すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 意識が浮上して、私はそっと瞼を持ち上げた。まだ空は群青に沈み、世界は夜と朝のあわいに沈黙している。寝台の天蓋を仰ぎながら、昨日の出来事が脳裏に甦る。

 

 ロキと向き合った。かつて地上を混乱に陥れ、私自身の心を恐怖で縛りつけた男。その彼と真正面から言葉を交わした。驚くべきことに、私の心は穏やかだった。恐怖に震えることもなく、残っているのは疲労の余韻のような緊張だけ。フリッガが「彼の話し相手になってほしい」と願った理由を、ようやく理解しはじめていた。母として、息子を孤独に沈ませたくない――その切実な願いが、私の胸に静かに疼きを残していた。

 

 目を閉じて眠りに戻ろうとするが、覚醒した意識は再び私を現実へと引き戻す。ため息をひとつ零し、寝台から足を下ろす。石造りの床はひやりと冷たく、羽織を肩にかけた。扉を開けば、兵士が直立して控えている。

 

 

「少し歩いてこようと思うの。構わないかしら」

 

「はっ!お供いたします」

 

 

 兵士の緊張が伝わり、私はわずかに笑みを返した。彼を従えつつ、宛てもなく歩く。けれど足は自然と、宮殿の高みに設えられた静謐なベランダへと導かれていた。

 

 夜気は澄み、星々がなお瞬いている。空は群青と漆黒の狭間に沈み、遠い光が神殿の尖塔をかすかに縁取っていた。黄金の宮殿は闇の中に沈黙を保ちながらも、壁面に刻まれた文様は月明かりを受け、まるで古の誓いを秘めるかのように輝いている。静謐で壮麗なその景色は、アズガルドという国の威容そのものだった。

 

 ここでひとり空を見上げ、胸の内を落ち着けようと思った。冷えた石の回廊を抜け、風が吹き抜ける高台のバルコニーに出る。広がる景色は、息を呑むほど雄大で美しい。だが、心の重さは少しも軽くならない。

 

 その背中はすでにあった。

 

 広い肩、堂々たる立ち姿。銀の鎧は月影を映して鈍く光り、微風に揺れ、ローブが闇に翻る。その存在感だけで周囲の空気が揺らぐほどに、彼はそこに確かに立っていた。

 

 

「ソー」

 

 

 声をかけると、彼は振り返った。青い瞳に驚きの光を宿し、次いで微かに口元を歪める。

 

 

「今日も夜空にジェーンを思い描いてるの?」

 

「……フレイヤ」

 

 

 名を呼ぶ声は低く、胸の奥を震わせる響きがあった。豪快な笑い声を響かせる彼からは想像もつかない、翳りを帯びた微笑がその顔に浮かんでいる。

 

 

「……まぁな。考えることが多すぎてな」

 

 

 その声音には疲弊が混じり、王子として背負うものの重さがにじんでいた。

 

 

「そうでしょうね。アズガルドの次期国王なんだもの」

 

「そういうことだ」

 

 

 肯定の言葉。だが、そこに宿るのは誇りではなく、鉛のような影。胸の奥に沈殿した迷いと苦悩が透けて見える。私は声を潜め、まるで秘密を分け合うように言った。

 

 

「あまり嬉しくなさそうね」

 

 

 ソーは一瞬、驚いたように目を見開く。

 

 

「……そう見えるか?」

 

「えぇ」

 

 

 あっさりと告げれば、彼は沈黙した。やがて彼は深く吐息を洩らし、大きな掌で顔を覆った。天を仰いでいた背がわずかに傾ぎ、巨人のようなその姿がほんの少し弱々しく見えた。

 

 

「口に出してみたら、少しは楽になるかもしれないわよ」

 

 

 促すように言いながら、私は彼の隣に歩み寄った。手すりに手を添え、同じ夜空を仰ぐ。星々は悠久の時を越えて瞬き続け、彼と私の迷いなど取るに足らぬことだと言わんばかりに、静かに冷たい光を降り注いでいた。

 

 視線を向ければ、彼の横顔が夜気に浮かんでいる。硬い輪郭、力強い顎、だがその目元には迷いの影がはっきりと刻まれていた。

 

 

「幸いにも私はアズガルドの人間じゃないから、内政事情も知らないし……口も硬いわ」

 

 

 努めて軽やかに告げると、彼はわずかに口角を上げた。僅かながら緊張を緩め、ようやく自然な笑みを浮かべる。その一瞬に、確かに安堵の色が差した。

 

