世界を変えるのに、3分もいらない ―元トレーナー、現ウマ娘として走ってます― 作:うちっち
一緒に朝の陽がまぶしく降り注ぐ白い砂浜に、4人分の足跡が長く伸びる。私たちは、何度も同じコースを踏みしめながら、ひたすらに走った。波打ち際では白い飛沫が踊り、頬をかすめる潮風に、汗ばんだ肌が心地よく冷やされる。
合間には、ネイチャやスイープに技術的なアドバイスを送る。気温も高く、立ち止まればすぐに汗がにじむような環境の中で、2人とも真剣に耳を傾けてくれていた。
「ネイチャの良さってコーナーの上手さだと思うんだよね。で、直線に入るときに傾けてた上体戻すでしょ? もう少しそのタイミング遅らせた方がスピードに乗りやすいかな*1」
私は手振りを交えて話しながら、砂浜の一角に指でコースの簡単なラインを描いた。波が来ればすぐ消えてしまいそうなライン。でも、ネイチャは目を細めてその上にしゃがみこみ、真剣に頷く。
「ふむふむ。わかった! やってみるね!」
「スイープ。直線なんだけどさ、行くぞって気分になってから、一瞬だけ待ってみない? そうしたら、風の魔法が味方してくれると思うの*2。よかったら1回だけ試してみて!」
「しょうがないわね。じゃあ次ちょっとやってみるわ」
2人がスタート位置につき、掛け声もなしに一斉に走り出す。力強く砂を蹴り、風を切って進む姿は、まるで波間をすべる2匹の魚のようだった。その様子を目で追いながら、私は息を整える。すると、隣でじっと見つめていたグラスが、ふう、と深く息を吐く音が聞こえた。
「どうしたの?」
「いえ。相変わらずメニューの指示の時は迷いがないなと、思いまして」
メニューの指示の時は、ってところにちょっと力入ってた。じゃあ普段はどうなの? と疑問がわいたけれど、これ以上は考えないようにしたいと思う。
「トレーナーさんは、ウマ娘のために何かをするのが本当に好きなんですね」
「うん。だからトレーナー業って天職だと思う」
「じゃあ、どうしてお休みを言い渡されたとき、もう少し粘らなかったんですか」
えっ……? だってあれ、グラスが言い出したのに……。
「いらない、って言われたらそれは寂しいけど、仕方ないかなって。グラスも、私が足にすがり付いて「お願い! 捨てないで!」って泣きながら言ってきても困るだけでしょ?」
「……」
「なんでそこで黙るの……?」
練習の合間、どうしても聞きたいことがあったので、スイープのグランマに電話を入れた。
そもそも、どうしてこうなっちゃったんだろう……。
「魔導書が、あなたを選んだのです」
通話の向こうで、グランマの落ち着いた声が響く。周囲のざわめきがふっと遠のいたように感じた。
「魔導書が?」
「願いを叶えてくれそうだと判断されたのです。相応しくなければ、そもそも出会えません。縁ですよ」
「私にそんな資格なんてないと思いますけど……」
「もし資格を得ていなかったとすれば、呪文を唱えても効果は表れません。あなたの姿が変わったのなら、それが答えです」
「効果が出ないなら、その方が良かったですが……」
「いえ、仮にまだ器として相応しくない、となった場合も、保留でしょうね。手に取った時点で縁ができてしまいますから」
「……保留?」
「相応しい器になるまでそばで見守るだけです。だから、どちらにせよ、魔導書の望みを解決しないと解放はあり得ません。……御武運を。……あの子を、よろしくお願いします」
電波の向こうから、しっかりとした祈りのような言葉が届いた。
……そうだ。聞いておきたかったこと。私が消えたら、この子だけがここに残るの?
