すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 ソーとしばらく談話を楽しんだ後、部屋に戻ってーーほんの少し寛いだところでのことだった。控えめにノックの音が響き、返事をすれば、扉の外には五人ほどの女性が整列するように立っていた。腕にはワンピースやリボン、化粧道具のようなものまで抱えている。

 

 あまりに唐突な光景に思わず固まってしまう。

 

 ……まるで絵画の一場面を切り抜いたようだ。

 

 白いドレス姿の侍女たちが一斉にこちらへ会釈する。しんと澄んだ空気に、私の呼吸音がひどく大きく響いてしまった気がした。

 

 そういえばーーと、遅れて思い至る。服はどうしよう、とちょうど考えていたのだった。シャワーを浴びたあと、手持ちのものがないことに気づきはしたけれど、結局そのうちなんとかなるだろうと楽観的に片づけてしまっていた。そもそも私には、服を"持つ"という感覚自体が希薄だったのだ。姿を変えたときにまとうのはいつも白いワンピースで、それ以外を必要としたことがなかった。

 

 だから、こうして一揃いの衣装を抱えた人々に迎えられると、なんだか場違いな自分が浮き彫りになる。

 

 

「あ、あの……」

 

 

 戸惑いを隠せないまま声を漏らすと、彼女たちは恭しく頭を垂れた。

 

 

「お部屋に失礼致します」

 

 

 そのまま何の迷いもなく中へ進み、部屋の隅のドレッサー前に立つと、器用な手つきで淡々と準備を整えていく。

 

 

「フレイヤ様、こちらへ」

 

「え、えぇ……」

 

 

 促されるまま椅子に腰かけると、すぐに五人がかりで私の身の回りの準備が始まった。

 

 二人がかりで柔らかなブラシが髪をすべり、もう二人は私の顔へ筆をあてがい、細やかに化粧を施していく。残った一人は衣装を整え、シワを伸ばし、仕上げの小物まで揃えていた。

 

 ……なんだか、気まずい。

 

 彼女たちの息遣いが静かに揃い、道具のかすかな音だけが部屋に満ちていく。私自身は椅子に座らされ、ただされるがまま。身動きもままならず、すっかり飾り物にされた人形のような心地だった。

 

 

「あの……なんだかすごく、悪いわね」

 

 

 気まずさに耐えきれず言葉を落とすと、化粧筆を持つ女性が首を振った。

 

 

「とんでもございません」

 

 

 ……それ以上の会話は広がらなかった。

 

 なぜだろう。ほとんど目が合わない。偶然ではなく、意図的に視線を避けられている気配がある。まるで私と目を合わせること自体が不敬にあたるかのように。

 

 だが、それを指摘すれば責めていると受け取られてしまうかもしれない。私は口を閉ざし、仕方なく視線を鏡に移した。

 

 鏡の中に映るのは、まだ見慣れない自分。白金の髪も、紅い瞳も。どちらも今の私のもののはずなのに、どうにも借り物を纏っているような感覚が拭えない。

 

 静かな時間が続いた。気を遣うべきなのか、黙って耐えるべきなのか。けれど、どうしても沈黙に押しつぶされそうになり、ついに私は口を開いてしまった。

 

 

「ねぇ、少し伺ってもいいかしら」

 

「はい、なんなりとお申し付けください」

 

 

 すぐに返事がある。その声音は硬いのに、不思議と私の言葉を拒絶してはいなかった。

 

 

「"ビフレスト"ってなに?」

 

 

 実はソーが今朝の談話で言及してから、ずっと胸の奥にひっかかっていた言葉だった。

 

 

「ユグドラシルに内包された、九つの世界の移動手段となる虹の架け橋にございます。先の戦いで破壊されましたが、現在も修復活動が続いております」

 

「へぇ……つまり、それがあればミッドガルドにも、ヴァナヘイムにも行けるのね」

 

「左様にございます。ただし、アズガルドの戦士ヘイムダルが番人を務めておりますので、自由に行き来できるものではございませんが……」

 

 

 答えた女性がちらりとこちらを見やった。ほんの一瞬、私の顔色を伺うように。

 

