すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 足……ちゃんと動くわね。手も、問題なく上がる。声は……「あ、あー」……よし、出る。いいわね、調子は上々。

 

 自分の身体が確かに反応しているのを一つずつ確認しながら、私は胸の奥にふっと安堵の息を落とした。手足が動くこと、声が出ること、訓練の中で初めて掴み取ったように思える。全身の感覚を丁寧に辿り直す行為は新鮮で、そして楽しい。

 

 さて、じゃあお次は……ジャンプ。

 

 両足に力を込めて跳ねてみる。軽やかに石床を蹴る感覚が返ってくる。うん、完璧。それじゃあ次はーー「フレイヤ」……あれ?

 

 どこかで私を呼ぶ声がした。

 

 

「フレイヤ、何してるんだ?」

 

 

 耳の奥に届いた響きに、意識をそちらへ向ける。聞き覚えのある声が、私を呼んでいる。私は頭の中で意識を集中させ、声のする方へと足を進める。

 

 

「フレイヤ?……フレイヤ!おい!気をしっかり持て!」

 

 

 見知った低い声が焦りに震えている。石の上に胡座をかき、目を瞑っている"私"の肩を両手で揺さぶる大きな背中が目に入った。

 

 

「ソー、私ならここよ」

 

 

 背後から声をかけると、彼はまるで敵に襲われた時のように反射的に振り返る。その動きは雷鳴のように鋭く速かった。

 

 剣呑な殺意を孕んだ瞳が、私の姿を認めて一瞬で丸くなる。そして再び、自分が掴んでいる"本体"の方へと視線を戻し、再度こちらを見る。

 

 

「幻覚魔法の練習をしてたの。でもダメね、こっちに意識を集中させてると"そっち"の感覚にまでは意識が届かなくて……」

 

 

 私は意識を本体に引き戻し、そっと目を開く。視界に飛び込んできたのは、ソーの驚愕に開かれた瞳だった。目玉がこぼれ落ちそうなほど見開かれていて、その顔の変化があまりにも滑稽で、思わず笑いをこらえる。

 

 もう一度振り返ると、そこには当然何もいない。幻覚は消えていた。空気はただ冷たく、苔むした岩壁が静かに沈黙しているだけ。再び視線を戻すと、ソーは揺さぶった時に掴んだままの私の肩を放さず、信じられないとでも言いたげに口を開けたまま凝視していた。彼の表情がころころと変わるのが面白くて、私は小さく失笑してしまう。

 

 

「この短期間で、ここまで習得したのか……?」

 

 

 低く漏らす声には、呆れと驚愕が入り混じっていた。

 

 

「フリッガ様に教えていただいたのよ。見ての通り、一つ動かすので精一杯だけれど」

 

 

 正直に答えると、ソーは口を閉じて一瞬黙り込み、そしてふっと笑った。

 

 

「十分だ。ロキだって、あれを使いこなせるようになるまで二百年はかかったんだぞ」

 

「に……二百年……?!……ちょっと待って。じゃあ今ソーって何歳なの?」

 

 

 思わず声が裏返る。彼は首を掻き、困ったように笑った。

 

 

「あー……途中から数えるのをやめたんで正確には覚えてないが……だいたい千五百歳くらいだな」

 

「せっ……千五百……?!」

 

 

 驚愕に声が詰まる。思わず後ずさりして彼を見上げた。

 

 アズガルドの人々が人間より遥かに長命だとは聞いていたけれど、まさかここまでとは思わなかった。千五百年。想像を絶する時間。人の一生どころか、文明がいくつも栄えては滅ぶほどの長さだ。

 

 感心と同時に、ふと胸に冷たい疑念が芽生える。では、私自身は?人間として生まれたはずの私が、この世界に連れて来られて以来、時の流れの中でどう変わるのか……?

 

 考えた瞬間、背筋がぞわりとした。ぞっとする未来を思い描きそうになり、慌てて頭を振って追い払う。考えちゃだめ。今は、今だけを見ていなきゃ。

 

 

「それで、どうしたの?何かあった?」

 

 

 気を取り直して問いかける。ソーは少しぎこちなく笑い、私が胡座をかいていた岩に腰を下ろした。石のひんやりとした感触が衣服越しに伝わってくる。彼の大きな体が隣に並ぶと、岩が僅かに沈むような錯覚さえ覚える。私は足の位置を直しながら、彼の横顔を見上げた。

 

 

「いや、大した話じゃないんだ」

 

「なによ、もったいぶって」

 

「俺の仲間たちがな。君に会わせろってうるさいもんで。それで、もしよければ来週ーー」

 

「行く!!」

 

 

 思わず声を張り上げ、前のめりになってソーの膝に手を置く。

 

 

「ーーまだ最後まで言ってないんだが」

 

 

 苦笑する彼の顔を見れば、言いたいことなんてすぐにわかる。最後まで聞かなくたって構わない。胸の奥が弾けるように高鳴って、笑い出したいほどだった。

 

