世界を変えるのに、3分もいらない ―元トレーナー、現ウマ娘として走ってます―   作:うちっち

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「デジタルと楽しく談笑してたはずなのに、気がついたら地面に正座してました」

 カフェから帰ってきた後、ハンカチを返そうとデジタルの部屋を訪ねたものの、彼女は留守だった。何かイベントにでも行っているのだろうか。まあ、明日でいいか。

 

 

 

 

 

 私は寮の部屋で資料を纏め終わり、うーんと思いっきり伸びをした。ボキボキ、と何やら物騒な音が背骨から響く。扉の外を、寮生同士が楽しそうに話しながら遠ざかっていくのが聞こえた。

 

 ……うん。明日も、忙しくなりそう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日。中庭の木陰には、すでにデジタルが立っていた。スマホをいじる手を止めてこちらに気づくと、満面の笑みで軽く手を振ってくれる。けれど――いつもより、ほんの少しだけ立ち位置が遠い気がした。

 

「ごめんなさいデジタルさん。ちょっと午前中バタバタしちゃってて遅くなりました」

 

「いえいえっ! お昼にしてくれって言ったのはあたしなので。それにしても、トレーナーさんにこんな可愛い幼馴染のウマ娘ちゃんがいたなんて! 白くてもふもふで可愛いが過ぎる……しゅき……」

 

 やばいデジたんめっちゃニコニコしてる。でもなんか、いつもよりちょっと距離が遠い。よそいきモードデジたん。……そうだ。知らない相手のお誘いに二つ返事で了解をくれる優しいデジタルに、私は何をしてしまったか。

 

「それよりデジタルさん、すみません! ……この前のことをまず謝りたくて」

 

「この前……?」

 

「トレーナー室に呼び出されて怒られて……。申し訳ありませんでした……」

 

「ああ! いえ、ウマ娘ちゃんに怒られるのはむしろご褒美というか……そういえば今日、グラスさんとネイチャさんが同じ件で謝りに来られましたよ。グラスさんの深々としたお辞儀、そりゃもう見事でした。あたしもつい内緒の話言っちゃいましたし……反省です」

 

 私はそう言うデジタルに、胸元に抱えていた紙袋をそっと差し出した。中には小さなお詫びの品と手紙が入っている。昨日、一晩かけて選んだものだ。

 

「これ、お詫びの品です。お納めください」

 

「なんであなたがくれるんです!? 貰えませんよ!」

 

 その時、私のポケットで電話が鳴った。あれ、たづなさんだ。珍しい……。ところが、電話に出てはみたものの、あんまりよく聞こえない。ていうか今日のたづなさん声小さ!

 

 

 そのとき、隣から、おずおずとデジタルがアドバイスをくれた。

 

「いや、スピーカーモードじゃないと聞こえませんよ……。だいたい電話機当てても、そこに耳ないじゃないですか。人間じゃないんですから」

 

「なるほど」

 

 確かに私は、人の耳の位置にスマホを当てようとしていた。言われて納得。私は「ちょっとすみません」とデジタルに断って数歩下がり、植え込みの陰でスピーカーモードに切り替えた。

 

 スピーカー越しに聞こえるたづなさんの声は、どこか慌てているようだった。

 

「もしもし、トレーナーさんですか? ちょっとこの後、理事長室においでいただけます?」

 

「えーっと。じゃあ、あと30分くらいしたら伺います」

 

 

 

 

 短いやりとりを終え、私は元いた場所に戻った。そして、ぴたりと足を止めた。

 

 デジタルが目を丸くし、口元に両手を当ててこちらを凝視していた。指先がわずかに震えている。

 

「……ちょっと待ってください。まさかあなた……トレーナーさん、なんですか……?」

 

「……断じて違います!」

 

 なぜ急に。ぶんぶんと首を振って否定する私。しかし、デジタルは首を振り、真剣な表情で口元に手を当てた。「古代の哲学者曰く……愛情とは愛されるより愛することに存する」とかメロンパン片手に突然言い出した時くらい、真面目な表情だった。

 

 ……まずい。こういう顔の時のデジタルは、けっこう的を射たことを言うのを私は知っていた。

 

 

「トレーナーさん、芦毛のウマ娘ちゃんをトレセン学園に来て初めて生で見た、って前言ってました。よって、あなたが幼馴染ということはあり得ません。そして、トレーナーさんが姿を消した代わりに現れた、明らかに体に慣れていないウマ娘ちゃん……」

 

 ……ほらぁ! ほら来た! 私は、本来人の耳がある場所を両手でさっと隠しながら弁明した。頑張れ私!

