冷たい金属のドアの隙間から、足音が響いた。軍靴の乾いたリズムが、暗い廊下に一定の間隔で反響している。その音を、少女は不安と期待が入り混じった胸の奥で、まるで心臓の鼓動のように数えていた。
あの時。まだ幼く言葉も満足に操れなかった頃、優しく差し出された手。細くて、頼りなくて、それでも誰よりも勇敢で、彼女を守ってくれた小さな手。
その手がやっと今、世界を救おうとしている。手紙のやり取りと先の報道で、彼が今どうなったのかは知っている。あの頃より何倍も強くなって、誇らしい姿になっている。まるでもうスティーブ・ロジャースとは思えないくらい……だからこそ、会いに行こう。そう思ったのは、ただ一つの感情からだった。キャプテン・アメリカが、スティーブ・ロジャースであると確かめたかったのだ。それで、SSRの関係者である父にごねて、計画の重ならない一瞬の休息の間のみという条件で、なんとか基地に連れてきてもらうことに成功したのだ。
不安よりも、彼らに会える期待の方がうんと大きかった。サプライズするつもりだったのだ。
そうしてーーやっと見つけた幼馴染の背中に、勢いよく飛び乗ったのだ。
「バッキー!」
「なっ?!」
焦って振り返る彼の変わりないハンサム顔を両手で包み込み、大きな怪我がないことを確認する。やっと安心すると私は、やっと緊張もほぐれてにっこりと笑った。
「元気そうで安心した!本当に……!ああもう、やっと会えた……!」
「キャロン、何でここに……」
「パパに駄々こねてあなたたちに会いたいって言ったの。今は休戦期間だから、それで……スティーブは?」
驚いたような、でも嬉しそうな、そんな複雑な表情を浮かべるバッキー。待ちきれずに彼に目的のもう一人の居場所を尋ねると、何でか彼の表情が翳った。
「あいつは……今は、会わない方がいい。お前のためにも」
「えっ?どうして?……まさか怪我をしてるの?」
「そうじゃない、そうじゃないけどーー」
ここまで会いにきたのに、そんなことを言われて今更止められるわけがなかった。彼に会う前からあった好奇心と、新しくできた胸のざわめき。けれどもまだ、好奇心の方が大きかった。
怪我をしているわけではないのなら、どうして隠そうとするのだろう。キャプテン・アメリカになろうが、彼は彼なのに。何にせよ、きっと彼に会えれば嬉しいという感情のほうがずっと勝つに違いない。覚悟を決めて家の玄関を開けたあの時から、私の中は根拠のない自信で溢れていた。
きっと、バッキーの言うことを大人しく聞いておけばよかったのだ。いつもそうだった。バッキーの言うことは正しくて、その通りにしなかった時はいつも結局後悔していた。
「あ……スティー、ブ」
何ヶ月ぶりに見た彼の背中は、もうスティーブと呼んでいいのかわからないくらい逞しくなっていて。やっと会えて嬉しかったのに、嬉しいという感情を遥かに上回る絶望が、私の心にずどんとのしかかったのだ。
彼は、ひとりじゃなかった。
傍らに立つのは、凛とした雰囲気の女性。軍服に身を包み、まっすぐにスティーブを見つめていた。
彼女の笑顔に、スティーブもわずかに頬を緩めた。ほんの数秒、彼女と目を合わせて。言葉は聞こえなかったけれど、空気が、なによりすべてを語っていた。
ーーああ、もう。私の知らない場所で、彼の時間は進んでいたんだ。
そう悟るのにはそうたいして時間はいらなかった。
「……キャロン!」
背後で、バッキーが呼ぶ声がした。でも彼女は、立ち止まることもなく、その場を静かに離れた。バッキーが焦って声をあげたから、基地に相応しくない女性のファーストネームに、周囲の構成員も怪訝に思って彼を見たが、その時見えたのはかけていくバッキー・バーンズの背中だけだった。
スティーブ・ロジャースもまた、幼馴染の名に顔をあげる。ペギー・カーターと話していた内容すら忘れて、「ごめんなさい、少し」と手に持っていた資料を彼女に押しつけ、返事も聞かずにバッキーの後を追ったのだ。
