アズガルドの夜は、深く静かだった。遥か天を巡る星々の輝きは、地上の神々すら手の届かぬ領域にあり、そのまばゆさだけが、この地に流れる永遠の時を物語っている。
だが、その静けさを破るように、重厚な足音が玉座の間に響いた。マントの裾を風のように翻し、オーディンが神々の会議から戻ってきたのだ。その瞳には疲れがにじみ、長い白髭を撫でる指に、わずかな苛立ちが見える。
「……やはり、フレイヤはいなかった」
重々しい声が、広間の空気を震わせた。
王の傍らには、金の髪を結い上げた一人の女神がいた。アズガルドの王妃、フリッガ。凛とした美しさと、揺るぎない威厳を併せ持つ彼女もまた、眉根を寄せ、そっと目を伏せた。
「やはり、あの人は……」
フリッガの手には、わずか一枚の羊皮紙が握られていた。それは、彼女が最後に受け取った姉からの手紙だった。いや、もはや手紙と呼べるようなものではなかった。几帳面なフリッガからすれば、ただの走り書きである。
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神をやめて、オーズを探しに行きます。探さないでください。安心して、フレイヤの後任は見つけてあるから。今はミッドガルドにいるわ。
P.S. 時間があるときに彼女に力の扱い方を教えてあげて。昨日神になったばかりだから。
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言いたいことは数えきれないほどあったが、それらをひっくるめて、フリッガは大きく息を吐いた。それには怒りよりも、深い嘆息が滲んでいた。
フレイヤーー愛と美を司るヴァナヘイムの女神。彼女はフリッガの双子の姉であり、誰よりも自由奔放で、誰よりも厄介な存在だった。種族の垣根など意に介さず、神だろうが人間だろうが、気まぐれに愛しては捨て、取っ替え引っ替え、トラブルばかりを招き入れる。
だが、それでも彼女は、愛された。
その奔放さが、彼女の美徳であり、本質であった。フリッガ自身、姉のことを完全には嫌いになれなかった。むしろ深く愛していた。だからこそ、残されたこの軽薄な書き置きに、胸の奥がじわりと痛んだ。
「オーズを探す、ですって……散々振り回しておいて、あの人は……ですが、問題は"後任"です」
フレイヤの力ーーそれは、未来を見通し、運命の流れに干渉するという、あまりにも強大で、繊細な力だった。扱いを誤れば、決して変えてはならない"運命"を捻じ曲げてしまう。そうなれば、ただひとつの世界だけでなく、九つ全ての世界が連鎖的に崩壊しかねない。
まだ力の扱い方すら知らぬ者に、あの神の座を継がせるなどーー
それでも、彼女を責めきれなかった。きっと、姉なりに本気だったのだろう。愛している者を追って、神を捨て、すべてを託すことを決めたのだ。
フリッガは目を細め、しばし沈思したのち、オーディンと目を合わせる。そして頷き、高々に声を響かせた。
「ーーソー!」
響き渡る母の声に応じて、神の戦士は姿を現す。
赤きマントを翻し、稲妻をその身に纏う雷神ソー。彼は静かに母の前に膝をついた。
「母上、お呼びでしょうか」
フリッガは一歩、彼に近づき、柔らかく、しかし決して揺るがぬ声で命じた。
「あなたに頼みがある。オーディンのダーク・エネルギーを用い、ミッドガルドへ赴くその時……"新たなフレイヤ"を探し出してほしい」
「ーー新たな、フレイヤ?」
その名を耳にした瞬間、ソーの眉がわずかに動いた。
忘れがたい記憶が、脳裏にふっとよみがえる。
彼がまだ幼かった頃、数度だけ顔を合わせたことのある愛と美の女神フレイヤ。その姿はまさしく神々しいまでに美しく、幼いソーの目にすら、圧倒的な輝きを宿していた。
そして何より、彼の傍に長く仕えていた熟練の戦士が、フレイヤに心を奪われ、任を放棄して姿を消したことは、当時の彼にとって小さな裏切りにも似た衝撃であった。
美しさと自由を併せ持った、掴みどころのない存在。
そんな印象が、今なおソーの記憶には濃く焼き付いている。
フリッガは、ソーにすべての経緯を語った。フレイヤが夫・オーズを捜すために神としての地位を捨てたこと。そして、彼女の後継者がミッドガルドに存在していること。
何百年ぶりにその名を耳にしたが、彼女自身が変わらぬ存在であることは、容易に想像がついた。
「彼女が何者であれーーその力が暴走すれば、世界は……」
そこで一度、言葉を切る。
フリッガの視線は、神殿の窓の外へと向かう。
そこには、かつてビフレストが架かっていた天空。今はその残光が、まるで消えきらぬ記憶の名残のように、金色の揺らめきを湛えていた。
「……取り返しのつかないことになるわ」
その一言が放たれた瞬間、空気が変わった。
部屋の温度がわずかに下がったかのように、張り詰めた静寂が室内を満たす。
フリッガの声音には、どこか遠雷のような低く重たい響きが宿っていた。
ソーはそっと息を呑んだ。
それは、決して大げさな警告などではない。女神である母の直感に裏打ちされた、確かな"兆し"の言葉だった。
