すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 私の記憶を取り戻すための模索は、当初想像していたよりもはるかに困難を極めていた。

 

 アズガルド王宮の奥深くに広がる書物庫ーー天井は人の背丈の何十倍もの高さを誇り、漆黒の梁の間からは淡い光が滲み出す。膨大な巻物や羊皮紙、石板に至るまで、あらゆる時代の知識がここに眠っている。積み重なった歴史の匂いは重く湿り気を帯び、空気を吸うごとに胸に澱のように沈んでいった。

 

 私はその書架を前にして幾度も本を引き出し、捲り、目を走らせた。しかし見つかるのは神々の逸話を飾る断片的な記述ばかり。フレイヤという名は確かに幾度も登場する。だがそこに描かれているのは"愛と美の女神"としての漠然とした概念にすぎず、具体的な生の姿も、ましてや記憶を操作する力についての証左も、どこにも残されてはいなかった。

 

 石床に置いた燭台の炎が揺れ、文字の影をゆらめかせる。幾度も読み返した文面が視界に滲み、次第に意味を結ばなくなっていく。頁を閉じるたび、紙の擦れる乾いた音だけが静寂を切り裂き、徒労感をいや増した。

 

 

「……見つかりませんね」

 

 

 長く息を吐き出すと、隣で共に書物を繙いていたフリッガが、残念そうに眉間に皺を寄せた。彼女の横顔は燭火に照らされ、光と影がその優美な輪郭を交互に撫でていく。

 

 

「あの人……私と喧嘩してからというもの、あまり自分の力は使いたがらなかったから……」

 

 

 言葉の端に、どうしようもない切なさが滲んでいた。私は本を抱えたまま彼女を見つめ、胸の奥にちくりと痛みを覚える。

 

 

「……よほどショックだったんですね」

 

「……そうね」

 

 

 フリッガは遠い日を懐かしむように目を伏せた。

 

 

「昔から気が合わなくて、小さな喧嘩は何度もしていましたが……彼女の涙を見たのは、前にも後にもその時だけでした」

 

 

 その声はかすかに震え、押し殺した情の名残を隠しきれていなかった。彼女にとって姉は、時に憎らしく、しかし何よりも愛おしい存在だったのだと痛感させられる。

 

 

「強い、方なんですね」

 

 そう呟いた私に、フリッガは小さく首を振り、寂しげに微笑んだ。

 

 

「強く見えるでしょう。でも……実際はそうでもないものですよ」

 

 

 小首をかしげた私の視線を受け止めると、彼女は本棚へ手を伸ばし、埃を払うように背表紙を撫でた。

 

 

「自立しているように見えて、心はいつもオーズに執着していました。強がってはいたけれど、それを誤魔化すように周りに人をはべらかして……でも実際には、彼に捨てられると感じた途端、神としての誇りさえ投げ捨てて追いかけて行ってしまった」

 

 

 声色は呆れを帯びながらも、そこには姉を想う温かさが確かにあった。けれど、私にはその奥にかすかな寂しさが覗いたように思えて、返す言葉を失った。

 

 

「愛は人を強くもするけれど、同時に弱みにもなる。必ずしも悪いことではないのだけれど……彼女にとっては違った。だからこそ、あなたには一人に執着してほしくなかったのかもしれませんね」

 

 

 その言葉に、胸がひりついた。

 

 フリッガはふと苦笑を洩らし、指先で並ぶ本の背を軽くなぞった。

 

 

「けれど……そのせいで、今こうしてあなたは苦しんでいる。私も……苦労しているのですが」

 

 

 わずかに肩をすくめる仕草には、長い歳月を経ても拭えない諦観と、それでも姉を想う優しさが滲んでいた。

 

 

「フリッガ様」

 

 

 私が呼びかけると、彼女はふと視線を上げ、柔らかな微笑を浮かべた。その顔を見ていると、胸の奥に押し込めていた思いが自然と口をついて出ていた。

 

 

「私、フリッガ様には感謝しているんです。だから……私のことであまり、気を負いすぎないでほしいんです。前にも言ったかもしれませんが、私は……フレイヤとして生まれ変われて、心からよかったと思っているので」

 

 

 本心だった。どれほど記憶が曖昧で苦しもうとも、彼女に出会えたことはかけがえのない喜びだ。

 

 フリッガは少し驚いたように目を見開き、それからゆっくりと目を細めて微笑んだ。

 

 

「……あなたは本当に、優しい子ね、フレイヤ」

 

「そんな……気を遣っているのではなくて、本当に……」

 

「えぇ、あなたの気持ちはよく伝わっていますよ」

 

 

 そう言って彼女は机に置いていた本をそっと閉じ、私の手を取った。その温もりがじんと胸に染み渡る。

 

 

「ねえ、フレイヤ。気分を変えて、少し違う場所へ行ってみませんか。……ロキに会わせたいのです」

 

「えっ?ロキ……ですか?」

 

 

 彼女の口から唐突に出された名前に戸惑いが隠せない。確かに、以前彼女に「話し相手になってあげてほしい」と言われたけれど、今この場でその話が持ち出されるとは思ってもみなかった。

