ほんのりと甘い香りの紅茶、庭を渡る風に揺れる花の彩り、そしてフリッガの微笑み。すべてが穏やかで、柔らかな時間を形づくっていた。
「フレイヤ、昨晩から過ごしてみて、何か困り事や要望はあるかしら?」
フリッガが、自然な流れで問いかけてくれる。まるで母が娘に気遣うような声音だった。
「いえ……ものすごく快適で、何もかも十分すぎるくらいです。とても広い部屋をいただきましたし、アズガルドの皆さんもとても親切で……」
言葉を並べてはみるものの、自分の声音の端に小さな迷いが混じっているのを、私自身が感じ取っていた。
「でも……気になることがあるようですね?」
柔らかく微笑みながらも、その眼差しは鋭い。すべてを見抜いてしまう女王の目だ。私は思わず肩を竦めてしまう。
「……大したことではありません。ただ……こうして丁重に扱われることに慣れていないので、少し落ち着かないんです」
ちらり、と中庭の四方に控える兵士たちに目を向ける。陽光を浴びてきらりと光る鎧、手にした槍の先端は決して油断なく構えられている。その視線は常にこちらに注がれているわけではないが、近くに在るだけで心は休まらない。そして廊下の奥では、侍女たちが控え、私が声をかければすぐに駆け寄れるよう待機している。
どれも善意からのことだと分かってはいる。けれど、常に人に囲まれていると、どうしても落ち着かないのだ。
フリッガは私の視線の先を追い、静かに頷いた。
「ごめんなさいね。あなたのせいではないのですよ」
「……私のせいではない?」
首を傾げる。思いもよらぬ答えに戸惑っていると、フリッガはふっと小さく息をつき、眉をわずかに下げて微笑んだ。
「姉のせいで、皆があなたを守ろうと必死になっているのです」
「前のフレイヤのせい……?」
思わず問い返す。フリッガは眉を少し下げ、やがて諦めたように微笑んだ。
「本当にどうしようもない人でした」
さらりと告げられた言葉に、一瞬耳を疑う。女王であり、母である彼女が、自らの姉をそう言い切るとは。
「……いえ、愛と美を司る女神としては、ある意味では正しい姿だったのかもしれません。とにかく自由で、気に入った者があれば堕ちるまで愛を囁き、来るものがあれば悪意の有無に関わらず拒まず愛を与え、心を堕とした。そうしてすべて"私の物よ"と言ってヴァナヘイムに連れ帰ってしまったのです」
その言葉に、私はごくりと息をのむ。
「やがて『"フレイヤ"と目を合わせると、心奪われ、自我を失う』という噂が立ったけれど、あながち間違いではありませんでした」
私は思い返す。アズガルドの兵士たち、侍女たちが、妙に目を合わせることを避けていたことを。そこには礼儀ではなく、恐れに似たものが潜んでいた。その理由が今、ようやく線となって繋がった。
「彼女は時折、気まぐれにアズガルドを訪れては好き勝手をしていった。だから……彼女が忽然と姿を消した後も、熱心な信徒たちが"フレイヤ"を求めて幾度となくここを訪れました。そんな折に、あなたが現れた」
フリッガの言葉に、胸の奥で何かがほどける音がした。今まで煩わしく思っていた護衛や監視のような存在が、急に私を守る盾のように思えてくる。
……でも。
新しい疑問が生まれてしまう。もしかして私は、彼女のように振る舞わなければならないのだろうか。愛と美を司る女神の正しい姿が、そういうものだとしたら。考えれば考えるほど、背筋が冷たくなる。
「……フレイヤ。あなたは姉のように振る舞う必要はありません」
はっと顔を上げる。まるで私の心を読んだかのように、フリッガが静かにそう言ってくれた。
「ほ、本当に……?」
声がかすれる。だがそれを包むように、フリッガはそっと私の手を取った。白く細い手が、驚くほど温かい。
「でも……"フレイヤ"として、愛を与えることは……やはり、しなくてはいけないのでしょうか?」
言葉を選んで、恥ずかしさを隠しながら問いかける。フリッガは私を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「何かをしなければならないと考える必要はありません。その時は、自然とやってくるものです。今はただ、自分自身と向き合うことを大切にしてほしいのです」
その言葉は、一見すると漠然としている。けれど、胸の奥にじんわりと沁み込み、どこかで灯火のように明かりをともす。私は目を伏せ、静かにその響きを確かめた。
「……自分自身と向き合うこと……」
「ええ。姉は、あなたが"フレイヤ'にふさわしいと判断したからこそ選んだのです。だから自分を疑う必要はありません」
フリッガの声は静かで、揺るぎなく、同時にどこまでも優しかった。その響きに包まれていると、自分の中にこびりついていた迷いが、少しずつ溶けていく気がする。
ーーそうなのだろうか。けれど彼女がそう言うのなら、そうなのかもしれない。
胸の奥に小さな明かりが灯るようで、私は思わずはにかんでしまった。
フリッガはそんな私を見つめ、やわらかく目を細める。そして少し身を乗り出し、唇にわずかな笑みを刻んだ。
「さあ、フレイヤ。あなたの"愛"の話を聞かせて」
「え?」
急に空気が変わった気がして、私は思わず間抜けな声をあげた。ここからが本題よ。そんな風に言わんばかりに、彼女は少し前のめりになった。
え?愛?
