すべての愛を、君に   作:北野ゆめおんな

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 温かい。

 柔らかな陽だまりに包まれているような温もりが、皮膚の奥へとじんわり染み込んでいく。

 

 ゆるやかにまぶたを持ち上げると、そこには現実感の乏しい光景が広がっていた。まるで背景が塗りつぶされ、世界から色も音も奪われたかのように、"彼"だけがそこに存在していたからだ。夢を見たのは、どれほどぶりだろう。

 視界に映る背中は確かに彼のものだと分かったが、それは私の記憶よりもはるかに小さく、華奢だった。

 

 ーー幼い頃の彼だろうか。

 そう思った矢先、彼がこちらを振り返る。その瞳に宿る影の濃さと、何かを受け入れた者の静かな覚悟は、今の彼と寸分違わぬものだった。

 

 スティーブーー声をかけるよりも先に、彼は別の誰かの名を呼んだ。距離はそう離れていないはずなのに、その名前だけがまるで水面に落ちた音のように掻き消え、耳に届かない。

 けれど、私の脇をすり抜けて彼のもとへ駆けていく女性の姿で、呼ばれた人物が誰なのかを悟るのに時間は要らなかった。

 

 その顔は霞の向こうにあり、輪郭すら判然としない。

 けれど、スティーブが彼女を見つめる眼差しは、痛いほどの愛情に満ちていた。彼のコンパスの針が向いているのは、きっとこの人なのだろうーーそう理解するのに、ためらいはなかった。

 

 

「スティーブ」

 

 

 ぼやけた彼女が、彼の名を呼ぶ。

 痩せこけたスティーブは、再び彼女の名を口にし、おそらく頬へと手を伸ばした。

 

 

「愛してる」

 

「えぇ、私も。愛してる」

 

 

 なんて、甘く満ち足りた夢。

 そうであるはずなのに、目覚めた後に胸の奥に沈殿していたのは、理由も形も分からない、深い哀しみだけだった。

 

 

 

***

 

 

 

 悲しい夢を見た。

 

 だが、内容はもう手のひらから零れ落ちる砂のように失われていた。夢とはえてしてそういうものだ。

 背筋をうんと伸ばすと、ふと鼻腔をくすぐる香りに気づく。淡く、清らかで、それでいて安心を誘う匂い。彼の匂いだった。

 

 視線を横に向けると、彫刻のように端正な横顔が枕に沈んでいた。長い睫毛が影を落とし、ブルーの瞳はまだ眠りの中にある。

 彼と暮らし始めて一ヶ月も経つのに、そういえば、眠っている彼をこうして間近に見るのは初めてかもしれない。

 

 最初は得体の知れない緊張さえ感じていたが、こうしてみれば、やはりただの、いや、あまりにも人間らしい男性だ。

 起こすつもりはなかった。それでも、子をあやす母のような気持ちでそっと頬に指先を滑らせると、彼はゆるやかにまぶたを持ち上げた。

 

 

「シロ……?」

 

「にゃー」

 

 

 スティーブは上体を起こすと、まず窓の外へ視線を投げた。白みきった朝の光がカーテンの隙間から差し込み、時計を見るまでもなく、いつもの起床時間をとうに過ぎていることが分かる。

 

 たくさん眠れたようでよかった。

 無理にでもベッドに連れて行ったのは正解だったのだと、何だか誇らしい気持ちだ。

 

 珍しく、彼は起き上がってからもしばらく無言で思案に沈んでいた。寝過ごしたことが心に引っかかっているのだろうか。もしそうなら少し申し訳ない。けれど、それでも私の判断は間違っていなかったと信じられる。

 

 

「にゃー(お腹が空いたわ。ご飯にしましょ)」

 

 

 昨日は夜更かししたせいか、いつもより空腹感が強い。言葉は通じないはずなのに、スティーブは短く「そうだな」と答え、キッチンへと歩を進めた。

 

 今日の一日は、いつもより二時間遅れで始まった。

 

 

 

***

 

 

 

 朝のトレーニングを横で見届けると、今度はジョギングの時間だ。

 

 

「シロ、きみは懲りないな。外はだめだ」

 

 

 玄関に向かう彼を追いかける途中で、早々に釘を刺される。

 猫でいることの利点は、こういう時に返事をしなくても咎められないことだ。私は軽やかな足取りで玄関まで付き従い、扉が開かれる瞬間を見つめる。

 

 今日は、足の間をすり抜けて飛び出すような子どもじみた真似はしないーーと見せかけておく。どの手段を試しても捕まると、この一週間で学習したのだ。

 彼もまた、私が大人しくしていることを少し訝しんだ様子だったが、深くは気に留めず背を向ける。

 

 今よ!