 

「違います、私の耳ちょっと特別で、人と同じ位置にもあるんです。進化論ってご存じですか? ほら、頭の上に耳があると、ヘッドホンとか使いにくいじゃないですか。そう思ったらある日いきなり顔の横からも突然生えてきたんです」

 

「ウマ娘をそんな怖い生物にしないでください。今さら隠しても遅すぎですし。そもそも、さっき『トレーナーさん』って電話で言われてましたよね。気を付けた方がいいです。あの距離だったら、耳のいいウマ娘なら聞こえますから」

 

「私、トレーナーになるのが夢で。知人にはみな私のことをトレーナーと呼ぶように強要しているんです。『おっす未来のチャンピオン』とかあるじゃないですか。あれと同じです。形から入る方なんです。それが何か?」

 

「そもそも、それ、トレーナーさんのケータイですよね? ちらっと見えましたけど、待ち受けがチームのウマ娘ちゃん3人ですし」

 

「……」

 

「すごい喋ってたのに急に黙りましたね」

 

 駄目だ。やばい。もう私頑張れない。私の言い訳スキルだとこれ以上無理。ここはもう、白状して味方に引きずり込むしかない……?

 

 

「……」

 

「……」

 

 「デジタルが突然記憶喪失になって今のことを全部忘れたりしてくれないかな」と期待を込めて見つめてみたものの、しばらく待っても一向にそんな事態は訪れる様子を見せなかった。……うん、やっぱりもう無理だ。

 

 

 私は覚悟を決め、うやうやしくお詫びの品を捧げ持った。

 

「デジたん。やっぱりこれ、受け取ってくれる? この前の尋問、100%私のせいだから」

 

「……え? マジで? マジでトレーナーさんなんですか?」

 

 ……いや、反応からしてこれ頑張ったら逃げ切れたかもしれない。今更だけども。

 

 

 

 

 

 デジタルは、そのまま私の手を引き、校舎裏の静かな空間へと連れ出した。生垣の向こうには風に揺れる木々と、遠くから聞こえる部活の掛け声。だけどここは、まるで別世界のように静まり返っていた。

 

 どうやら彼女の中では、「内緒話=校舎裏」という構図が完全に出来上がっているらしい。迷いなく、そこに連れてこられた私は、校舎の壁にもたれて立ち止まった。

 

 私はとりあえず、これまでの事情を一気に説明した。

 

 目覚めたらウマ娘になっていたこと。

 担当の子たちに余計な心配をかけたくないこと。

 だから、彼女たちには正体を伏せたままでいたいこと――。

 

 

 

 

 私がようやく話し終えたとき、彼女は少しの沈黙の後、天を仰いで長く息を吐いた。

 

「まーた面倒なことに巻き込まれてますね……」

 

「ごめんね。それで、デジたんにちょっとお願いがあるの」

 

「いいですよ! トレーナーさんが元に戻るためなら何でもお手伝いします!」

 

「ありがとう! じゃあ、明日の午後、ちょっと練習場に来てもらっていい? うちのチームの3人と坂路で併走してほしいんだ」

 

「もちろんです! ……ん?」

 

 そこでデジタルは、不思議そうに左右に首を捻った。

 

「それが、トレーナーさんが戻るのにどう関係あるんです?」

 

「3人とも、他のウマ娘との練習がちょっと足りないと思うの。デジたんにも練習を手伝ってほしいなって」

 

「……だから、それがトレーナーさんにどう関係あるんです?」

 

「私の担当の子の話だから、私に関係あるに決まってるじゃない」

 

 するとその瞬間、デジタルの笑顔がスンッと消えた。

 

 次の瞬間、大きくため息をついたかと思うと、スッと腕を伸ばして地面を指差した。

 

「トレーナーさん、ちょっとそこに座ってください」

 

「……どうしたの?」

 

「いいですから」

 

 言われた通り、その場に正座する。怒られそうな気配を感じたから。ちなみに私はいつでもどこでも即座に正座ができる。グラスとの付き合いで習得した特技だった。

 

 

 私が正座しながらデジタルを見上げると、彼女は腰に手を当て、こちらを覗き込んできた。

 

「姿、戻らなくていいんですか?」

 

