すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 トトトト……。アパートの廊下に、軽やかに小さな足音が響く。気持ちのいい朝の空気の中、私は階段を駆け上がっていった。最後の一段を飛ばしてジャンプすると、視界の先に彼の部屋のドアが見える。別に急いでいるわけじゃない。ただ、気づけば自然と歩幅が広くなり、無意識のうちに小走りになってしまう。

 

 ドアの前まで辿り着くと、立ち止まり、ぐっと見上げる。高い位置にあるドアノブは、到底猫の姿では届かない。魔法を使えば簡単に開けてしまうけれど、今日はふと別の考えが浮かんだ。

 

 カリカリ、カリカリ。

 

 小さな爪をドアに立て、控えめに、けれどしっかりと音を立てて彼を呼ぶ。猫らしく、普通に。人間の言葉を持たない今の私だからこそできる、ありふれた合図。

 

 すると、ガチャ、と音を立てて、驚くほど早くドアが開いた。まるで、私が来るのをわかっていて、すぐ向こうで待っていたかのように。

 

 視線を下げたスティーブがそこにいた。最初に見えた表情は、強張ってはいなかった。むしろ、肩の奥に隠していた緊張をようやくほどいたように、どこか安心した色が浮かんでいた。私が人の姿ではなく、猫として現れたからだろうと思う。

 

 

「にゃあ〜〜」

 

 

 私は大きな声で鳴いてみせた。挨拶のつもりだった。彼は一瞬驚いたように瞬きをし、それからふっと笑った。柔らかい笑みだった。張りつめた糸がほどけるような、穏やかな笑顔。……そんな顔を彼が見せてくれるのは、ずいぶん久しぶりな気がする。

 

 彼が「入って」と言葉をかけるよりも先に、私は当たり前のようにすり抜けて部屋へ入った。猫にとっては玄関の敷居などあってないようなものだ。

 

 リビングまで歩いて、ふと違和感を覚える。くるりと振り返ると、後ろに立つスティーブはわずかに小首を傾げた。

 

 

「にゃ〜〜?(今日はトレーニングしないの?)」

 

 

 彼の一日の始まりはいつも決まってトレーニングだった。腕立ての規則正しいリズム、床に響く呼吸の重み、その合間に落ちてくる汗。私はその音を目覚まし代わりにして、彼の朝を共にしてきた。だからこそ、今日は少し早めにここに来たのだ。

 

 けれどーー彼はもう服を着ていた。シンプルなシャツに、いつもの整った姿。身体を温める気配もなく、トレーニングを始める様子もない。

 

 首をかしげて彼を見上げる。もし彼が私の首飾りに触れてくれれば、言葉としてその疑問を伝えることができるのに。けれど、彼はただ「どうした?」と困ったように言うだけで、触れようとはしなかった。

 

 胸の奥に、ちくりとしたもどかしさが広がる。昨日までのことを口にせず、今日は"いつも通り"に過ごそうと決めてきたはずなのに、肝心の彼がいつも通りじゃない。

 

 仕方ない。

 

 私は机にぴょんと飛び乗り、そこから椅子を経由して、勢いよく彼の胸元へ飛びかかった。驚いたように彼の腕が素早く伸び、反射的に私を受け止める。

 

 

「ど、どうした?フレイヤ」

 

「にゃ!」

 

 

 慌てた声が耳に落ちてくる。私は「にゃ!」と鳴いて顎を突き出した。これで察してほしい。私の首飾りに触れて、と。

 

 スティーブの目が一瞬揺れる。迷いの色が浮かんだあと、彼はゆっくりと片手を伸ばした。指先が、どこか緊張を含んだ動きで首飾りに触れる。

 

 

「スティーブ、いつも通りにしてていいのよ」

 

「え?」

 

 

 訝しむように眉を寄せる顔が近い。彼は私を見つめながら言葉の意味を測っているようだった。

 

 

「今はトレーニングの時間でしょ?」

 

 

 静かに告げると、スティーブの表情がさらに複雑に揺れた。彼は今、私を"フレイヤ"として見ているのは明らかだった。それはまるで、客人か、どこか遠い存在を扱うような目だった。

 

 でも、それが嫌だった。

 

 私が"フレイヤ"として彼に接しているとき、彼はいつもぎこちない。距離を置かれているようで、どこかよそよそしい。その壁を意識させられるのが、今日はどうしようもなく嫌だった。

 

 