 心配されているのだろうか。

 

 

「安心して。勝手に使おうとなんかしないわ」

 

 

 にこりと微笑んで見せると、その女性は固まった。まるで意外なものを目にしたかのように動きを止める。

 

 すぐそばで別の侍女が、咎めるように彼女の名を呼ぶ。呼ばれた本人ははっと我に返り、「失礼致しました……」と小さく頭を下げ、視線を再び私の髪へ戻した。

 

 やっぱりーー彼女たちは、私と目を合わせないようにしている。畏れなのか、拒絶なのか。それを確かめることはできないまま、静謐な時間が過ぎていく。

 

 不思議に思っているうちに、身支度は整えられた。鏡の中の私は、まるで別人のように磨き上げられていた。

 

 緩やかに編み込まれた白金の髪に宝石をあしらった飾りが添えられ、装飾の施されたワンピースはまるで夜空に星を散りばめたかのよう。唇は瞳とお揃いの紅で彩られ、胸元に下がるブリージンガメンの首飾りが仄かに光を反射する。

 

 その姿は、まさしくヴァナヘイムの女神。今までただの"私"でしかなかった自分が、初めて"フレイヤ"という存在を自覚するような感覚に包まれる。

 

 

「どうもありがとう」

 

 

 椅子から立ち上がり、くるりと振り返って礼を告げる。

 何人かの侍女と目が合った。だが、彼女らは慌てて顔を伏せ、すぐに視線を床へと落とす。

 

 ……やっぱり、なんだか変。

 

 そう思ったが、結局言葉になる前に、侍女たちは揃って下がってしまった。

 代わりに、また別の女性が部屋へ現れる。

 

 

「フリッガ様がお待ちしております」

 

「あら……早く行かなくちゃね」

 

「フレイヤ様のお通り!」

 

 

 廊下に出た瞬間、その女性が声を張り上げた。びくっと肩が跳ねる。

 

 何事かと思えば、廊下にいた兵士も、すれ違おうとしていた使用人たちも一斉に端へ避け、頭を垂れたのだ。

 

 ……女神って、こんな扱いをされるものなの?

 

 胸の奥に驚きと、どうにも落ち着かない気持ちが広がる。私はこうした扱いに慣れていない。気まずさを押し隠すように背筋を伸ばし、先導する女性の後ろを歩いた。

 

 少し後ろを振り返ると、三人の兵士が距離を保ちながらついてきている。護衛ということだ。

 

 ーーよっぽど、ヴァナヘイムとの関係を大切にしたいのね。

 

 今朝のソーの言葉を思い出して、表情が引き攣りそうになった。

 

 長い廊下を歩き続けると、空気がふっと柔らかく変わった。

 柱の隙間から色とりどりの花々がのぞいている。白い石造りの回廊の向こうに、陽光を浴びて揺れる花壇。紅、蒼、黄金の花弁が風にそよぎ、彩り豊かに咲き誇っていた。花の香りが微かに漂い、緊張で張りつめていた胸の奥をそっと解きほぐしていく。

 

 視線の先に、人影が立っているのが見えた。

 

 

「フレイヤ」

 

 

 呼びかけられた名に顔を上げれば、そこにいたのはフリッガ様。

 

 

「フリッガ様!」

 

 

 その姿を認めた途端、張りつめていた緊張がほどけ、思わず表情が綻んだ。中庭の美しさをそのまま身にまとったような穏やかな気配。

 

 私は自然と歩みを速め、彼女のもとへ近づいた。

 

 

「昨晩はよく眠れたかしら?」

 

 

 やわらかな問いかけに、条件反射で「はい」と答えかけたものの、正直に言えばそうではないことを思い出す。

 こういう場では取り繕うべきなのかと一瞬迷ったが、彼女の眼差しがあまりにも優しく、嘘を口にするのがはばかられた。

 

 

「あ……実は、慣れないからか早く目覚めてしまって。シャワーを浴びに行ったら……ソーに会いました」

 

「ソーに?……ソーは、何と?」

 

 

 微笑んでいたフリッガの表情が、途端に固くなる。母としての心配がにじむように、瞳の色が揺れた。

 

