「まさか本当に母上から許可をもらうとは……」
金色の燭台が途切れなく並ぶ長い廊下を歩きながら、ソーが信じられないものを見るような目を向けてくる。彼の足音はいつもよりわずかに重く、その声には驚きと困惑が半々に混じっていた。
私は小さく笑い、満足げに口角を上げた。
「気持ちを訴えたのよ。すごく心配なさっていたけれど、無茶はしないって約束で許可していただいたの」
「フレイヤ」
「なに?」
食い気味に名前を呼ばれて振り向くと、ソーが唐突に立ち止まり、真剣な眼差しを私に向けてきた。頭のてっぺんからつま先まで、まるで武具を点検するかのようにじろじろと。
今日の私は訓練用の軽い鎧に身を包み、気合を入れて髪を高く結い上げていた。人前で戦いの装いをするのは初めてで、少し誇らしくもあった。だがその視線に、思わず不安が募る。
「……その、髪は結ばないといけないのか?」
「え?そうじゃないの?動いたら邪魔になるでしょう」
「そうだが……」
私は自分のポニーテールを指先でくるくると弄び、小首をかしげた。
「変?」
「……変になるやつが出てきそうだ」
「なにそれ」
思わず吹き出すと、ソーはむっつりと口を閉ざした。彼の視線が廊下の先に流れていく。釣られてそちらを見ると、何人かの訓練兵がこちらを窺っていた。視線が合った瞬間、彼らは慌てて顔を逸らしたが、頬に赤みが差しているのが分かる。
「ほらな」
ソーが肩をすくめる。
「ただ物珍しいから見ているだけよ」
「そうだといいが」
呟く声は低く、どこか苛立ちを含んでいた。警戒心が入り混じっているのが伝わり、私は苦笑を浮かべるしかなかった。
「ソー」
その時、凛とした女性の声が彼を呼んだ。顔を上げると鎧に身を包んだ一人の女性がこちらに近づいてきていた。
振り向くと、甲冑に身を包んだひとりの女性が足音も高らかに近づいてくる。鋭さと気品を併せ持つ雰囲気。長い黒髪を後ろで結び、歩む姿には迷いがなかった。
「シフ」
ソーがその名を呼ぶ。しかし彼女の視線は、ソーを素通りしてまっすぐに私に注がれた。
私は胸の奥が小さく跳ねるのを感じながらも、思い切って一歩前に出た。
「あなたがシフね。わたし、フレイヤよ。お会いできてうれしいわ」
侍女以外では、アズガルドで初めて自分と年の近い女性と向き合う。緊張で手のひらが汗ばむのを感じつつ、笑みを浮かべて手を差し出した。
一瞬、シフの瞳が驚きに見開かれる。けれど次第に、その表情が柔らかな笑みに変わっていった。
「噂以上の……美人ね」
差し伸べた手をしっかりと握り返され、その言葉を耳にした瞬間、頬がほんのりと熱を帯びた。
「ふふ、綺麗なあなたにそう言ってもらえるなんて光栄だわ」
嬉しくてそう返すと、シフの目がさらに大きく見開かれた。彼女はちらりとソーに視線をやる。ソーは苦笑混じりに肩をすくめるばかりだ。
「……?なにか変だった?」
私は二人を交互に見て首を傾げたが、返答は得られなかった。
戦闘術の訓練は、シフがつけてくれることとなっていた。同じ女性の方が分かりやすいだろうとのことらしい。けれど正直、彼女と向かい合うだけで少し緊張する。噂では、ソーと肩を並べるほどに強い女戦士だと聞いている。鋭い眼差しと凛とした姿は、初対面の私から見ても眩しくて、容易に気を抜ける相手ではなかった。
「戦闘の経験は?」
シフが問いかける声は、木剣を片手に持つだけで空気を張りつめさせる。
「ないわ。……あ、ロキに洗脳されてる時に一度だけ。でも記憶がないから……ないわ!」
「ふっ」
「今笑った?」
シフは肩をすくめ、なんでもないというように首を横に振ると、するりと私の背後に回り込んだ。鎧の擦れる音とともに、後ろから私の腕に手が添えられる。甲冑の硬さとは対照的に、指先は驚くほど繊細で、温かかった。
「構えが甘いわ。肘をもっと内に寄せて。足は肩幅より少し広く」
