世界を変えるのに、3分もいらない ―元トレーナー、現ウマ娘として走ってます―   作:うちっち

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「君だけが、見た世界」

 模擬レースを何度も走るうち、私とこの子のズレ、違和感は少しずつ薄れていった。

 ――けれど、代わりに新たな問題が浮上する。同化が進んでいるせいか、どうやらこの子と、痛みを共有するようになってしまったみたい。

 

 試しに左足で地面をぐっと踏みしめてみる。すると――胸の奥で誰かが転げ回る気配がした。「……!!」という悲鳴のような衝撃が、意識の内側を走り抜けていく。……ごめん。でもこれは、何とかしなきゃ。

 

 

 

 

 

「……おや? 君は……ほら、入るといい。座りたまえよ」

 

 タキオンの研究室を訪ねると、彼女は入口で振り返り、目を細めて私を迎え入れた。しかも、ふかふかの椅子を出してきてくれる。……私知ってる。これ実験台にしか勧めないやつだ。

 

 タキオンは私の正面に腰かけると、椅子をくるりと回転させ、再びこちらを向いた。その目に光る好奇心は、もはや隠すつもりすらない。よし、この展開は望むところ。光る薬でも何でも来い!

 

「さて。実は君、うちのモルモット君の同期トレーナーなんだって?」

 

「!?」

 

 思わず勢いよく立ち上がる私を、タキオンはニヤニヤしながら見上げた。同時に左足に電撃のような痛みが走り、心の中で「ひゃあああ!」という盛大な叫び声が響く。……あ、ごめん……。でも、どうして……?

 

 タキオンはそんな私の挙動を楽しげに観察しながら、ニヤニヤと笑みを深めた。

 

「そういう噂を耳にしたところに、学園を怪しい人間がうろついているとなればね。念のため彼らに自白剤を投与して確認したとも! 実に興味深いねえ!」

 

「……その人たち、どうなったの?」

 

「私がこれから行う実験の邪魔になりそうだから、記憶を消して放り出しておいた。途中で横取りされてもつまらないからね。まずかったかい?」

 

「100点だよ! ありがとう!」

 

 手を取って喜びを伝えると、タキオンは聖母のように優しく微笑んだ。まるで、貴重な実験体を目の前にしたマッドサイエンティストみたいな顔だった。

 

「ほらほら、貴重な体なんだ。まずは足を見せてくれたまえ」

 

 

 

 タキオンの研究室にはレントゲン設備やら生体スキャン装置やら、不可思議な装置が所狭しと並んでいた。どうして学園内の研究室にここまでの設備が整っているのか、今さら気にするのも野暮な気はする。

 

 

 

 足の状態を精密に調べた後、タキオンは検査表を前にボールペンをくるくると回しながら、眉根を寄せてカリカリと頭を掻いた。

 

「骨や腱に異常はない……か。信じがたいねえ。君、デビュー戦から6週連続で出走したんだろう? しかも後半は合宿に参加しながら」

 

「私、昔から丈夫なの。怪我もすぐ治るし」

 

 ――とは言ったものの、ここまで極端に頑丈だっただろうか。内心では、そんな疑念が微かに渦巻いた。

 

「そういえばモルモット君が言ってたな。君、研修で7日寝ずにレポート書いてたことがあったって?」

 

「ちょっと行き詰まっちゃったから。おかしい?」

 

「おかしいさ! おかしいか聞くこと自体が異常だよ!」

 

 そして、目を輝かせたタキオンから、本格的に調べてみたいという依頼をされた。なんだか嫌な予感しかしない……。

 

「……何かわかったら教えてくれるなら」

 

「いいとも。解剖すればもっとよくわかるだろうねえ。ということで、この献体同意書にサインを」

 

「ごめんそれは無理」

 

 その後、検査結果が出るまで、私とタキオンの間を献体同意書は何度も何度も往復した。まるで文通友達である。

 

 

 

 

 

 

 

「さて、君の元の細胞と今採取したサンプルを比べてみたが……ふぅン……」

 

「元の私のがなんであるのかは聞かないよ。それで?」

 

 タキオンは無造作に検査用紙を机の上に放り投げ、難しい顔のまま椅子にもたれた。彼女にしては珍しく、答えの出し方に納得がいっていないみたい。

 

「君は、元々おかしい」

 

「……おかしい?」

 

「今の君の頑丈さなんだが、元々おかしいものがさらにおかしくなった結果だ」

 

「まあ、治る分にはいいの……?」

 

「早く治るならその分、痛みも激しいはずなのだがねえ……」

 

 私は、なかなか足が治らないグラスの姿を思い出す。

 

 もし――いなくなってしまうのなら。マーチャンの言葉が脳裏に蘇った。せめて、痕を残す、か。……よし。

 

 

 

 タキオンが何やら思案顔でうつむいているあいだに、私は彼女の手元にあった献体同意書を手に取り、さらさらとサインを書き入れて差し出す。

 

 あれだけ書け書け言ってたのに、タキオンは驚いたような顔をして、私の顔と同意書を何度も見比べた。

 

「もし私が消えるってなっちゃったら、献体する。その代わり、1つ、お願いがあるの」

 

