんあなたに秘密にしてたし、勝手にここにきたし、なのにロキの洗脳にもかかっちゃうし。私、いろいろ間違ったわ」

 

 

 自分で口にしてみれば、胸の奥に積もった後悔が次々と浮かんでくる。けれど彼は、しばし沈黙したあと、低く、噛みしめるように答えた

 

 

「……全部、君のせいじゃない」

 

「本当?」

 

「あぁ」

 

 

 真摯な声だった。迷いなく、断ち切るように。

 

 互いの表情は見えなかった。私は彼の肩に顎を乗せたまま、視線を床に落とす。温かい気配に包まれながら、「ならよかった」と笑ってみせる。

 

 

「じゃあ、私が怪我したのもあなたのせいじゃないわ」

 

 

 ぴくりと彼の肩が強張った。

 

 

「……それは、」

 

「言い訳はだめよ。スティーブが言い訳しちゃったら、私だってそうなのかなって思っちゃうじゃない。そんなこと、思わせないで」

 

 

 なんてめちゃくちゃな理論。それでも、彼の悲しみの理由を知らない私には、こうして無理やり言葉を並べることしかできなかった。

 

 自分で言ったくせに、あまりの強引さにふっと笑いがこみ上げる。堪えきれず、ふふ、と声を漏らしてしまった。すぐに失礼だったかもと不安になったが、彼の胸からかすかに息を吐くような音が伝わってきた。ほんのわずか、笑ったように思えて、胸が少しだけ温かくなる。

 

 

 コンコン

 

 その時、控えめなノックが部屋に響いた。

 

 顔を上げるより早く、スティーブの体がぱっと離れる。唐突に失われた体温を追って視線を動かすと、彼は窓の外へと不自然に目を向けていた。頬に赤みが差しているのが見えた気がする。わざとらしく咳払いをして、平静を装っていた。

 

 私は思わずくすくす笑い、ドアの方へと視線をやる。

 

 

「フューリーだ、入っていいか?」

 

 

 低い声が聞こえてくる。

 

 

「えぇ、どうぞ」

 

 

 応えると、機械仕掛けのドアが静かに横へ開いた。

 

 フューリーが立っていた。背筋を伸ばし、鋭い眼差しを隠さないまま、しかしわずかに動いた視線は、まず私へ、それから窓際に立つスティーブへと向けられた。彼の顔に似つかわしくない、どこか気まずそうな色が浮かんだのを見て、少し意外に思う。

 

 彼は足音を響かせながら部屋に入り、短く息を整えた。

 

 

「フレイヤ、体調はどうだ?」

 

「元気よ。あの、ごめんなさい、あまり覚えていないのだけど……」

 

「ロキに洗脳されていたからな。奴はもう捕まった。そこにいる、キャプテン達の活躍でな」

 

 

 言葉に促されるようにスティーブを見る。だが彼は依然として窓の奥を見つめたまま、こちらに顔を向けようとしない。その横顔は硬く、どこかぎこちなさを帯びていた。

 

 思わず、唇の端が上がりそうになる。彼のそんな不器用さが可笑しくて。

 

 すると、ふと。フューリーの口元が、ほんのわずかに動いた。

 

 ……笑った?

 

 信じられない思いに目を瞬かせる。フューリーって、笑うのね。失礼だと分かりつつもそう思わずにはいられなかった。鋼鉄の仮面のような男の表情に、柔らかな影が差したのを見て、胸の奥がじんわりと不思議な熱で満たされる。

 

 なんだか変な感じ。そう思った。

 

 

「まだ体調が万全でないのは承知している。だが時間がない。ーー少し話をさせてもらう」

 

 低く鋭い声。ひとつひとつの言葉が短く、無駄がない。やっぱりこの人らしい、と思う。部屋の空気まで引き締めるその響きに、自然と背筋が伸びる。

 

 

「私の、力のことね?」

 

 

 口にした瞬間、フューリーの片眉がわずかに動いた。だが驚いた様子は見せない。そのまま静かに頷く。

 

 洗脳される直前の記憶は霧のように曖昧だ。けれどロキが私に囁いた声は妙に鮮明に残っている。

 

 未来を見通す力。彼はそう言っていた。現実感は薄いが、思い当たる節はいくつかあった。

 

