すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 淡い金色の光が揺らめいていた。高い天井に彫り込まれた装飾の間から、仄かに射し込む魔力の光が、部屋全体を薄く照らしている。石造りの壁は冷たくも荘厳で、そこに並ぶ水晶のような装置が脈動し、見えない力が循環しているのを感じ取れた。

 

 寝台に横たえられた私は、胸の奥がぎゅっと縮こまるのを覚えていた。布団越しにも伝わる硬さは、病院のベッドというより神殿の祭壇のようで、居心地の悪さを余計に募らせる。

 

 幾人もの治療師らしき者たちが私の周りを取り囲んでいる。白衣などを着ているわけではない。ただ、長衣の袖口から覗く細工の施された金具や、掌から仄暗い光を発する道具が、彼らの役割を示していた。話し声は抑えられているのに、静謐な空間には一語一句がくっきりと響く。

 

 その中心に、彼がいた。

 

 黄金の鎧を纏い、厳しくも威厳を帯びた顔。片目から射抜くような視線がこちらを見下ろしている。

 

 アズガルドの王、オーディン。

 

 その名を聞いた瞬間から覚悟はしていたけれど、こんな形で初めて相まみえることになるなんて、想像だにしていなかった。

 

 私は息を詰めた。挨拶をすべきか、それとも黙って従うべきか。頭の中で何度も逡巡するが、状況がそれを許さない。寝台に押し留められ、見知らぬ術式に囲まれている今、軽々しく声を発するのは場違いに思えた。

 

 

「……なんてことだ」

 

 

 低く唸るような声が降りてくる。オーディンの言葉だ。その響きは私に向けられたものではなく、隣に立つフリッガと治療師に投げかけられていた。

 

 

「なぜこのような事態に……」

 

「本人に聞かねば分かりませんが……恐らくは……」

 

「…………まったく」

 

 

 小声のつもりなのだろう。だが、静まり返った室内では耳に届いてしまう。その断片的な言葉がかえって不安を煽る。胸の鼓動はどんどん速さを増し、指先がじっとりと冷えていく。

 

 そんな私に気づいたのか、フリッガが優しく名前を呼んだ。

 

 

「フレイヤ」

 

 

 母のような声音だった。その響きに背を押され、私はぎこちなく上体を起こす。

 

 すると、オーディンがゆっくりと歩み寄り、寝台のすぐ傍に立った。重厚な鎧に包まれたその存在感は、言葉以前に圧迫感として胸を押さえつけるようだった。呼吸が自然に浅くなる。光の加減で彼の金髪がわずかに輝き、瞳の色が冷たく光るのを見た瞬間、思わず目を逸らしたくなる。

 

 

「こ、国王陛下。お初にお目にかかります、私ーー」

 

 言葉を紡ごうとするも、威圧感に押され、声はどもる。身を低くするべきか、それとも平伏すべきか、理性と緊張がせめぎ合っていた。

 

 

「フレイヤ、そのままでよい」

 

 

 短く、断定的な声。だがそこには、柔らかな温かみもわずかに混ざっている。その一言だけで、胸の奥の緊張が少しだけ解ける。だが同時に、ここから何が始まるのか、戦々恐々としてもいた。

 

 

「よくぞアズガルドまで来たな」

 

「あ……と、とんでもございません」

 

 

 口を開こうとした瞬間、言葉は飲み込まれた。威厳に押され、挨拶もまともにできない自分が、恥ずかしさと情けなさで震えそうだ。オーディンは眉をわずかに動かすだけで、次の言葉を落とす。

 

 

「フレイヤ。突然のことで頭の整理もついておらぬだろうが、伝えねばならぬことがある」

 

 

 ごくり、と唾を飲む。寝台の縁を握る指先に、汗と緊張で力がこもる。心臓が早鐘のように打ち、視界が一瞬揺れた。

 

 

「単刀直入に言おう。そなたは記憶を失っておる」

 

 

 ……知っている。拍子抜けするほどに、私はその事実を自覚している。

 

 

「ーー本来、失うべきではない記憶を、だ」

 

 

 どきり、と胸が跳ねた。

 まるで身体の奥に凍りつくような衝撃が走る。

 

 

「失うべきでない記憶……?」

 

「あぁ。失ってはならん記憶とも言える」

 

 

 その声は重く、響き渡る。理解が追いつかず、自然とフリッガに視線を向ける。彼女の瞳にも、困惑と焦燥が滲んでいた。思わず手を握り返したくなる衝動に駆られるが、指先は震えるばかり。

