すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 ふと目を覚ますと、何もかも見慣れない景色が目の前に広がっていた。

 

 どこからか音が聞こえてくるような気がして、無意識のうちに耳を澄ますと、規則正しく響く低い息遣いがどこかから聞こえてくる。小さく短く吐き出す息、床を押し返す音。それが朝の静けさの中に混じり、一定のリズムを刻んでいた。

 

 何だろう、と半ば夢うつつのまま、足を動かす。まだ頭は回っていないけれど、どうやらその音の方に引き寄せられていた。カーテンの隙間から差し込む光が眩しく、足先の白毛に反射してきらめく。

 

 リビングに入った瞬間、私は固まった。

 

 そこにいたのは、昨日私を助けてくれた彼だった。床に両手を突いて腕立て伏せをしていたーー上半身、裸で、だ。

 

 朝の淡い光を受けた肌は驚くほど滑らかに見えた。肩から胸へ、胸から腹へと流れる筋肉の線は無駄がなく、呼吸に合わせて張り詰める様子がはっきりと分かる。

 

 わ、わ。なにこれ。

 

 思わず身を引き、家具の影に隠れかける。知らない男性の裸を見てしまったような羞恥が込み上げたのだ。だけど次の瞬間、自分がいま"猫"の姿であることを思い出す。彼からすれば、ただのペットにすぎない。気にする必要はないのだと気づいて、心臓の高鳴りを誤魔化すように小さく尻尾を揺らした。

 

 彼は視線を横に流し、ちらりとこちらを見ただけだった。けれどその瞳には驚きも嫌悪もなく、ただ「そこにいるのか」という確認のような色が浮かんでいる。それだけでまたすぐに前を向き、淡々とトレーニングを続けた。

 

 私は小さな足取りで彼のそばへ歩いていき、ぺたりと座る。彼の背中が上下するたびに、空気がわずかに揺れる。猫の目でも分かるくらいに、その体はよく鍛えられていた。男の人の上裸なんて見慣れていなかったけれど、彼がすごく整った体をしていることくらいは理解できた。

 

 視線を外し、辺りを見渡す。朝日が斜めに差し込み、部屋の輪郭を照らし出していた。驚くほど質素な空間だった。家具は最低限。テーブルと椅子、それに本棚がひとつ。壁際には黒くて薄い長方形の物体がぽつんと置かれている。

 

 それにしても整然としすぎていた。男性の一人暮らしなら、洗濯物の一つや二つは床に落ちていそうなものだが、この部屋には埃ひとつ見当たらない。生活の匂いすら希薄だ。

 

 あの、長方形の板みたいなものは、何……?

 

 昨日からずっと、目に映るもののほとんど全部に馴染みがない。一つずつ解明していかないと、思考が追いつかなくなってしまいそうだった。板をじっと見つめていると、後ろの方で「ふっ」と音がして、思わず顔を向けた。

 

 彼が一度動きを止め、大きく息を吐いていた。背筋を伸ばし、額の汗を拭うと、傍らに置いてあったボトルを手に取る。水が喉を流れ落ちる音が静かな部屋に響いた。水を飲む仕草ひとつとっても、隙がない。けれど不思議と、呼吸が落ち着いていくのを感じた。

 

 

「にゃあ」

 

 

 とりあえずの挨拶。「おはよう」と言おうとしたのに、口から出てくるのはやっぱり猫の声だった。低い視点、ふさふさした足先。昨日の出来事は夢ではなかったのだと、じわじわと実感が押し寄せる。

 

 彼はちらりと視線をよこしたが、すぐに目を遠くへ戻した。なんだか無視されたような気分になる。

 

 

「にゃあ!」

 

 

 ぺし、と彼の足を叩いてみる。思わず強めに出てしまった。

 

 

「……!」

 

 

 彼は少し驚いたようにこちらを振り向いた。その反応に、胸の奥がくすぐったくなる。やっとこちらを見てくれた。

 

 

「何だ……?」

 

 

 低い声。彼がしゃがみ込むと、影が大きくのしかかってきて、思わず身をすくめる。だけど、不思議と逃げたいという気持ちはなかった。彼が怖い人ではないと分かっていたからだ。

 

 

「家に帰りたいのか?」

 

 

 違う。そうじゃない。首を横に振ると、スティーブの青い瞳が大きく見開かれた。

 

 

「……今、返事をしたか?」

 

 

 しまった。猫らしくないことをしてしまった。彼の声色には疑念が混じっていた。

 

 私は慌てて猫らしい仕草を思い出そうとする。焦る心を押し隠し、前足で顔を擦り、ぺろりと舐めて見せる。

 

 こ、これでいい?猫っぽい?

