すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 ーー彼との共同生活が始まって、気づけばもう一ヶ月が過ぎようとしていた。

 

 彼ーースティーブ・ロジャースは、実に規則正しい生活をしていた。

 

 日の光がまだやわらかい時間にはすでに起きていて、朝の空気を裂くように腕立て伏せを始める。

 彼の胸筋がぐっと盛り上がっているのが気になって、ついその下に潜り込む。包まれるようなその感触は、柔らかそうに見えて意外にかたくて、だけどなんだか、安心する温度だった。

 

 胸筋って柔らかそうに見えて、思ってるよりかたいのね。居心地がいいわけではないけれど、包まれているようで悪くない。

 

 

「こら、シロ。そこはきみの家じゃない」

 

「にゃう」

 

 

 腕立ての体勢のまま、片手で首根っこをつまみ上げられてどかされる。それでも不満げに声を上げる私の頭を、彼はやさしく撫でる。

 

 

「トレーニング中なんだ、邪魔するな」

 

 

 声はあくまでやさしく、叱るというより、子どもを諭すような音色だった。

 

 ちなみに「シロ」というのは、私の仮の名前らしい。呼ぶ時に名前がないと困るから。私の毛色からとった、シンプルすぎる名前だけれど、妙にしっくりきている。呼ばれるたびに、少しだけうれしい。

 

 朝のトレーニングが終わると、今度はジョギングだ。

 

 

「ダメだ。きみは留守番」

 

 

 開けかけたドアの隙間から抜け出そうとしたのに、するりと彼の手に捕まってしまった。

最近は彼が私の動きを読んでくるので、初日以降は連敗続きだ。

 

 確かに、彼との生活は心地いい。けれど、私だってたまには風の匂いを嗅ぎたい。自由に歩きたい。

 

 そう不満を訴えてみるも、あっけなく家の中へと戻されてしまった。

 

 いいじゃない!少しくらい!

 

 そんな不満をカリカリとドアにぶつけてみるけれど、彼の足音はすぐに遠ざかっていってしまう。猫の力ではどうすることもできないので、仕方なく諦めることとして、ソファにぽふんと飛び乗る。柔らかいクッションに身体を沈めると、まるで羽毛の巣にでも包まれているようだった。

 

 きっと彼は一時間後、7時ぴったりに戻ってくる。時計がなくても分かる。彼の動きは驚くほど正確で、まるで身体そのものが時を刻む時計のようだ。

 

 

 ここ数日で分かったことが二つある。

 

 まず一つ、助けてくれた彼の名前がスティーブ・ロジャースということ。机に置かれていた診断書のような何かの資料に顔写真とともに名前が書いてあったのだ。生憎、猫の視界ではぼやけて細かい文字が読みづらく、おまけに彼に「イタズラはダメだぞ」と首根っこを掴まれてしまったのでなんの資料かまでは分からなかったけれど。

 

 そうしてもう一つ。

 私は、魔法が使えるらしい。

 

 ソファに寝転びながら、リモコンをじっと見つめる。意識を集中させると、それは静かに震え出し、やがてふわりと宙に浮かび上がる。そのまま私の前に着地した瞬間、肉球で「ぴっ」と電源ボタンを押した。

 

 テレビが映る。人間だった頃よりも、ずっと鮮明な映像に思わず見入ってしまう。

 

 今のところ、物を浮かす・動かすということはできるようだ。冷蔵庫すら持ち上がった時には流石に驚いた。

 

 でも、それと同時にひとつ決めたことがある。

 絶対にスティーブには魔法を見せないこと。

 

 彼はやさしいけれど、同時にとても真面目で、それでいて警戒心が強い。

 きっと、猫が魔法を使っていると知れば、真っ先にどこかへ連れて行こうとするだろう。

 私はそうなる未来を、ひどく怖いと思った。

 

 だから、秘密は秘密のまま。

 その代わり、私は彼と穏やかな日々を過ごしたい。ただそれだけだ。

 

 

 今のテレビというのは、ただの報道だけじゃなく、こんなにも面白くてくだらないものも流しているのね。

 ソファの上で丸くなったまま、どこか他人事のように映像を眺めているうちに、ふと、疑問が胸をよぎった。

 

 私……本当に、フレイヤになったのかしら。

 

 この平和でのんびりとした生活が、果たして"それらしい"ものなのかどうか分からない。神になったのだとしたら、果たすべき役目があるのかもしれない。けれど、私は何も知らない。何をすべきかも、自分に何ができるのかも、自分の中に本当に“力”のようなものが宿っているのかすらもーー。

 

 ここがミッドガルドであることは理解している。けれど、私が本来住むはずであったヴァナヘイムや"それ以外のところ"にはどうやって行くのだろう?というより、本当に存在するのだろうか?