「そりゃ戻れたらいいけど……それより優先したいことがあるっていうか。なかなか忙しくって」

 

「……ちょっといいですか? 午前中バタバタしたとか言ってましたけど、何してたんです? 当然、姿を戻す方法を調べたりしてたんですよね?」

 

「えー、朝一番でタキオンに併走を頼みに行ったでしょ、その後はスカーレットとウオッカに筋トレの手伝いしてもらう約束して、お昼前にはクリークに長距離走のコーチのお願いをしたかな」

 

「何も成長していない……」

 

 いや、だって練習場の出入り禁止さえ解かれれば、姿がどうでも正直やることは変わらないというか……。休みもなんかうやむやにできたし。それに、元に戻る方法は理事長が探してくれてるから、今は待つしかないというか……。

 

 

「にしてもタキオンさん、よく併走OKしてくれましたね」

 

「新開発したって薬を一気飲みしたら快く頷いてくれたよ。後でレポート書かなきゃ」

 

「……スカーレットさんとウオッカさんは?」

 

「ウオッカが後輩の面倒見いいから、新入生なのでアドバイスください! ってゴリ押しして。それをスカーレットの目の前でやったら、スカーレットも負けじと手伝ってくれるって」

 

「トレーニングの時だけそんな策略めぐらすの怖いんでやめてくれません? ……ちなみにクリークさんは……?」

 

「後でガラガラと哺乳瓶持って部屋に行ってくる」

 

「……うわぁ……で、あたしですか」

 

「デジたん、スカーレットとウオッカがなんだかんだ言いながら絡むの、至近距離で見たくない? 大義名分が手に入るよ?」

 

「……見たい……くそう……」

 

 無事、デジタルからもOKを貰った。たぶん1回勝てば私の姿は元に戻るから! たぶん! と説得し、なんとか納得してもらった。

 

 

 

 

「あと、私もさすがに理解した」

 

「というと?」

 

「私が仕事ばっかりしてると、どうしてかはよくわからないけど、担当の子たちはなんだか気になるみたいだって」

 

「今に至っても理由がよくわかってないのは致命的だと思いますが、トレーナーさんの進歩に、あたし涙が出そうです」

 

 デジタルは肩をすくめつつも、目尻に手を当てて泣くふりをして見せた。芝居がかっているのに、妙に板についている。

 

「でも、3人ともちゃんと見てあげたい、ってなったら時間がどうしても足りないのも事実」

 

「そりゃ普通は担当するウマ娘ちゃんは1人ですからね」

 

 デジタルが当然のことのように言い放つと、私はふっと笑った。

 

「そこで私はいいことを思い付いちゃったの」

 

 デジタルは眉をひそめ、間髪入れずに返してくる。

 

「……嫌な予感しかしませんが、なんですか?」

 

「私がこの姿に自由になれるように特訓して、私が休んでるときは謎の新入生がトレーニングの相手をしてくれたら、みんな安心すると思う。ひょっとしてこれ、神様がくれた私へのプレゼントなのかも」

 

 私は自分の頬をつまんで、ぺちぺちと叩いた。やわらかい。ちゃんとウマ娘の顔をしてる。この『変身』も、悪くない――と、ちょっと思ってしまった。

 

「フクキタルさんみたいなこと言い出しましたね*1……実質トレーナーさん休んでないじゃないですか」

 

「みんなが安心してくれたらそれはもう解決だよ」

 

「いつか死にますよ……」

 

 そこでいったん話は途切れ、私はデジタルから視線を外した。そのまま、なんとなく周りを見渡してみる。校舎の裏は暗くひんやりとしており、どこか草の匂いがした。

 

 

 

「それにしても、グラスがあんなに取り乱すとは思わなかった……」

 

 他の二人はまあ……びっくりしたり怒ったりしそうだなぁ、とは思ってたけど。私があんなに不安定なグラスを見たのは、今まで1度だけだ。グラスがずっと望んでいた、マルゼンスキーとの対戦が叶わなかった頃。

 

「グラスさんってトレーナーさんと一番付き合い長いんですよね。なら、トレーナーさんがどういう人か、誰よりもよく知ってるでしょうし」

 

「……どういう人か……? つまり、目立たなくて普通ってこと?」

 

「……前から思ってたんですけどトレーナーさんのその自己評価、どうなってるんですか?」

 

「私の同期トレーナー、濃いんだよね」

 