 

「自覚症状はあるのか?」

 

 

 フューリーの問いは、医者の診察のように簡潔で無情だ。

 

 

「……えぇ、何度か、自分の意思ではないけれど、それらしいものを」

 

「複数回見たと……共通点に心当たりは?」

 

「ないわ、本当にばらばらなの」

 

 

 頭の中を必死に探る。断片的な映像、感情だけが残るような感覚。

 

 

「初めて見たのは、スティーブの家よ。彼の背中を見つめてたとき、……黒い、変な生物と戦ってる、スティーブを見た」

 

「僕を?……だから、止めたのか?」

 

 

 スティーブがはっと振り返る。まだ目は赤いが、それについて触れる気はなかった。私はただ頷く。

 

 

「そう。でもあの時はスティーブがキャプテン・アメリカって呼ばれてるのも知らなかったし、私、てっきり何か危ないことをしてるんじゃないかと思って……危ないことに変わりはないけど」

 

 

 自嘲気味に笑ってみせると、フューリーはすでに手を動かしていた。薄い板ーータブレットに映し出されたのは、奇妙で不気味な黒い怪物の写真。

 

 

「黒い生物とは、これのことか?」

 

「……そう!これ、本当に来たの?」

 

 

 画面を覗き込む。脳裏に浮かんだ映像と寸分違わぬ姿に、背筋が粟立つ。

 

 

「詳しい説明は後だ」

 

 

 フューリーの声は冷たいが、その目は鋭く私の反応を逃さない。

 

 

「発動条件は不明。だが一定の状況で起こる。そしてコントロールはできないーー間違いないか?」

 

「……そうね」

 

 

 自分でもあやふやだ。今まではただの妄想だと片付けてきたから、真剣に考えたことなどなかった。けれどロキに指摘されてからは、あれが力だと自覚してしまった。

 

 だからーーコールソンの死を見てしまったとき、私は震えるしかなかった。未来を知ってしまうのに、何もできない。助けたいのに、止められない。

 

 胸がひどく痛む。私は笑みを作り、呑気に答える。

 

 

「今までは妄想みたいなものかと思ってたから……そこまで気にしてなかったの」

 

 

 だがフューリーの目は、そんな軽い言葉を許さない。黒曜石のような瞳に射抜かれるようだった。

 

 

「フレイヤ、君の力はあまりにも危険だ。それこそ、我々の手には負えないほどに」

 

 

 低い声が部屋を圧した。脅すでもなく、説得でもなく。ただ事実として告げられるその声音に、息が詰まる。

 

 

「……」

 

「世間に知れ渡れば、どんな手を使ってでも君を手に入れようとする連中が出てくる。それこそ、今回のロキのようにな」

 

 

 ぞくりと背筋が冷える。そんな大げさな、と思いたかった。けれどフューリーの眼差しは揺らがず、冷徹な現実を突きつけるようで、私は返す言葉を失った。

 

 彼が次に何を言うか、もう分かっていた。

 

 

「我々で保護するべきだ」

 

 

 私の代わりにフューリーに言葉を返したのはスティーブだった。フューリーが視線を上げる。

 

 

「そのつもりだった。だがその結果、彼女はロキに拐われたんだ」

 

「それはあなた達が秘密裏に活動していたからだ。今後は僕が責任を持って彼女を保護する」

 

 

 声には熱が宿っていた。怒りとも焦りともつかない感情がにじむ。

 

 

「ロジャース。君も理解しているはずだ。これはもう個人の感情でどうにかできる話じゃない」

 

「感情の話じゃない。彼女の力が悪用されないようにーー責任を果たすべきだと僕は言っている」

 

 

 二人の視線が鋭くぶつかり合う。冷たく計算されたフューリーの眼と、熱に揺れるスティーブの瞳。息を呑むような緊張が漂った。

 

 

「スティーブ」

 

 

 私はそっと彼の拳に触れた。戦いの痕が痛々しいほどそこに残っていた。触れられたことで彼は言葉を止め、私を見る。

 

 私は彼から視線を外し、フューリーへ向き直った。

 

 

「私、もう覚悟は決めてあるの」 

 

「……フレイヤ」

 

 