「……なら、確保できるよう整えておくとしよう。それで、なんだい?」

 

「怪我しにくくなれる方法がわかったら……みんなに使ってほしいの」

 

「君の担当に?」

 

「うん。あとできれば、他の子にも。そうすれば……いつも一緒に走ってる気がするから」

 

「そんなに量産化できないかもしれないねえ」

 

「できるよ。タキオンなら」

 

 タキオンは、手元の献体同意書をじっと見つめた後、どこか苦笑を浮かべながらぽつりと呟いた。

 

「モルモット君の言う通りだ。君も……なかなかに狂った目をしている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強い効き目だから食後に飲むように、と言い渡されて、私は無事に痛み止めをもらい、トレーナー室に戻った。

 

 薄暗くなった廊下をゆっくりと歩く。薬の入った小さな紙袋を手に持ったまま、無人のトレーナー室のドアを静かに開けると、そこには昼間と変わらない無機質な空間が広がっていた。机の上には先ほどまで広げていた資料やスケジュール表が散らばっている。その中に、鉛筆で書き込みされた何本ものラインが重なったラップタイムの記録。私はその紙を手に取ると、再び椅子に腰掛けた。

 

 さて、タキオンにああ言ったものの。私もオグリに勝つのを諦めた訳ではなかった。

 ……でも、どうすればいい? 痛いはずなのに文句を言う気配もないこの子を、できれば勝たせてあげたかった。

 

 

 

 

 蛍光灯の明かりがぼんやりと机の上を照らしている。私は資料をめくりながら、あらためてレースプランを練り直してみた。ページを繰るたび、手元から紙が擦れる音が静かに響く。しかし、結果は変わらなかった。持てるものはもう全て使っているのだから、当たり前だった。

 

 「勝つ気持ち」。ネイチャが言っていた、私に足りないもの。私にもそれが必要だということだろうか。でも、勝つための覚悟を持つためには、どうすればいいんだろう。

 

 胸の内に問いかけてみる。だって、違う世界に来るなんて、相当の覚悟がないと実現できないはずだから。勝ちたい、という気持ちだけでここに来たであろうこの子。

 

 

 

 ねえ、教えて? ……あなたは、どうしてそんなにオグリにこだわってるの?

 

 

 

 するとそれに答えるように、私の手が自然と机の上のペンを手に取った。つるりとしたボールペンの感触が、指先に伝わる。さらさら、と紙の上をペン先が滑り出す。まるで誰かに手を引かれるように、私の意思とは無関係に、軽快な音を立てて絵が描かれていく。

 

 意外に上手。あの不思議な動物と、牧場の人とおぼしき何人かが仲良く一緒に草原を走っている絵だ。青々とした草原、楽しげに跳ねる生き物、笑顔を浮かべた人々。その線には、曇りのない幸福が滲んでいた。平和な絵だった。

 

 でも……うん。あなたが牧場の人と仲良しだったのはわかるんだけど……今聞いてるのはそういうことじゃないというか……。

 

 

 

 私が絵を見て首をかしげていると、どうやら「伝わっていない」ということを理解したらしい。なんでわからないの、という感じで、足がバタバタと不満そうに地団駄を踏んだ。……あ。

 

 ビリビリと足に痛みが走り、ぐわあああ、という叫びが心の中に響き渡った。

 私は1つ理解する。この子たぶん、私と同じくらい忘れっぽい。

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー室を出ると、もう日が暮れようとしていた。夕焼けに染まる道を、私はそのまま家路につく。ふと見上げると、薄く浮いている雲と、全てが溶鉱炉のように赤く染まった空。全てが濃い赤に塗り潰された景色は幻想的で、同時に不吉な何かを告げているようにも思えた。

 

 

 そして、アパートの階段を上がり、玄関に鍵を差し込むと、軽い手ごたえが返ってきた。……鍵が、開いてる?

 

 わずかな違和感に眉を寄せながら、私はそっとドアを開けた。軋む音を立てて扉が開くと、玄関の先に広がるのは、しんと静まり返った暗い部屋。照明はついておらず、窓から差し込む街灯の淡い光だけが、ほんのわずかに室内の輪郭を浮かび上がらせていた。

 

 リビングの扉をそっと開けると、暗い部屋の中で、誰かが床に座り込んでいるのが見えた。日は既に落ちており、室内には窓から差し込む街灯の薄明かりだけ。電気くらいつけたらいいのに。目を細めてよく見てみると、そこにいるのはどうやらスイープだった。……でも、何してるの?

