世界を変えるのに、3分もいらない ―元トレーナー、現ウマ娘として走ってます―   作:うちっち

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「担当トレーナーは出張に行ったと聞かされてるはずなのに、アパートの前にネイチャがいます」

 さて、昼間、デジタルの話を聞いて思い出した。私ってば、ハンカチを借りっぱなしな気がする。

 

 というわけで、私は自宅へと久しぶりに舞い戻った。

 

 自宅――2階建ての木造アパート。白い外壁は日差しに焼けており、階段の踏み板には細かいひびが入っている。共用廊下の手すりはところどころ塗装が剥げているが、掃除は行き届いているようで、埃や落ち葉ひとつ見当たらない。静かで、余計なもののない建物だ。

 

 2階の端の部屋の前で足を止め、鍵を差し込む。カチリと音を立ててドアが開く。

 

 確かここに……あったあった。ハンカチを無事に回収し、室内を軽く見回す。床一面に資料の束が散乱し、読みかけの本やペンが転がっている。机の上にもノートとファイルが積み重なっていた。全然片付けていないが、私以外誰も来ないから問題はない。

 

 

 そのままベッドの上に倒れ込む。片手にハンカチを持ったまま、くしゃくしゃになった掛け布団を抱き寄せて、うつ伏せになった。クッション代わりの枕は潰れていて、顔が半分沈む。

 

 資料の紙が一枚、窓からの風にあおられて床を滑った。ページの端がペラリとめくれる音だけが、静かな部屋に響いた。

 

 

 

 ……そして、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けると、窓から見える空は、夕暮れのオレンジと夜の黒が入り混じった濃い紺色に染まりつつある。壁に掛けられた時計の針は、思っていたよりもずっと遅い時間を指していた。

 

 いけない。最近、休みが体に染みついてしまってるような……そろそろ帰らないと。

 

 

 

 慌ただしく立ち上がり、床の紙を踏まないように気をつけながら玄関へと向かった。そのままバタバタと玄関から出て、鍵を閉める。

 するとその瞬間、何やら後ろでバサッと何かが落ちる音が聞こえた。振り向くと、視界に入ってきたのは、アパートの廊下に落ちたビニール袋と、そこから転がり落ちたのか、散らばったいくつかの食材。そして、夕暮れの中、呆然と立ちすくむ、1人のウマ娘。

 

「どういうこと? トレーナーさんの家から、なんでアンタが出てくるの……?」

 

 ネイチャだった。

 

 

 

 

 

 「で、アンタはトレーナーさんとどういう関係?」

 

 ネイチャが手に持っていた買い物袋を地面に置き直し、両手を腰に当ててこちらを見上げてくる。夕暮れの光が共用廊下の床に斜めに差し込み、その影が2人の間に長く伸びていた。

 

 ……困った。家に入るなら、家族とか? ただ、私には姉も妹もいない。従妹にする? いや、私はたぶん親族にウマ娘がいたら嬉々として言ってるだろう。よって却下。親族以外で、家に出入りする関係って何……?

 

 私が沈黙している間、ネイチャの目がじわじわと鋭さを増していく。垂れかかった前髪のすきまから覗く視線は、まるで何かを試すような色を帯びていた。

 

「言えない関係なの?」

 

「……ただの友人です」

 

 風が抜け、買い物袋のビニールがカサカサと揺れる。

 

「いや、ただの友人が鍵持ってるのはおかしいでしょ」

 

 それはそう! そうなんだけど! ……そうだ!

 

 私の脳裏に、屋根を伝ってお互いの部屋を行き来する幼馴染の恋愛ものが思い浮かんだ。中学生の時に読んだやつ。あれは家が隣同士だったけど、幼馴染は鍵くらい持っててもいいと思う。私の読書歴*1がそう言っている。

 

「……で、どういう関係?」

 

「幼馴染です!」

 

「トレーナーさんの昔馴染みってこと!? いつから知り合いなの!?」

 

「生まれた時からですね」

 

「……なにそれ。アタシ、聞いてない」

 

 ネイチャが眉をひそめたまま、ちょっとだけ後ずさる。

 

 今生まれた設定だから、聞いてたら怖いよ。でも嘘じゃない。私と私は生まれた時から幼馴染。間違っちゃいないと思う。

 

 

 

 そして、私の手に視線を落としたネイチャは、しばらく沈黙した後、ぽつりとつぶやいた。

 

「鍵、持ってるんだ」

 

「言ったらくれましたよ」

 

「ふーん。へー。そう。…………なんで……!? アタシがどれだけ頼んでもくれなかったのに……!」

 