 

 ちらりと彼を見上げる。スティーブは数秒私を見つめ、それから小さく息を吐き出すと、首を横に振って立ち上がった。

 

 

「何してるんだ……」

 

 

 どうやら誤魔化せたらしい。内心で胸を撫で下ろす。もっとも、猫の体に胸がどこにあるのか、実はよく分からないのだけれど。

 

 彼はボトルをテーブルに置き、タオルで汗を拭く。

 

 彼はどうやら警戒心が強い。ただ動物に優しいだけの人、というわけではないのだろう。昨日も助けてくれたし、私をすぐにでも追い出そうとしなかった。それだけで十分、悪い人ではないとわかる。だからこそ、余計に警戒されたくなかった。冷たい視線を向けられるたびに、胸の奥が少しきゅっとした。

 

 だから気づいたら、体が勝手に動いていた。

 

 歩き出した彼の足の合間に、緩やかな動きで割り込んでみる。黒光りする床板に私の白い毛並みが映える。彼は驚いたように視線を落とし、そこでようやく足を止めた。

 

 

「なんだ」

 

 

 その低い声が私に向けられる。彼の注目が集まればこっちのものよ!

 

 ごろん、と勢いよく床に転がり、両手足を広げてお腹を見せる。私はあなたのことを警戒していないのよ、敵意なんてないのよ、と伝えるように。

 

 彼はしばらく驚いたように私を見下ろしていた。表情をほとんど変えない顔に、わずかな困惑が走ったように見えた。

 

 なのに、彼は足元に転がる私を乱暴にどかすこともなく、わざわざ足がぶつからないように丁寧に避けて通り過ぎていく。

 

 ……また、無視するのね!

 

 胸の奥で小さくむっとしながら、私は諦めなかった。彼の背を追いかけるようにトトトと駆け、先回りしてその大きな足の前に立ちはだかる。驚いたように彼の足が止まった瞬間、私は勢いよく床に転がった。

 

 ごろん!

 

 両手足を広げ、今度はほとんど彼の足の上に重なるように寝転がってみせる。先に進みたければ、まず私を撫でていきなさいーーそんなふうに、あからさまな態度で。

 

 彼はしばらく無言で私を見下ろしていた。視線の奥に、戸惑いと、わずかな困惑が混ざる。やがて深く息をつき、ためらうように膝を折った。

 

 そして、大きな手が、恐る恐るといった具合に、私のお腹に触れた。

 

 

「にゃ〜〜」

 

 

 そう。私は触れられるのにだって警戒しない。なにをされても怒らない。そんな堂々とした面構えをしている……つもりだった。

 

 最初は軽く押すだけのようなタッチだったのが、やがて少し撫でるに変わる。そうして、ゆったりとした大きな動きで撫でられるようになっていった。

 

 ……あ、これ、すごく気持ちいい……

 

 毛並みの奥まで届くような温もりが、じんわりと広がっていく。撫でられるたびに、体がほどけていくみたいだった。

 

 どこからか、ごろごろごろ……と不思議な音が聞こえてきた。

 

 

「何の音だ?」

 

 

 ぴたりと手が止まる。せっかく気持ちよかったのに……と、自然と瞼を開いた。私だってこの音の正体は気になっていたけれど、それどころじゃないくらい撫でられるのが心地よかったのだ。

 

 スティーブの視線が私に注がれる。その青い瞳に射抜かれて、一瞬息を呑んだ。

 

 彼の大きな手が、再び私のお腹に戻るのが見えた。もう考えるのはやめ。私はただ、その気持ちよさに身を委ねる。

 

 ごろごろごろ……

 

 また音が響き始める。目を細めた瞬間、ふはっ、と吹き出すような声が耳に届いた。

 

 不思議に思って目を開けると、彼が笑っていた。

 

 昨日からずっと、固く閉ざされた顔しか見せてこなかったのに。ほんの少し口角が上がっただけ。それだけなのに、その笑顔はあまりにも人間らしく、あたたかくて。私は見とれそうになった。

 

 

「ふ……君か、ゴロゴロ言ってるのは」

 

「にゃ?!(私?!)」

 

 

 確かに音は近くで聞こえていた。でもまさか自分から出ていたなんて。そんな変な音を出した覚えはない。

 

 彼の大きな手がまた撫でる。ごろごろごろ……止まらない。

 

 私の意思に反して、喉は勝手に鳴り続けていた。猫は気持ちいいとこうなってしまうらしい。恥ずかしくて、どうすることもできなくて、それでも気持ちよさに逆らえない。困惑のまま彼を見上げると、その目は優しげに細められていた。

 

 厳しく閉ざされていた瞳の奥に、ほんの一瞬、柔らかな光が宿っているのを見てしまった。

 

 彼が笑ってくれるのなら、別にいっか。

 

 そんなふうに思えてしまった。私は諦めるように目を閉じ、無防備に撫でられることに身を任せた。

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