 

 スイープは小さく呟きながら、呆然と手元を見つめている。

 

 彼女の前には、壊れた引き出しがあった。私が魔導書をしまっておいた場所。無造作に飛び出した木片の奥、ひっくり返された本の山。その中で、白紙の魔導書が半ばむき出しのまま転がっている。

 

 どくん、と鼓動が高まる。胸の奥に、冷たいものが流れ込んでくる。

 

 ううん、まだ、大丈夫のはず。だって、見た目はただの白紙の本なんだから。

 

 

 

 その瞬間、スイープがその本にそっと触れた指先が震えているのが見えた。ページの端を、まるで焼けるようにゆっくりと撫でるようにして、彼女は小さく呟く。

 

「スイープ、来てたんだ。……どうしたの?」

 

 私が声をかけると、スイープはゆっくりとこちらに顔を向けた。その目の縁には涙が溜まっており、それが外の街灯の光をキラキラと反射した。まるで涙そのものが、何かの魔法で作られた宝石のように、光を集めて揺れていた。

 

 その瞬間、私は理解する。スイープは、この本がなんなのか知っている。

 

「アタシのせい……? 使い魔、消えちゃうの?」

 

「ううん、消えないよ。どうして?」

 

「だって、あの日図書館に来てたって聞いたもん。魔導書探しに行ったんでしょ」

 

 

 

 私が何と答えようか言葉を探していると、不意にスイープが抱き着いてくる。思いがけない強さで飛び込んできたその体は、いつもの気丈な彼女とはまるで別人のように、震えていた。

 

 背中に回された手が、そのままぎゅっと締まった。いつもよりずっと強い力だった。そして、いつもよりずっと、小さな声。

 

「連れてかないで……やだ。お願い……」

 

「スイープ……?」

 

「だってアタシの一番の使い魔は、アンタなんだから……」

 

 私は、抱き着いたままのスイープの頭をよしよしと撫でる。震える肩を、そっと包み込むように。スイープの前髪越しに見える頬に、涙の跡が細く光っていた。

 

 

 

 そして、私達2人は、しばらくそのままじっとした。温かい。その温度が、私が今まだここにいることの証だった。私はスイープの耳元でそっと囁く。

 

「私がもし……オグリに勝ったらさ。それって魔法みたいじゃない?」

 

「……え?」

 

「見てて。私も魔法が使えるってところ、見せてあげる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 勝ちたい。でも、材料はすべて使った。それでも届かない、じゃ終われない。何か、何かない?

 

 

 ……そうだ。

 まだ使っていないものが1つだけ、ある。

 

 

 ――私だ。

 だって、一番最初に併走した時も、この子と私が歩調を合わせたら置き去りにできたじゃない。あのグラスを。私はトレーナーで、舞台に送り出すところまでが、トレーナーの仕事だ。だけど、私は今はウマ娘。だから……。

 

 

 

 

 

 ――私も、舞台に立つんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日から、転ぶ時間が増えた。ただその代わり、この子と私の呼吸が合った時は、確実に前より早くなる。

 

 スタートラインに立つ前の、ほんの一瞬。深く息を吸って、私と、私の中にいる彼女が、同じ呼吸をする。その一拍だけで、私達は誰よりも速くなれる。

 

 模擬レースでの勝率は、ついに8割を超えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ジャパンカップ前日。3人と軽く併走して過ごし、汗を流した。秋の空気は冷たいが、身体の内側には熱がこもっていた。脚に伝わる地面の感触、芝の抵抗、風の切れ味。それらを確かめるように走る私に、3人はいつも通りの距離感で並んでくれる。

 

 練習の後は3人と一緒に、レースの作戦を練った。ごめんね、と謝ると、3人はそろって首を振る。

 

「構いません。いつもやってくださってたことですから」

 

「トレーナーさんを応援する側に回るのが新鮮っていうか。本番見てるだけなのが歯がゆいって気持ち、今ならアタシもちょっとわかるかも」

 

 静かな午後の日差しの下で、私たちは膝を突き合わせるようにして座っていた。グラスが膝にノートを置き、スイープが膝を抱えて横に並び、ネイチャがちょこんと座りながらメモを片手に話を聞いている。

 

 

 

 今の私も、きっと2分22秒2の壁は、破れる。ただ、私とこの子が一緒に走れるのは、10歩が限界だった。前よりは増えた、ということにはなる。ただ、心もとないというのが正直なところ。

 

 ……何が噛み合わないの? 勝ちたい、だけじゃ足りない……? でも、何が?

 

 

 

 

「最初の600メートルの予定タイム、本当にこれでいいんですか? 早すぎません?」

 

「これでも3番手になると思う。私がいるから、スタートのタイミングは取れるにしても」

 

「トレーナーさんスタート上手いの?」

 

「だいたい開くタイミングは分かるから」

 

 私も伊達にレース動画を見てない。みんなは目の前のゲートばかり見てるけど、実はスタートの合図をする係員の様子を見ていれば、いつゲートが開くかはほぼわかる。

 

「それで、第4コーナーで先頭、そのまま押し切り勝ち? 直線の長い東京でこれができたら横綱相撲よね。できたらだけど」

 

「問題はオグリさんですか……」

 

「私とこの子が一緒に走れば、多分それも大丈夫。オグリとグラスって、末脚ほとんど同じなんだよね」

 

「先行なのに差しのグラス先輩と一緒のスピード出せるあっちがおかしいんですって」

 

「まあ、細かい部分はレース中に調整するよ。……じゃあ、今日はこれまで! みんな、手伝ってくれてありがとう。そろそろ帰ろうか」

 

「ねえ、トレーナーさん」

 

 ネイチャが、後ろ手で何か隠したまま、すすす、とこちらに寄ってきた。そして、じゃん、と嬉しそうに取り出す。……カメラだった。

 