すると、負けたら体も消える、という話をされた。消えたらどこに行くかは分からないらしい。ひょっとして、この子と一緒に、元の世界に行くのかも。
「トレーナーさん、今日のメニューで気になる部分があるんですが……」
「いいよ、何でも聞いて!」
練習後も、就寝前までグラスと今日のメニューの振り返り。それが終わると電気を消し、私は布団の中にもぞもぞと体を滑り込ませた。
今日の私の隣はネイチャ。布団を詰めて敷いているので、目の前すぐにネイチャの顔がある。そのネイチャは、暗くなった中でもわかるくらい視線をあっちこっちに移しながら、何やらうーうーと唸っていた。
「どうしたの?」
「さっきまで真面目な話してたのに悪いんだけど、変なこと聞いていい?」
「いいよ。どんと来い!」
「アタシ、トレーナーさんの恋愛歴が気になりマス」
なんと、まさかの恋愛話。合宿っぽい! ただ、申し訳ないけど期待には応えられそうもない。よりによって私にそんな話を振るとは勇気があるよね。
「それがまったくないんだよねえ」
「いや、でも今年の3月に、他のトレーナーさんに告白されてなかった?」
「……見てたの? でも断ったし……」
誰にも言ってないはずなのにネイチャが知ってるのは置いておくとして。しかし、ネイチャはさらに食い下がってきた。せっかく始めた恋愛話をすぐ終わらせるのが惜しいのかもしれない。
「なんで断ったの、って聞いていい?」
「あんまり知らない人だったから」
「ばっさりだ! ……じゃあ、トレーナーさんがこれまで好きになったのって、どんな人?」
好きな人、好きな人、かぁ……。私はしばらく自分の人生を思い返した。しかし何度検索してみても、該当者は0。
「好き、かぁ」
「そんな難しい顔で悩まないでよ……。そこまでいかなくても『かっこいい』とか『綺麗だ』『かわいい』って思ったとかでもいいからさ」
一瞬だけ、遠い昔に見た夢を、思い出した。あれはある意味、私の初恋だったのかもしれない。ただ、夢の中で見た不思議な生き物を恋愛歴にカウントするのは、さすがにはばかられた。さすがに。
「やっぱり私、誰かを好きになったことないかも」
「あー、でもなんかトレーナーさんらしいわ。好きって気持ちが分からない、みたいな感じでしょ」
待って。なんでそんな感情丸ごとないみたいな。私は内心けっこう困惑した。
「みんなは好きだよ?」
ようやく口にした言葉に、ネイチャは小さく息をついて、けれど目は逸らしたままつぶやく。
「……いや、そういうのじゃなくってね……。例えば、例えばだよ? あるウマ娘がトレーナーさん好き!付き合って! とかいきなり言ってきたら、どうする?」
話の運びの唐突さに、さすがの私もピンと来た。この問いの裏にあるもの――ネイチャが今、何を伝えたいのか。私はそっと身を乗り出し、口元を手で覆いながら、ひそひそと囁いた。
「ネイチャってトレーナーの誰かが好きなの……? なら私が協力しちゃうよ! というか絶対応援するから!」
「……いや、いい……」
ほら、好きな人がいるのは確定みたい。なんだかテンション下がってるけど。……うん、いいと思う! こうなると、人に限ると狭い私の交友関係が憎い。
「ネイチャならきっと大丈夫だと思うし!」
「……あー、アタシの話はいいんで、トレーナーさんの話。そういうシチュエーションになったら、どうします?」
「一般的にはいいと思うよ。何人かウマ娘と付き合ってる人知ってるし」
「一般的には……? トレーナーさんは違うってこと!?」
まず私がそういう立場になる気がしないのでイメージできない、というのは置いておいても。
「桐生院さんって知ってる?」
「トレーナーさんの同期で唯一の人間の友人ですよね」
グラスの声が遠くから聞こえた。もしかしなくてもこれ全員参加なんだ。ネイチャ聞かれても大丈夫なの?
