すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 朝の身支度をしてもらっている最中だった。

 

 背中に柔らかな絹の感触が滑り、指先が髪を梳くたびに香油の仄かな香りが漂う。いつもと変わらない光景だ。相変わらず、侍女たちは私と目を合わせようとせず、ただ淡々と義務を果たしている。彼女たちの伏せられた睫毛や硬い表情を眺めているうちに、退屈さは一層濃くなり、心はどこか遠くへと漂っていった。

 

 その瞬間、視界が一瞬だけ暗転した。まるで誰かに額を強く押されたかのように、意識の奥底が揺さぶられる。

 

 脳裏に、鮮烈な光景が次々と押し寄せた。

 

 ーー王の間。

 玉座に立つオーディン様。その前にソーが父と子としての言葉を交わしている。そして、ソーは静かにマントを翻し、王の間を後にした。その背を、オーディン様は優しく、慈しむように微笑んで見送っている。

 

 しかし……その姿が、ふと揺らいだ。

 

 アズガルドの王の姿が、影に溶けるように崩れ落ち、次の瞬間にはーーあれは、ロキ?

 

 私の胸が凍りついた。

 

 どうして。なぜ彼が、オーディンの姿を纏って玉座に……?

 

 

「フレイヤ様?」

 

 

 不意に侍女の声が差し込んできて、私は弾かれたように顔を上げた。近くで髪飾りを整えていた侍女が、不安そうに私を覗き込んでいる。だが私と視線が合った瞬間、彼女は慌てて目を逸らし、手元に意識を戻してしまった。

 

 胸の奥で鼓動が乱れる。

 

 今見たのは、幻覚?それとも……未来を見通す力?

 

 だとしたら……どうして、ロキが。なぜ父に成り代わり、王座に?

 

 頭の中に湧き上がる疑念が、侍女の言葉を打ち消していく。まともに返答する余裕さえなかった。

 

 

「……ねぇ、フリッガ様との訓練まで少し時間があったわよね?」

 

「はい、ご予定では9時からとなっております」

 

「ありがとう」

 

 

「……ねぇ、フリッガ様との訓練まで、少し時間があったわよね?」

 

「はい、ご予定では九時からでございます」

 

「ありがとう」

 

 

 三十分の余裕。それで充分だ。

 

 支度が終わると同時に侍女たちを部屋から下がらせ、重たく息を吐いた。柔らかなソファに身を沈め、瞼を閉じる。周囲に漂う花茶の華やかな香りが、意識の奥で徐々に湿った石と鉄の匂いに塗り替えられていく。

 

 ーー彼のいる場所へ。

 

 次の瞬間、私の感覚は牢獄の冷たい空気に満たされた。湿った石壁、かすかに響く水滴の音、囚われた者の退屈と苛立ちが凝縮された閉鎖的な空間。その中で、ロキはゆるやかに歩を進めていた。背を向けたまま、囚人とは思えぬ悠然とした態度。私が現れた気配に気づいたのだろう、しかし彼は完全にこちらを振り返ることなく、ただ足を止めるだけだった。

 

 

「今日は早いな」

 

「えぇ。……ただ聞きたいことがあって」

 

 

「聞きたいこと?」

 

 

 ロキは低く笑いを含ませる。

 

 

「ソーの好みの女のタイプか?残念ながら、私は奴の恋愛事情など毛ほども興味がない」

 

「そんなのはどうでもいいのよ。あなたのことよ、ロキ」

 

 

 私がわざと彼の正面に回り込むと、ロキはようやく視線を向けてきた。その双眸は氷のように冷たく、けれど深淵を覗き込むような輝きを孕んでいる。背の高い彼を仰ぎ見る形になり、私は自然と喉を鳴らしていた。

 

 

「ねぇ、ロキ。あなた……変なこと考えてないわよね?」

 

「変なこと?」

 

 

 彼は愉快そうに眉を寄せる。

 

 

「私の定義する"変なこと"であれば、何も考えてはいない。牢に入れられ、慎ましく過ごしているとも」

 

「私の定義する"変なこと"よ。……たとえば、オーディン様に代わって、王座に座るとか」

 

 

 短い沈黙。

 

 そして、ロキは薄く笑った。

 

 

「それは"変なこと"ではない。むしろ、私にとって当然の権利だ」

 

