春だというのに、街は雨に沈んでいるようだった。
細かい粒が絶え間なく降り続き、アスファルトの上に無数の水輪を咲かせる。人々は傘を差して足早に通りを抜けていく。その中で、俺だけが立ち止まっていた。
傘を持っていなかったわけじゃない。けれど、使う気になれなかった。
頭から爪先まで雨に打たれ、体の芯まで冷えていくのを、むしろ心地よいと思っていた。
――今は、何もかも、どうでもよかった。
ひと月前、俺は大切な人を失った。
愛していた、いや、今も愛している。けれどもう二度と会えない。名前を呼び返してくれることも、手を取ることもできない。
それは、変わりようのない現実で、事実はどれだけ嘆いても覆らない。
だから俺は、立ち止まったまま雨に打たれていた。
まるで自分が世界から水彩絵の具のように薄れていくのを望むかのように。
「……濡れるよ」
その声は、あまりにも唐突だった。
濡れた顔を上げると、いつの間にかひとつの晴天のような青い傘が差し掛けられていた。
透明な雨粒が弾かれて光り、僕の頭上だけがぽっかりと守られている。
傘を持っていたのは、一人の少女だった。
高校の制服を着て、僕をじっと見つめている。
年は二つか三つ下だろうか。幼さを残した顔立ちに、不思議な大人びた影が差していた。
「......放っといてくれ」
一向に離れようとしない彼女に、思わず声が荒くなる。
「君に!俺のことなんて分かるはずないだろ!!」
少女は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく首を振った。
「分からなくても……濡れてる人を見たら、傘を差したくなるんだよ」
その声音は柔らかいのに、妙な切実さがあった。
俺は返す言葉を失い、ただ彼女を見返す。
知らない人間にこんなふうに気遣われることが、何故か妙に胸に突き刺さった。
「......この先に、喫茶店があるの。そんな体だと風邪ひくし、雨宿りしない?」
少女は少し遠慮がちに提案した。
指さした先には、小さな古い看板が見えた。
それは、俺がまだ1人じゃなかった時、良く大切な人と訪れていた、小洒落た静かな店だった。
俺は寒さからか白く冷たいため息をつき、濡れたシャツの裾を絞りながら歩き出した。
「……勝手にしろ」
言葉とは裏腹に、彼女が傘を差し出す横を歩いていた。
並んで歩くのは、ほんの数メートルの道のり。
けれどその間、傘の下は雨音から切り離されたみたいに静かで、奇妙な温もりに包まれていた。
カラン――。
扉に付けられた小さなベルが鳴った。
店の中は、外の雨音が嘘のように静かだった。深煎りのコーヒーの香りが漂い、照明は柔らかく明るい、アンティーク調の木の机と椅子が整然と並んでいる。
この街にいくつもあるチェーンのカフェとは違って、ここはいつも時間の流れそのものがゆっくりしていた。
「いらっしゃいませ」
古めかしいカウンターの奥から初老のマスターが声をかけてくる。
俺は軽く会釈して、窓際の二人掛けの席に座った。彼女も当然のようにその向かいに腰を下ろす。
濡れた服が椅子に貼り付いて不快だったけれど、それ以上に、この奇妙な展開に戸惑っていた。
「何にする?」
彼女はメニューを手に取りながら僕を見た。 「……ブレンドで」
「じゃあ、私も」
注文を済ませると、しばらく沈黙が落ちた。
雨音が遠くに響き、コーヒーミルの低い音が店内を満たす。
「……あの」 先に口を開いたのは彼女だった。
「あなた、すごく、辛そうな顔してた」
その言葉に、眉をひそめる。
「人の顔なんて、そう簡単に分かるもんじゃないぞ」
「うん、そうだね。でも……分かるときもある」
彼女の声は小さかったが、真っ直ぐだった。俺の心の奥に、無遠慮に踏み込んでくる。
「……見ず知らずの人間に、同情でもしてるつもりか?」
「同情じゃない」彼女はすぐに首を振った。
「私も……似たような顔をしてるから」
その一言に、言葉を失った。
良く見てみると、彼女の横顔は、年齢に似つかわしくない陰を帯びていた。まるで長い間、誰にも触れられずにいた孤独の影のように。
そんな時、マスターがブレンドコーヒーを二つ、静かにテーブルに置いた。コーヒー豆の香ばしい香りが辺りに立ちのぼる。
手を伸ばし、口に含む。苦味と酸味が広がり、舌に少しの安らぎを与えたような気がした。
「……名前は?」
不意に問いかけていた。
彼女は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「灯里」
「灯里……」
「君は?」
「……悠真」
名前を交わした瞬間、少しだけ張り詰めた空気が柔らいだ。
「悠真は……大切な人を、失くしたの?」
彼女の声は、雨に濡れたガラスのように繊細だった。
僕は目を伏せ、カップを見つめる。
「……一か月前に。彼女を」
口にしただけで、喉が締め付けられる。
灯里はしばらく黙っていた。
ただ視線を落とし、両手でカップを包み込んでいる。
やがて彼女は、絞り出すように言った。
「……私ね、人からあまり好かれないの」
「え?」思わず顔を上げる。
「......小さい頃からで。家族も友達も……私と一緒にいると疲れるって。『冷たい』『何を考えてるか分からない』って、よく言われるんだ。」
灯里はかすかに笑った。でもその笑みは、痛みを覆い隠す仮面のように見えた。
「だからね、悠真くんの顔を見たとき……放っておけなかった。だって、私と同じ匂いがしたから」