「それにね、私"シロ"ってあなたが呼んでくれるの、すごく好きだったの。だから、そう呼んで。お願いよ」

 

 

 そう伝えながら、私は首をぶるぶると振って、彼の手を首飾りから外させた。途端に私はただの猫に戻る。

 

 

「にゃあ〜〜」

 

 

 大きな声で鳴いてみせる。私は"フレイヤ"じゃない、ただの"シロ"だって。そう認識してほしかった。

 

 けれどスティーブは、まだ少し戸惑った顔のまま私を見下ろしている。その青い目に映る自分の小さな姿が、不安を誘う。もっと強く伝えたくて、私は彼の腕に頭のてっぺんを擦りつけた。ぐりぐりと、まるで催促するように。

 

 すると、不意に息の抜けるような笑い声が落ちてきた。ほんのかすかな音。だが、それが胸の奥にじんわり広がっていく。

 

 次の瞬間、大きな手のひらが私の頭を優しく撫でた。毛並みを逆立てないよう、確かめるみたいにゆっくりと。……気持ちいい。猫の姿になって以来、何度も彼に撫でられたけれど、それでもこの感触は飽きることがなかった。

 

 

「シロ」

 

 

 彼がそう呼ぶ。その声音は深く、穏やかで、どこか慈しみを含んでいる。

 

 

「にゃ」

 

 

 すぐに返事をした。胸の奥に温かいものが満ちていく。そう、これが今の私の名前。人の姿でなくても、フレイヤでなくても、ここに"シロ"として存在できる。それが、何より嬉しかった。

 

 満足げに目を細めながら、しばらくその手の感触に身を委ねる。もっと撫でてほしい、もっとこのままでもいいーーそんな欲はあるけれど、彼のルーティンを邪魔するのは嫌だった。彼にとって大切な朝を壊したくなかった。

 

 だから私は、するりと彼の腕から抜け出す。ぴょん、と軽やかに床に飛び降りる。肉球に伝わる硬い感触。尻尾をふわりと揺らしながらいつもの位置へ歩き、丸く身体を丸めた。

 

 

 

***

 

 

 

 ーーそれから、少し遅れて、いつも通りの朝が始まった。

 

 窓から差し込む光が、私の毛の影を床に伸ばす。今日の光はいつもより柔らかく、部屋全体を淡い金色で包んでいるように見える。シロとしてここにいるのも、今日で最後だ。心のどこかでそのことを意識しながらも、私はいつも通り、自然に彼の様子を見つめる。

 

 トレーニングの時間、私はいつものようにマットの端でじっと彼を眺める。腕立て伏せ、スクワット、あとは……よく分からないやつ。そして、時折深い呼吸。床を踏み鳴らすたびに小さな振動が伝わってきて、心地よくもあり、どこか誇らしい気持ちになる。彼の真剣な横顔を見ていると、胸の奥が温かくなるのだ。

 

 その後はランニングへ。スティーブが外に出ている間、私はソファの上で丸くなり、テレビを点けっぱなしにしておく。画面の中では派手なコメディ映画の再放送。猫の私には筋書きはよく分からないけれど、人々の笑い声や明るい音楽が、彼の帰りを待つ間の寂しさをやわらげてくれる。

 

 やがて玄関の音。彼が戻ってきて、汗を拭いながら水を飲む。その姿をちらりと横目に見て、私の心は少しほっとする。

 

 午前の終わり、彼はスケッチブックを広げる。今日は私がモデルらしい。鉛筆が紙を滑る音が部屋に心地よく響く。私は机の上に座り、首をかしげたり、尻尾をくるりと巻いたりしてみせる。視線を感じる。真剣に描いているのが伝わってきて、少し照れくさい。

 

 昼食の時間。彼はテーブルに料理を並べ、私にはキャットフードを出してくれる。新しく買ってきたばかりの袋。匂いを嗅いだだけで美味しそうだと分かる。私はもっと欲しくて皿の前で尻尾をぱたぱたさせ、じっと彼を見上げた。けれどスティーブは首を振って、いつもの分量でおしまい。おねだりしすぎて小さく叱られた。

 

 午後は映画鑑賞。最近のポップな映画。映像があまりに鮮やかで、まるで現実がそのまま映し出されているよう。私は彼の隣で小さく丸まり、時折スクリーンに合わせて目を見開く。映画を見ているのか、彼の横顔を見ているのか、自分でも分からなくなってくる。

 