 

 そんなことを、言うだろうとは思ってたけれど……私が言いたいのはそうじゃない。胸の奥がきりきりと痛んだ。もっと具体的に、彼が未来に何を成そうとしているのかーー。どう伝えればいいのかわからず、私はただ彼を睨み上げた。視線で訴えるしかなかった。

 

 ロキはそんな私を見下ろし、僅かに片眉を上げる。

 

 

「……ほう、私が王座に座っているところを"視た"か?」

 

 

 胸が跳ねる。まさに、それだ。

 

 とっさに否定することもできず、私は口を閉ざしたまま固まる。その沈黙こそが肯定だと悟ったのか、ロキの口元が大きく歪む。

 

 愉快そうに、心底楽しげに。

 

 彼は、未来の自分を見抜かれたことを、何よりも喜んでいるようだった。

 

 

「素晴らしい……」

 

 

 ロキは囁くように言った。その声音は冷ややかでありながら陶酔にも似て、ぞくりと背筋を震わせる。

 

 

「やはり力を扱えるようになってきたな、フレイヤ。つまり、それこそが定められた私の運命。王座は、いずれこの手に落ちる」

 

 

 どうしよう。どうするべきなのだろう。

 

 勢いのまま彼に会いに来てしまったはいいものの、彼を止めることなどできるのか。迷いが胸の内をぐるぐると駆け巡り、答えは出ない。ただロキを見上げ、視線で訴えるしかなかった。

 

 

「それで、お前はどうする?」

 

 

 ロキはゆったりと首を傾け、鋭い眼差しを投げかけてくる。

 

 

「未来を"視た"お前は、私を王座から引きずり下ろすのか?」

 

「……」

 

「たとえその行為によって他の世界が歪もうとも?」

 

 

 唇に薄笑いを浮かべ、彼は畳み掛ける。

 

 

「そうだろう?お前は、ただ私を止めたくてここに来た。ならば、やってみせるがいい」

 

 

 挑発的な声音で、彼は私を見下ろした。

 

 できるものならそうしたい。だが……本当にそれでいいのだろうか?

 

 私は、この力を使いこなせていない。未来を"視た"としても、その解釈が正しいのか、行動に移すべきなのか、確証はない。無闇に動けば、取り返しのつかないことになるかもしれない。

 

 

「……いいえ、確認しに来ただけよ」

 

「なるほど。ならばお前は、あの女と同じ道を歩むわけだな」

 

 

 ロキは低く笑った。その笑みは氷の刃のように鋭い。

 

 胸がざわめく。

 あの女ーー前のフレイヤのことだ。

 

 ヘリキャリアに捕らえられていたとき、ロキは確かに言っていた。彼女も未来を見通す力を持っていた、と。だが決して使おうとしなかった、と。

 

 ロキはわざとらしく楽しげに肩を揺らす。

 

 

「結局は恐れているのだろう?本当は、そのままではいられない。だがその正義感を凌駕するほどに……お前は弱い」

 

 

 突き刺さる言葉。

 まるで見透かされているようだった。

 

 ーーそう、私は弱い。

 

 誰にも言ったことのない心の奥を、彼は容赦なく抉り出す。かつてヘリキャリアで見た彼の姿が蘇る。檻の中からでも人の心を操り、恐怖を植え付けるロキ。怯えていたあの時と同じだ。

 

 でもーー

 

 

「私がお前に、力を与えてやろう」

 

 

 ロキの声が一段と低く響く。

 

 

「手を取り、私とともに歩め。お望みとあらば……お前が渇望するだけの愛とやらを与えてやる」

 

 

 その声音は囁きでありながら、鉄鎖のように重く絡みつく。ひとつ返事をすれば、二度と元には戻れなくなるだろう。

 

 ーーでも。私はもう、あの頃の私ではない。

 怯え、ただ囚われていた弱い自分ではないのだ。

 

 私は真っ直ぐに彼を見上げ、唇の端をゆるりと持ち上げた。挑発するように、わざと。

 

 その瞬間、ロキの瞳がわずかに揺らいだ。困惑の影が浮かぶ。予想外だったのだろう。彼は、私が怯えて縋ると信じて疑わなかったのだ。

 

 