 

 考えれば考えるほど、霧の中に迷い込んだような心地になる。

 

 

「(……難しいことを考えていたら、急に眠たくなってきた)」

 

 

 スティーブに合わせて早起きをしたせいか、どうやらまだ睡眠が足りていなかったらしい。

 また目が覚めたら、続きを考えよう。眠りたい時に眠って、起きたい時に起きる。誰にも咎められない、誰にも縛られない。それは、それだけで少し心地よいことだった。

 

 

 

***

 

 

 

 うつろにもどってきた意識の中で、紙の上で鉛筆を滑るような心地の良い音が聞こえてくる。目を覚まそうと手で目をこすると、鉛筆の音がぴたりと止まった。

 

 鼻先をくすぐるのは、彼の香り。身体を起こすと、やはりそこにはスティーブがいた。

 いつの間にかジョギングの時間が終わっていたらしい。ということはーー彼の手元に開かれたスケッチブックを見て確信する。今はスケッチの時間のようだ。

 

 ソファから降り、彼の膝に飛びのる。彼の絵の邪魔をするつもりはなかったが、スケッチブックの上しか、座れるところがなかった。そうして足元にある絵を覗き込む。ぼやけてよく見えないけれど、なんとなく見覚えがあった。

 

 

「……きみを描いてたんだ」

 

「にゃ?」

 

 

 私? そう言われて改めて見直してみれば、スケッチブックには、ソファの上で穏やかに眠る猫の姿が、柔らかな線で丁寧に描かれていた。自分の姿は鏡で数回見たくらいであまり自覚がないので最初ピンとこなかったが、背景やポーズからして、それは確かにさっきまでの私だった。もうほとんど完成間近で、自分がどのくらい眠っていたのかを悟る。あとは顔を描くだけだった。

 

 スティーブは絵を描くのが好きらしく、おまけにすごく上手だった。一体どんなふうに描いたらこんなに綺麗に描けるのだろう。そんなふうに考えながら、彼の横で絵が完成されていくのを眺めるのが日課になりつつあった。だから今日だけは寝過ごしてしまったけれど、だからこそ、彼の描く私を見るという不思議な体験ができた。

 

 そっと背中を撫でる手の感触が名残惜しい。けれど私は、ぴょんと彼の膝から飛び降り、ソファの上に戻ると、彼が描いていた通りの姿勢で、再び横になる。

 

 

「……描かせてくれるのか?」

 

 

 少しの間の後、驚きを含んだ声色でそう尋ねてくる。片方の目だけ開いて彼を一瞥すると、彼は私の意図通りそれが肯定だと捉えてくれて、やがてまた鉛筆を滑らせた。

 

 スケッチブックの紙面をなぞる、心地の良い音だけが聞こえる。彼の絵が出来上がるのにそう時間はかからなかった。

 

 

「できた」

 

 

 ぽつりとそう呟く声で、私は再び身体を起こす。

 

 さて、モデルの任務完了ね。

 うーんと身体を伸ばしてから、彼の膝に再び飛び乗り、スケッチブックを覗き込む。

 

 そこにいたのは、たしかに私だった。

 ふわりとした毛並みも、丸まった身体の重心も、見えないはずの呼吸のリズムまでも、まるでそこに生きているかのように描かれていた。

 やっぱり、彼の絵は好きだなと思う。

 

 

「……きみは、ぼくの言っていることが理解できるのか?」

 

 

 しまった。

 何も考えずに自然に行動してしまったけれど、普通の猫なら絶対にしないような振る舞いをしてしまっていた。

 

 おそるおそる顔を上げると、スティーブがじっとこちらを見つめていた。

 その瞳には確かに疑念がある。けれどそれ以上に、希望のような光が宿っていた。まるで「そうだったら、いいのに」と願うような、優しいまなざし。

 

 今の彼にならいっか、と気づいたらそう思っていた。

 

 私はゆっくりと肉球を見せるように彼の胸元に差し出す。

 

 

「にゃうにゃう」 

 

 

 そうよ、理解してるの。私は、ちゃんと"わかってる"のよ。

 

 彼の深いブルーの瞳が、私の視線をじっととらえる。

 信じようとして、でも自分の常識がそれを否定しようとして、揺れている。

 

 そして、やがてその狭間で、彼は小さく首を振った。そうしてやがて、彼の中で結論が出た。

 

 

「……そんなこと、あるわけないな」

 

「にゃにゃ!!(あるって言ってるでしょう!)」

 

 

 もどかしくて、思わず声を荒げる。

 何度も鳴くけれど、その意味が彼に届くことはなくて。必死に訴えるのに彼には伝わりそうになかった。

 

 

 

***

 

 

 

 今日はたっぷりお昼寝をしてしまったからだろうか。布の擦れる音と、ひたりと足のひらが地面にくっつく音でふと目が覚めた。けれど眠気に身を任せてもう一度まぶたを閉じようとした、そのときだった。

 視界の端を、彼の足がすっと横切っていった。それだけで、私は自然と目を開いていた。

 