キャロンはどうしても今の顔をだれにも見られたくなかった。何でも相談できる友人、バッキーにでさえも。
まるで、何も見なかったように。何も期待していなかったように。また落ち着いたらいつものように笑って、スティーブと会いたかった。「無事だったのね、よかった。テレビで見たわよ。すごいじゃない」って。そんな他愛もない会話がしたかった。そうは思っても胸の奥が軋んで、張り裂けそうだった。
***
「……私ったら、邪魔だったみたいね」
外の空気は冷たく、空がにじんで見えた。
「分かってる。私は戦えもしないただの一般人。二人の顔が見られれば、それでよかった。けど、……自分だけはしゃいで……ばかみたい」
もとから、戦場のような場所で、恋なんて、語るべきじゃなかったのだ。そんなこととうに分かりきっていた。それでも彼らに会って、彼らがきっと私と会えたことを喜んでくれて、笑顔の彼らに、私はずっとあなた達を見ている、応援してる、って伝えられればよかった。
ただ、それだけだったのに。
溢れ出す涙を手の甲で拭う。バッキー・バーンズは震える幼馴染の肩をそっと包み込むようにして抱き寄せた。
「キャロン、やつらは……」
「いい、なにも言わないで。聞きたくない」
慰めてくれる幼馴染を、きっと睨みつけるようにして止める。バッキーはそれに従って、口を閉じた。
彼らが今どんな関係であろうと関係なかった。付き合っていようが、なかろうが。手を繋いでいようが、キスをしていようが。自分と同じように、スティーブに好意を寄せる女性がーー自分よりも遥かに魅力的な女性がいることが、どうしても受け入れがたかったのだ。
「……スティーブ、逞しくなってた。二人とも、本当に素敵だった。……きっと、幸せになれるわ」
「キャロン」
バッキーはキャロンの両の手をとって、彼女の胸の前で握り込む。まるで自分のことのように顔を歪め、グレーの瞳で彼女を見つめた。
「強がるな。俺の前では」
「強がって、ない」
「強がってる。下唇を噛むな。可愛いリップが台無しだ」
バッキーは、血の滲んだ下唇をそっと撫でた。
こんなふうに、咄嗟に甘い言葉を囁ける彼は、失恋など経験したことないに違いない。事実、彼に出会って二十年以上ーー寝た女の子に叱られた話は聞いても、振られただとかそんな話は聞いたことがなかった。それなのに、まるで分かったみたいに語る仕草が、キャロンには許せなかった。
堪えていた涙が喉を詰まらせ、絞り出すように吐き出された言葉が、留まることを知らずに力任せに彼にぶつけられた。
「……私の気持ち、わかりもしないくせに! えらそうなこと言わないで……!」
ひどいことを言った。口にしたあと、それに気づいた。しまった、そんなこと、言うべきじゃなかった。ひどく後悔したのに、バッキーはただ怒りもせずにキャロンを抱きしめた。バッキーの鍛え上げられた胸板に頬がぶつかる。
やっぱり彼は女の子の扱いに慣れている。失恋した女の子をどう扱ったらいいのか分かっている。彼の思惑通りになるのが納得いかないのに、どうすることもできずに、嗚咽をこらえるように震えた。
「……わかる、わかるさ。好きな人と結ばれない苦しみくらい……」
それ以上、言葉は続かなかった。続けることを、彼は拒んだのだ。彼の手は優しく、でもどこか切なげに彼女の背を撫でた。その温もりが、ただ悲しかった。
バッキー・バーンズは、キャロンの肩越しに空を見上げていた。深く息を吸い込むたびに、胸が痛んだ。
これ以上彼女の涙を見るのは、正直、こたえる。けれど、彼女を抱きしめているのは、慰めのためなんかじゃない。自分自身の心を、必死で守るためだった。
キャロンがスティーブへの想いを打ち明けてきたのは、まだ両手で数えられるくらいの年齢のときだ。彼女は重大な発表だと言わんばかりの決心した表情で打ち明けてきたが、そんなこととうに気づいていたし、そんな彼女が面白くって最初は笑い飛ばしてしまった。そうして勘違いした彼女に、「スティーブのこと、馬鹿にしないで」と強く叱られたのも今ではいい思い出だ。