「あなた、いつも檻の中から私を誘うのね……ロマンティックで情熱的なプロポーズをどうも」

 

 

 唇に皮肉を滲ませた微笑を乗せると、ぴくり、とロキの眉が動いた。 

 

 

「でも私、結婚するのは好きな人がいいの。ごめんなさいね。あなたの気持ちは嬉しいけれど……」

 

 

 次の瞬間、烈火のごとくロキの表情が弾けた。

 

 

「思い上がるな!」

 

 

 牢獄の空気が震える。

 

 

「私は別に、貴様にプロポーズなどしていない!」

 

 

 牢獄の空気が一変する。冷たく澱んでいたはずの空気が咆哮に震え、白壁に反響した。ロキが怒声を浴びせてきているのに、不思議と怯えはなかった。むしろ、安堵に似た感情が心に灯る。

 

 彼はまだ、檻の中にいる。牙を剥こうとも、ここからは出られない。

 

 

「でも、安心したわ。あなたが"変な"気を起こしてないようで。それが分かれば十分よ」

 

「何……?」

 

 

 ロキの眉間に皺が寄る。

 

 そう。彼自身の言葉からしても、今すぐ何かを仕掛ける様子はない。今の彼は彼の言う通り、牢獄の中で慎ましく日々を過ごしているだけようだ。

 

 

「そろそろ行かなきゃ。今日はフリッガ様に魔法を教えてもらうの」

 

「……」

 

 

 ロキは黙したまま、ただ私を見ていた。珍しい。今日は「もう来るな」とも「うっとうしい」とも言わない。

 

 言わないに越したことはない。私は「またね」と小さく告げ、幻覚の魔法を解いた。

 

 

 

***

 

 

 

 現実の自室で、瞼をゆっくりと持ち上げる。……あれ? 視界に煌びやかな衣が飛び込んでくる。金糸で刺繍の施された深緑のドレス。

 

 

「フリッガ様?!」

 

 

 驚いて声が裏返った。目の前に立っていたのは、紛れもなくアスガルドの女王だった。彼女の存在は、太陽の光が部屋に満ちたかのように温かく、気高さに満ちていた。

 

 慌てて時計を見ると、約束の時間を少し過ぎている。

 

 

「ご、ごめんなさい、私……!」

 

「よいのです、フレイヤ。幻覚魔法の練習は順調ですか?」

 

 

 フリッガの声音は、春風のように柔らかい。彼女は怒るどころか、どこか嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

「え、えぇ……はい。ご覧の通り、一つに集中すると、こちらの体まで意識が向かなくなってしまうのですが……」

 

「自分の幻を創り出せるだけで充分すぎるくらいですよ」

 

 

 彼女は、ふっと目を細めて微笑んだ。その眼差しは、深い慈しみに満ちている。母が子を見守るように、温かくて、優しい。

 

 

「ロキですね?」

 

 

 核心を突かれ、思わず言葉が詰まる。けれど、嘘をつく気にはなれなかった。私は素直に頷いた。

 

 

「ロキも、あなたとの会話を楽しんでいるようですね。やはり、あなたがいてくれてよかった」

 

「そう……ですかね?いつも『もう来るな』と言われますが」

 

「ロキの『もう来るな』は『また来てほしい』と言っているのも同然ですよ」

 

 

 くすりと笑みが零れる。確かに、そう言われてみれば納得できる。彼の素直じゃない物言いを思い返し、思わず笑ってしまった。

 

 けれど、笑っていても、胸の奥にはさっきの会話が引っかかっていた。ロキの声、言葉の一つ一つが耳にこびりついて離れない。それをフリッガは見逃さなかった。私のぎこちない表情を、すぐに読み取ってしまったのだ。

 

そっと手が伸びてきて、私の手を包み込む。驚いて顔を上げると、フリッガの瞳がまっすぐに私を映していた。

 

 

「……フレイヤ、もしだれかに聞いてほしい話があれば、私がここにいますからね」

 

 

 母のように眉を下げ、静かに告げる声。心の奥の氷を溶かすような温かさに、胸がじんわりと熱を帯びる。

 

 私は知っている。ロキの痛みにも、ソーの葛藤にも、最後まで寄り添えなかった後悔を。彼女が語ったその悔恨は、今もフリッガの胸に影を落としているはずだ。けれど、それでも彼女は目を逸らさず、母として立ち続けている。子を愛し、子を守り、子の心に寄り添おうとするーーその揺るぎない想いが、今この言葉に宿っていた。

