自分の身体よりもうんと大きなベッドは、ふかふかで包み込むような柔らかさを持っているのに、不思議と落ち着かなくて、眠りは浅かった。目を開けると天蓋の金糸が朝の光を受けて鈍く輝いている。カーテンの隙間から差し込む薄明の光に、どうしても再び眠る気にはなれなかった。
あたりを見渡す。壁一面を覆うタペストリーは金糸で刺繍が施され、絨毯は足を沈めるほど分厚い。自分には広すぎるこの部屋が与えられたことに、いまだ現実感が湧かない。まるで夢の中にいるようだった。
もう一度ベッドに身を沈めてみたものの、胸の奥にわずかな緊張が残っているのか、心臓の鼓動が耳に響いてきて眠れない。深呼吸をしてから身体を起こし、分厚いドアを押し開ける。途端に、外気のひんやりとした空気が頬を撫でた。
そこにはやはり兵士が立っていた。背筋をまっすぐに伸ばし、まるで石像のように微動だにせずに夜を越していたらしい。
「あっ……フレイヤ様、いかがなさいましたか?」
その声は驚きよりも、むしろ気遣いを含んでいる。けれど私は思わず心の中で首を傾げた。もしかして、一晩中ここに立っていたのだろうか。自由にさせてもらっているはずなのに、監視されているようでいい気分ではない。もちろん私を守るためなのだと分かってはいるけれど、慣れていない私には少し窮屈に感じられる。
「シャワーを浴びたいのだけど、いいかしら」
「ご案内いたします!」
兵士は小さく胸を張り、先導するように歩き出した。私もその後に続く。
浴場までの道は思った以上に長かった。廊下は天井が高く、壁には戦士や神々を描いた絵画が並んでいる。窓から射し込む淡い光が白い大理石の床に反射し、夜明け前の薄暗さを優しく照らしていた。
湯気の漂う浴場でシャワーを浴びながら、ぼんやりと考え込む。頭に浮かぶのはロキのことだった。
小さい頃から並べて育てられ、自分は当然王となるのだと信じてきたのに、その権利がないと知った時の彼の衝撃は、どれほどのものだっただろう。フリッガから聞いた過去の断片が頭の中で重なり合い、胸をきゅっと締め付ける。彼はなるべくして今の彼になってしまったのかもしれない。……もちろん、罪が許されるわけではないけれど。
恐ろしい。それでも、一度くらい顔を出してみようかーーそんな考えが胸をよぎった。フリッガ様一人に背負わせるには重すぎる孤独があるのなら、ほんの少しでも和らげられるかもしれない。
湯から上がり、衣を整えて浴場を出ると、先ほど案内してくれた兵士がまだそこに立っていた。……流石に部屋までは自分で帰れるのに、と一瞬思うが、きっとそれが彼らの役目なのだろう。とはいえ、この様子では気軽に探検できそうにない。せっかくアズガルドに来たのだから、いろいろ見てみたいのに。
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、ふと見知った背中を見つけた。大きな肩を持つ男が、ベランダに立ち、まだ薄暗い空をじっと見上げている。
「ソー」
思わず声をかけてしまった。
「!……君か」
振り返ったソーの青い瞳が驚きに見開かれる。
「どうしたんだ、まだ夜明け前だぞ」
「目が覚めちゃって……ソーこそどうしたの?」
「……まぁ、俺も、そんなところだ」
ソーは振り返りざま、軽く手を上げて兵士に合図を送る。すると、私をつき従っていた兵士がすっと後ろに下がり、静かに戻っていった。
わずらわしく感じていた存在が、ソーのたった一つの仕草だけで退いたことに、思わず口を開く。
「私もそうやったらよかったのね」
「何のことだ?」
「その、こういうやつ。どこにいても兵士がついてくるんだもの」
真似をしてみせると、ソーは「ああ」と短く声を漏らした。
「君の場合は、しばらくはつくだろうな。アズガルドに滞在する間に君に何かあれば、ヴァナヘイムとの関係に影響しかない」
ソーの硬い言葉に、思わず眉をひそめる。
「何かって、怪我とか?そのくらいでどうにかなっちゃうの?」
「……ああ、というよりは、なんというか……」
彼は言い淀み、視線を泳がせる。頬にわずかな赤みが差し、言いにくそうに言葉を選んだ。
「ほら、君は……綺麗だから。野郎どもが変な気を起こしかねない」
唐突な言葉に、こちらが気まずくなってしまう。
「あ、ありがとう……?でも、そんな人、本当にここにいるの?」