「どなたでしたっけ?」

 

「タキオン担当でしょ、それとヒシアケボノ担当、キング担当、オペラオー担当にあと桐生院さん」

 

「うわぁ……」

 

「だから同期の飲み会とかやばいよ? 1人が七色に光ってる横で、「俺はちゃんこ鍋になったんだ!」ってもう1人が興奮して喋ってるし、その向かいで私と桐生院さんにコールを仕込むキング担当とか。オペラオー担当は雨降ってくると「雨よやみたまえ!」って叫んで外に飛び出すし」

 

「50メートルくらい離れたところから見てみたいです」

 

「個人的にはタキオン担当がちょっと怖いの。目の色が……その、あんまり普通じゃないというか。だから、同期の中だと桐生院さんが一番普通で、二番目が私」

 

「傷つくと思って言いませんでしたけど、そのタキオンさん担当の人、トレーナーさんが同期で一番不気味だって言ってましたよ。目の奥が恐いんですって」

 

「心外! ……あ、ごめん。話ずれた。グラスが私をどう思ってるか、って話だったよね」

 

 私は軽く頭を振って会話を本筋に戻した。

 その瞬間、デジタルの表情が引き締まり、真面目な空気が戻ってくる。

 

「私の想像ですけどね。たぶん、怖いんですよ」

 

「怖い……? 私、別に怒ったりしないけど……? あとね、担当の子たちから、思ってた以上にメールが来るの」

 

「だから、怖いんですよ。トレーナーさんって、いついなくなってもおかしくないから」

 

「……どういうこと?」

 

「……わかりました。じゃあ説明するんで、ちょっとこっち来てもらっていいですか?」

 

 デジタルに手招きされ、校舎裏を少し移動し、私達は並んで腰を下ろした。……あ、ここ。前、私がデジタルに話を聞いてもらった場所だ。

 

 

 

 

「トレーナーさんがこの前、ここで泣いたとき、あたし、ちょっと嬉しかったんですよ」

 

 あの時と同じように空を見上げながら、デジタルが口を開いた。私もつられて視線を上に上げる。今日は、あの日と違って、空はどんよりと曇っていた。

 

「嬉しい?」

 

 少し首を傾げながら聞き返すと、デジタルは小さく息を吐いた。

 その表情は、言葉とは裏腹に、どこか切なげにさえ見えた。

 

 

 

「さっきご自分でも言ってたじゃないですか。トレーナーさんって、いっつも不満言わないし、泣かないし、怒ったりもしない」

 

「怒りはするよさすがに」

 

 苦笑しながら言い返すと、デジタルは少し顔を傾けたまま言葉を重ねる。

 

「あたしたちには見せないでしょう?」

 

「そりゃウマ娘には見せないよ。トレーナーだもん」

 

「だから意外だったんです。トレーナーさんなら、自分がもう不要だと思ったら、何も言わずふっと姿を消しちゃうイメージだったから」

 

「……うん」

 

 そうかも、って思えた。邪魔なら消えるだけだ。でも、あの時の私はそうしなかった。

 

「だから、よかった、って思いました。担当のウマ娘ちゃんたちといい関係作れてるんだなって。大切にしたいから、無くしたくないから泣いてるんだなって思って」

 

 デジタルはそこで言葉を切り、どこか寂しそうに笑いながら、こちらを振り返る。

 

「ですから、トレーナーさんが担当の子たちに黙ってることにしたのは、あたしはちょっと残念です」

 

「そっか」

 

「トレーナーさんが言わないって決めたこと、あたしは、間違ってると思います。だって、隣で担当としていられないんですよ? 寂しくないんですか?」

 

「そりゃ、寂しい、けど……これ以上、変なことでみんなの足引っ張りたくないから」

 

「言うのと言わないの、足引っ張るのはどっちなんですかねえ……」

 

 それに……たとえ私が少しの間、そばにいなくても。もう……みんなはきっとやっていける。

 

 

 

「だから、メールが来るの、許してあげてください。3人とも、ずっと怖かったはずです。トレーナーさんがいつかいなくなる日が来るんじゃないかって。なので、実際にいなくなったら……もう戻ってこない気がしちゃって、怖いんですよ、きっと」

 

「1度勝ったら、たぶん戻るよ。それにもうすぐ、ネイチャとスイープのレースがあるから。最前列で見て、応援しないと」

 