低く囁く声とともに、肘と肩の角度を修正される。ぐっと剣を支える重心が安定し、先ほどまで頼りなく揺れていた切っ先が真っ直ぐ前を向いた。
「すごい。全然ちがう……!」
剣が軽くなったように感じて、感嘆の声が漏れる。
「戦場で武器を振るう以上、最初の形がすべてよ」
きっぱりと言い切る声音に、長年の経験から来る確信がにじむ。私はごくりと息を飲み、背筋を伸ばした。
そのまま幾度か剣を振り下ろす。木剣が空気を裂き、乾いた音が稽古場に響いた。肩に伝わる重みと手首の負担に顔が歪むが、シフは容赦なく視線で指摘を重ねる。
「腕だけで振らないで。腰をひねるのよ。そう、力は全身で扱うの」
「こ、こう……?」
「もっと下半身に意識を。踏み込みが弱い」
足をずらし、腰を捻る。ぎこちなく振り下ろした一撃は、まだまだ頼りないが、少しだけ音に鋭さが増したように思えた。
「……よし。その調子」
短く評価したシフの声が、わずかに柔らかくなる。その響きに安堵したのも束の間、彼女の唇がふと僅かに動いた。周囲には届かない、低く抑えた声。
「ところで……ソーの婚約者って、本当なの?」
その瞬間、手元が揺れた。木剣の切っ先がわずかに逸れ、危うく床を叩きそうになる。慌てて構え直す私に、シフは「手を止めないで」と小さく指示し、視線で促した。
「どうして、それを……?」
「風の噂でね。アスガルドじゃ誰もが耳にしているわ。……やっぱり本当なのね」
彼女の声音にはわずかな影が落ちていた。ほんの一瞬、伏せられた瞳に寂しさが揺れる。その表情に、胸の奥がちくりと痛んだ。
息を整え、再び剣を構え直す。動きを止めれば余計に動揺がばれる気がして、意識を振り下ろす型に集中しながら答えを絞り出した。
「変な言い方しちゃったけれど、正式に決まっているわけじゃないの。ソーは受けないと思うわ」
視線は木剣に向けたまま、言葉を吐き出す。
「そうかしら?」シフの瞳が揺れる。「あなたとの婚約を断る男なんて、この世に存在しないでしょう」
その声音には自嘲にも似た響きが混ざっていて、胸がざわついた。私は慌てて首を横に振り、構えを崩さぬまま声を上げる。
「そんなわけない。五万といるわよ。それにソーは……なんというか」
ふと、訓練場の端に立つ大きな影に気づく。ソーが腕を組み、こちらをじっと見守っていた。眉間に皺を寄せ、心配を隠そうともしていない。
「お兄様みたいな感じ。うん、そうね」
ぽろりと口をついた言葉に、シフが目を丸くした。だが次第にその表情は崩れ、唇に苦笑が浮かぶ。
「……まぁ、確かにそんな感じね。あなたにべったりだもの」
「弟がいるから過保護なのね、きっと」
「絶対違う。ロキが弟である以上、それは例外よ」
「それは言えてる」
二人で吹き出して笑うと、肩の緊張がふっと抜けていく。汗で張り付いた前髪をかきあげ、私は木剣を軽く振り直した。呼吸は荒いのに、不思議と胸の内は軽やかだった。
休む間もなく、シフは木剣を構え直す。動作に一切の無駄がなく、まるで鋼の糸で織り上げたように精緻だ。
「次は防御を主体に。私が攻めるから、受け流すことだけ考えて」
「う、受け流すだけって……」
言い終わるより早く、シフの剣が振り下ろされる。空気を裂く音に慌てて受け止めると、腕にずしりと衝撃が走った。甲冑ごしとはいえ、彼女の力強さは容赦ない。
足を取られそうになりながらも踏みとどまり、必死に剣を押し返す。汗が頬を伝う。
「肘が甘い!」
「ひゃっ、ちょ、ちょっと待って!」
「戦場じゃ誰も待ってはくれないわよ!」
シフは冷酷なまでに的確に打ち込んでくる。だがその動きのひとつひとつが美しく、目を奪われそうになる。私は必死で木剣を受け流しながら、なんとか呼吸を整えた。