 

「でも、私、つまりそれって……外に出てもいいの?」

 

 

 胸をどきどきさせながら訊ねると、ソーは申し訳なさそうに眉を下げた。

 

 

「いや、宴はここでやるんだ。酒も料理もたんまり並ぶ。楽しいぞ」

 

「……なあんだ。お城の外には出られないのね」

 

 

 肩の力が抜ける。少しだけ残念。でも、それでも胸の奥に残る期待の熱は消えなかった。

 

 ここに来てから、私はまだ一度も城の外へ出たことがない。フリッガ様は優しいけれど、同時に厳しくもあった。力を制御できるようになるまでは、外の世界に触れることすら許されなかったのだ。

 

 

「そうだわ。ソー、私に戦闘術を教えてくれない?」

 

 

 思いついたことをそのまま口にすると、彼は目を瞬かせて振り向いた。

 

 

「戦いたいのか?」

 

「ううん、そうじゃないけれど……強くならなきゃ、いつまで経ってもお城の外に出られないんだもの」

 

 

 お願い、と言葉に出す代わりに、彼の横顔をじっと見つめる。答えを急かすように視線で訴えかけると、ソーはわずかに肩を揺らし、困ったように顔を逸らした。

 その仕草は、私の視線を真正面から受け止めてしまえば、思わず頷いてしまいそうだから逃げたように見えて、妙に可笑しい。

 

 

「ダメだ。父上に殺される」

 

「なんでオーディン様なのよ」

 

 

 呆れて口を尖らせるが、彼はぎゅっと口を結んだまま視線を戻さない。

 

 

「……とにかく、ダメだ。君が怪我でもしたら、母上を悲しませることになる」

 

「怪我しないようにするから。私、魔法も使えるし」

 

「まだ完璧じゃないんだろ?」

 

「……それは、そうだけど」

 

 

 小さく呟き、唇を尖らせる。子どもじみた言い訳が通じないことはわかっているけれど、それでも食い下がりたい。

 

 

「ケチ」

 

 

 小声でそう零してみるが、ソーは気づかないふりをしているのか全く反応しない。むっと膨れた頬のまま黙り込むと、彼は深く息を吐いて肩を落とした。

 

 

「……分かったよ、フレイヤ」

 

「ソー!」

 

 

 ぱっと顔を輝かせる私に、彼は続きを告げる。

 

 

「母上が許すなら、俺は喜んで教える」

 

 

 その瞬間、喜びは砕かれて床に散らばる。

 

 

「つまり、ダメってことじゃない!」

 

「そうは言ってない」

 

「そう言ってるも同然よ!」

 

 

 むっと睨み上げると、ソーは両手を広げるように肩をすくめた。

 

 

「母上は君を大切にしてる。その想いを無視するわけにはいかないんだ」

 

 

 彼の声音は柔らかく、けれど確固としている。そう言われてしまっては、わがままを押し通すことはできない。唇をきゅっと結び、足を抱え込んで膝に顎を乗せた。

 

 ソーはそんな私を横目に見て、少し困ったように笑みを浮かべると、慰めるように言葉を落とした。

 

 

「フレイヤ、俺は君に感謝してる」

 

「……どうして?」

 

 

 顔を上げると、彼は遠くを見るように視線を外していた。その横顔には、先ほどまでの茶化すような色はない。

 

 

「ロキが牢に入れられてから、母上は笑顔が減り、考え込むことが多くなった。だが、今は違う。君がいてくれるおかげで、毎日を穏やかに過ごせている」

 

 

 胸の奥に響く言葉だった。何気ない感謝にしては重みがあって、思わず呼吸を飲み込む。

 

 

「そんな……私は何もしてないわ。むしろ記憶を取り戻す手助けもしてもらってるし、魔法の練習まで見ていただいて……迷惑ばかりかけてるのに」

 

 

 自分を卑下するように言うと、ソーはふっと小さく笑った。

 

 

「君がどう思っていようと、母上にとっては違うんだろうな。……俺よりもよほど、君の方が支えになってるんだ」

 

 

 その声音には僻みも卑屈さもなく、事実を真っ直ぐに見据えた潔さがあった。彼らしい不器用な言い回しに、胸の奥が少し熱を帯びる。

 

 

「……ソー、あなたがフリッガ様の大きな支えであることは事実よ。ティータイムのときにあなたの話をすると、とても嬉しそうにされるもの」

 

「フレイヤ……。……変なこと話してないよな?」

 

「あら、私は事実しか伝えてないわよ?」

 

 

 にやりと笑って返すと、ソーは大げさに頭を抱えた。その反応が可笑しくて、ついけたけたと笑い声を洩らしてしまう。

 そうしてひらりと岩の上から飛び降りた。裸足の足裏が芝に触れると、青々とした草がちくちくと刺さり、思わず身を竦める。

 

 