 

 その瞬間を逃さず、床を蹴って軽やかに跳び上がる。彼が見ていないのをいいことに、ほんの一瞬だけ魔法の力を借り、彼の肩をひらりと飛び越えた。

 

 

「ッ?!シロ!」

 

 

 スティーブが驚きの声を上げ、反射的に腕を伸ばしてくる。

 けれど今日は捕まらない。かわしきれないなら、追いつかれなければいいのだ。私は一気に駆け出す。

 

 外に出るのは、あの日、彼に救われて以来だった。

 

 外に飛び出した瞬間、空気が一変した。

 頬を撫でる風はまだ朝の冷たさを残し、けれど日差しは春のように柔らかい。後ろから響く足音は、すぐそこまで迫っている。

 

 

 

「こら!シロ!待つんだ!」

 

 

 息も切らさず追走してくるスティーブに、心の中で舌を巻く。

 

 なんでこんなにはやいの……?!

 

 猫の俊敏さと、かすかな魔法の加護を合わせても、彼の脚力は侮れなかった。どうやら逃げ切ることは到底かなわなさそうだ。それなら、帰るのにもうんと時間がかかるように、できるだけ距離を引き延ばせばいい。頭の中でプランBに切り替える。

 

 風を切る音と、足音。

 

 石畳を蹴るたび、心臓が速くなる。運動のせいか、それとも背後に迫るスティーブの影のせいか。

 振り返らない。猫らしい身のこなしで角をすり抜け、低い塀をひょいと飛び越える。ただ無心で、前へ、前へ。すぐ後ろで、スティーブの靴底が路地に着地する音が響いた。

 

 どれほど走っただろう。潮の匂いが、ふいに鼻先をかすめる。

 ーー港だ。ブルックリンの港。

 我に返れば、こんな場所まで来ていたことに自分でも驚く。足を止めると、スティーブもまた歩みを緩めた。

 

 街並みは変わった。建物も道も、人の流れも。けれど、ところどころに、記憶の底に沈んでいた景色が顔を覗かせる。錆びた鉄柵の感触、潮風の味、船の汽笛の響き。

 

 

「……懐かしい」

 

 

 私の胸中を代弁するように、スティーブが小さくつぶやいた。

 

 なんだ、私たち、ご近所さんだったのね。

 そう思いながら、私も遠くを見やる。

 

 私も、昔はよくここで彼らと……彼らと?

 思考に小さな引っかかりを覚える。

 頭の奥を探っても、浮かぶのは、ひとりで船を眺めていた自分の姿ばかり。笑い声も、賑やかな影もない。……私ったら、そんなにひとりでぼうっとしているのが好きだったのかしら。

 

 ふと顔を上げると、スティーブも港を見つめ、思い出を噛みしめるように立ち尽くしていた。

 その隙に、私はそっと歩き出す。

 

 

「あっ」

 

 

 彼が小さく声を上げた。

 振り返り、目で告げる。

 

 逃げない。もう逃げないから。代わりに遊びましょう。お望みとあらば、さっきのジョギングの続きでも。……まあ、あれは完全にランニングだったけれど。

 

 なぜか、意味は伝わったらしい。なぜか、意味は伝わったらしい。スティーブは小さく息を吐き、足を踏み出した。

 そうして並んで走りだす。潮風を切って、陽の落ちかけた港町を。

 

 

 

***

 

 

 

 ひとしきり走り終えたあと、スティーブは私を抱えて港近くの小さな店へ足を向けた。昼時を少し過ぎていたせいか、店内は落ち着いており、窓からは海面を照らす午後の陽射しが差し込んでいる。

 外食といっても、彼と並んで食事をとるのはこれが初めてだ。カウンター越しに漂ってくる香ばしい肉の匂いが、なんとなく落ち着かない気分にさせる。

 

 スティーブの前に運ばれてきたのは、赤みの肉を厚く挟んだハンバーガー。香り立つ肉汁と溶けたチーズが、湯気とともにふわりと立ち上る。私の前には、真っ白な陶器の器に入った冷たいミルク。表面に光が反射して、小さく揺れていた。

 

 

「きみはやっぱり、言葉が分かるのか?」

 

 

 唐突な問いかけに、私は口をつけていたミルクから顔を上げる。

 

 

「にゃ」

 

 

 どうせ信じないだろうと、肩の力を抜いた返事をする。

 

 スティーブは信じているのかいないのか、判断できないような表情で、ただじっと私を見ていた。

 

 

「きみのご主人はリレー選手か何かか?」

 

「にゃあ(違うわよ)」

 

 

 わざと少し語尾を伸ばして返すと、彼の目が細くなり、口元がわずかに動いた。笑ったのか、それとも何かを確かめたのかは分からない。

 

 そのまま彼は、ふと思い出したようにポケットへ手を伸ばした。取り出したのは、小さく折り畳まれた紙。広げると、机いっぱいに古びた地図が広がった。角は擦れて柔らかくなり、色もところどころ薄くなっている。

 

 

「どこにいるんだ?」

 

 

 地図の上に指先を置き、私を見下ろす視線は真剣そのもの。

 

 ……私に居場所を示せと言っているの?