「研修中に相部屋でね。何かと面倒見てもらってたんだけど。色々、学園でのルールも教えてもらったりして」
その結果として理事長室に呼び出しされる回数がトップなんだから、彼女には足を向けて寝られない。
「いい方ですよね。トレーナーさんの見聞を広げてくれるいいご友人だと思います」
「それでね。桐生院さんいわく『人間は人間同士、ウマ娘はウマ娘同士で恋愛すべきだと思う』って」
一瞬だけ、沈黙があった。
「……とんだ差別主義者ね」
「うわぁ……あの人、あんな顔してそんなこと言うんだ……うわぁ」
「今すぐ縁を切りましょう」
「そ、そこまで……?」
3人の顔がぐるりとこちらを向いた。どしたのその顔。3人そろって、異教徒を見つけた敬虔な教徒みたいな顔して。
「他にあの人から言われたことってありますか? いえ、この際。よく話すんですか?」
この際とは……? というか桐生院さんが名前を呼んではいけないあの人みたいになっている……。
「んー、同期のよしみでたまに飲み会してるくらい?」
「二人っきりで……?」
「うん。同期会だと他にもいるけど」
「どんな話を?」
「……」
「言ってください」
畳みかける声に負けて、私は布団でそっと顔を隠した。何これ、すごく恥ずかしい。
「……担当の子たちが3人ともかわいいって……話……」
返答はなかった。
しばらくして、ようやく顔のほてりが収まったので布団から顔を出すと、3人とも頭まですっぽり布団を被っていた。就寝らしい。
そして、あっという間に、夏合宿最終日になった。午後からは練習がお休み。
私は、3人がそれぞれ気になりそうな場所をピックアップした。グラスは山、ネイチャはお祭り、スイープは夜の海辺かな。みんなで一緒に行動してもいいし、別々で、私だけがはしごしてもいい。
迷った末に決まったのは、みんなで一緒に回るというプランだった。
午前中の涼しい空気が残るうちに山へと向かい、木々の合間をゆっくりと散策した。木漏れ日が揺れ、時折聞こえる鳥のさえずりや蝉の声が心地よく、グラスは静かな微笑みを浮かべながら歩いていた。
昼過ぎからは、賑やかな音と人の流れに導かれるように、お祭りへと足を運んだ。屋台が立ち並び、射的や金魚すくい、甘い香りの綿菓子が漂う中、ネイチャは地元の子たちに混じって盆踊りの輪に加わり、笑顔で軽やかに舞っていた。彼女がひときわ元気に手を振ると、私たちも思わず大きな声で応援してしまい、輪の中のネイチャがちょっと照れたように笑って返してくれたのが、なんだかとても嬉しかった。
そして、夕暮れが深まる頃、4人で海辺へと向かった。
空はすっかり群青色に染まり、足元の砂浜はまだほんのりと昼間の熱を残している。波が穏やかに寄せては返し、その音が静かなリズムを刻んでいた。
「にしても、なんで夜なの?」
「夜の海って、なんだかこう、魔法って感じがしない?」
「なんとなくわかるけどさ」
「それから、ほら。もう上がるよ」
そんな会話をしていると、沖合いでひゅるる、と鋭い音が立った。直後、夜空を覆うように大輪の花火が広がる。目の前に迫るほどの近さで、菊のような光の粒が四方へ散り、きらきらとした火の粉が降り注いできそうに見えた。
「わぁ……!」
3人が同時に声を上げる。赤や緑、金色へと色を変えながら次々と空を彩る花火。その光に照らされる彼女たちの横顔は、驚きと歓声でころころと表情を変え、頬もまた色とりどりに染まって見えた。
私はその光景を、ただ見つめていた。
ずっと、こんなふうに並んで歩いてきた気がする。
けれど、花火の明滅に照らされた彼女たちの顔があまりにもまぶしくて。まるで、今この瞬間こそが「いちばん近くにいる」気がした。
火の粉が空から降ってくるように、
この時間が、音が、光が、全部、胸の奥に落ちてくる。
あとで思い返したとき、「あの夏」として、きっと思い出すのはこの夜なんだろう。
……綺麗だな。
そう思うだけで、なぜか少し、胸が痛かった。
そしてあっという間に夏が終わり、秋がやってくる。
* * * * * * * * * * * *
夏合宿が終了して、数日経ったある日。私はネイチャから、お願いを決めたということでトレーナー室に呼び出された。
しかしネイチャは、なかなか言い出さなかった。というか、呼び出されてからすでに1時間。時計の針がじりじりと進むなか、彼女は落ち着かない様子で椅子から立ったり座ったりを繰り返していた。おろおろと室内を何度も歩き回り、書類の山やカップの湯気を意味もなく眺めたり、私の顔をちらちらと伺っては目を逸らしたり。そんなに言いにくいお願いなの……?