「その子、ジャパンカップが終わったら帰っちゃうんでしょ? なら一緒に写真撮らない? せっかくだしさ。トレーナーさんウマ娘記念、ってことで! 後で見返したらいい思い出になるかもだし!」

 

 

 

 

 用意のいいことに、ネイチャは三脚を持ってきていた。すでに組み立て方も慣れているらしく、数十秒でしっかりとセットを終えると、私たちを手招きして並ばせた。

 

 4人で並び、とりあえず1枚。顔を寄せ合い、シャッター音と共にカメラが光る。そのあとすぐ、ネイチャが背伸びして画像を確認しながら叫ぶ。

 

「いや、スイープ暗っ……笑顔0じゃん! どうしたの?」

 

「トレーナーさんも真顔ですね」

 

「だって普段写真撮らないから……どんな顔していいかよくわからなくて」

 

「いやでもこれはひどいって! 普段の感じでいいんだってば!」

 

 

 

 

 

 それから何度か撮り直したものの。主に私の笑顔が不自然だという理由で、ネイチャから却下され続ける。だんだん自分の笑顔に自信がなくなってくる私。……よし。こうなったら。この体の持ち主だったら自然に笑えるのでは。私の体じゃないから自然じゃないんだと思う。そう決めた。……いい? 出られる?

 

 

 

 私の合図に応じて、ぱたぱたと私の尻尾が左右に振れた。要はこんなものはゲートと同じなのだ。大事なのはタイミング。3、2、1。

 

「はい、じゃあテイク12!」

 

 カシャリ、と鳴り響いた音とともに撮られた1枚。そこに映る私は、輝かんばかりの満面の笑みを浮かべていた。キラキラという擬音が聞こえるくらい完璧な笑顔だった。そしてついでに隣のスイープに思いっきり抱き着いてる。驚いた表情で口を開こうとしているスイープと、私達を振り返って目を見開く横の2人の図。

 

「躍動感はありますね」

 

「いきなりすっごい笑顔じゃん。ていうか……!」

 

「なんで使い魔はいきなりアタシに抱き着いたの……!」

 

 あ、固まってたスイープが復活した。いや、落ち込んでるから元気づけようとしてくれたんだと思う。たぶんこの子、そういうところある。

 

 

 その後、15分の審議の結果、写真は無事OKが出た。

 

 

 

 

 そして、帰ろうと再度号令をかけたものの、なぜか誰も帰ろうとしない。部屋の空気は、さっきまでの熱気が嘘のように静まり返り、ほんの少し冷たい夜気が忍び込んでいる気がした。私は、部屋の片隅に目を向ける。

 

 スイープの様子が心配だった。彼女は背を向けたまま、椅子に腰かけ、じっと床を見つめていた。肩の力が抜けて、手は膝の上に置かれたまま動かない。あまりにも静かで、まるで時間が止まってしまったかのようだった。

 

 帰るのを見届けてから私も出ようと思っていたけれど、そのスイープは黙り込んだまま微動だにせず、まるで魂が抜け落ちたようだった。放っておくと、明日の朝までああしていそうだった。

 

 

 

 私は小さく息をついてから、そばに寄り、膝を折ってスイープと同じ目線にかがみ込む。暗い瞳が、ゆっくりとこちらを向いた。

 

「ねえ、スイープ。今日だけさ、ここで泊まっちゃおうか。仮眠室なら2人でもなんとかなるだろうし」

 

 言いながら、スイープの顔をじっと見つめる。彼女のまつ毛が小さく震えた。

 

「……え?」

 

 戸惑うような声に、私はふっと微笑んでみせる。

 

「フジキセキには私から伝えとくから。ね、そうしちゃおう。いいよね?」

 

 少し間があってから、こくり、とスイープが頷く。その様子を見届けて、私はそっとその手を取った。細くて、あたたかくて、少しだけ力がこもっていた。

 

 すると、不意に肩に誰かの手がぽんと載せられる。振り返ると、やれやれといった顔のネイチャがいた。

 

「トレーナーさん、アタシの許可もよろしく」

 

「私はもうヒシアマさんに許可をいただいていますから~」

 

 いつの間にかグラスも、当然のように会話に入ってくる。いや、でも……。

 

「……仮眠室、4人はしんどくない?」

 

「そこは『いいけど』って言ってほしかったなーネイチャさんは」

 

 

 

 

 

 結局、仮眠室で4人でぎゅうぎゅうに詰めて横になった。電気を消すと、蛍光灯の余熱がしばらく青白く天井を照らしていたが、それもすぐに消えて、本当の闇がやってきた。外の街灯の明かりがカーテンの隙間から細く漏れ、天井にゆらめく光の線を描いていた。

 

 そんな暗がりの中、私の右隣にいるスイープの呼吸がまだ浅い。さらにその向こうで、布団の上に転がっていたグラスとネイチャが、そっと体を起こす気配が伝わってくる。

 私は苦笑しながら、3人の方を振り向いた。

 

「寝られない?」

 

「……ええ」

 

「使い魔、何か話しなさいよ。面白かったら覚えててあげるから」

 

「しれっとハードル上げるのやめて」

 