 本気で、私が意思疎通できると信じ始めているのかもしれない。

 

 でも、ご主人なんていない。答えようがない。

 私は何もせず、ただ彼を見上げた。

 

 しばらく視線をぶつけ合っていた彼も、やがて小さく息を吐き、視線を逸らした。周囲から向けられる怪訝そうな視線に気づいたのだろう。ほんの少しだけ耳のあたりが赤くなり、彼は慌てるように地図を畳み、ポケットへ戻した。

 

 

「にゃー」

 

 

 ーーそうじゃないのに。伝わらないもどかしさが、喉の奥に絡まる。

 

 相当気まずかったのか、スティーブは残り半分になっていたハンバーガーを無言で持ち上げると、がぶりと豪快にかじりついた。肉汁がパンの端からにじみ出し、彼はそれを気にも留めず一気に咀嚼する。ごくりと飲み下すと、軽く息を整え、私をひょいと抱き上げた。

 

 外へ出ると、港の風が頬を撫でていく。まだどこか、さっきまでの余韻を残したままの匂いと温度で。私はその腕の中から、海面にきらめく光をしばらく見つめていた。

 

 

 

***

 

 

 

 港からの帰り道、スティーブの足取りはいつもよりゆっくりだった。

 アパートに戻り、玄関のドアを閉めると、外の喧騒がすっと遠のく。かつては静けさこそが安らぎだったはずなのに、今はどこか落ち着かない。

 

 ーー七十年の眠りから目覚めて以来、ずっと一人だった。

 呼ばれれば任務に出向き、終わればまた元の場所へ戻る。ボクシングジムで黙々とサンドバッグを叩き、孤独から目を逸らすようにスケッチブックに向き合う。人と会話を交わすことはあっても、それは必要最低限で、胸の奥まで届くようなやりとりではない。達成感も、安堵も、どこか置き忘れたまま。そうして時だけが過ぎていった。

 そんな生活の中に、ある日ふいに入り込んできたのが、白い猫だった。

 

 気づけば、彼女は当たり前のようにここにいる。椅子の脚に身体を預けて丸まる姿も、気まぐれに足元を通り抜ける毛並みの感触も、もう生活の一部になり始めている。

 

 だが、それは危うい。

 

 もし彼女が誰かの飼い猫だとしたら、今ごろ心を痛めている人がいるはずだ。それを忘れかけていた自分を、スティーブは内心で咎める。テーブルの上で尻尾を揺らすシロを見つめながら、胸の奥にわずかな罪悪感が広がった。

 

 ……それにしても、意思疎通ができるかもしれないと感じる瞬間が増えてきた。

 シロに促されてベッドに身を沈めた昨晩、不思議なくらいによく眠れた。あの落ち着きは、何か説明のつかない力によるものなのかもしれない。

 

 そういえば初めて出会った時、彼女の首に下がる首飾りが光り、奇妙な現象が起きたではないか。

 スティーブはシロをそっと抱き上げ、首元へ視線を落とす。

 

 細工の凝った金の台座に、紅玉のような宝石をはめ込んだ首飾り。光を受けると炎が燃え上がるように見え、奥底にはゆらゆらと揺れる光の影がある。まるで宝石そのものが、微細な焔を閉じ込めているかのようだった。

 

 

「……これは、なんなんだ」

 

 

 つぶやきながら、彼はその輝きに目を奪われた。やはり見間違いではない。指先を近づけると、宝石の内側で炎がひときわ揺らめいた。

 

 そっと指先で宝石の表面に触れる。ひやりとした金属の感触の中に、わずかに温もりが混ざっていた。

 

 

「長いまつげね……」

 

「……ッ?!」

 

 

 

 突然、人の声が降ってきた。スティーブは反射的にシロを抱きかかえ、周囲を見渡す。しかし部屋の中には誰もいない。家具も窓も、ただいつものままだ。

 

 だが確かに、声は頭上からーーいや、彼女のすぐそばから聞こえた。

 

 

「にゃあ」

 

 

 その鳴き声が、答えのように響く。スティーブは息をのむ。

 

 

「……今の、きみか?」

 

「にゃ?」

 

 

 シロは無垢な瞳で小首を傾げた。

 試しに、再び宝石へ指を触れる。

 

 

「ねぇ、何?何のこと?」

 

 

 ーー間違いない。

 今の声は、明らかにシロから発せられていた。人の言葉を、彼女は喋っている。

 

 スティーブは言葉を失ったまま、じっと彼女を見上げる。

 しかし当のシロは、不思議そうに瞬きをひとつし、やがて柔らかな声で言った。

 

 

「変なスティーブ」

 

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