 夕焼けの茜色の中、ネイチャの顔がゆらぎ、目尻のあたりが小さく震えていた。奥歯を食いしばる音が、静かな廊下にかすかに響いた。

 

 ……ネ、ネイチャさん? 大丈夫? あと待って。鍵を渡さなかったのは確かにそう、でも私の家、散らかってるから。ほぼ学園に住んでるから、いいやと思って書類も床に放りっぱなしだし。掃除してくれるって絶対ネイチャは言うと思うんだけど、そんなの悪いし……。

 

「ってトレーナーさんが言ってました!」

 

 私がわたわたしながら説明すると、なぜかさらにネイチャの機嫌は急降下を見せた。あそこからもっと不機嫌になれるなんてすごい。でもなんで。納得できないところなんてあった?

 

「でも、アンタだけは……掃除を許されてるんだ?」

 

「まあ……むしろ私以外に誰がするのって感じです」

 

 いや、実際には全然してないけど。いちおう、いちおうね?

 

 

 

 すると、ネイチャは買い物袋からレタスが転がり出たことも気づかず、壁にもたれかかるようにして視線を落とした。睫毛の影が、頬に落ちる。そして、声がいっそう低くなる。

 

「ふーん……あっ、そう。……なんかごめんね? そんな場所にアタシごときが勝手に入り込もうとしちゃって、って……な、何よ、急に怒った顔して」

 

 ちょっと待った。なんて? 今、聞き捨てならない台詞が聞こえたんですけど。

 

「……ごとき、ってなに?」

 

「え?」

 

「私はね、ネイチャが誰よりもキラキラしてるからスカウトしたの! だからそんなこと言わないでよ! 私、何度でも言うからねこれ!」

 

「……んん?」

 

「……って! トレーナーさんが!! 言ってました!!!」

 

 その言葉に、ネイチャはしばらく固まっていた。落ちたレタスが風に揺れ、ゆっくりと袋の下で転がった。

 

 天井を見上げ、髪をかき上げる。そして、ひときわ大きなため息をひとつ。

 

「あー……さすが生まれた時からの知り合いだけあってよく似てたわ。そっか、幼馴染だもんね。今朝の練習場でも、ひょっとして、って思ったんだけどな……」

 

 共用廊下に、風の音と、遠くで鳴くカラスの声だけが残された。

 

 

 

 

 

 

 

「……ねえ。部屋、入っていい?」

 

「……散らかってますよ」

 

「それはもう聞きましたー。今更そんなことで幻滅しないし」

 

 ガチャリ、と閉めたばかりの鍵を開け、私とネイチャは部屋の中に入る。鉄製の玄関扉が軋んだ音を立て、乾いた音とともに開かれたその奥には、生活感のない無機質な空間が広がっていた。

 

 

 

 薄いグレーの床材には、所々に紙の束が散乱している。資料、雑誌、ウマ娘の写真入りのファイル……それらがまるで嵐の後のように、無秩序に広がっていた。壁際にはダンボールの箱が未開封のまま積まれており、その上にも資料が崩れるように積み重ねられている。

 

「ふーん……書類と本ばっかり……何もないじゃん。ほんとに趣味とかなかったの?」

 

 ネイチャがスニーカーを脱ぎながらぼそぼそと呟き、靴箱の脇をよけるようにして部屋の奥へと足を踏み入れる。歩くたび、床に散らばった紙がふわりと浮き、空気の流れに揺れた。

 

 ぶつぶつ言いながら進んでいたネイチャの足が、リビングの一角でぴたりと止まる。そこだけは、私の部屋の中でも、奇跡的に整頓されていた。

 

 

 

 棚の上に整然と並べられたのは、チーム3人分のぱかプチと、額に収められた写真。それぞれの勝利時の新聞記事が、ラミネートされて壁に貼られている。

 

 ネイチャは、再び深々とため息をついた。さっきの廊下でのため息を1としたら、今度のは10くらいの重みがあった。ただ、そこにどんな感情が込められているのかは、私にはよくわからなかった。

 

「バカ」

 

 一言だけ残し、ネイチャは視線をぱかプチから外し、台所へ歩き始める。すり足のような静かな足取りだったが、その動きには不思議と迷いがなかった。「ごめん、開けるね」と言って、冷蔵庫の取っ手に手をかけ、重たいドアを開くと、明かりのついた中を覗き込んだ。

 

「ほぼ中身は残ってないかー。ま、全然家に帰ってなかったみたいだもんね」

 

 

 