その言葉が空間を満たした瞬間、まるで空気そのものがひやりと冷えたように感じられた。母の声には、雷鳴の前触れのような静かな緊張と、不吉な兆しが宿っていた。
ソーは息を呑み、慎重に母の言葉の意味を汲み取る。
つい先日、彼は弟のロキがミッドガルドに現れ、テッセラクトを奪い、地球に混乱と災厄をもたらしつつあることを聞かされていた。
弟の存命に一抹の安堵を覚えると同時に、アズガルドの王子として、兄として、自らの手でロキを止めなければならないーーそう覚悟を決めた矢先のことだった。
「……その"新しいフレイヤ"は、人間の姿をしていると?」
ソーの問いに、フリッガはゆっくりと頷いた。
「可能性は高いわ。彼女はまだ、自分の中に眠る力の正体すら知らない。制御どころか、自覚すらしていないのよ。そのまま放っておけば……彼女自身を、そしてこの世界を傷つけてしまう。運命の均衡を、意図せず崩してしまうかもしれない」
静かに目を伏せたソーは、ほんの一瞬、何かを考えるように視線を揺らした。
だがすぐに顔を上げ、力強く頷く。
「わかりました。必ず見つけ出し、このアズガルドへと連れ帰ります」
「できれば、優しく連れてきてあげて。彼女も……突然の変化に戸惑っているはずだから」
母の言葉に、ソーは強く頷いた。そう言って再び立ち上がると、ムジョルニアを手にし、彼は空を仰ぎ見た。
その瞬間、風が走り、空が震え、雷鳴の気配が空間を満たす。天界アズガルドにて、神々の意志が再び地上へと動き出す。
運命の歯車は、静かに、しかし確かに回り始めていた。
***
ミッドガルド、ニューヨークの一角。
古びたレンガ造りのアパートに辿り着くや否や、彼は再び私を抱き上げ、胸元のブリージンガメンをまじまじと見つめはじめた。光が差し込むたび、炎のような紅の装飾が微かにきらめくが、それ以外には何の変化もない。それなのに、彼はまるでその奥に秘密が隠されているかのように、角度を変え、何度も、何度も見つめ直していた。
「……もう一度聞く。きみは、何者だ?」
その問いに、返せる言葉はただひとつ。
「にゃあ」
喋れなくて、よかった。
心から、そう思った。
もし言葉を話せていたら、焦りのあまり、必要のないことまで口走っていたかもしれない。口が勝手に秘密を漏らしていたかもしれない。いまの私には、口より先に走り出しそうな混乱と戸惑いがある。
彼の顔が近い。真剣なまなざしが、すぐ目の前にある。思わず、肉球でそっと彼の頬を押し返すと、彼はしばらく黙ったまま私を見つめていたが、やがて深いため息と共に私をそっと床へと下ろした。
さっき触れられた肩のあたりがくすぐったくて、ぶるぶると頭を振る。
「馬鹿らしい……最近の首輪は防衛機能でもついているのか?」
頭上からぶつくさと独り言がふってくる。
そんなわけ、ない……はず。
けれども、それを断言できるほどの自信はどこにもなかった。だって……ぐるりとあたりを見渡す。来る途中からずっと感じていた違和感が、再び胸にじわりと広がってくる。パパの車とは似ても似つかない、無骨で細長い金属の塊が、喧騒の中を行き交っていた。服装も同じだ。女の子たちは堂々と膝上のスカートを履き、男性の大半はジャケットすら着ていない。見慣れぬ色彩、素材、デザインーーそれらすべてが、私の知るアメリカから遠く離れていると告げていた。
ここって何年?カレンダーも時計もない部屋では、時の流れすら手がかりにできない。けれど、少なくとも1940年代ではないことは明らかだった。
思考が深く沈もうとしたそのとき、彼の気配がふいに遠ざかった。そちらを向くと、彼は冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいる。どうやら、私への関心を一時的に棚上げして、自分の空腹を満たすつもりらしい。
そういえば、私もお腹が空いた。
小さな足で彼のもとへ駆け寄り、彼の足の間にすっぽりと収まると、身体をめいっぱい伸ばして冷蔵庫の中を覗き込む。横からでは彼の大きな体格に遮られて、中が見えなかったのだ。それに、彼に触れていると、なぜか不思議と安心できる。
「こら、ダメだ」
優しくも鋭い叱声が落ちたかと思うと、次の瞬間、身体がふわりと宙に浮く。両脇を支えられ、だらんと下半身が垂れたまま持ち上げられた。
だがそのおかげで、冷蔵庫の中がはっきり見える。真っ先に目に飛び込んできたのは、透明な袋に入れられた鮭だった。
「……よく伸びるな」と感心するような呟きが聞こえてくるが、私の頭は鮭でいっぱいだった。見るからに脂の乗った切り身が、私の猫の本能を刺激する。以前は別に好きでも嫌いでもなかったはずなのに、いまは……ただただ、美味しそうだった。
「う〜にゃうにゃう」鮭、鮭が食べたい!食べさせて!必死に訴えが伝わったのか、彼は私の顔と、冷蔵庫の中を交互に見た。
「……鮭が食べたいのか?」
「にゃ!」
そう!それよ! 喜びが尾を振るように体中に駆け巡り、思わず勢いよく返事をしてしまう。
彼は困惑と呆れが混じった表情をしながらも、どこか口元に微笑のようなものを浮かべて、「仕方ないな」と肩をすくめた。