「……いないと信じたい。だが、言い切ることはできん。君は"フレイヤ"だからな」
分かったようで、分かっていないような答えだ。これ以上問い詰めるのもはばかられて、「そう……」と夜空を仰ぐ。
アズガルドの夜空は、地球で見慣れた空とは違っていた。星々が燃えるように鮮やかで、深い闇に刺し込むような輝きを放つ。青白い光が幾重にも降り注ぎ、見上げるだけで心が吸い込まれていく。
「……君は、ミッドガルドに恋人を残して、後悔はないか?」
不意に落とされた問いに、私は思考を奪われた。なにを勘違いしているのか分からず、思わずきょとんとする。
「残念ながら、恋人はいないの」
「え?ロジャースとは別れたのか?」
「えっ?付き合ってないわよ」
「……なるほど」
「なるほどって、本当に分かってる?スティーブはいっしょに住んでただけよ」
なんだかどんどん誤解を招いている気がする。ソーが勝手に納得したように頷くので、慌てて付け足した。
「猫の姿で、だからね?スティーブはずっと私のこと、ただの猫だと思ってたんだから」
「……本気か?」
「本気よ。だから私は別に恋人を置いてきたわけじゃないの。大好きな友人だから、それは寂しいけれど……」
ソーは何か言いたげにしたが、また空へと視線を戻した。その横顔に淡い光が差し、眉間に刻まれた皺が深く見える。寂しさを纏った横顔は、胸を締めつけられるほど静かだった。
「……あなたは、ミッドガルドに恋人を置いてきてしまったのね」
「!なぜそれを……」
「ほとんどそう言ってるような質問じゃない」
ソーは自分の言葉を思い返し、しかし納得できていないように眉を寄せる。その様子が可笑しくて、ついくすくすと笑ってしまった。
「後悔してる?」
「……後悔は、していない。ビフレストを破壊していなければ、アズガルドにさらなる被害をもたらしていただろう」
ビフレストが何かは分からないけれど、今は黙って相槌を打つ。彼の声音はどこか硬質で、しかし迷いを孕んでいるように聞こえた。言葉の端々に、民を想う王子としての責任感が滲んでいるのがわかる。
「でも、まだ彼女を想ってるのね」
「……ああ。二年前、彼女にまた戻ると約束したんだ」
その声は低く、けれどわずかに熱を帯びていた。自覚はないのだろうが、彼の口元がふっと緩んでいる。それに気づいて、私もふふっと笑ってしまう。
「彼女、ほんとうに素敵な人なのね」
そう言ったとき、ソーは一瞬、目を見開いた。私の言葉が胸に届いたというよりも、月光に照らされた私自身を見て、思わず息をのんだように。彼の瞳に映るその一瞬が、視線を絡め取られるようでーー
しかしすぐにはっとしたように眉を寄せ、ぶっきらぼうに口を開いた。
「……彼女はやらないぞ」
「ちょっと!とらないわよ!私、そんなに遊んでるように見える?」
「……」
「なによ、その間」
呆れと苛立ちが混ざった声を出してしまった。彼は何か言いたげに私を見下ろしているのに、結局言葉を飲み込み、ただ沈黙で返してくる。その目がどうにも奇妙で、警戒とも、迷いともつかない色が揺れている。
……そんなに信用ならない女に見えるのかしら。
そうなのなら、かなり心外である。私は人を弄んだことなんて一度もない。むしろ、恋人なんてこれまでただの一度すらできたことがないし、キスだってまだなのに。みんなが当たり前のように経験していることを、私はただ遠くから眺めるだけで過ごしてきた。だからこそ、軽々しく異性を翻弄するようなことなど、できるはずもなかった。
拗ねたように口を尖らせたとき、不意に廊下の窓から冷たい風が吹き込み、濡れた肌にぞわりと鳥肌が立った。思わず身震いし、くしゅんと小さなくしゃみがこぼれる。シャワーを浴びたあと、すぐに部屋へ戻るつもりで羽織るものを持ってこなかったのだ。
その瞬間、肩にふわりと温かな重みがかかる。驚いて顔を上げると、ソーが自分のローブを外して私にかけてくれたのだと気づいた。
「あ、ありがとう……紳士なのね」
落とさないように両手でぎゅっと掴み、微笑みかける。けれど、ソーは何かに打たれたように動きを止め、視線を逸らしたまま固まってしまった。
「ソー?」
「……俺にはジェーンがいるんだ」
「ねぇ、勝手に変な誤解しないでってば!」
思わず声を張り上げると、彼はばつが悪そうに目を逸らした。