 スティーブの声はかすかに揺れていた。引き止めてくれようとしていることは、痛いほど伝わってきた。胸が熱くなる。こんなにも彼が私を案じてくれるなんてーーそれだけで幸せで、心が満たされてしまいそうだ。

 

 だけど。私はもう決めていた。

 

 ロキに囁かれたとき、自分の無力さを思い知らされた。コールソンが目の前で命を落としたとき、このままではいけないと胸をえぐられるように悟った。守る力がないのに、未来だけを知ってしまう自分。恐怖と絶望の中で、どうにか変わりたいと願った。その瞬間に、もう答えは出ていたのだ。

 

 私の言葉を待つように、二人の視線が重い。

 

 

「ソーと共に、アズガルドに行くわ」

 

 

 声は震えなかった。心の奥底にすでに沈殿していた決意が、自然に口から零れ落ちただけだった。

 

 フューリーは短く頷いた。その反応に私は少し肩透かしを食らった気分になる。

 

 私としては大きな覚悟を示したつもりだったのに、彼にとってはそれ以外の答えなど端から眼中になかったのだろう。頷きの重さは、"そうでなければ困る"と言外に語っていた。

 

 

 「出発は明後日だ。ソーが君とロキをアズガルドまで送り届ける」

 

 

 乾いた声が静かに響く。決定事項を淡々と告げるその響きに、猶予を与えるつもりがないことを悟った。まぁ、心の準備以外、私に特別な用意なんてないのだけど。ロキをミッドガルドに長く置きたくないという彼の思惑も理解できる。だから反発する気持ちはなかった。

 

 けれど、一つだけ。どうしても伝えたいことがあった。

 

 

「一つ、いいかしら」

 

 

 フューリーの視線が私を射抜く。まるで「文句なら聞かん」とでも言いたげな鋭さだ。しかし、不思議とその視線は恐ろしいものではなかった。私が言おうとしているのが文句ではないと、彼もどこかで分かっているのかもしれない。

 

 

「お願いがあるの」

 

「……言ってみろ」

 

「明後日まで、スティーブの家にいたい」

 

 

 その瞬間、彼の固い表情がわずかに崩れた。思わぬ角度から飛んできた要求に、呆れと意外さが入り混じった色が走ったのだ。

 

 横に立つスティーブの小さな息を呑む音が聞こえ、私はそちらを振り返る。彼は目を見開き、まるで不意を突かれた兵士のように固まっていた。

 

 慌てて言葉を付け足す。

 

 

「スティーブが迷惑じゃなければの話よ!もう少ししかミッドガルドにいられないし、それまで……これまで通りに過ごしたいの。それに、ここの部屋好きじゃないし……」

 

 

 ちらり、とフューリーに視線を送る。

 

 

「……だそうだ。ロジャース、どうなんだ?」

 

 

 てっきりフューリーの許可が必要だと思っていた私は、思わず目を丸くしてスティーブを見上げた。彼は一瞬驚きに目を見開き、それから困惑を隠しきれない調子で口を開く。

 

 

「ぼ、僕は……かまわない」

 

「本当に?いいの?」

 

「あぁ……」

 

 

 わずかな間を置いた肯定に、胸の奥にぱっと明かりが灯った。

 

 

「やった!スティーブ!ありがーーっい"っ」

 

 

 勢い余って彼に飛びつこうとした瞬間、鋭い痛みがお腹に走った。怪我のことをすっかり忘れていたのだ。身体を折り曲げてうずくまると、スティーブが慌てて「安静にしてるんだ!」と手を伸ばしてくる。

 

 彼の緊張を帯びた声に、痛くてたまらないのに、つい笑ってしまう。そんな私に彼は困惑した目を向けてくる。

 

 そんな私たちを横目に、フューリーが肩をすくめた。呆れとも、納得ともつかない仕草を残して踵を返す。

 

 背中が扉へと遠ざかっていく。その黒いコートが視界から消える前に、私は声を張った。

 

 

「フューリー、ありがとう」

 

 

 一瞬、彼の足が止まる。振り返りはしなかったが、わずかに肩が揺れた。私の目には、それが笑みを含んだ仕草のように映った。けれど確信を得る間もなく、彼の背は廊下の向こうへ消えていった。

 

 

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