 あ、でもスイープもちょっと復活したっぽい。話、話かぁ。

 

「私がトレーナーになろうとしたきっかけって、言ったっけ?」

 

「いいえ。どうしてだったんですか?」

 

「昔見た夢の続きが見られたらって、ずっと願ってただけ、なんだと思う」

 

「夢、ですか?」

 

 

 

 

 私が見た夢について3人に話した。ずっと昔に、見た夢。きっと、この子の来た場所と、私が昔に夢で見た景色は繋がっている。それがなんとなく、分かった。かつてあれほど「行きたい」と願った場所。

 

 誰も、何も言わなかった。やがて、グラスが歯切れ悪く口を開く。

 

「トレーナーさんは、今も夢見てるんですか? その……続きを」

 

「今は皆と夢を見る方が楽しいの。だから、行かない」

 

 暗闇の中でもわかるくらい、ほっとした空気が流れる。隣でグラスが少しだけ笑った。

 

「でも、なんだか不思議な話ですね。トレーナーさんの夢に出てきたのって、この子だったんでしょうか……」

 

「うーん……。なんだか毛色が違う気もするんだよねえ。金色に近かったような……」

 

 

 

 

 

 その後もしばらく4人で話していたけれど、やがて暗い部屋の中にはすーすーと寝息が聞こえ始めた。その中で、誰が言ったかわからなかったけれど、優しい声がそっと響く。

 

「本当に、お疲れさまでした。おやすみなさい、トレーナーさん。ゆっくり休んでください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、ジャパンカップ当日。

 

「じゃあ、行ってくるね」

 

「ゴールの先で、お待ちしています。ご武運を」

 

 そっと背を押してくれるようなグラスの言葉を背に受け、私はスタート地点へと歩を進めた。

 

 

 仄暗い地下通路をゆっくりと抜けていくと、視界が一気に開け、眩い光と芝の香りがなだれ込んできた。まるで違う世界に飛び出すように、私は静かにレース場へと足を踏み入れる。

 

 広大なターフの中央、他の出走ウマ娘たちは円陣のような隊列を組み、互いに掛け声をかけながら準備運動に励んでいた。ぴたりと揃った動きの中に、張り詰めた緊張感と、火花のような闘志が宿っている。

 

 タン、と体が軽く足踏みを1つ。「あとは任せて」という意思を感じ、私は体を明け渡した。

 

 

 

 

 「私」が一歩前に出た、その瞬間だった。

 

 円陣を組んでいた出走者たちが、一斉にこちらを振り返る。その目に驚きと警戒、そして本能的な怯えが浮かんだ。ピンと逆立つ尻尾の毛が、ざわりと空気を震わせる。

 

 ただ一人、円から外れて空を見上げていたオグリだけは、微動だにしなかった。

 

 風にたなびく前髪の隙間から、ゆっくりとこちらに視線を向けると、オグリは僅かに目を見張る。そして、なぜか——ほんの一瞬、嬉しそうに笑った。

 

 

 

 相手が万全だろうが、自分が足りなかろうが関係ない。問題は「今この場でどちらが強いか」……ただそれだけだ。

 

 そこまで考えて、「私」も自然と笑みを浮かべた。

 

 ――あの時のオグリも、そうだったのかもしれないな。

 

 

 

 空には雲ひとつなく、秋の光が静かにターフを照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あっという間に、発走時刻がやってくる。観客の声はこれまで通り聞こえない。耳元で唸るのは、ごうごうという風の音だけ。それがかえって、ありがたかった。

 

 ゲートがガシャンと開く。

 その一瞬、身体に走る軽い浮遊感。私の両脚は、反射のように大地を蹴っていた。土煙を巻き上げ、私は誰よりも速く飛び出す。緑の芝が連なって後ろへ流れていく。息を吸う暇もない。まばたきをしていたら、その隙に全てが遠ざかってしまいそうだった。

 

 先頭を飛ばすのはイブンベイ。そのすぐ背後にホークスター。そして、私はそのすぐ後ろ。風が裂ける音がごうごうと耳に刺さる。空気の壁を腕で押し分けるように、全身で突き進む。ごうごうと鳴るこの風の音は、走っているからなのか――それとも、なにかに呼ばれているからなのか。

 

 12.8、11.1、11.5、11.4、11.5。

 刻まれていく、狂気のラップタイム。

 脚はまだ止まらない。むしろ、加速している。肺が灼けるように熱い。

 

 

 

 3コーナーから4コーナーに差しかかった。遠心力に乗るように、より加速していく。

 そこで、イブンベイが落ちた。

 悔しさをにじませたその横顔が、ほんの一瞬、視界に入った。

 

 ――それでも、私は止まらない。

 

 彼女の背中を抜き去り、視界は一気に開ける。

 風の壁が、まるで割れた。

 先頭に立った。誰も、前にいない。

 

 

 

 

 

 体感だと、まだ2分過ぎ。世界記録から、2秒以上早い。ここから先の景色を見た者は、まだ歴史上、1人もいない。

 耳元でごうごうと響く風の音。

 今この瞬間、世界の一番先を走っているのは、間違いなく「私」だった。……いや。

 