彼女の話を聞くたびに、親友と幸せになってほしいという気持ちと同時に、別の感情があったのは自分でも気づいていた。
羨ましい、と。
彼女を喜ばせる言葉すら知らないスティーブが、羨ましかった。
けれど今、泣きじゃくる彼女を抱きしめて、思った。
どうして彼女を好きになってしまったのだろうか。それから、どうしてまだ諦めきれないのだろう。今まで、彼女を奪うチャンスはいくらでもあったはずだ。それでもそうしなかったのは、やはり自分の気持ちより、想い合う親友二人が幸せになってほしいという、その気持ちの方が大きかったからだ。
スティーブのようにまっすぐに想えたらよかった。けれど、そんな清廉さなんて、とうの昔に置いてきた。
それでも、今夜だけは彼女の涙を、誰にも見せたくなかった。だから彼女を隠してしまうように抱きしめたのだ。
***
人気のないベランダで涙を流し、抱き合う二人。ーーあの温度のなかで、きっと言葉以上のものを、想いとして交わしたのだろう。
その様子を、スティーブ・ロジャースは遠くから、誰にも気づかれぬように見つめていた。目を逸らすことも、歩み寄ることもできなかった。心の奥に疼くなにかに、名前をつけることもできないまま、ただ静かに見ていた。
キャプテン・アメリカとしての使命を背負ったときから、彼女といられないことは分かっていた。
けれど今、確かに思ったのだ。
ーー彼女の笑顔が、自分のものではないと気づいたこの瞬間に、自分もまた"ただのスティーブ・ロジャース"を、やっと手放すことができたのだと。
***
夜の空気は冷たく、どこか湿っていた。街の灯は遠く、まるでこちらを拒むように滲んで揺れていた。
バッキーの「気をつけて帰れよ」という声が、背中越しに微かに届いたが、キャロンは上の空で「うん」と答えるので精一杯だった。
胸の奥にぽっかり空いた穴から、感情という名のすべてが、砂のように零れていくようだった。
ずっと、スティーブが好きだった。
あの日、公園で私をかばってくれた、細くて頼りないけれど、誰よりも勇敢で、まっすぐな少年。
病弱な体で何度倒れても、何ひとつ諦めようとしなかった。あの瞳の真っ直ぐさに、私は救われた。
彼の隣に立ちたくて、強くなりたくて、何があっても笑顔でいようと、そう決めたはずだった。
……なのに、どうして、こんな結末なのだろう。
夢を叶えたスティーブ。誇り高く、美しく、ヒーローとして生まれ変わった彼。
それを、どうして私は、素直に祝福してあげられなかったのだろう。
……なんて自分勝手なのかしら。
苦しげな声が漏れ、涙が頬をつうと伝って落ちた。温度のないしずくが、まるで罪の証のように冷たく肌をなぞる。
彼は夢を叶えた。それは、かつて私も一緒に願った未来だったはずなのに。
誰よりも喜ぶべきはずの自分が、なぜこんなにも惨めで、哀しいのだろう。
愛してるなら……彼の幸せを、ちゃんと祝福できなくちゃいけないのに……
繰り返し、心の中で言い聞かせる。涙を飲み込み、震える唇を噛みしめる。
その瞬間だった。
空気を裂くような爆音が、夜空を揺るがした。
燃え上がる光。鋭く響く悲鳴。濛々と立ち込める黒煙。
ーー空港が、炎に包まれていた。
「っーーなに……!?」
思わず振り返ったその瞬間、閃光が視界を真っ白に塗りつぶす。耳をつんざくような爆音、目を灼く閃光。悲鳴も、怒号も、誰かの名を呼ぶ声も、遠ざかっていった。地面の感触が失われ、浮遊するような感覚の中で、彼女はただ一つの願いを抱いていた。
もっと彼といたかった。
名前を呼んで、もう一度だけ笑いたかった。
その願いだけが、胸の内で激しく、痛ましいほどに鳴り響いた。
ーー来世では、彼を幸せにしてあげられますように。
そう心の底から願った、一瞬後。
すべての光と音が、闇に呑み込まれた。
……けれど。
意識は、闇の中で静かに、なお鼓動を続けていた。