そして、ようやく意を決したように深く息を吸い込むと、ネイチャは両手を握って小さく叫んだ。
「……トレーナーさんの家の合鍵が、欲しいなって。いや別に深い意味はないんだけど! ごはんちゃんと食べられてないみたいだからたまに作りに行きたいっていうか、でもでも、トレーナーさんが嫌だって言うなら無理には」
「いいけど。はい」
「軽っ!」
私は鞄の中を探り、いつかなくしたとき用に入れていたスペアキーを取り出して差し出す。でも、ごはん、ごはんかぁ……。
「ネイチャに作ってもらってばっかりも悪いかなぁ」
「悪くないよ! ……なんなら、毎日でも……なんちゃって!」
口の中でもにょもにょ言ってたので、後半はよく聞こえなかった。さすがにウマ娘の聴力でも限界はあるらしい。それはともかく。
「うん、じゃあその次は私が作っちゃおう」
「ホント!? それはそれで……。いや待てよ。動揺が薄すぎる……貰ったの、アタシが初めてだよね?」
「合鍵のこと? ネイチャが最初だよ。それ大事……?」
「大事! 一番最初に貰ったことに意味があるの!」
その声はまるで、宝物を見つけた子供のようだった。私は思わずふっと笑ってしまう。
そういえば、桐生院さんと研修中にお互いのお弁当作り合うっていう、謎の状況になったことはあったっけ。お前ら自分の分作れよって、当時の同期たちから総突っ込みされたのを思い出して、ちょっと苦笑した。
でも、ネイチャが本当に嬉しそうなので、私もなんとなく、嬉しくなる。
ということで、その翌日。練習後に、さっそくネイチャが来るらしい。私は大慌てで部屋を片付けていた。床に散らばった資料の束を脇に寄せ、クッションを整え、乱れたブランケットを畳み、なんとか生活感を誤魔化そうとする。
……ただ、問題が1つ。この魔導書だ。
これ、どうしよう……。本棚の書類の束の間に押し込む? でもあそこ、ずっと手をつけてないし、ごちゃごちゃだから、絶対バレない……はず。いや、でも逆に紛れ込んで、見失ったら困るかも……? 一瞬逡巡した末、私は鍵付きの引き出しを開け、中にそっと魔導書を滑り込ませる。奥の方に押し込んで、ガチャンと鍵を閉める。これなら、ネイチャなら開けないだろう。……開ける理由も、ないはず。
そんなふうにごちゃごちゃやっているうちに、チャイムが鳴って、ネイチャがやってきた。
小さな買い物袋を片手に、「おじゃましまーす」と明るく挨拶すると、ネイチャはすぐに台所へ向かい、持ってきたエプロンをいそいそと身に着けて調理の準備を始める。私はソファに腰を下ろし、わくわくしながらテーブル越しにその背中を眺める。
「ふふ、何か照れるね、こういうの。トレーナーさん、ちゃんとお腹すいてる?」
「すいてる!」
私が元気よく手を上げて答えると、すぐさま隣から別の声が重なった。
「さて~、今日の献立はなんでしょうか?」
「待ち遠しいわね」
横を振り向くと、いつの間にか、グラスとスイープがちょこんと並んで座っていた。2人とも手を膝に乗せ、まるで最初からそこにいたかのように自然な顔をしている。
「なんで2人がいるの?」
「何よ、いちゃ駄目なの?」
「まさか、そんなわけありませんよね~」
一方、鍋を両手に抱えてやってきたネイチャは、2人の姿を認めた瞬間、明らかに表情を引きつらせた。
「げっ……」
「練習終わったらやけに浮かれてたと思ったら案の定だわ。今日はマヤノと買い物とか言ってなかったっけ?」
「私もそう聞きました」
「……新しく予定が入ったんだって」
「ちなみに、マヤノちゃんはマルゼンさんとドライブに行ったそうです。ずっと前からの約束だとか」
……グラスの調査能力はいったいどこから来てるんだろう……。
「あちゃー……マヤノ大丈夫かな……そっちはそっちでマジで心配だわ」
ネイチャは、突然人数が倍に増えたのに、残り物を駆使して4人分の料理を作ってくれた。主婦の鑑。
私が洗い物を済ませてリビングに戻ると、ネイチャが近寄ってきた。あ、何か言いたそう。何度か深呼吸した後、ネイチャはちらりと洗面所へ視線を送った。……どうしたの? 私の疑問は、次のネイチャの言葉で解消される。
「トレーナーさん。……突然だけど、お風呂借りていい?」
ほら来てよかったじゃない、とスイープがグラスを突っつくのが見えた。お風呂だって。まあ、私としては構わない。ただ、ちょっと唐突という印象は否めなかった。
「……着替え、なくない?」
「持ってきたから」
「最初から入るつもりだったねさては。いいけど」
「トレーナーさんの「いいけど」ってどこまで大丈夫なのかたまに気になります」
「試してみたら? なんか変なところにこだわりありそう」
ネイチャがお風呂場へ姿を消した後、私はテーブルでグラスとお喋りをしながら時間を過ごした。すると、グラスもそわそわしているのにふと、気づく。うん。明らかに、何かを待ってる感じ。
グラスがまだかな、という顔を止めないので、とりあえずおせんべいをあげてみた。すると、ちょっと膨れ、渋い顔で食べ始める。あんな顔でおせんべい食べる誰か初めて見た。違うらしい。何か、何かヒントはない?