 

 だからこそ、その言葉が、ただの優しさだけでなく"どうか私を頼ってほしい"という切なる願いに聞こえた。その想いが滲む声音に、自然と口が開いていた。

 

 

「今日……身支度をしてもらってる時に、突然……"視えた"んです。ロキがーー」

 

 

 しかし、言葉の最後が形を成す前に、フリッガの細い指が私の唇にそっと触れた。驚きに目を見開くと、彼女の顔は先ほどまでの柔和さを失い、鋭い緊張の色に覆われていた。

 

 

「"それ"は、言葉にしてはなりません」

 

 

 低く、しかし決して乱れない声。その一言が胸を貫く。

 

 

「フリッガ様……?」

 

「ごめんなさい。私が促したのに……。ですが、あなたの言わんとしていることは伝わりました。けれど"その内容"は、誰の耳にも触れてはならないのです」

 

 

 彼女の真剣な眼差しは、私の困惑を軽々と突き抜けてくる。握られた手は先ほどよりも強く、そのぬくもりが逆に、逃れられぬ重みを持って感じられた。

 

 

「フレイヤ。あなたに与えられたその力は、運命の均衡を揺るがすもの……。未来を"視た"としても、それを覆そうとしてはなりません。決して」

 

 

 凜とした声音。私が言葉を詰まらせると、その苦悩を悟ったのか、彼女は眉を曇らせて、いっそう強く私の手を握り込んだ。

 

 

「あなたにこのように重い役割を与えるのは辛いでしょうが……どうか」

 

 

 まるで懇願するようなその声音に、私は胸の奥を強く揺さぶられる。

 

 けれどーー私はもう、逃げたくなかった。

 

 

「……フリッガ様。だけど、私……何もできないままでいるのは嫌なんです」

 

 

 初めてだった。私がフリッガ様の意見を否定するのは。声を震わせながらも、確かにそう告げた瞬間、彼女の表情が苦悩に歪むのが見えた。

 

 

「けれど、分かってます。この力は危険です。"視た"未来をねじ曲げようとはしません。フリッガ様の仰る通りに……それはしない。……けれど、何もしないでただ眺めているだけは嫌なんです」

 

 

 心の奥底に燻っていた想いが、抑えきれずに言葉となって溢れ出す。未来を変えようとするのではない。けれど、目を逸らして手をこまねいているだけでは、自分が存在する意味を見失ってしまう気がした。

 

 

「フリッガ様。どうか……私にも、皆とともに戦う許可を与えてください」

 

 

 そう願う声は、かつて人間だった私自身が一番驚いていた。あの頃は自分は当然に守られる側の人間で、戦うなんて考えもしなかった。強さを欲するなど、遠い世界の物語だと思っていた。

 けれど今は違う。力を持ってしまったからこそ、それを何のために使うのかを選ばねばならないと知った。

 

 フリッガは心底心配そうに眉を下げ、そっと私の頬へと手を伸ばした。細い指先が、傷ひとつない肌を名残惜しげになぞる。

 

 

「フレイヤ……」

 

 

 その声に宿る慈愛に、私はぐっと視線を逸らさず応える。彼女の想いに甘えることもできた。けれど、それでは意味がない。私はもう、守られるだけの存在ではいたくなかった。

 

 長い沈黙ののち、フリッガは静かに目を閉じ、深く息を吐いた。その肩がほんの僅かに震えていたのを、私は見逃さなかった。

 

 

「……分かりました」

 

 

 その言葉を耳にした瞬間、胸の奥で大きな何かが弾ける。

 

 

「ただし、戦場に出るのは、私が充分に力をつけたと判断してからです。それまで決して無茶をしてはなりません。約束できますか?」

 

 

 彼女の顔にはまだ深い心配が影を落としていた。それでも、そこにあるのは信頼の光でもあった。彼女の想いを無駄にすることなど、決してできなかった。

 

 私は覚悟を込めて、強く、大きく頷いた。

 

 フリッガの手が再び私の頬を包む。温かなその感触に、胸の奥に熱が灯るのを感じながら、私は静かに決意を固めるのだった。

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