静寂。息を呑むような静寂に、微かに何かが混ざった。最初は音だった。柔らかく、胸の奥をくすぐるような、名もなき旋律。
続いて、光。
まぶたを閉じているはずなのに、向こうから差し込む金色の光が、私の中の闇を少しずつ薄めていく。
そしてーー声。
「ーーそう、あなたは愛に溢れているのね」
やさしく、包み込むような声。
その声は、優しくて、凛としていて。母のようであり、女神のようでもあった。
ーーそんなことない。私は…
まぶたを開けた瞬間、視界に広がったのは、現実ではありえない光景だった。
空は虹のように輝き、風は香りを纏い、地平には金色の草花が波のように揺れている。湖面には無数の光の粒が浮かび、まるで天と地が混ざり合っていた。
その中心に、彼女はいた。
この世のものとは思えぬ、美しい存在。風になびく長い金髪、紅玉のような瞳、羽のように柔らかな衣を纏い、絶対的な存在感を放つ女性が、私の前に立っていた。
「……きれい……」
そのひとことに、女神は微笑んだ。
「ありがとう。よく言われるわ」
造形されたような美しい笑みに、女の私ですら、心ときめいてしまいそうになる。しばらく見惚れて、改めてその彼女の後ろに広がる光景に目を瞬く。
「ここは……どこ?」
「ヴァナヘイムよ。神々のひとつの国。あなたは今、魂の交差点にいるの」
「魂の……?」
「あなたは、死を選ばなかった。だから私がここにいる」
女神は名を告げた。ーーフレイヤ。
愛と美、そして死を司る、ヴァナヘイムの女神のひとり。世界に愛を降らせる者であり、同時に死者の魂を迎える者でもある。
「私ね、後継者を探していたの。ちょっと……探し物をしに行きたいから」
「探し物……?」
「家出した夫よ。オーズっていうんだけど……嫉妬深くてね。私の奔放さに呆れて、出て行ってしまったの」
そう軽やかに笑いながらも、どこか寂しげだった。
「そうして、あなたを見つけたの。愛の意味を知り、その痛みに耐え、それでも誰かを想い続けられる者。あなたは……その条件に、ぴったりだった」
そんな突拍子もない話に、ごくりと息を飲む。
「私が……後継者?」
「そう。あなたにはそれだけの資格がある。あなたの愛は純粋で、強くて、そしてーー報われなかった。だからこそ、その想いは、フレイヤに相応しい」
「……そんなの、嬉しくないわ」
思わず、言葉がこぼれた。報われない愛。それは、祝福でも称賛でもなく、ただ、苦しいだけだった。
だが、フレイヤは首を振った。
「いいの。愛は、常に報われるものではない。でもね、その痛みを知ったあなたなら、きっと人々を救える。愛で、癒せる」
彼女はしばらく言葉を失った。
静寂の中で、記憶の奥に浮かぶ顔があった。
スティーブ・ロジャース。
彼を想うだけで、胸の奥が熱くなる。声が聞きたくて、触れたくて、でももう届かない場所にいると知っていて。
「愛に、もう傷つかなくていいのよ。ヴァナヘイムで何不自由なく暮らせるわ。愛する相手を、選び、求め、手に入れることもできる。望むなら、好きなだけ」
「……スティーブじゃないと、意味がないの」
女神は、ふっと瞳を細めた。
「そう。彼のこと、ほんとうに愛しているのね」
「……ええ」
「いいわ。あなたの願いを叶えてあげる。ミッドガルドにいてもいい」
「ミッドガルド?」