グラスの視線が、ちらちらっとテーブルの上にある鍵に向かっている。試しに手に取ってみると、ぱあっと笑顔に。耳もぴょこぴょこ左右に揺れる。え、これ? 離すとがっかりした顔になる。これらしい。
「その、グラス、ひょっとして……」
「あ、そうだ使い魔、アタシにも合鍵よこしなさいよ」
「いいけど。……グラスもいる?」
「……はい」
そして、ドライヤーの音がした後、ネイチャが洗面所から戻ってきた。髪を乾かしたばかりの彼女は、わずかに頬を紅潮させ、湯気のようなぬくもりをまとっていた。
「うわ、なんでグラス先輩ちょっとブルーになってんの……? いや、それはともかく、お風呂ありがと! それで、せっかくだからさ、トレーナーさんも入ってきたら?」
「……いや、お客さんが来てるのに私がお風呂入るのっておかしくない……?」
「ほら、『いいけど』じゃなかった」
繰り返し勧められたので、とりあえずお風呂にちゃぽんと浸かる。いや、なにこれ。来客中にお風呂に入った経験は今までないので、全然落ち着けなかった。急いで上がる。
「いやトレーナーさん白っ。細っ」
「もともとそうでしたけどね」
バスタオルで髪を拭きながらリビングに戻ると、ネイチャの目が私の足元へと向かっていた。その瞳は、どこか真剣で――それまでの笑顔が嘘のように消えていた。
「……で、その足首の包帯、外してくれる?」
「さっき巻いたばっかりだから嫌」
「アタシが巻いてあげますから! 巻き方教えてくれたじゃない!」
ネイチャはしゃがみ込み、私の足首をまじまじと見つめる。どうしたの、と尋ねると、切れ切れで返事が返ってきた。アタシも気を付けようと思って。とりあえず、トレーナーさん足どうかなって。うん、紫だけど、腫れてるけど、よくわかんないけど、うん。白いなって。
「……どう見ます?」
「心配8割、その他2割ってところね」
そして、あっという間に10月に入り、ジャパンカップまでもう1月を切った。風が肌に触れるたびに、季節の変化を実感する。私はレースに出走する傍ら、今日はひとり、データを並べて展開予想を練っていた。やがて背後に気配を感じて振り向くと、グラスが静かに腰を下ろす。
グラスは、痛めた足がまだうまく治らず、未だにレースへの復帰はできていなかった。その表情には悔しさではなく、どこか澄んだ視線があった。
「レースの展開予想、私もご一緒しても?」
「もちろん」
ジャパンカップでの問題はオグリ以外にも、ある。私は先行するとして、おそらく先頭は、海外から来るウマ娘の1人、イブンベイ。夢の中で、彼女は最初の2000メートルを日本レコードのタイムで駆け抜けていた。その破滅的な逃げのペースに対応する必要が、ある。
他にも、2400メートルの世界レコード保持者、ホークスター。凱旋門賞ウマ娘キャロルハウス。この前の天皇賞(秋)を勝ち抜いたスーパークリーク。そして、オグリキャップ。
予想される展開は、あの夢の通りだ。イブンベイが逃げ、ホークスターが2番手。私が3番手。その後に、クリークとオグリ。直線で抜け出す私を、追ってくるのはオグリ。そして、私がクビ差で1着。
このまま進めば、私はきっと2分22秒2で走り抜けることは、できる。
ただ、なんだろう……。どこか、違和感がある。引っかかるのは、やはりオグリだった。この前の毎日王冠と、天皇賞(秋)。その走っている姿と、私の想定するレース展開が、少し合わない。いや……これは、本気でまずいかもしれない。最悪と言っていい。
「やっぱりそうだ」
「どうかされましたか?」
……マイルチャンピオンシップからの連続出走でないからか、他の要因か。どういう理由かはわからない。けど、おそらく、ジャパンカップ当日……。
オグリは――2分22秒2より、早く走る。
トレーナー業をこなしながら練習をしていると、毎日が飛ぶように過ぎて行った。慌ただしくも濃密な日々。そんな中、グラスがメニュー考案を手伝ってくれるのは、私にとって何よりありがたかった。ある日、私はメニュー表にペンを走らせていたが、ふと気配を感じて顔を上げると、グラスがそっと顔を寄せてきていた。