 

 

「そ、それは……どういう……」

 

 

 声はか細く、言葉が心の奥で絡まる。フリッガが静かに、しかし確信を帯びて告げる。

 

 

「ごめんなさい、フレイヤ。はっきり分かっているのは……このようなことを起こせるのは"フレイヤ"だけだということ」

 

 

 息を詰め、彼女は続ける。

 

 

「確証はありませんが…Xでもおそらく、あなたが記憶を失ったのは"フレイヤ"ーー私の姉の過失であるといえるでしょう」

 

 

 言葉を呑み込む。過失ーーあまりにも軽い響きに感じられる。それで私の人生の記憶すら揺さぶられるなんて。

 思わず手が寝台のシーツをぎゅっと握りしめる。心の中で、どうしていいのか分からず、視界が滲む。

 

 オーディンがゆっくり口を開く。

 

 

「ヴァナヘイムの秩序を保つためにも、そなたは記憶を取り戻さねばならぬ。その方法を知るのは、フレイヤーーそなた自身のみ」

 

 

 私だけが知っている?頭の中にぽかんと穴が空いたような感覚だった。自分の中に何も残っていないのに、どうして取り戻せるというのか。胸が押しつぶされそうになる。

 

 

「……しかしだ」

 

 

 オーディンの声音がわずかに低くなる。その響きに、身体の奥がぞわりと震えた。

 

 

「記憶を取り戻せずとも、方法はある」

 

「……方法、ですか?」

 

「新たに、愛を育むことだ」

 

 

 一瞬、時が止まった。愛をーー育む?理解が追いつかず、頭の中は空白になる。

 

 誰に?自分の中の欠落した感情を、どうやって育むというのか。胸がしめつけられ、手のひらがじっとりと汗ばむ。

 

 視界の端で、オーディンの口元にかすかな笑みが浮かぶ。彼の思惑は、私の知る由もなく、心臓が騒ぐばかり。

 

 

「……オーディン、彼女はまだ混乱しています」

 

 

 フリッガの声が割り込む。妻の声は穏やかでありながら、王に対する強い牽制の響きがある。胸の奥が、わずかに安心と不安で揺れる。

 

 

「ですから……」

 

 

 オーディンはふっと深く息をつき、再びこちらを見据える。

 

 

「分かっておる。フレイヤ、のちほどまた話そう」

 

 

 その言葉が残響のように胸にこだまし、私の鼓動をさらに早めた。心臓は荒々しく打ち続け、血流が耳を圧迫する。冷たく湿った手のひらは小刻みに震え、息を吸い込むたび胸の奥が締めつけられる。

 何が起こっているのか、どうすれば良いのか、理解しようとするほどに思考は絡まり、出口のない迷路に閉じ込められていくようだった。

 

 私の記憶がないのは、以前の"フレイヤ"の過失?

 記憶を取り戻せるのは、私自身?

 記憶がなくとも愛を育めばいい?

 

 考えれば考えるほど答えは遠ざかり、心はひび割れていく。いや、愛を育めばいいなどと、簡単に言って済む問題ではない。記憶は取り戻さなければならない。過去を思い出さなければ、私が何者であるのかも、これからどう進むべきかも決められない。

 けれども、オーディンの言葉はまるで私にすべての責任があるかのように響いていた。彼にとって"フレイヤ"とは、すなわち私であり、その過失もまた私のものだと……。

 

 

「フレイヤ……気を確かに」

 

 

 不意に呼びかけられ、思考に沈んでいた意識が引き戻される。地面を凝視していた視線を上げると、そこには深い憂慮を宿したフリッガの瞳があった。彼女はそっと歩み寄り、寝台に腰かける私の横へ座る。揺れる衣の裾から、ほのかに花々の香りが漂った。

 

 その温かな存在感に思わず縋りつきたくなる。フリッガは私の背に手を回し、母のように静かに撫でてくれた。

 

 

「何と言ったらいいか……」

 

 

 彼女の声は震え、痛みを滲ませていた。私は俯いたまま、小さく「……ありがとうございます、フリッガ様」と口にした。

 

 

「お礼なんて言わないで。……止められなかった私にも責任があることです」

 

「いえ……オーディン様のおっしゃる通り、今のフレイヤは、私ですから……」

 

 

 言葉を紡ぎながらも、胸の奥がざわめき、喉は固く詰まった。責任があるなんて言いたくないのに、否応なくそう思わされてしまう。けれど口が拒んだ。私が背負うべきものと、そうでないものとの境界が見えず、ただ苦しかった。