胸の奥をギュッと掴まれたような感覚があった。
亡くなった彼女の口以外で他人からそんな言葉を聞いたのは初めてだった。
「……同じ匂い、か」
「うん。孤独の匂い」
その瞬間、なぜか涙が込み上げそうになった。
慌てて視線を窓の外に向ける。
雨脚は強さを増し、街灯の光がにじんでいた。
「君は……それで平気なのか?」
「慣れちゃった。でもね」
灯里はゆっくりカップを置いた。
「でも、......ほんとは、誰かに愛されたいよ」
その言葉はあまりに真っ直ぐで、痛々しかった。
俺はは返事を見つけられず、ただ拳を握りしめるしかなかった。
やがて彼女は微笑んで、話題を変えた。
「この店、よく来るの?」
「……たまに。一人で考え事したいときにな」
「そっか。落ち着く場所だよね」
それからは、取りとめのない会話が続いた。
好きな本の話、音楽の話、学校やアルバイトの話。
彼女の笑顔は時折ぎこちなかったが、嘘ではないと思えた。
気づけば、外の雨は少し弱まっていた。
窓に流れる雫が細くなり、街を行き交う人々も増えている。
「……そろそろ帰ろうか」
俺が言うと、灯里は名残惜しそうにカップを見つめた。
「ねえ、また会ってくれる?」
唐突な言葉に、俺は目を見開いた。
「どうしてだ?」
「......一度で終わりにしたくないから。悠真と話すと……少しだけ、あたたかい」
ぽっかり穴が空いてしまった胸が震えた気がした。
失ったものは戻らない。
それでも、この少女と話す時間が、確かに僕を少し救っていた。
「……分かった」
気づけばそう答えていた。
灯里は安堵したように微笑んだ。
その笑みは、今まで見たどんなものよりも儚く、美しかった。
店を出ると、雨はすっかり小降りになっていた。
街灯に照らされた路面はまだ濡れていて、車のライトを反射している。
傘を差しながら並んで歩く僕と灯里の影が、路地のアスファルトに二つ、淡く揺れていた。
「さっきより、少しだけあったかいね」
灯里がつぶやく。
「そうか?」
「うん。雨のせいかもしれないけど……悠真と話したおかげでもある」
さらりとそんなことを言われ、思わず足を止めそうになる。
彼女は気づかないふりをして歩き続けていた。
夜風が頬を撫で、ひんやりとした湿気を残す。俺は呼吸を整えるように深く息を吐いた。
こんなふうに誰かと並んで歩くのは、どれくらいぶりだろう。
「……俺は、誰かを救える人間じゃない」
不意に口からこぼれた。
そんな言葉に、灯里が振り返る。
「どうして?」
「……大切な人を、守れなかったから」
彼女は立ち止まり、真剣な目で僕を見つめた。
「じゃあ……これから守ればいいんじゃない?」
その言葉は、簡単すぎて、残酷なほど真っ直ぐだった。
胸の奥の傷を指先で突かれるような痛みを覚え、同時に、どこか温かさも感じた。
「……君は、そうやって生きてこれたのか」
「ううん。私は、ずっと逃げてきただけ。でもね……今日はちょっと違う」
灯里は小さく笑った。
「悠真がいたから」
返す言葉を見つけられず、ただ歩き出した。
並んで歩く距離は、さっきより少しだけ近かった。
彼女と別れたのは、駅前の交差点だった。
「じゃあ、また」
そう言って手を振る灯里は、街灯に照らされてどこか儚げに見えた。
「また……な」
声に出して答えながら、心の中で何度も繰り返す。
また。必ず。
その背中が人混みに紛れて見えなくなったとき、胸の奥に小さな穴が開いたような感覚に襲われた。
初めて会ったばかりなのに、不思議だった。
アパートに帰り着くと、部屋は相変わらずの静けさに包まれていた。 玄関の灯をつけ、濡れた靴を脱ぐ。
ワンルームの部屋は、空っぽのように寒々しい。
机の上には、まだ片付けられない写真立てがあった。
そこには、亡くなった彼女が笑顔で写っている。
僕は思わず視線を逸らした。
――守れなかった。
その罪悪感が、夜ごとに胸を締め付ける。
けれど今夜は、少しだけ違っていた。
雨の中で傘を差し出した少女の横顔が、鮮明に浮かんでくる。
「同じ匂いがしたから」
彼女の言葉が、耳の奥でこだまする。
孤独を知る者だけが発せられる響きだった。
写真立てに背を向け、僕は机に突っ伏した。
涙が出るわけじゃない。ただ、心の奥で何かが揺れていた。
ベッドに横になり、天井を見つめる。
外では、まだ弱い雨が降り続いている。
さっきまでの会話が、何度も頭の中で繰り返される。
「......ほんとは、誰かに愛されたいよ」
その一言が、どうしても離れなかった。
きっと、彼女はずっと一人で耐えてきたのだろう。
誰にも理解されず、見えない壁の中で生きてきた。
「また会ってくれる?」
彼女の瞳の奥に宿っていた光が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
胸の奥が熱くなる。
こんな感覚は、一か月前には考えられなかった。
「……また会おうな」
小さく声に出してみる。
その言葉は、確かな約束のように心に響いた。
たとえまだ、彼女のことを何も知らなくても。
たとえ俺自身が傷だらけでも。
――この出会いだけは、手放したくない。
そう思った瞬間、瞼が重くなり、静かな眠りに落ちていった。
雨音が子守歌のように響く中で、灯里の笑顔が最後に浮かんだ。
そして、暗闇の中で確かに誓った。
もう二度と、大切だと思った"何か"を失わない、と。
恋愛描くのむずい!