「ーーっていうことがあったのよね」
今日一日の出来事を一から十まで話し終えると、ロキは牢の片隅に凭れかかった姿勢のまま、ずっと眉間に深い皺を刻んでいた。最初から最後まで一度も表情が和らがないのは、もはや表情筋の節約ではないかと思えるほどだ。
「オーディン様……何を考えているのかしら」
問いかけると、ロキは薄く笑った。鼻から漏れたその笑いは、嘲りともため息ともつかない響きを持っている。
「あの男の思考を読み解ける者がいたら、それこそ神話に残るだろうな」
「……」
「だが、一つだけ確かなのはーーあの人は決して無駄口を叩かないということだ。ソーを褒めさせ、お前の口から未来図を言わせた。それは意味がある」
囁く声は静かだが、皮肉と苛立ちが滲んでいる。
「未来図……?」
「"良き夫、良き父となるだろう"……お前、自分で言っただろう」
「そ、それは!その場を繕うために必死で……!」
「それでも、オーディンは満足そうだったのだろう?つまり、それが奴の望んだものだったんだ」
牢に差し込むかすかな光がロキの横顔を照らし、その瞳は闇を抱えたまま鋭く輝く。私の喉が、ごくりと鳴った。
「その意味が分かるか?フレイヤ」
「……ソーの結婚の適時をフレイヤである私にーー」
「阿保か」
ばっさりと切り捨てられ、胸の奥がむっと熱くなる。けれど、オーディンの本心に関して言えば、私よりもロキの方がはるかに通じている。
「人間の娘に心を奪われ、他の女神を娶ろうともしない結婚適齢期の息子。その前に、どういうわけか突然ヴァナヘイムの女神が現れた。しかも便利なことに、過去の記憶を失い、自分が誰を愛していたかも分からないというーー」
彼の声は物語を語る吟遊詩人のように滑らかで、皮肉を纏ってなお妙に耳に残る。
「『あぁ、フレイヤ。哀れな子。お前は愛があってこそ存在価値を得るのに、その愛を失ってしまったのだな』」
「……ちょっと」
「『だが安心せよ。わしの息子と愛を育めば、お前は再び存在価値を取り戻せる。アズガルドとヴァナヘイム、今こそ手を取り合おうではないか』ーーこうして勇敢な王と、最も美しい女神の美しい結婚が完成する。奴の目論みはそれだ」
口調はわざと芝居がかっていて腹立たしい。けれど、言葉の一つ一つが妙に理にかなっていて、否定の余地が見つからない。
私は長いため息を吐いた。
「"美しい女神"ね、どうもありがとう」
「名目上、そういうことになっているだけだ。私の意見ではない」
即座に切り捨てられるが、余裕の表情がわずかに歪んだのを私は見逃さなかった。唇の端を吊り上げて小さく笑う。
けれど、すぐに現実が押し寄せてきた。
もし、ロキの推測が正しいならーー。私は、オーディンが描いた"未来図"のために存在を利用されることになる。愛を失った哀れな女神が、ソーと共に"国の絵巻"に収まるために。
胸の内がきゅうと締め付けられる。
「あーー……どうしよう」
私は床にぺたりと座り込み、両腕で頭を抱え込んだ。幻覚だから感じないはずなのに、冷たい石の感触がじわりと足先まで伝わってくる。まるで現実の牢に閉じ込められたかのような錯覚が、胸の奥でじわじわと広がった。
そんな私を、ロキは冷淡とも憐れみともつかぬ眼差しで見下ろしていた。薄暗い牢の光に照らされた彼の瞳は深く、真意を計りかねる影を宿している。
「オーディンは、ソーの将来をお前の口から肯定させたんだ。その意味を考えろ。言葉は力を持つ。ましてや王の前で放たれたならな」
ぐさり、と胸に刺さる。私の軽率さが、知らず知らずのうちに決定づけてしまったのかもしれない。
「……それで、フレイヤーーいや、義姉上と呼んだ方がよろしいかな?」
「ちょっと、変な事言わないでよ……」
「お前がその気になれば、あの男を落とすくらい造作もないことだろう。オーディンの思惑通り、黙って従うつもりか?」