「地球よ。彼のそばにいさせてあげる」
「……そんなこと、できるの?」
「当たり前じゃない。私は女神フレイヤよ。ただしーー」
その言葉のあとの沈黙は、風のざわめきよりも重く感じられた。
「……ただし?」
「代償が必要なの。人間であったあなたが"愛と美の女神フレイヤ"になるために。神になるというのは、個の感情を超えて"在る"ことなの。"キャロン"としての愛を、記憶とともに、手放さなければならない。愛する人々の記憶を失うのよ。父も、母も、友人も、……彼のことさえも」
「……愛する人の、記憶?」
言葉は、あまりにも残酷だった。
だが、彼女の胸の内には、答えがすでにあった。
「かまわない、それでも」
フレイヤの瞳が細められる。試すように、慈しむように。
「スティーブが幸せなら、それでいい。彼の邪魔をしたくない。だからーー私が彼の幸せを見守る存在になるわ」
「そのためなら、あなた自身を捨てられると?」
「ええ」
静かに、強く告げたその声に、女神は目を細めた。
「……素敵ね。強い女は、大好きよ」
そう言って、彼女は己の首にかけていた宝石を外す。
炎のように煌めく首飾り、"ブリージンガメン"。
それを彼女の胸元にそっとかけると、世界が金色に染まっていく。風が唄い、空が震え、大地が優しく彼女を包み込む。
最後に見えたのは女神の美しい微笑みだった。
こうして、彼女は“死者”ではなく、“神”として選ばれた。
スティーブ・ロジャースの記憶を、胸の奥深くに沈めたまま。彼の隣に立つことも、触れることも、言葉を交わすこともないまま。
ただ、愛する者の幸福を見守るために。
愛と美、そして死を司る、新たなフレイヤ。
愛し、失い、なお人々の愛を導く存在。
その物語が、今、始まろうとしていた。
***
ーーぱちり、と目を開けた。
視界に映るのは、冷たいコンクリートと、くすんだ赤レンガの壁。早朝のニューヨーク、まだ陽は低く、薄明かりが街の隙間を静かに染めている。どこからか新聞配達の自転車の音、遠くで聞こえるタクシーのクラクション。それらが、否応なしに現実への帰還を告げていた。
……なんだか、途方もなく長い夢を見ていたような気がする。
頭がまだぼんやりとしている。けれど、確かな記憶がある。
私は、確かに死んだ。そして、神になった。
あの女神ーーフレイヤ。彼女の後継者として、愛と美と死を司る存在となったはずだった。
けれど今、目の前にあるのはただの路地裏。そしてーー
「おい、見ろよ。あの猫……なんか高そうな首飾りつけてねぇか?」
しめしめと笑う、柄の悪い男たち。その下卑た目線が、私の身体を舐めるように追ってくる。
さっさと逃げようと身体を起こそうとして……違和感に気づいた。
首根っこを掴まれる。……首根っこ?
思わず視線を落とすと、そこには雪のように白いふわふわの毛並みと、小さく柔らかなピンク色の肉球。そして首には、あの“神の証”──ブリージンガメンが、確かに輝いていた。
でも……ちょっと待って。
なんで、猫!?
「こりゃ、金持ちんとこの猫だな……売ったら大金だぞ!」
やめて。なに触ってんのよ。やめなさいってば!
心の中で必死に叫ぶも、出てくるのは「にゃあっ!」という、あまりに無力な鳴き声だけだった。
神の力。お願い、今こそ、発動して……!