 話してよいものかと迷ったが、結局私は言葉を選んで答える。

 

 

「彼の……愛する人のお話を」

 

 

 濁して伝えたのに、フリッガは一瞬目を閉じ、深い吐息をこぼした。

 

 

「……そう。やはり」

 

 

 その声音には、諦念とも憂いともつかぬものが混じっていた。けれどフリッガはすぐに小さく息を整え、ぱっと表情を明るくする。

 

 

「ごめんなさい、昨日からあなたに聞いてばかりね。私ったら、まるで娘ができたようで、少々浮き立ってしまっているようです」

 

 

 上品に微笑むその様子は、軽やかに場の空気を和ませてくれる。

 

 

「……嬉しいです。そう言っていただけて」

 

 

 彼女のソーに対する心情を察しつつも、今はただ、その柔らかい言葉が心に沁みた。自然と頬が緩むと、フリッガもまた安心したように目元を和らげる。

 

 

「さあ、改めてティータイムとしましょう。外の風も心地よいことですし」

 

 

 白い指をそっと重ね合わせる仕草も優雅で、私もつられて背筋を正した。用意されていたテーブルの上には、銀の盆に並べられた菓子や果実が色とりどりに並んでいる。眩しいほどに美しい陶磁器の皿に盛られたスイーツは、まるで宝石を散りばめたかのようだった。

 

 今朝から何も口にしていなかったせいか、私のお腹はすっかり空っぽで、目の前の光景に抗いがたい誘惑を感じてしまう。

 

 ぐるりと見渡すと、どれもこれも見慣れない菓子ばかりで、目移りしてしまう。繊細な細工が施された焼き菓子、光沢を帯びた飴細工、果物を閉じ込めた透明なゼリー……。その中でふと、馴染み深い色合いに目を留めた。

 

 濃い茶色のケーキ。私の大好物。つい「あっ」と声を上げてしまい、慌てて口元を塞ぐ。

 

 するとフリッガは楽しげに微笑みを深めた。

 

 

「気づきましたか。フレイヤがチョコレートが好きと言っていたから取り寄せたんです。お口に合うといいけれど……食べてみて」

 

 

 まるで子どもに菓子を差し出す母親のように、フリッガは温かな眼差しで私を見つめる。その期待に満ちたまなざしは、少しくすぐったいようで、それでも嬉しくて、私は頷きながらフォークを取った。

 

 ひと口分をすくい上げ、口に運ぶ。

 

 途端、舌の上でとろけるような甘みとほろ苦さが広がった。思わず瞳を見開き、笑みがこぼれる。

 

 

「……すごく、美味しいです」

 

「ふふ。お口に合って何よりです。どうぞ、こちらのフルーツティーもご一緒に」

 

 

 フリッガは細い指でガラスのポットを持ち上げた。透き通る液体の中には、紫の花びらや小さな果実が浮かんでいる。注がれた途端、ふんわりと花の香りが立ちのぼり、空気が一層華やいだ。

 

 私は香りを楽しんでから、そっと口をつける。

 

 

「……美味しい」

 

 

 爽やかでありながら、喉を通るとやわらかく広がる甘み。人間だった頃、紅茶は何度も口にしてきたけれど、こんな味わいは初めてだった。うっとりと陶然としていると、フリッガが柔らかい笑みを浮かべる。

 

 

「あなた、とても美味しそうに食べるのね。見ていて私まで嬉しくなります」

 

 

 はっと我に返り、私は背筋を伸ばした。途端に恥ずかしさがこみ上げ、両手で頬を押さえる。

 

 

「こんなに美味しいもの、初めていただいたので……つい。ごめんなさい」

 

「どうして謝るのかしら。私はあなたが喜んでくださるのが何より嬉しいのですよ。遠慮などなさらず、たくさん召し上がって。こちらの焼き菓子もいかが?」

 

「……お言葉に甘えて、ぜひ!」

 

 

 促されるままに次々と皿に手を伸ばす。繊細に焼き上げられた菓子を頬張るたびに、舌に広がる甘みが胸の奥へと染みわたり、緊張で固くなっていた心が少しずつ解けていくのがわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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