私は思わず顔を上げ、ロキを真っ直ぐに見た。
「バカね。人の恋人を取ろうだなんて、思わないわよ」
「……ほう、それは意外だ」
「もう、みんなして意外だ意外だって。私はあなたの伯母様とは違うのよ」
「"私の"伯母ではない。ソーの伯母だ」
「またそんなことばっかり……」
話をそらすのが得意なくせに、肝心なところでは刺々しい。
頼れる相手といえばフリッガ様しかいないけれど、彼女はオーディンの妻だ。これ以上心配をかけるわけにはいかない。
私は吐息と一緒に、胸の奥の迷いを零した。
「……なんとかしてよ、ロキ」
"なんとか"が何を指すか自分でも分からない。縋るように投げかけると、ロキはふっと鼻で笑った。
「兵士を誘惑でもして、私をここから出してくれようと?」
「……」
「そういうことなら、よろこんで結婚式を壊して差し上げよう」
「……やっぱり、あなたに言った私がバカだった」
吐き捨てるように言うと、ロキの表情が一瞬だけ揺らいだ。ほんの僅かだが苛立ちの色が差す。その変化が嬉しいような、切ないような。
彼にこれ以上憎まれ口を叩かせる前に、私は立ち上がった。
「まぁ、いいわ。よくよく考えれば、ソーが受け入れるはずもないし」
「なぜそう言い切れる?」
「だって、彼はジェーンを愛してるもの。愛はそんなに簡単に断ち切れるものじゃないのよ。あなたには分からないかもしれないけど」
「ふん。私にだってそのくらい分かる」
「へぇ……?」
意外で目を見開くと、ロキは私が何に疑問を持ったのか理解していないらしく、怪訝そうに私を見た。
「あなたも簡単に断ち切れない愛の経験があっただなんて」
「なッ……」
そういうつもりで言ったわけではなかったのだろう。恐らく、私の煽りに反発しただけだった。これまで仕掛けた挑発の中では一番の動揺のように見え、私は思わず口元を緩めた。
「……そういう意図で言ったわけではない」
「なんだ。違うのね。友だちもいないのに恋人がいるわけないものね……」
「私にだって恋人の一人や二人くらい……」
口に出しかけた瞬間、言葉が喉で止まる。ロキの視線が私を射抜くように鋭い。まるで、ここで軽々しく口を滑らせれば、すぐに利用されることが分かっているかのようだ。
「……そういう君はどうなんだ?さも知っているかのように語っていたが」
ああ、やっぱり、墓穴を掘った。頭の中で思わず言葉を整えようとするが、ロキは容赦なく間を詰める。
「……私は記憶がないだけよ」
「便利な言い訳だな、フレイヤ。ノーと答えるのと大差ないではないか」
「……」
言葉を返せずにいる私の様子を、ロキはじっと観察している。どこか楽しげで、苛立ちの混ざった目つき。口角にかすかな皮肉が滲む。
「記憶がない、か……随分と都合のいい存在だな、君は」
「仕方ないじゃない。だからオーディン様は……まぁいいわ」
誤魔化すように肩をすくめる。これ以上彼に突っかかれば余計なことを語りかねない。自分の立場を利用して彼にはできない"逃げる"という選択をすることに決めて、立ち上がる。
「じゃあ、また来るわ」
「来なくていい。君がいると無駄に疲れる」
ロキは顔を顰めたまま吐き捨てる。
「一日の中に疲れる時間があったっていいじゃない。幻覚魔法も長く保てるようになってきたし、もしかしたら一ヶ月で、あなたの二百年を超えちゃうかもしれないわ」
「二百年もかかっていない!」
子どものような反論に、思わずくすっと笑みがこぼれる。牢の中に灯る小さな灯火のように。
「それじゃ……おやすみ、ロキ」
そう言って幻術の身体がふっと溶けるように消える瞬間、ロキはほんのわずか、眉の動きや目の奥に言葉にならぬ表情を浮かべたように見えた。
その残像が、牢の薄暗い空気に、静かに余韻として漂っていた。