「あれ? 見るの怖いんじゃなかったんですか?」

 

「怖い、けど……見ないって選択肢はなかったなぁ」

 

 なんですかそれ、意味わかんないですね、と困ったように眉を下げて、デジタルは笑った。

 

 

 

「それでですね。もし、トレーナーさんも元に戻る方法を探したいって思ったら、連絡ください。協力しますから」

 

「え、でも……」

 

「……あたしは正直、1回勝てば戻るって見解には反対です。だって……普通なら起こらないことが起きてるんですよ? それを元に戻すなら、それなりの何かが求められるんじゃないかと、あたしは思います」

 

 そう言いきったデジタルの表情は、今日見た中で一番真剣だった。

 

 

 

 

 デジタルと別れたあと、私は理事長室に顔を出した。理事長は机に向かい、ポンポンと次々に書類にハンコを押しているところだった。見ていると、あっという間に書類が机の上に積み上がっていく。

 

「理事長、用事って何ですか?」

 

「おお、突然すまない! 用件なんだが……君がウマ娘になったことを、誰にも言わないでおいてくれるか?」

 

「…………どうしてですか?」

 

 私の脳裏に、デジタルが笑顔で両手をぶんぶん振る姿が浮かんだ。せめてあと1時間早く言って欲しかった。

 

 すると、そわそわとし出した私をよそに、理事長は真剣な顔で話し始めた。

 

「人がウマ娘に変わった例がこれまでなかったか、各所に照会したんだが……結論から言う、なかった」

 

 ……まあそうだろう。だって聞いたことないから。

 

 

 私がこくこくと頷くと、理事長は渋い顔をした。麦茶だと思って飲んだらめんつゆだった、みたいな、見事な渋面だった。どうしたんだろう。

 

「ただ、人をウマ娘化する研究というのは、今、力を入れている分野らしい。だから、ウマ娘化した人間というものに、どこも非常に興味を示している」

 

「えっと、つまり?」

 

 私が問い返すと、理事長の声が一段低くなった。

 背筋を伸ばしたその姿は、威厳さえ感じさせる。

 

「そういった者がいるなら、検体として提供してほしい、とざっくりとした依頼があった。というより、既に調査が入ってきていてな。もし知られれば、君は回収される可能性がある」

 

 私がホルマリン漬けにされて透明ケースの中にぷかぷかと浮かんでいる図が、明確に脳裏に浮かび上がった。尻尾がプルプル震えながら、腰にぎゅっと巻き付いてくる。

 

 あ、あれ、やばい……? だって調査が入ってるんでしょ? 最近いなくなった人をまず探すでしょ? グラスが言ってたじゃない。私は実は出張に行ってないみたいだって。どこが調査してるか知らないけど、さすがに調査能力学生以下ってことはないだろうから……。

 

 

「君と周囲の安全のためにも、言わない方がいい。特に担当のウマ娘達にはな。隠そうと思っても、秘密は自然と広まっていくものだ」

 

 私は再びこくこくと頷いた。さっきそれ、実感しました。

 

「内緒にします。誰にも言いません」

 

 ……これからは。

 

 私が内心で付け加えた後半部分が聞こえたのかのように、理事長はこちらをじっと覗き込んできた。

 

「厳守ッ! いいか! 近い間柄の相手であればあるほど危険だと、肝に命じておくといい!」

 

 

 

 

 

 理事長室から出てすぐ、グラスからメールが入った。『少しでいいので、お電話でお話できませんか?』私は少しだけ迷い、返信する。『ごめんね』。

 

 

 

 

 

 私は、それからも3人と一緒に練習した。3人は、たまにコース脇の土手へ目を向けて、寂しそうな表情を見せることはあったものの、毎日、一生懸命練習してくれた。私が練習の手伝いを手配できるようになったので、自主的に練習していた頃より、3人とも動きは良くなっていった。

 

 

 一方、3人からのメールは毎日送られてきた。内容は「アタシらは元気にやってます」とか「特に問題はありません。こちらのことは気にせずゆっくりしてくださいね」とか「バカ!」とか。比較的穏やかな内容のものが多かった。

 

 

 ……でも、気にかかることがある。実際には、3人とも、どこか元気がないように見えるのだ。しかし、声かけしても、メールで尋ねてみても、「大丈夫」という返事が返ってくるだけだった。

 

 

 

 

  そんなある日、練習後にグラスから私は呼び止められた。この姿に変わってから3週間目、私のデビュー戦が2日後に迫った日のことだった。

 