 

 フリッガは私の逡巡を感じ取ったのだろう。悲痛に眉を寄せ、それでも決して私を見捨てぬというように、強く温かいまなざしを向けてくれる。

 

 

「フレイヤ、私が責任を持ってあなたの記憶を取り戻す手伝いをします。だから……恐れないで」

 

「フリッガ様……」

 

「大丈夫。きっと取り戻せます」

 

 

 彼女は私の手を包み込み、まるで心を預けよとでも言うようにぎゅっと握りしめる。その確かな温もりに、張りつめていた緊張が少しずつ解けていくのを感じた。

 彼女に責任があるとは露ほども思っていない。けれど、自らの痛みを抱きながらも私を支えようとするその姿に、胸が熱くなった。

 

 私は小さく頷いた。するとフリッガの握る手に込められる力が強まった。

 

 

「記憶の中に、あなたのご両親を見たのでしょう?彼らのことは、自らの力で思い出したですね?」

 

「はい。……ミッドガルドの友人が調べてくれて……。最初は信じられなかったのですが…………」

 

 

 言いかけて、私はふと息を詰まらせた。

 

 ーーそういえば。私はいつ、お母様のことを思い出したのだろう。

 

 記憶の中にある。確かにそこに、大好きなお母様はいる。お父様と仲睦まじく過ごし、庭先で花を育てるのが好きで、笑顔を絶やさない人。私が幼いころからずっと大切にしてきた、かけがえのない母。

 

 だが……おかしい。

 

 トニーが調べてくれたとき、戻ってきたのは確かに父の記憶だけだったはずだ。母の姿はなく、心のどこかで空白を抱えたままだった。それなのに、気がつけば当然のように母もそこにいた。初めから欠けてなどいなかったかのように、自然に。

 

 いつ?どの瞬間に?

 

 必死に思い返そうとしても、答えはどこにもない。気づけばそこにあった記憶ーーそうとしか言えなかった。

 

 

「フレイヤ?……なにか心当たりがあるのですか?」

 

 

 優しい問いかけに、私は唇を震わせる。だが首を横に振るしかなかった。わからない。何も。自分の記憶であるはずなのに、自分のものではないような奇妙な違和感だけが胸をかき乱す。

 

 

「……いえ。あまり……覚えていなくて」

 

 

 搾り出すように告げると、フリッガは小さく頷き、視線を伏せた。その横顔は、悲しみと慈しみを併せ持つものだった。

 

 

「そう……けれど、それはよい兆しです、フレイヤ。あなたがフレイヤとしての力を制御している証ですから」

 

「フレイヤとしての力……」

 

「ーー記憶操作。ヴァナヘイムにおいて、フレイヤのみに与えられた特別な力。私としては、あなたに使ってほしくはない力ですが……」

 

 

 声がそこで震えた。彼女の表情には深い苦悩が影を落としていた。

 

 

「その力を、私の姉はあなたに用いた。そして、その影響が未だにあなたの中に残っている」

 

 

 記憶操作……あまりにも壮大で恐ろしい話に、理解は追いつかない。そんな重大な力を、自分が宿しているなど到底信じられなかった。けれどフリッガの言葉は真摯で、決して虚構ではないことを告げている。

 

 

「"フレイヤ"が使った力ならば、あなた自身が破れるはずです」

 

「……けれど、使い方すら分からないのに」

 

「えぇ。私の姉もかつてはそうでした」

 

 

 フリッガは遠い昔を懐かしむように、柔らかく微笑んだ。

 

 

「まだ幼い頃、姉と大喧嘩をしたことがありました。彼女は怒りに任せ、私に関する記憶をすべて消し去ってしまった。……本当に子どものころの話よ。けれど時が経ち、彼女はそれを取り戻した。だから、あなたにも必ずできます」

 

 

 その思い出を語る彼女の横顔には、姉への愛情と痛みが複雑に入り混じっていた。自身の大切な家族がもたらした災厄に、目の前の私を巻き込んでしまった。その罪悪感が、彼女の言葉に重みを与えているのだと分かった。

 

 私の表情が不安に揺らぐのを見て、フリッガは細い指でそっと私の頬を撫でた。

 

 

「あなたは一人じゃないわ、フレイヤ。私がついています」

 

「フリッガ様……」

 

 

 その声音には決して揺らがぬ確信が宿っていた。冷え切っていた心に、ゆるやかな春の陽光が差し込んだように感じ、私はようやく深く息を吐き出した。

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