 やがて眠気に誘われ、ソファを離れて部屋の隅へ避難。そこでうとうとし始めると、背後で彼が掃除を始める音が聞こえる。掃除機の低い唸りも、窓を拭く布の音も、どこか心地よい子守歌のようだった。

 

 目が覚めたとき、彼は椅子に腰かけ、本を読んでいた。私はあくびをひとつし、伸びをしてから彼の傍に寄る。ページをめくる音。ときどき視線だけがこちらに流れてくる。特に何も言わず、また活字に戻る。

 

 夕暮れが近づくと、夕食の支度。今日は私の大好きな鮭が用意されていた。小さな切れ端を皿に入れてもらい、夢中で頬張る。塩気と旨みが広がり、思わず尻尾がぴんと立った。彼は笑いながら、自分の皿を口に運ぶ。

 

 食後、スティーブはジムへ向かう。玄関の扉が閉じる音を聞きながら、私は再びソファで丸まる。やがて、心地よい眠気に引き込まれる。

 

 

 

***

 

 

 

 ドアの開く音で目が覚めた。彼が帰ってきたのだ。私はすぐに身体を起こし、玄関へ駆け寄る。

 

 

「にゃあ」

 

「ただいま」

 

 

 彼は少し疲れた顔をしていたけれど、私を見ると穏やかな笑みを浮かべて、そっと頭をひとなでしてくれた。その手は少し汗の匂いがして、けれど安心できる温もりを含んでいた。彼はそのままシャワールームへ向かい、私は迷わずその後ろ姿を追った。

 

 ドアの前に座り込み、耳を澄ませる。中から響く水音。シャワーの飛沫が壁を叩く音。湯気の匂いがほのかに漏れ出てきて、心を落ち着かせる。……いつもなら、そのまままぶたが重くなり、眠りに落ちてしまう。だが今夜だけは違った。眠れなかった。

 

 最後の一日だからこそ、名残惜しくて。たとえ数十分でも、彼と過ごせる時間を削るのが惜しい。

 

 やがてドアが開き、蒸気をまとったスティーブが出てきた。タオルで濡れた髪を拭きながら、私がそこに座っているのを見て足を止める。

 

 

「にゃあ」

 

「眠れないか?……ぼくといっしょだな」

 

「にゃー?」

 

 

 首をかしげる私に、彼は一瞬目を伏せる。照明に照らされた瞳の奥が、わずかに翳っていた。私は思い出す。夜中に目を覚ましたとき、窓辺に立つ彼の背中を見つけた時のことを。

 

 

「眠れないんだ。……昔のことを思い出して」

 

 

 その言葉は、吐息に混じるように小さくこぼれた。彼の声には、強靭な兵士の響きではなく、一人の人間としての弱さが滲んでいた。胸が締めつけられる。強く見える彼ほど、内には深い葛藤を抱えているのだ。けれど、"シロ"はただの猫だ。言葉を尽くして慰めることはできない。できるのは、そばにいることだけ。

 

 私は「にゃあ」と鳴き、寝室の前に移動する。振り返って彼を見る。ーーじゃあ、一緒に寝ましょう。こっちに来て、と。

 

 スティーブは小さく苦笑し、肩をすくめた。その表情に、どこか救われたような色が浮かんでいた。私は先にベッドへ跳び乗り、肉球で枕をとんとんと叩いてみせる。

 

 

「いっしょに寝るのか?」

 

 

 少し戸惑った声。そうよ、前にもそうしたじゃない。私が引かないのを悟ると、彼は観念したようにベッドの端に腰を下ろした。

 

 

「にゃあ」

 

 

 私は枕の隣に身体を丸め、細く目を閉じる。さっきまで眠れなかったはずなのに、不思議とまぶたが重くなる。彼の大きな手が、優しく頭を撫でてくれる。その温かさが、心の奥まで沁みていく。

 

 ふと、彼の動きが止まり、わずかに躊躇うような気配が伝わってきた。けれど次の瞬間、そっと吐息とともにベッドが沈む。彼も眠ることにしたのだ。ほんの少しでも、眠ろうと決めてくれたのだろう。

 

 この静けさが、心地よくて、切なくて。耳元で彼の呼吸が規則正しく流れる。こんなにも近くにいるのに、私は何も言えない。ただ寄り添うことしかできない。だけど、それでいい。

 

 ーーずっと、このままだったらいいのに。

 

 その願いを胸に抱き、私は小さく喉を鳴らしながら、静かに目を閉じた。

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