 小さく頷くと、ビニール袋から野菜や調味料を取り出し、淡々と調理を始める。トントン、という包丁の音が台所に規則的に響き、やがて鍋の中からは、コトコトと食材が煮える心地よい音が重なる。

 

 コンロ上に漂い始めた湯気は、少し湿った空気にのってリビングまで届き、部屋の空気を柔らかく包んでいく。

 

 手際よく次々と出来上がった料理は、小分けの容器に詰められ、冷蔵庫ではなく冷凍庫の方にしまわれていく。冷気が一瞬、白く部屋の中に漏れた。

 

「冷蔵庫のチェックに来てくれたんですか?」

 

「や、ほんとはトレーナーさんが帰ってきてたら、ネイチャさんがご飯作ってあげようって思っただけ」

 

「いないのに?」

 

「なんとなくね、近くにいる気がするの」

 

「……なんでですか?」

 

「メールの内容がね、どうも最近の状況に合いすぎてるというか……病気じゃないよ、って何度も言ってみたり、急に外の写真とか送ってきたりさ。普通、落ちてる石の写真なんていちいち撮ったりしないでしょ」

 

 確かに送った*2。入院疑惑を晴らすべく。あと石の写真を送ったのは、あんまり特徴的なのを撮ったらバレそうだったし……。

 

「実は出張に行ってないんじゃないかなって思ってる。トレーナーさんビビりだから、遠くからこっそり見たりしてそう」

 

 ごめん、至近距離で見てる。

 

「いや待てよ、単にアンタが報告してる可能性もあるのか」

 

 ネイチャが手を止め、横目でこちらを見た。片眉を上げたその顔は、どこか探るような色を帯びていた。

 

「私はトレーナーさんとメールする趣味はないですね」

 

「あ、そう」

 

 ネイチャから、じーっと見つめられる。「うん、嘘は言ってなさそう」。そりゃそうだ。私は私とメールしたりはしないから。

 

 

 

 再びまな板に向き合ったネイチャは、にんじんの皮を器用にくるくる剝きながら、私に向かって口を開いた。ただ、視線はじっと手元に注がれたまま。

 

「アンタさ、幼馴染なんでしょ? ……トレーナーさんのこと、好き?」

 

「いえあんまり。あの人、人間として駄目ですから」

 

 私が即答すると、ネイチャはぽかんとした表情を見せた後、嬉しそうに笑いだした。

 

「あはは……! いいね、今の。本音っぽい!」

「なんで嬉しそうなんですか?」

「いや、アタシ達、気が合わなさそうだなって思ってさ」

「それ嬉しいですか?」

「だってさ……ふふっ……!」

 

 その後、ネイチャはにんじんを全て剥き終わるまでの間、ずっと笑っていた。私たちは冷凍庫がパンパンになったのを見届けたあと、部屋を出て解散した。

 

 

 

 

 

 

 そして、ネイチャと別れてすぐ、メールが来た。えーっと、なになに……?

 

『たまたま通りがかったら、トレーナーさんの幼馴染と会ったから、部屋に入らせてもらってご飯作っといた。冷凍してるから、また帰ってきたらよかったら食べて』

 

『幼馴染がいたなら言ってよね。しかもめっちゃ可愛いウマ娘! 真っ白ですし。……で、いちおう確認なんだけど。あの子、トレーナーさんとどういう関係?』

 

 

 

 

 ネイチャ。どうしたのネイチャ。何度も言ったじゃない。私達、ただの幼馴染。なんでまた聞くの。

*1
ここ10年で2冊

*2
「ネイチャ見て!この石、阪神芝2200mのコースの形に似てる!」




トレーナー
 大胆なのか臆病なのかよくわからない性格
 「私以外に誰がこの部屋を掃除するの?」は聞きようによっては宣戦布告に取れなくもない


ホーリックス
 NZことニュージーランド代表馬。1989年ジャパンカップ覇者。その際に彼女が叩き出したワールドレコードはその後10年間、誰にも破られることはなかった
 寂しがり屋なので1人は苦手。鏡が大好き。


グラス
 顔見知りの新入りが手持ち無沙汰にしてたら併走しようと声をかけてくれる優しさがある
 でもそれはそれとして最近は薙刀の手入れをする時間が大幅に増えた


スイープ
 育成を通じてスキル「自制心」持ち
 でも物理を行使するのが好きなのは変わらない
 ちなみに彼女がチーム入りして以降、トレーナー室の家具を買い替える頻度は前年比3倍に増えている


ネイチャ
 トレーナーさん! 誰あの子!!
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