 ――そして彼は、迷いながらも言葉を絞り出す。

 

 

「……君は別の人生を考えたことはあるか?」

 

 

 問いかけは唐突に思えた。だが、その声音に潜む切実さが、ただの戯れではないことを告げていた。私は小首を傾げ、先を待つ。

 

 彼は短く息を吸い、静かに続ける。

 

 

「例えば……女神にならなかったら。今以上に幸せで、もっと穏やかな人生を歩めたかもしれないと」

 

 

 夜風が言葉をさらい、私の胸の奥に落とした。

 

 

「……あるわ」

 

 

 即答する自分に、少し驚いた。けれど、嘘ではなかった。彼の視線が揺れ、ほんのわずかに光を失う。

 

 私は手すりにもたれかかり、遠い夜空を仰いだ。

 

 

「あの時、私が人間として死ななかったら……力に悩むこともなく、慎ましく暮らして、普通に人生を終えていたでしょうし」

 

 

 そう呟いてから、そっと彼の横顔を見やる。

 

 

「あなたも、そんなふうに考えるのね。次期国王でなかったら……と」

 

「……そうだ」

 

 

 吐息のような答え。背後に積み重なった年月と葛藤の重さを思うと、私は胸の奥がきゅうと締めつけられた。

 煌めく星々を背に、ソーの肩は雄々しく見える。けれどその背中を覆う銀の鎧よりも、もっとずっと重いものを、彼は胸に抱えているのだと直感した。

 

 その声には、王子としての誇りも戦士としての豪気もなかった。ただのひとりの男が、疲れを隠しきれずに吐き出した本音が沈殿していた。

 

 

「俺は、アズガルドを愛している。父上の期待も、国の未来も分かっている。王として立たねばならぬことも」

 

 

 低く押し殺した声音と共に、握りしめた拳が白く変わる。

 

 

「だが……本心では、ジェーンと共に、地上でただの男として暮らす未来を望んでいるんだ。朝は彼女の隣で目覚め、夕暮れには並んで歩き、誰の期待にも縛られず――」

 

 

 言葉は途中で途切れた。だが、その余白にこそ、言い尽くせぬ渇望がにじみ出ていた。

 英雄の面影はそこになく、ただ重責に押し潰されかけている男の姿だけが浮かび上がる。

 

 私は胸を押さえた。痛みの正体は共鳴だった。

 彼はただ普通の人生を夢見ている。王子である以前に、一人の男として。

 それは、私自身の願いにも似ていた。女神としての務めに背を向け、人としての小さな幸福を求めてしまう……そのわがままを、私は許されているにすぎない。

 

 けれど彼は違う。一国の王となるべき存在。重すぎる立場から逃れる術はない。ロキが捕らえられた今、王位に就くべきはソーしかいない。

 彼はその運命を知っているからこそ、望みを言葉にできず、心の奥で迷い続けている。

 責任感の強さゆえに、誰よりも苦しんでいるのだ。

 

 私はそっと息を整え、彼の横顔を見上げた。

 

 

「……素敵な未来ね」

 

 

 小さな微笑みを浮かべ、柔らかに言葉を紡ぐ。

 

 

「ねぇ。じゃあもしジェーンと過ごせたら、何をしたい?」

 

 

 問いかけは慰めでも助言でもなかった。ただ、彼に夢を言葉にしてほしかった。たとえ叶わなくとも、心に抱き続ける価値があると示したかった。

 

 ソーは目を瞬かせ、意外そうに私を見た。やがて視線を夜空へ戻し、ひとつ深く息を吸う。

 

 

「……彼女とミッドガルドを歩きたい」

 

 

 その声は低く、かすかに幼さを含んでいた。

 

 

「市場をぶらつき、パンを買い、くだらないことで笑い合って……そんな日々を」

 

 

 あまりにささやかな未来。

 戦場を翔ける英雄ではなく、ただの一人の男が願う普通の生活。

 誰にでも許されるはずの幸福が、彼には手を伸ばしても届かない幻であることが痛いほど伝わってくる。

 

 私は遮らずに頷きながら聞いた。相槌は最小限に、ただ彼の夢を受け止めるためだけに。

 しばしの後、ソーは苦笑をこぼした。それは己の弱さを認めた者の、少し照れた笑みだった。

 

 

「愚かだと思うか?」

 

「どうして?」

 

「俺は王になるべきだと分かっている。だが夢見る未来は、王には決して許されぬものだ。……だからこそ愚かだと」

 

 

 私は小さく首を振った。

 

 

「愚かなんかじゃないわ。とても自然な願いよ」

 