 

 

 

 直線。

 背後の集団の奥から、ひときわ強い気配が浮かび上がる。

 

 オグリだ。

 

 姿を見なくてもわかる。後ろから迫りくる、これまで出会った誰よりも強大な、重圧のようなプレッシャー。まるで巨大な山が転がってくるような圧倒的な気配が、背中にびりびりと突き刺さる。

 

 あと200メートル。

 けれど、ゴール板はまだ遥か遠くに霞んでいる。

 

 この世の果てくらい、遠い気がした。

 

 

 

 勝ちたい。

 ただ、それだけを、心から願った。

 

 

 

 勝てるのなら——何もかも、全部、あげたって構わない。

 だから、お願い。

 

 

 

 

 その瞬間、すべてが変わる。

 

 視界が一気に開け、風も音も、すべてが遠のく。世界がゆっくりとスローに落ちていく。

 きっとこれが——この子の見ていた「世界」。

 

 自分のすべてを差し出さなければ、辿り着けない場所。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴール脇の観客席に、担当の3人の顔が見える。そろって泣きそうな顔をしていた。何か叫んでいるみたいだった。お願いだから、そんな顔しないで。見てて。

 

 ……勝ちたい。

 

 今まで生きてきて、こんなに誰かに勝ちたいと思ったのは、初めてだった。ここまでこの子に任せていた足の運びに合わせて、私も1歩を踏み出す。10歩しか使えない奥の手だ。しかし、今使わないと、負ける。

 

 ……勝ちたい!

 

 

 

 

 しかし、オグリの気配は背後からびたりと張りつき、離れる気配すら見せない。――このままじゃ、逃げ切れない。

 

 

 

 そして、あっという間に10歩目がやってくる。時間が引き伸ばされたような錯覚の中で、次を踏み出せば、間違いなく転ぶとわかっていた。――残り、100メートル。膝が震え、視界がぐらりと揺れる。それでも、「私」は前へと足を踏み出した。

 

 ……それは、どうして?

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 ――あのとき、勝った私を、牧場のみんなが誉めてくれた。

 そんな私たちに掛けられた声。万全だったら負けなかった。それを聞いて、みんなが悲しそうな顔を見せたのが、一番悔しかった。

 だから、私は。

 

 

 そんな顔する必要なんてないんだ、って。

 なんて言われても、いつでも私が勝つから心配しないで、って伝えたかった。そのために、違う空の下まで、私は来たんだ。

 だから、だから……!

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 脚はもう限界を迎えているはずなのに、魂だけがまだ走り続けようとしていた。

 

 

 

 

 ……今、理解できた。何が、足りなかったのか。

 

 勝ちたい、勝ちたい、勝ちたい。

 その気持ちはもちろん大切だ。でも、それだけじゃ、全部じゃない。

 

 3人が、他の子達が、この子が、一緒に走って、一緒に悩んでくれたから、今日がある。今だって、私とこの子だけで走ってるんじゃない。目には見えなくても、そこにいてくれる誰かがいるから、出せる力がある。そう信じられるから、前を向ける。

 

「ただ勝てばいいというものではないんです」

 

 そうだ。グラスの言う通りだった。勝ちたい、だけじゃない。

 

 

 

 

 

 

 ――キミと、勝ちたいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 11歩目、12歩目。今なら、この世の果てまででも走れる気がした。

 後ろから、オグリもほぼ同じ速度で突っ込んでくる。現役最強と言われるオグリ。彼女にも、背負っている何かがあるはずだ。

 

 内に私、外にオグリ。深緑の芝生の広がる広いコースは、まるでどこまでも広がる草原みたいで。変わらず耳元にはごうごうという風の音。

 

 今この場所には、私とオグリの2人しかいなかった。なぜか背中が燃えるように熱い。胸を突き上げてくる気持ちに、思わず涙が溢れそうになる。

 

 

 お願い、お願いだから。3人とも、泣かないで。

 だって、風の音が私を呼ぶんでしょ? なら、風の音以外に何も聞こえないってことは……まだ私はこの世界にいる、ってことなんだから――。

 

 

 

 

 

「オグリキャップ追う! ホーリックス逃げる! あと50メートル! オグリキャップ届かないか!? わずかに内か!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の瞬間、ほんのわずか、私がオグリより先にゴールに飛び込んだ。心の中で音が爆ぜた。空が揺れる。血の中が泡立つ。それが、全てだった。

 

 

 

 ゴールしてすぐに、脚がもつれる。崩れ落ちそうになりながらも、どうにか踏ん張る。その直後、ドドドド――という地鳴りのような観客の声援が、全身を包んだ。

 

 ……え?

 

 ……観客の、声……?

 

 

 

 

 

 ――風の音は、いつの間にか止んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胸が、痛い。

 内側から脈打つような痛みに、思わず手を押し当てた私は、その場に崩れるように座り込んだ。これまでになかった、異質な感覚――鋭くもなく、鈍くもなく、ただ確実に、私という存在を内側から切り崩していくような痛み。

 

 ……どうして? 勝った、のに。……もう、遅かったの……?