 

 私の驚きを余所に、フリッガの表情はどこか心なしか楽しげだった。普段は穏やかで落ち着いた笑みを浮かべる彼女が、まるで子どものように胸の奥からわずかな好奇心を隠しきれずにいるのだ。久しく触れたことのない冒険心に、少し胸を躍らせているようにも見える。

 

 そんな彼女を見ていたら、強く否定する気にはなれなかった。不安と期待のないまぜになった気持ちを抱えながら、胸の奥を押さえて頷く。フリッガは小さく目を細めた。その微笑みに"大丈夫"という確かな安心が宿っていて、わずかに強張っていた心がふっと緩むのを感じた。

 

 

 

***

 

 

 

 牢へと続く廊下は、王宮の華やかさとはまるで対照的だった。厚い石壁がどこまでも続き、足音を吸い込むように冷ややかに響く。燭台の炎は小さく、灯りというより影を濃くしているようで、空気そのものが重たく淀んでいた。

 

 その中を並んで歩きながら、私たちは声を潜めて会話を交わした。

 

 

「私も、実際に足を踏み入れるのは数十年ぶりです」

 

「数十年……それなら、牢にいるロキと顔を合わせるのも初めてですか?」

 

 

 そう尋ねると、フリッガは首を横に振る。

 

 

「いいえ。いつもは幻覚魔法を通して会話するのです」

 

「幻覚魔法……」

 

 

 その響きに胸が高鳴る。気がつけば、前のめりになるように問いかけていた。

 

 

「私にも……いつかできるようになりますか?」

 

 

 フリッガはそこで立ち止まり、振り返ってにこりと微笑んだ。その笑みはどこまでも確信に満ち、疑う余地を与えなかった。

 

 

「えぇ、あなたならきっと。私が教えます」

 

「本当ですか?」

 

「もちろんですとも」

 

 

 その一言で胸が弾む。重苦しい空気の中で小さな灯火が灯ったように、わくわくとした気持ちが心の奥から湧き上がってくる。

 

 しかし、廊下を進むごとに空気はどんどん重さを増し、やがてその高揚感を押し潰すような緊張が私を包み込んだ。

 

 牢獄に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気と、石の壁に染み込んだ湿り気の匂いが押し寄せてくる。

 私の想像する格子の牢とは違い、そこに並ぶのは光を帯びた魔法の結界だった。淡く青白い光が壁から壁へと張り巡らされ、侵入も脱出も許さぬ透明な檻となっている。その中に囚人たちは収められていた。

 

 壁に寄りかかり膝を抱えてうずくまる者、落ち着きなく歩き回る者、虚ろな目で天井を睨み続ける者。彼らを兵士たちが黙って監視している。けれど、その誰一人として、私たちの存在に気づくことはなかった。

 

 

「……すごい。本当に、誰も気づいていません」

 

 

 思わず感嘆の声を漏らすと、フリッガが穏やかに答える。

 

 

「魔法で姿を隠していますから。けれど、決して物に触れてはいけませんよ。気配が揺らぎますからね」

 

 

 私はこくこくとうなずいた。心臓が高鳴りすぎて呼吸が浅くなり、胸が苦しい。

 

 奥へ進むにつれ、牢獄の空気はさらに異質さを増していった。何かが蠢くような気配が濃く、空気そのものが歪んでいるように思える。

 

 そしてその一角に、彼はいた。

 

 ロキ。

 

 牢獄という枷にありながらも、彼は悠然と椅子に腰を下ろし、一冊の本に視線を滑らせていた。その姿は囚人というより、気ままな書斎の主のようでさえある。

 

 その余裕の態度を目にした瞬間、背筋に冷たいものが走った。だが同時に、彼だけは私たちの気配を察知したのだろう。本から顔を上げると、怪訝に視線を宙に滑らせ、やがて一点を射抜くように見据えた。

 

 

「……何をしているのですか?」

 

 

 低く響く声が牢内に満ちる。

 

 

「あなたにはお見通しですね、ロキ」

 

 

 フリッガが静かに応じると、ロキは皮肉めいた笑みを浮かべた。

 

 

「誰がそれを私に教えたと」

 

 

 その言葉とともに、彼の視線が私へと流れる。その目は冷たくも鋭く、まるで心の奥底まで覗き込まれるようだった。

 

 

「いつからペットを飼い始めたんですか?」

 

「ペッ……?!」

 

 

 思わず声を裏返した私に、フリッガがぴしゃりと諫めるように言った。

 

 

「ロキ。あなたはどうしてそのように心にもない言葉ばかり並べるのですか」

 

「心にあるから口にした。それだけです」

 

 

 挑発を隠そうともしないその笑みには、楽しげな響きさえ漂っていた。フリッガは睨むでもなく、眉間に皺を寄せて彼を見つめる。その姿は、まるで生意気を言う子どもを諭す母親のようだった。

 そう思った途端、私の緊張は少し和らいだ気がした。ロキもただ反抗したい少年のように見えてきて、恐怖の中に奇妙な親しみのようなものが芽生えたのだった。

 