 

 夜風が頬を撫でる。私は目を細めながら続けた。

 

 

「人は誰でも、普通の幸せを夢見るでしょう? 家族と笑い合う時間や、大切な人と共に暮らす未来を……神だって、きっと同じはず」

 

 

 ソーの蒼い瞳が静かにこちらを見つめる。深い湖のようなその眼差しに、かすかな光が宿った気がした。

 

 私は手すりに両手を重ね、同じ夜空を仰いだ。

 

 

「ねぇ、ソー。あなたが夢見る未来は、とても美しいわ。きっとジェーンも同じものを望んでいるはずよ」

 

 

 沈黙の後、彼はようやく小さく頷いた。

 

 

「……そうだといいな」

 

 

 その声は、ほんのわずかに軽やかだった。

 ようやく胸の重しがわずかに外れたのだろう。

 

 だが次の瞬間、ソーは不意に唇の端を上げた。戦場では見せない、少し茶目っ気のある笑み。

 

 

「フレイヤ、お前はどうなんだ?」

 

「……私?」

 

 

 意表を突かれて瞬きをする。彼は真剣さを和らげ、わざとらしく肩を竦めてみせた。

 

 

「本当にロジャースに気はなかったのか?」

 

 

 胸が不意に跳ねる。

 慰めていたはずが、いつのまにか立場が逆転している。

 月光が銀の鎧をやわらかく照らし、彼の笑みを軽やかに縁取っていた。けれどその奥に、探るような影がちらりと揺れた気がして、私はむくれたように口を尖らせた。

 

 

「もう、スティーブはそういうのじゃないって言ってるでしょ。命の恩人なの」

 

「命の恩人?」

 

「そうよ。ミッドガルドに初めて来たとき、変な男たちに売り飛ばされそうになったの。あの時、スティーブが助けてくれなかったら……どうなっていたか分からない」

 

 

 ソーの目が驚きに見開かれた。私は慌てて肩を竦める。

 

 

「でも大丈夫、何もされてないわ。スティーブが助けてくれたから」

 

「……そうか」

 

 

 安堵の吐息が彼の胸から洩れた。その響きが妙にあたたかく、胸に触れる。

 

 

「……また、以前のようにミッドガルドで過ごしたいとは思わないのか?」

 

「思うわよ。すごく思う」

 

 

 即答すると、ソーの瞳がやはり、と言わんばかりに細められた。

 

 

「できれば魔法も、この力も使わずに、ただ何も考えず、スティーブの家で……なんでもない日々を過ごせたらって」

 

 

 自分の口からこぼれた言葉に、はっとした。まるでソーの願いと同じではないか。

 気づかれまいと笑みで誤魔化す。

 

 

「でもいいの。女神としての自分にも向き合わなきゃって、ようやく思えたから」

 

 

 ソーはしばし私を見つめ、それから深く頷いた。

 

 

「……強いな」

 

「強くなんかないわ。ただ……少しだけ開き直れただけ」

 

「そうか」

 

 

 短い相槌と共に、彼は穏やかに目を細めた。

 

 

「でも三ヶ月後くらいには"ミッドガルドに戻りたい〜"って駄々を捏ねてるかもしれないけど」

 

 

 わざと冗談めかして肩をすくめると、ソーは低く笑った。その笑い声は、雷鳴のような豪快さではなく、夜風に溶ける優しい響きだった。

 

 

「それは容易に想像できるな。本当に言いそうだ」

 

「ひどいわね」

 

 

 笑いながら軽く抗議すると、彼は「嘘はつけない性格なんだ」と返し、ふたりでまた笑った。

 

 星々はいつのまにか輪郭を曖昧にし、夜空に薄靄のような白が差し始めていた。冷たい風が頬を撫でるが、その空気はどこか柔らかい。

 重苦しい吐露から始まった会話は、知らぬ間に和やかなものへと変わっていた。

 

 彼が少し肩の力を抜いたのがわかる。私もまた、胸の奥に溜め込んでいたものを吐き出したせいか、気持ちが軽かった。

 

 

「……夜が老けるのは早いな」

 

 

 ソーがぽつりと呟く。その横顔は先ほどまでの翳りを失い、一人の青年のように見えた。

 

 

「えぇ。でも良い夜だったわ」

 

 

 私がそう言うと、彼は目を細めて頷いた。

 

 アズガルドの広い空の下、ただ並んで立ち、互いの心の奥を少しだけ見せ合う。

 そのひとときが、何よりも尊く感じられた。

 

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