数合打ち合ううちに、体の中に流れる熱が恐怖よりも高揚に変わっていく。木剣と木剣が打ち合う音が鼓動と重なり、心地よいリズムを刻んだ。
「……ふふ。だいぶ形になってきたじゃない」
「そ、そう?死ぬかと思ったけど……」
「まだ死なないわ。私が殺してないもの」
「怖いこと言わないで!」
互いに笑みをこぼしながらも、木剣の音は絶えず続く。踏み込み、払い、受け流し。視線が合うたびに、戦いではなく会話をしているような錯覚さえあった。
汗に濡れた額を袖で拭いながら、剣先を合わせたまま、私は思い切って切り込む。
「ねぇ、シフ。そういうあなたは……ソーが好きなのね」
シフは一瞬、固まった。これまで鋼のように揺るがなかった眼差しが、ふいに揺れ、わずかに伏せられる。
「……そう見える?」
「えぇ。恋する乙女の目をしてる。とってもお似合いだと思う。あなたは綺麗だし、強いし、優しい」
打ち合いの合間にこぼれる言葉は飾り気がない。心から思ったことを吐き出しただけだった。
だが、シフは小さく首を振り、下唇をかんだ。
「……でも、私じゃソーの隣には並べないわ」
「どうして?」
反射的に問い返すと、シフは剣を振り下ろしながら短く答える。
「あなたも知ってるでしょう?」
乾いた木の音が耳に響く。私は受け止める反動で少しよろめきながらも、すぐに理解した。胸の奥が締めつけられる。
「えぇ。彼……夜空に"ジェーン"って名前をつけて、恋してるものね」
言葉にした瞬間、沈黙が落ちる。木剣を交わす音だけが響き、ふたりの呼吸が乱れたまま混ざり合う。だが次の瞬間、私たちは顔を見合わせて、こらえきれず笑い出していた。
「それは……言えてるわね」
シフの唇にようやく笑みが戻る。振り下ろした剣先が軽やかに跳ねる音が、笑い声に混ざった。
「でもシフ、だからって諦めることはないと思うわ」
打ち合う剣先に笑みを乗せながら、私は続ける。
「だって……私が男ならあなたのこと放っておくはずがないもの!」
シフの肩がわずかに揺れた。頬に汗が光り、その横顔に一瞬だけ赤みが差す。
「……それは光栄だわ」
木剣の衝突音に混ざって笑い声が訓練場に響く。剣を交わし続けているのに、張り詰めていた空気はすっかりほどけていた。
それからも、しばらく打ち合いは続いた。時間が経つにつれて、互いの息は荒く、衣の下に汗が滲む。それでも不思議と心は軽く、剣を合わせるたびに距離が縮まっていくのを感じた。
踏み込み、回転、受け流し。動作の合間にぽつりぽつりと会話が交わされ、それがまた心を近づける。
「明日だって、本当はおめかししたいのに……ソーが許してくれるかどうか」
ふと口をついた私の言葉に、シフはぴたりと剣を止めた。そして、にやりと口角を上げる。
「いい考えがあるわ。明日は私があなたを迎えに行く」
「え?本当に?……いいの?」
「もちろん。ソーと鉢合わせる前に部屋を出れば問題ないでしょ?」
涼しい顔で言い切るシフの声音に、胸が跳ねた。まるで共犯者のような響きが心地よい。
「ねぇシフ……それって最高よ!」
言葉より早く、胸の奥に熱が広がる。気づけば私は木剣を放り出し、そのままシフを抱きしめていた。
「ありがとう、シフ」
「……こちらこそ」
鎧ごしの抱擁は固く、ごつごつとしているのに、不思議な温もりに包まれる。互いの鼓動が甲冑を通して伝わり合い、剣を交えたとき以上に確かな絆を感じた。
少し離れた場所では、ソーが腕を組み、じっとこちらを見守っていた。最初からずっと、訓練中の私の足運びや呼吸にさえ視線を注いでいたのだ。心配そうに眉を寄せ、今も二人を見つめ続けている。
けれど今、抱き合う私たちの姿に、彼は首を傾げた。
「……なぜ抱き合っているんだ、あの二人は……?」
不満とも困惑ともつかぬ呟きは、稽古場のざわめきに紛れて誰の耳にも届かない。だが、その額に刻まれた深い皺だけが、彼の心中を雄弁に語っていた。