「メニューを考える際に一番大事なことって、なんですか?」
問いかけに一瞬ペンを止める。何度も繰り返してきたはずなのに、改めて問われると悩ましい。
「練習相手を確保すること、かな。それさえできたら、メニューは自然と組めるから」
「なるほど~」
グラスは頷きながら、微笑を浮かべて再びメニュー表に目を落とした。
そして、今日も居残り練習を終え、トレーナー室で3人としばらく何気ない話をする。夕暮れの名残が窓の外を染め、火照った頬に吹き込む風が心地よかった。
「レースってプレッシャーがあるじゃない。あれが苦手」
「トレーナーさん、勝負事とかあんまり得意じゃないですもんね」
「トレーナーなのに?」
勝負に弱いトレーナーって、それは致命的では……?
「いや、トレーナーさん、作戦立てる能力とかはあると思うよ。状況に沿って割り切りもできるし、開き直った時の勝負根性とかもあると思う。ただ根本的に、自分が勝負するのは苦手っていうか」
「グラスってそういうの大丈夫だよね。コツとかある?」
「簡単に言えば、覚悟でしょうか……?」
「出たわね」
「グラス先輩のは簡単じゃないんですよねえ。何かきっかけさえあれば、トレーナーさんもいけそうだけど。吹っ切れたら強いし」
「あとたぶん使い魔、初めてって状況に弱いでしょ。休みの時もあたふたしてたもんね」
さっきから、担当バたちが私より私に詳しい。確かに、イメトレだけはしてるけど、実際に走ってみるとまた違うはずだ。そしてその違和感は、おそらく致命傷になる。その違和感を埋めるには、何より実戦が必要なはずなのに……。
そして、次の日。今日は担当の3人ともが、それぞれどこかに出かけていた。朝から慌ただしく準備をし、何やら予定があるようで足早に出て行ったのを覚えている。そのため、練習後のトレーナー室には、私と――そして、同期(仮)の新入生ウマ娘の子の2人きりだった。
彼女は、私が留学生みたいな扱いで同期の枠から外れてしまった後も、変わらずに「お茶菓子とコーヒーを囲む会」を開いてくれている。気配りができて、空気を読みすぎるくらいの子。さすがに気が引けるのか、私の担当ウマ娘たちがいるときはトレーナー室には顔を出さないようにしているのだけれど――
……あ、でもこの前、スイープと話してたっけ。ジュースを美味しくする魔法がどうとか言ってた。ああ見えて、スイープは後輩に好かれるから。
今も、いつものように彼女はマグカップを両手で包み込むように持ち、困ったように眉を下げながら、私の話に耳を傾けてくれている。ほんの少し首を傾けるその姿勢に、誠実な気遣いが滲んでいた。そして、私たちが今、悩んでいることとは。
「ジャパンカップに向けて模擬レースでもしたいところなんだけど……メンバーがねえ」
「私もお手伝いできれば良いのですけれど……ちょっと一緒に走るのは……」
前提として、強力な逃げが最低1人、できれば2人、欲しい。それはほぼ必須条件だ。でも、イブンベイとホークスターは、それぞれが世界の頂点に近い。それに匹敵するような圧倒的な逃げなんて……。
「でしたら私でいかがでしょう」
「私もいます」
その声が、突然、開いた窓の外から響いてきた。驚いて振り向くと、そこには――ぴょこんと頭上で揺れる2対の耳。窓の下から顔をのぞかせていたのは、スズカ。そしてその隣には、無表情ながら静かな意志を宿した瞳のブルボン。
「なんで……?」
思わず呟いた私に、スズカが微笑んで答える。
「グラスちゃんから聞きました。以前お世話になりましたから、私でよければ、走りますよ」
その言葉とほぼ同時に、ガチャリとトレーナー室のドアが開いた。現れたのは、いつもの3人――担当のウマ娘たち。そして、さらに続けて、次々と何人ものウマ娘が部屋の中に入ってくる。
「むしろ、もっと早く呼んでいただきたかったですわね。そうすればもう少しいろいろと協力できましたのに」
優雅に言いながら入ってきたのはマックイーン。その後ろには、アヤベさん、テイオーの姿があった。
……これ、トレーナーさん会議に招集されてた子たちだ。スズカ以外。そして――あれ、エルがいない?