 

 

 

 

 

 視界の端にざわめきが走る。誰かが駆け寄ってくる気配を感じるよりも早く、パーカーを羽織った2人組が私の傍らにしゃがみ込んでいた。手慣れた様子で担架を差し入れられ、私はするりと乗せられる。

 

 オグリの声が、後方から響いてきた気がした。叫ぶような、必死な声。けれど、耳がうまく拾ってくれない。世界が遠ざかっていくような感覚に、思考すら霞んでいく。

 

 

 

 胸が、寒くなるほどに痛い。冷たい何かが、奥から滲み出るように全身へ広がっていく。それはまるで、私自身が少しずつ溶けて、世界に溶け込んでいくような――。

 

 

 その時、前方から、聞いたことのある声が聞こえる。

 

「さて。では、約束を守ってもらおうか。一応手は尽くしてみるがねえ」

 

 薄目を開けると、私を担架で運んでいるのは、どうやらタキオンとデジタルだった。

 

 「手は尽くす」。でも、なんとなく、わかった。これはもう……。

 

「トレーナーさん、聞×てくだ×い――×××××ん××……」

 

 声が歪む。デジタルの叫ぶような声が、ノイズ混じりのラジオのように、途切れ途切れに響く。白が視界を埋めていく。すべてがぼやけ、遠のいていく。

 

 

 誰かが私の手を取った。もう見えないけれど、その温かさには覚えがあった。デジタルの手だ。けれど、その手の温度も、まるで水に流されるように、するすると遠ざかっていく。あれだけ聞こえていた風の音も、今はもう、何も聞こえない。

 

「デジたん……?」

 

「××××!」

 

 意識が崩れていく。

 靄の中へ、ゆっくりと沈んでいくような感覚。

 

 消えたら、忘れられちゃうんだっけ……なら、いい? でも、もし……。

 

「もし、誰かが私のことを思い出したら。私は勝手に旅に出たから探す必要なんてないんだって、そう伝えてくれる? あと、みんなを担当できて、本当に幸せだったって。……ごめんね」

 

 最後に、知らない誰かがこちらを覗き込み、何かを言った気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、私は白い霧の中を、ぐいぐいと引っ張られながら歩いていた。いつの間にか、元の姿に戻っている。私の手を引くのは、ホーリックス――白い華奢なウマ娘。これまでずっと見慣れた「私」だった。

 

 

 「私」が見たことのある満面の笑顔を浮かべて振り向き、私の手を一生懸命に引っ張る。何を言いたいかはなんとなくわかった。「一緒に行こう」。

 

「ごめんね。……行けないの。お願いだから、帰してもらえない……?」

 

 駄目元でそう頼んでみると、そう言ってみると、「私」は困ったように眉を下げて、しばらく考え込んだ。「どうしよう」……とでも言いたげな沈黙。

 

 ……あれ? まさかこれ、ひょっとしていけるの……?

 

 

 

 

 やがて、「私」は渋々といった感じで頷いた。――「行っていいよ」。

 

「ありがとう……! じゃあ、手を離して?」

 

「……」

 

 すると、さっきより困った表情で、じっと「私」は繋がれている手を見た。ぶんぶん、と思いっきり振り回したり、ぐいぐいと引っ張ったり。やがて、途方に暮れたような顔で、私の方を見つめた。

 

「まさか、離せないの……?」

 

 ――「うん」という頷き。

 そうしているうちにも、どんどんと周囲の霧は濃くなっていく。目の前の「私」の姿もはっきりとは見えなくなるくらいに。……このままじゃ2人ともまずい、と私の本能が警鐘を鳴らす。でも、どうすれば……?

 

 

 

 

 そのとき、突然ぐいっと逆方向から強く腕を引っ張られる。まるで何かにいきなり弾き飛ばされたみたいだった。その勢いのあまりの強さに、私と「私」の手が一瞬で離される。

 

 「私」はこちらを見て、何かを言おうとする風に口を開いた。思わず私も叫ぶ。ありがとう? おめでとう? ……いや、違う! 

 

「私たち、やったよね!」

 

 すると、「私」はぐっとこぶしを握り、満面の笑顔で腕をこちらに突き出した。

 

 それが、私が最後に見たあの子の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は後ろを振り向く。……引っ張ってくれたのは、誰?

 

 

 霧の奥に、ほんの一瞬だけ、金色にも似た栗毛の長い髪が揺れた気がした。……グラス? 迎えに来てくれたの?

 

 私がそっとそちらへ手を伸ばすと――その瞬間、胸に鋭く何かがぶつかってきた。衝撃が背中まで突き抜ける。

 

「ごふっ……!」

 

 さらに、ばこんばこん! と胸のあたりを何度か乱暴に突かれた。

 そして、ガッと首根っこを掴まれ、ぽいっと放り投げられる。

 

 そのまま、嫌な浮遊感が全身を包み、私はどこまでも落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……はっ!」

 

 ぱちりと目を開けると、まず目に飛び込んできたのは、まばゆいほど白い天井だった。ぼやけた視界の中、天井の輪郭が次第に鮮明になっていく。視界が動くたび、どこかで機械の低い電子音が鳴っていた。

 

 そして――こちらを覗き込む、真っ赤な目のデジタルの顔が突然、ぐいっと視界いっぱいに迫ってきた。

 

 ……というか、いった! 痛い痛い痛い! なに!?