 坂路での調整を終え、クールダウンに向かおうとしていたとき、グラスがゆっくりとした足取りで近づいてきた。

 

「もし、トレーナーさんと会う機会があれば、手紙を書いたのでお渡しいただけますか? やはり、メールではどこか味気なくて。本当は電話したかったのですけれど」

 

  差し出された白い封筒は、縁の折り目がほんのわずかに擦り切れていた。表書きはないけれど、便箋の紙質からしてきちんと選ばれたものだとわかる。何度も折り直されたのか、封筒の端にはわずかなくせがついていた。

 

 受け取ろうと手を伸ばしたその瞬間、気づく。グラスは笑顔だった。しかし……。

 

「あの……グラスさんは、どうしてそんなに、怒ってるんですか」

 

 グラスの青い瞳の隠れた奥には、闘志が燃えていた。そしてそのまま、ニッコリと笑う。

 

「どうして、怒っていると?」

 

「目を見れば、分かります」

 

 ほんの一瞬、グラスの目がわずかに揺れた。だがすぐに、彼女はため息を吐き、静かに言葉を継いだ。

 

「あら……。そんなところまで、似ているんですね。……そうですね、怒っています」

 

 グラスはあっさりと認める。そして、続けた。

 

「あなたでなく、私自身に。絶対に譲りたくない部分に、至らなかった自分に」

 

 

 

「きっとトレーナーさんが居場所を表立って明らかにできない理由も、あるのでしょう。あの方が少しの間、この場にいられないとしても、私は、譲らないものは譲りません。ですが……どうして……!?」

 

 そこまで言って、彼女の肩が小さく揺れた。拳が固く握られていた。

 怒りが、涙に変わる直前の、刃のような鋭さを孕んでいた。

 

 けれど、その続きの言葉は発せられなかった。

 そして、小さく息を吐いたあと、手紙を私の手のひらに押し込み、そのまま無言で背を向けて去っていった。「どうして」――その続きは、ウマ娘になった今だからこそ、聞こえた。

 

 ――「どうして……あなただったんですか?」――

 

 

 

 

 トレーナー室に戻ったあと、グラスから手渡された手紙を開く。「私たちは元気です」「トレーナーさんは体壊されてないですか?」「こちらは特に変わりはないですよ」……メールとだいたい同じ内容が、丁寧な字でつらつらと書いてあった。変わりは……ない?

 

 

 グラスは自分の気持ちをあんまり表に出す子ではない。でも、決して揺れない訳じゃない。以前デジタルと交わした会話が頭に浮かぶ。……「怖いんですよ」。

 

 

 

 私は、トレーナー室を探してみた。もしかしたら、という予感があった。

 

 ガチャリ、と棚を開ける。

 すると、奥の方に押し込まれるようにして、紙屑の束が置かれていた。どれも小さく破られていて、丸められた跡がある。

 

 私は黙ってそれをテーブルの上に広げ、丁寧に広げていく。

 紙は一部濡れてシミになり、文字は滲んでいた。けれど、読めた。

 

 「寂しい」「帰ってきて」「会いたい」「今どこに」「どうして」――

 

 震えて、歪んで、感情を押し込めきれなかった筆跡。

 

 差し出された手紙よりも、遥かにたくさんの気持ちが、ここにあった。

 

 私はそれらをそっと両手で包み込んで、何も言わず棚に戻した。

 もしかしたら、私が読んだことすら、知られない方がいい気がした。

 

 

 「あたしは、1度勝って姿が戻るとは思えません」というデジタルの台詞が、耳の奥に甦る。

 

 

 ……1度勝って戻るなら、それでいい。

 でも、戻らなかった時のために、できることは、やっておきたかった。

 

 スマホを取り出し、通話履歴を辿って……私は一つの番号を選んだ。呼び出し音が鳴る前に、通話が繋がる。

 

 

 

 

 

 

「……デジたん? ごめん、今更なんだけど……やっぱり私、元に戻る方法をちゃんと探したい」

 

 

 

 

 

 

*1
マチカネフクキタルへの熱い風評被害




アグネスデジタル
カウンセラー兼アドバイザー
「一番先に秘密を打ち明けられた人」という盛大な死亡フラグを打ち立てる
正確には「おーす!みらいのチャンピオン!」では……? というツッコミは場の空気的に自重した
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