「ちょっと待ってください! ”世界最強”を目指すなら、エルの力が必要のはずデース!」
振り向くと、そのエルが、窓の外、スズカとブルボンの隣から身を乗り出していた。
「私を忘れてもらっちゃ困りマス! ていうか、なんでグラスは私に声を掛けないんデスか!? 部屋でトレーニングウエアに着替えて待っていたのに、普通にスルーして出て行かれたアタシの気持ち、わかりますかー!?」
「エル……」
「グラスが怪我で走れないなら、代わりに走るのはエルです!」
気がつけば、全員が机のまわりに椅子を引いて座っている。……あ。いつの間にか、さっきまでいた同期の子がいない。急に知らないウマ娘たちがたくさん押しかけてきて、驚いたのだろう。見事なまでのエスケープ。これはこれで彼女らしかった。
そして中央に、グラスがさらさらと書いた「第60回トレーナーさん会議」という題字が掲げられた。もはや開催回数は気にしないでいようと思う。聞いてみると、参加者全員が、私の事情について承知していた。グラスが説明してくれたらしい。でも、疑問。
「なんでみんなそんなにあっさり信じてるの……? 人がウマ娘になるっておかしいでしょ」
すると、顔を見合わせるみんな。
「いや、最初はボクもびっくりしたけど。ウマ娘のことしか考えてない人ってウマ娘になるんだ、って思ったよね」
やばい。テイオーの発想が私と全く一緒。その横で、うんうんと頷きながらタンホイザが口を開いた。
「いろんなところに首突っ込んでるから、そのうち変なことに巻き込まれそう、って思ってたし……ついに来たか、ってなりましたよねえ」
そして、盛大に溜息をつきながら、アヤベさん。
「帰ってきたはずなのに、いつ来ても席外してるって時点で怪しいから」
「トレーナーさんは目立ち過ぎなんですわ。内密に、ということでしたので……とりあえず、この話はここにいる者だけ、ということで」
「ここにいる者だけって言っても十分多くない?」
「さっき圧倒的な逃げが必要って言ってた……? それってターボのこと!?」
「たぶん違うと思うな~」
「なんで!?」
そして、デジタルがこそこそっと私の隣に寄ってきたかと思うと、ひそひそと私の耳元で囁いた。
「ということで、みんなで走ってみましょう。あたしも、邪魔にならないよう横で走ります」
「デジたん……」
……ジャパンカップまで、残り20日。
トレーナー
人間の友人が桐生院さんしかいないらしい
事実、失踪時にトレーナー室を訪ねてくる人間は皆無だった
その代わりウマ娘の友達がたくさんいる
グラス
合鍵はできれば自分から渡してほしかったけど、もらえたので良しとする
練習相手を確保する能力があるのでトレーナーには向いているらしい
ネイチャ
合鍵が他の2人にも渡ったのはちょっと微妙だけど、一番先に貰ったことに価値があると思っている
スイープ
合鍵を手に入れた
探し物があれば、魔法(物理)で引き出しの鍵くらい壊せそう
桐生院さん
研修の同室者が明らかに1人で生きていけなさそうなので放っておけなかった
間違いなくいい人ではある