願いは届かない。胸の奥で叫び続ける声も、爪を突き立てようとする意志も、全てはふわふわとした小さな体の中に封じ込められていた。震えるような焦りと恐怖に、世界の色がじわじわと褪せていく。
ミッドガルドに落ちて早々、絶体絶命の危機ーーそう思った、その瞬間だった。
「何をしている」
路地裏の空気が、一瞬で変わった。
低く、しかしよく通る声が、闇の中に鋭く切り込んだ。
それは雷鳴のようで、しかし不思議と冷たくなかった。威圧ではない。静かに、だが絶対的に状況を支配する声だった。
「ひっ……!」
次の瞬間、男の手が恐怖から手を離し、ふわりと宙に放たれる。
軽やかに着地する。猫の本能ってすごい。そんな他人事のような感想が、一瞬頭をよぎる。
ゆっくりと顔を上げると、そこに、彼がいた。
逆光に照らされ、顔はよく見えない。けれど、その輪郭、その背中、その立ち姿ーーまるで、絵本の中から抜け出した"ヒーロー"のようだった。
「動物をいじめるのはやめるんだ。……いいな?」
その声には静かな怒りと、微かに滲む慈愛があった。
優しくも鋭い眼差しが、姿勢を崩した男たちを見据えている。彼らはその眼差しに射すくめられたように、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
「大丈夫か?」
頭上から、先ほどの声が降ってきた。
見上げれば、そこに彼はいた。
短く整えられた金髪。澄んだ青の瞳。整った顔立ちに、包み込むような温もりを感じる笑み。
最近まで、ずっと見ていたような気がする。懐かしくて、胸がぎゅっと締めつけられた。けれど彼の顔は記憶にないし、会ったことはない。なのに不思議と、初めてな感じはしなかった。
彼はしゃがみこんで、大きな手でそっと頭を撫でてくれた。
ーー気持ちいい。
気づけば、私は彼にすりすりと擦り寄っていた。喉が勝手に、ごろごろと鳴る。猫としての身体が、あまりにも素直に快感に反応するのが悔しい。
彼はふふっと微笑んだ。
「このあたりは危ない。気をつけて帰るんだぞ」
彼は指先でこしょこしょと私の頭を撫でると、さて、と立ち上がった。
彼といっしょにいたい。それが心地が良かったからなのか分からないが、そういう風に感じた。待って、行かないで……そんな私の願いも、「にゃあにゃあ」と可愛らしく変換されてしまい届くことはない。足幅の広い彼に必死についていく。
「ん? なんだ、ぼくは何も持ってないぞ?」
しゃがみ込んだ彼の膝に、逃すまいとぴょんと飛び乗る。また撫でてほしい。彼の逞しい腕に頭のてっぺんをこすりつけると、勝手に喉がごろごろと音を鳴らした。彼はふふっと笑みを漏らす。
「……まったく、甘えん坊だな」
ふわりと、また撫でられる。くすぐったくて、でも心地いい。ふわりと、掌が私を包む。
ーーああ、気持ちいい。まるで世界のすべてがこの温もりだけになったよう。
はっ、いけない。私は猫じゃない。立派な女神……のはず。
ぐるぐる鳴る喉を咳払いしたいが、できるわけもない。
仕方なく、彼を見上げる。その青い瞳に、訴えかける。ここは怖い、ひとりにしないで。連れていって。お願い。
「困ったな。ぼくがきみを連れ帰ったら……誘拐になってしまう。ご主人が困るだろう?」
「にゃああっ!(ならないってば!)」
「……仕方ない。お巡りさんのところに行こうか」
お巡りさん……それって、つまり、警察……?!
檻に入れられて、一生来ない飼い主を待って、そして……殺処分……!?
そんなのだめよ!
混乱と恐怖の渦の中、私は思わず力を込めて叫んだ。
叫んだつもりだったーー
その瞬間、ブリージンガメンがカッと閃光を放つ。
ぶわりと、突風が吹き荒れ、周囲の木々が揺れる。傍らのゴミ箱が派手な音を立てて転がった。
驚いて顔を上げると、彼もまた息を呑んでいた。
突風が吹き荒れ、木々が揺れ、路地裏に置いてあったゴミ箱がガタンと音を立てて倒れた。驚いて顔をあげると、彼もまた驚いたように目を見開いていた。
これが、神の力?にしてはちょっと弱いような気もするけど……
驚きながらも冷静に考える余裕はまだあるみたいだ。けれども彼はそうではなかった。両脇に手を入れられ持ち上げられると、だらんと下半身が揺れる。彼は怪訝そうに眉を顰め、綺麗な青色の瞳で私を見ていた。
「君は……何者だ?」
あぁ、しまった。やってしまった。
あんな変な男に絡まれても何も起こらなかったくせに、なんでこんなときに発動するのだろう。まったく、迷惑な力である。何はともあれ、私はお巡りさんのところに行く必要は無くなったのだ。