 

「あなたが退屈だと言うので、少しでも気が紛れればと思ったのですよ」

 

「……それは光栄なことだ。女王陛下が直々に傀儡を差し入れてくださるとは」

 

「ロキ!」

 

 

 フリッガが今度は強く声を上げる。その瞳には明らかな怒りが宿っており、私を"傀儡"と呼んだことを決して許さないのだろう。

 

 不思議と、私はそれほど腹を立てていなかった。一度そう思ってしまえば、ロキの言葉がまるで反抗期の少年が大人を困らせるために口にする稚拙な挑発のようにしか聞こえなかったのだ。それに、もし彼の頭の中にまだかつての"フレイヤ"の影があるのならば、この言葉もどこか筋の通った捻くれた戯れに思える。

 

 とはいえ、黙って飲み込むつもりはさらさらなかった。私とロキを隔てる透明な魔法の壁の存在が、微かに背中を押してくれる。守られているという錯覚が、勇気をほんの少しだけ補充してくれるのだ。虚勢であっても構わない。怯えてばかりの自分を見せつけるくらいなら、いっそ言葉で応じてやろうと思った。

 

 

「残念だわ。せっかく女王陛下が、友だちのいないあなたを気遣ってくださったのに、私のことを傀儡としか見ていないみたいね」

 

 

 友だちのいないことをわざとらしく、心底残念そうに強調する。皮肉を含ませた口調で、フリッガの方をちらりと見る。フリッガは微かに肩をすくめ、諦観の色を帯びたため息を漏らした。

 

 

「フリッガ様、やっぱりロキに他人と仲良くするなんて幻想だったんです。……さあ、行きましょう」

 

 

 フリッガはため息をひとつつき、仕方なさそうに踵を返そうとする。長い髪が揺れ、微かな光が石造りの廊下に反射して、薄暗い空間が少し柔らかく照らされる。ロキが視界に映らなくなる、その瞬間

 

 

「ーー待て」

 

 

 引っかかった。

 

 振り返ると、ロキはぎこちない笑みを浮かべ、少しだけ肩を張ってこちらを見た。普段の余裕に満ちた表情は影を潜め、不器用な焦りとプライドが少しだけ滲んでいた。

 

 

「……は、話くらいなら、聞いてやらんこともないぞ」

 

 

 口調は不器用で、どこか自分を誇示しようとしているようにも聞こえる。私は眉を少し下げ、悲しそうな顔を作って、わざと彼の表情を見つめた。

 

 

「友人ならば会話でないと……」

 

「いいだろう!話をしようじゃないか。……あれだ、好みの色の話でもするか?」

 

 

 好みの色ーーまるで幼い子どもが無邪気に尋ねるような話題だ。石造りの牢獄は冷たく湿り、苔の匂いと鉄の錆の匂いが混ざっている。薄暗い空間に響く彼の声は、余計に滑稽に思えた。フリッガと顔を合わせてクスッと笑うと、ロキは少し焦ったように顔を顰めた。

 

 

「何だ?何がおかしい?」

 

「いいえ、なにも。私は白が好きよ。ロキ、あなたの好きな色を当ててあげる……緑でしょう?」

 

 

 言葉をかけると、ロキの目が一瞬わずかに見開かれ、眉がピクッと動いた。その仕草に、思わず心の奥で小さく笑いを押し殺す。

 

 

「……力を使ったな?そのくらい私にだってできる。お前の好きな食べ物は……ミルクと鮭だな。おい、まさかその姿でも手を使わずに食べているんじゃないだろうな」

 

「ちょっと!勝手に覗かないでよ!そんなわけないでしょ!」

 

 

 身を引いてキッと睨むと、ロキはほんのわずかだが口角を上げ、余裕を失った表情を補おうとする。まるで自分が見抜かれたことに動揺していることを、必死に隠しているかのようだ。

 

 隣でフリッガの笑い声が響き、二人して驚いて彼女を見る。フリッガは柔らかな目元で笑い、薄暗い牢獄の空気に小さな光を差し込むようだった。

 

 

「ごめんなさい、続けて」

 

 

 楽しげにそう言われると、こちらもつい顔が緩まりそうになる。でも、続けてと言われると、何だか気まずいのだけど……じろりとロキを見ると、彼もまたどこか気まずそうに私を見た。背筋に走る緊張がほぐれ、薄暗い空間が少しだけ温かく感じられる。

 

 私は胸の奥で、小さな満足感を覚える。ロキが余裕の顔を崩し、ぎこちなくでもこちらに話しかけようとしているーーその瞬間こそ、私の言葉の効果を実感できる時だ。牢獄の冷たい石壁や苔の匂いも、鉄の錆の匂いも、すべてが遠くに感じられた。

 

 まぁ、でもフリッガ様が元気を取り戻してくれたのなら、ここに来た甲斐があったというものね。

 

 ロキの不器用さを見て、少しだけ心の中でくすくす笑いながら、私はゆっくりと彼の視線に応えた。

 

 

 

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