「愛……愛、ですか?」
「ええ。あなたの愛する人のことですよ」
その声音は穏やかだけれど、どこか確信を含んでいるようだった。
「愛する……人?」
問い返しながら、頭の中を慌てて探る。けれど、どこにもない。思い出せるものがない。両親の顔が一瞬頭をよぎったが、彼女の口調からして、そういう話ではないのは明らかだった。でも、私は今まで誰かを愛したことなんて……。
フリッガの眉がゆるやかに寄る。彼女は私の沈黙にすぐ気づいたのだろう。
「いるんでしょう……?」
その声音にわずかな緊張が混ざった。私は両手を膝に置き、勇気を出して口を開いた。
「あの……大変言いづらいんですが、私……これまで人とお付き合いしたことがないんです」
言った瞬間、フリッガの目が大きく見開かれた。長い睫毛が影を作り、その瞳に驚愕が鮮やかに浮かんでいる。
……そんなに驚くことかしら?
私は急に居心地が悪くなり、背筋を縮こまらせる。ボーイフレンドがいなかったことが、こんなに申し訳なく感じるなんて。だが次の瞬間、フリッガの表情は驚きから険しさに変わった。
彼女は眉間に深い皺を寄せ、手にしていたティーカップをそっと皿に戻す。陶磁器の触れ合う乾いた音がやけに大きく響いた。フリッガの視線は宙を彷徨い、考えを巡らせているのが分かる。重く沈黙が落ち、私は取り残されたような気持ちで唇を噛んだ。
「……つかぬことを伺うけれど、記憶が欠落しているように感じたことはありませんでしたか?」
唐突な問いに、心臓が跳ねた。
心当たりはある。むしろ、それこそが私がここアズガルドに来た理由だ。けれど、どう答えればいいのか分からない。自分の中で言葉が形にならず、喉元で絡まる。結局、私は口を開いては閉じ、再び開きかけてはまた閉じた。
フリッガはそんな私を見て、深く大きな息を吐いた。その吐息は呆れにも似て、けれどそこに微かな焦燥が混ざっているのが感じ取れる。
「……なんてこと」
低く漏れた言葉に、背筋がぞくりと震えた。
「フリッガ様……?」
不安を押し殺すように呼びかける。だがフリッガの視線は私ではなく、もっと遠くを見ているように鋭く曇っていた。
そして次の瞬間、彼女は決然とした声で告げた。
「フレイヤ。説明は後ほど必ずします。ひとまずは、オーディンのもとへ行きましょう」
「えっ?」
さっきまでの穏やかな笑顔は跡形もなく、女王の顔に切り替わっていた。背筋を伸ばした彼女の表情には緊張が走り、青い瞳が硬く光っている。
温かな陽射しが差し込む中庭、香り高い茶と甘い菓子。つい先ほどまで、和やかで安らいだ空気がそこにあったはずなのにーー。
それは一瞬で霧散し、場を支配するのはただ冷たい緊張だった。
私は状況を理解できないまま、けれどフリッガの手に導かれるように席を立った。心臓の鼓動だけがやけに大きく響き、胸の奥で不安が膨らんでいった。