 頭をほんの少しだけ持ち上げて、彼の行き先を目で追う。

 スティーブは、窓辺に腰をかけていた。室内の明かりを落とした暗がりの中で、彼の姿だけが柔らかく夜の光に照らされていた。

 

 その手には、何かを包むように握りしめている。

 ぼやけた視界では細部までわからないが、あれはーーコンパス、だろうか。

 

 この時代にそぐわっているのかは確かではないが、私にはよく馴染みのある形だった。真新しいものには見えない。むしろ、長く使い込まれたような質感。

 

 真新しいものには見えない。むしろ、長く使い込まれたような質感。

 高価そうな品ではない。けれど、スティーブのその手の包み方は、まるでそれが壊れやすい宝物であるかのように、丁寧だった。

 

 あれはきっと、彼にとっての、形見のようなものなのだろう。

 そう思わせるほどに、彼の横顔は悲しそうだった。

 

 気になって、そっと身体を起こす。

 だが私の気配に気づいたのか、彼は音を立てずにコンパスの蓋を閉じてしまった。

 

 

「シロ。すまない、起こしてしまったかな」

 

「にゃうにゃう(何見てたの?)」

 

 

 問いかけても、彼はそれには答えない。

 膝に飛び乗った私の体温を感じながら、スティーブは静かに、けれどはっきりとポケットに手を滑らせ、コンパスを奥深くしまい込む。

 

 触れようと前足を伸ばす私を、彼の手がやんわりと押しとどめた。

 

 

「だめだ、これは。……大切なものなんだ」

 

 

 スティーブは言い聞かせるようにそう言う。別に、壊そうとしているわけでもないのにーーと思ったが、たしかに意思疎通のできない生物が大切なものに触ろうとしていたら取り上げようとするのは自然なことだ。

 

 だから、そっとその手を引っ込めて、彼を見上げる。

 ようやく気を緩めたスティーブは、ふと夜空に目を向けた。カーテンの隙間から覗く星たちが、彼の瞳に小さく反射して揺れる。

 

 やっぱり、今日はブルーの瞳が、やけに悲しそうだ。何かあったのか、もしくはーー規則正しい生活を送る彼のことだから、毎晩寝ずにこうして空を見上げていたのかもしれない。もしそうだとしたら、彼の睡眠時間は限りなく短いということになる。

 

 

「にゃー」

 

 

 スティーブ、今は寝ましょ。彼が心配で、彼のシャツをかりかりと引っ掻く。一度「ん?」と目を合わせてくれたけれど、伝わりきらず、視線はすぐにまた星空へ戻ってしまう。

 彼の悲しそうな表情を見ていると、なんだか胸が痛かった。考えの末、彼の膝から飛び降りる。

 

 

「にゃー」

 

 

 もう一度彼を呼んだ。彼はまたこちらを向く。こっちだ、とそう言わんばかりに私は彼の寝室へと歩みを進めた。廊下に入るところで、振り返る。彼はまた夜空を見上げていた。……もうっ!

 

 

「にゃー!」

 

 

 こっちだって、言ってるでしょう! 今度ははっきりと鳴いた。

 彼は小さく肩をすくめ、ようやく動き出す。

 

 寝室まで誘導すると、戸口でふいに立ち止まり、私をじっと見つめた。

 

 そうしてやっと寝室まで連れてきたら、やっと彼に私が彼を寝かせようとしているのが分かったらしい。せっかくここまで連れてきたのに、彼は寝室に入る手前で気づいて立ち止まった。

 

 

「ぼくを、寝かせようとしてるのか……?」

 

「にゃ」

 

 

 そうよ。寝るの。あなたも、私も。

 

 私はひょいとベッドに飛び乗る。

 このベッドからは、ほとんど彼の匂いがしなかった。猫の姿になってから、嗅覚も猫のように鋭くなっていた。それなのにほとんど匂いがしないということは、彼がこのベッドをほとんど使用していないことを示していた。

 

 

「……シロ。ぼくはあまり眠らなくても大丈夫なんだよ」

 

「にゃ!」

 

 

 それは嘘だ。彼がそれが真実だと信じていても、眠らなくてもいい人間なんていないのだから。

 

 だから、寝なさい。私は肉球で枕をとんとんと叩いてみせる。と、案外彼は素直にベッドの淵に腰かけた。そして、思いがけず私の身体をそっと抱き上げる。

 

 ブルーの瞳が、私をじっと見つめる。

 

 

「やっぱりきみは…………」

 

 

 きみは、何だろうか。言いかけて、口をつぐむ。

 続きを促すように、私は小首を傾げてみせた。でも彼は、それ以上何も言わなかった。

 しばらくただ見つめ合ったのちに、彼は何も言わないまま、ベッドに倒れ込んだ。私もそのまま彼の胸の上に着地する。

 

 

「きみは……温かいな」

 

 

 大きな手が私の毛並みを撫でる。もともと眠気が覚めきってなかった私を、再び夢の世界へと落とし込むのには十分だった。

 

 

 

 

 

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