 

「……! トレーナーさん起きました! タキオンさん!」

 

「おや、お目覚めかい?」

 

 タキオンが、計測機器らしきものを片手に、無造作にこちらへ歩いてきた。彼女の足元で、床に置かれたケーブルがかすかに軋む。

 

 

 

 

「体がすっごく痛いんだけど……なにこれ……」

 

「いや、君、よく起きたね。心臓止まるところまでいってたのに」

 

 道理で、特に胸が痛い。枕元に目をやると、懐かしい黒髪が視界に入る。どうやら、元に戻れたらしい。私は大きく1つため息をつき、その瞬間に痛みに襲われる。……いった! これぜったい何本か折れてる……。

 

「体が元に戻ってしまう前に試しておきたいことが多すぎてね。おかげでいいデータが取れたよ。しかし君の体、どうなってるんだい? 姿が戻ったかと思うといきなり肋骨が折れたんだが」

 

 ようやく少し余裕が出て、私はあたりを見回す。ベッドの周囲には、どこか不気味に光る液体が詰まった点滴スタンドがいくつも立てられ、無造作に置かれたガラス瓶や試験管が乱雑に並んでいた。機械の唸るような音が、どこかの冷却装置から響いてくる。

 

 ここ、病院……じゃないよね……?

 

 

「レース場の使ってない部屋をそのぉ……勝手に改装させてもらったと言いますか……」

 

「そりゃそうさ。病院に行けば、君は回収されていただろうから。気づかなかったのかい? レース場にも調査の人間が何人もいたからねえ」

 

 そして、タキオンは部屋の奥へ歩き去ろうとして、思い直したかのようにひょいとこちらを振り返る。なぜか彼女は、あからさまに上機嫌だった。

 

「そういえば、面白いことが分かったよ」

 

 

 

 

 ……面白いこと?

 

 私が口を開きかけた、その瞬間――。

 部屋のドアが、バーン!! と盛大な音を立てて文字通り吹っ飛んだ。バキバキにへし折れた扉だったものが、床の上を音を立ててバウンドしながら転がっていく。いや、扉ってバウンドするの……?

 

「おや、もうバレたか」

 

「チームの方々も見張られてまして、お伝えができなかったんです。あたしどなたの連絡先も知りませんし……」

 

「トレーナーさん!」

 

 駆け寄ってくる3人。その先頭にいたグラスは、私の顔を見て、ほっと息をついた後。微笑んでいるような、はにかんだような、そんな不思議な表情をする。ただそれは今まで見たことがないくらいに透明で、どこまでも優しかった。

 

 そして彼女はすっと私の手を取り、ぎゅっと握りしめながら、私の目を覗き込む。

 

「――おかえりなさい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局、私は肋骨が5本折れてたとかで、その後1週間入院し、完治したので無事に退院した。

 見送ってくれた医者と看護師の皆さんは、揃って何か信じられないものを見る目を私に注いでいた気がする。

 

 

 今日練習に出ているのは、グラスとネイチャの2人のはず。スイープはお祖母ちゃんのところに行っている。何か宣言してきたいことがあるんだって。今日退院なんだから今日からトレーナー業に復帰しようと思ったんだけど、3人からすごく怖い目で見られたので私は明日に復帰予定。

 

 

 学園の正門から見えるトレセンのグラウンドは、午前の日差しを浴びて、芝が濃い緑に輝いていた。軽く走っている2人の姿が小さく見える。あのテンポは、メニュー表の基礎調整。しっかり守ってるあたり、さすがだ。私はフェンス越しに小さく手を振ってみたが、気づかれなかった。

 

 

 

 

 ――自分の部屋に戻り、私は軽く室内を見回す。

 室内は綺麗に掃除されていた。たぶんネイチャがやってくれたんだと思う。急に元の日常に戻ってきた気がして、私は大きく伸びをした。うん、完全復活。タキオンも言ってたもんね。私は元々おかしいって。でもこれって完全にメリットしかないんじゃない?

 

 

 

 

 さて、今日は完全にお休みだ。「何かしなきゃ」という、以前に感じていた追われるような感覚は、あのジャパンカップ以降、少し凪いでいた。きっと、色々と整理がついたのだと思う。その意味でも、たくさんの人に感謝しないといけない。

 

 

 

 入院中に買ったはいいけど読み切れなかった雑誌を、とりあえずパラパラとめくってみる。するとちょうど、この前のジャパンカップが特集されていた。ジャパンカップを勝って消えた海外ウマ娘、か。載っているのは、ゴール直後に「私」が空を見上げている写真だった。彼女が誰に勝利を報告していたのかを、今の私は知っている。

 

「さて、とりあえず、無事に戻って来れたし……」

 

 

 

 

 

 

 

 

⇒『……トレーナー室で、担当の子たちと話そう!』

 

 『そういえば、タキオンは何を言いかけてたの……?』

 

 『あれ? 何かメッセージが来てる?』




すごく長くなってしまったので、エピローグだけ分けます。
あと1話で終わりです。
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