「冗談よ。みんなに会えるの楽しみにしてるって伝えておいて!」

 

「あぁーーどこに行くんだ?」

 

「え?……内緒!」

 

 

 悪戯っぽく笑みを浮かべ、ソーの声に捕まる前に駆け足で中庭を抜け出した。

 

 さて、行く前に少し支度でもしようかしら。そんなことを考えながら、ぴょんっと軽く跳ねて石畳の廊下に両足を下ろした、その瞬間。

 肌を刺すような気配に気づき、無意識に視線を横へ向ける。

 

 そこに佇んでいた影に、心臓が跳ね上がった。

 

 

「オ、オーディン様……?どうしてこちらに……」

 

 

 そこに立っていたのは、アズガルドの国王オーディンだった。

 これまでに顔を合わせたのはただの三度だけ。最初に謁見した時の威圧感はいまだに鮮明に記憶に刻まれている。二度目と三度目は王座の間で交わした世間話程度で、気安さを装う笑顔に安堵しながらも、やはり本心を測りかねていた。

 

 けれど、部屋の外で彼と二人きりで出会うのは初めてだ。

 彼はやけににこやかに微笑んでいた。その笑みは陽だまりのように柔らかいはずなのに、私の鼓動は恐ろしいほど早まる。初めて対面した時の、王としての支配の気配が脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。

 

 しかも今の私は、裸足。よりにもよって、この格好で王と相対する羽目になるなんて。

 

 

「し、失礼いたしました。こんな無作法な姿でお目にかかることを、どうかお許しください」

 

 

 慌てて裾を整えながら深く頭を下げると、オーディンは手を軽く振った。

 

 

「気にすることはない。フリッガとの魔法の稽古が順調のようだな」

 

「は、はい。フリッガ様のご指導がとても明瞭で……学びやすく、身につきやすいのです」

 

「ふむ。ロキの魔法も、もとはフリッガが授けたものだ。彼女には人に才を開かせる力がある」

 

 

 まるで自らのことのように誇らしげに目を細める。その表情は柔和でありながら、奥底に計り知れぬ力を潜ませているように見えて、息が詰まりそうになる。

 

 鼓動は速さを増し、喉はからからに渇く。二人きりで話すのは初めて。前回はフリッガ様が隣にいてくださったから平静を装えたが、今は違う。

 ちらりと中庭へ視線を投げる。だが、そこにソーの大きな背中はもうなかった。助けを求められる相手はどこにもいない。

 

 露骨にならないように意識したつもりだったが、私がソーを探したのが伝わってしまったのだろう。

 

 

「ソーとは打ち解けておるようだな」

 

 

 探していた名前が出て、ピクリと肩が震える。

 

 

「は、はい……。殿下はとてもお優しく、分け隔てなく接してくださるので……その、おかげで私も安心できます」

 

 

 国王の御子を評するにあたり、言葉を選んだつもりだ。

 オーディンはゆったりとうなずき、口髭の下から小さな笑みを見せた。

 

 

「うむ。ソーは良い男だろう」

 

「仰るとおりです。戦場においては比類なき強さを誇り、皆を鼓舞なさる……そのお姿には、つい憧れてしまいます」

 

 

 少し持ち上げすぎただろうか、と内心不安になる。だがオーディンはむしろ満足げに目を細め、深くうなずいた。ほっと胸を撫で下ろす。

 

 

「そうであろう。よき夫になると思わんかね?」

 

「えぇ、当然!一途に妻をお守りになり、きっと子どもにとっても憧れの父君になられるでしょうね」

 

 

 必死に明るく言い切ると、オーディンの眉が愉快そうに動き、にんまりと口角が上がる。

 

 

「そうか、君もそう思うか」

 

「は、はい」

 

 

 欲しかった言葉をうまく返せたらしい。安堵の吐息を胸の奥に押し込みつつ、私は内心首を傾げる。

 ……これは、一体なんのやり取りなのかしら。

 胸を張って家族を自慢されているのだろうか。退屈しのぎに私を捕まえられたのかもしれない。いずれにしても、気を悪くさせなかったなら、それでいい。

 

 

「それを聞けて安心したぞ、フレイヤ」

 

「いえいえ!とんでもございませ……ん?」

 

 

 安心?なにに安心なさったのかしら……?疑問は浮かんだが、国王の笑みを前に問い返す勇気など持てなかった。

 オーディンは私の肩をぽん、と軽く叩くと、楽しげにマントを翻して背を向けた。

 

 

「これからも励むがよい。魔法の修練は怠らぬようにな」

 

「あっ……はい。ご助言、誠に光栄です!」

 

 

 去ってゆく大きな背中を呆然と見送る。しばらくその場に立ち尽くした後、ようやく肺に空気を入れ直し、小さく漏れた言葉は「……なんだったの……?」だった。

 

 胸の奥に残る違和感を抱えたまま、私は足早に廊下を駆けた。

 

 

 

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