世界を変えるのに、3分もいらない ―元トレーナー、現ウマ娘として走ってます―   作:うちっち

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お昼に前話を投稿したので、本日2話目です。
未読の方はそちらからお読みください。


「デビュー前の子に並走で負けましたが、とりあえず現役最強バに挑戦状を叩きつけました」

「にしても、昨日のレース、よく勝ちましたね。あたし、トレーナーさんが転んだときはもうダメだと思いました」

 

 デジタルが再生しているレース動画には、私が向こう正面で見事にすっ転ぶ瞬間が映し出されていた。右下に小さく表示されている「16,525」という数字が何を意味するかは極力考えないようにしたい。

 

「なんだか、走ろうと思ったらよくないみたい。足が勝手に進むのに任せてたらいい感じ」

 

「そういうものですか……? まあ、レースで走ったのなんて初めてですもんね」

 

「風の音がすごくてびっくりしちゃった。他に何も聞こえなかったもん」

 

 レース中に耳元で鳴っていた、ごうごうとした風の音が、今もはっきり思い出せる。ところが、私の言葉を聞いたデジタルが、不思議そうに何度か首を捻った。

 

「……他に何も、聞こえない……?」

 

「どうしたの?」

 

「あたし、最初に走った時に何に一番驚いたかって、お客さんの声援の大きさにでした。まるで地響きみたいで。ゴールに近づくにつれてどんどん大きくなって」

 

「……確かに、スタートするまでは聞こえてたけど……」

 

「足音とかは? あれも結構響きますけど」

 

「それも全然」

 

 デジタルは今度もまた首をかしげたが、「人によって違うのかもしれませんね」と結論を出した。

 

 

 

「これで行き詰まっちゃいましたね。あと手がかりになりそうなのは、スイープさんの話ですか」

 

「使ったらこの世からいなくなっちゃう魔導書、って言ってたっけ」

 

「でも、トレーナーさん、いますもんねえ」

 

 私達は顔を見合わせる。結局、何も解決していない。わからないことが増えるばかりだった。

 

「あ、けど、誰に勝てばいいのかはわかったかも」

 

「……どういうことですか?」

 

「走った後、レース場で、たまたま映像が流れたの」

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 レースを終えた私は、観客席の芝生に腰を下ろし、汗で重くなった制服の背を仰向けに預ける。芝生の青さはまだ夏の名残を映していて、微かに土の匂いを運んでくる。空は高く抜け、雲が遠くでゆっくりと右から左へと流れていくのが見える。……戻らなかった、かぁ。

 喉の奥に苦いものを感じながら、つい小さくこぼしてしまう。

 

「勝ちたい、って言ってたと思うんだけどなぁ」

 

 ポケットからスマホを取り出し、乱れた指先で再生ボタンを押す。小さな画面に、さっきの自分が映る。映像の中の私は、手足をやたらにバタバタさせながら必死に走っていた。芝を蹴り上げるたびに泥が飛び散り、息の荒さまで伝わってくる。

 

 グラスとスイープ、ネイチャの3人が背後から覗き込み、画面を覗き込む顔が重なる。額にかかった前髪が揺れ、影が私の手元に落ちる。

 

「水に落ちた猫みたい。これでよく走れるわ。ある意味器用よね」

 

「でも、トレーナーさんが最後まで一生懸命走ってたのは伝わってきましたって!」

 

 茶化すような声と、真剣に言葉を重ねる声。両方が耳に届き、胸の奥で熱と冷たさがせめぎ合った。

 

『――今年のGⅠ戦線!』

 

 その時、場内に大きな放送が流れ、ターフビジョンの画面が切り替わる。ざわめきが広がり、観客が一斉に視線を上げる気配が背中に押し寄せる。私もつられるように顔を上げた。

 鮮やかな映像に、トレセン学園の最新ニュースが次々と映し出される。馬群を駆ける姿、勝利の瞬間、喝采に包まれるウマ娘たち。

 

『……続いては、昨年の有馬記念でタマモクロスを下したあのウマ娘が、秋に向けて始動です! 特にマイル・中距離戦において絶対的な強さを誇る彼女! 勝てるウマ娘は、果たして存在するのでしょうか!?』

 

 ざわっと全身の毛が逆立つのが分かった。背筋をなぞる寒気にも似た感覚が走り、私は思わず画面に釘付けになる。理由は分からない。ただ、直感だけは確かだった。

 

 

 

 

『……現役最強ウマ娘! オグリキャップ!』

 

 

 

 

 場内にその名が響いた瞬間、拍手と歓声が渦を巻き、空気が震える。そして、私はいつの間にか立ち上がり、ただひとつの事実を理解した。

 

 ――「私」は。あの子に勝つために、ここに来たんだ。

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

「オグリさんに勝つ? 無理ゲーじゃないですか」

 

「だよねえ」

 

「……ウマ娘ちゃんのままで過ごす覚悟、決めておいた方がいいかもしれませんね……」

 

 私とデジタルは、困った顔を見合わせた。

 

 しーん、と重い沈黙が私たちの間をしばらく流れる。やがて、話題を変えようとしてくれたのか、デジタルがポン! と手を叩き、「あ、そういえば」と言い出した。

 

「昨日の足痛めてたウマ娘ちゃん、あの場所に来たんですか?」

 

「来たよ。やっぱり新入生なんだって。『同期ですね』って嬉しそうに言われて、すっごく申し訳なかった」

 

 まさか私の新入生設定がこんなところで足を引っ張るとは。というか、このままジュニア扱いだとオグリと一緒のレースなんて走れないので、あとで理事長に何とかしてもらおう。海外帰りだから、みたいな感じで。うん。

 

「トレーナーさんの見立てだと、悩んでそうってことでしたが、聞けました?」

 

「選抜レースで最下位だったんだって。トレーナー室で映像見たけど、気迫のこもった走りはしてたから、あとは自信かなぁ。ということで、友達になった記念に走ろうって誘って、さっき並走してきた」

 

「どうでした?」

 

「本気で走ったのにギリギリ負けたよ」

 

「選抜レース最下位の子に僅差で負けるのに、現役最強に喧嘩売るつもりなの、トレーナーさんらしくてあたしは好きですね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 デジタルと別れた後。夕暮れに傾いた校舎の影を横切り、私は足早にトレーナー室への道を進んでいた。行き交う生徒たちの靴音が石畳にこだまし、街路樹の葉が西日を透かして黄金色に光る。

 

 そのとき、前方からひとりのウマ娘が歩いてきた。王冠を斜めにかぶり、小柄で不思議な雰囲気を漂わせている。彼女は立ち止まり、こちらに向かってぺこりと丁寧に頭を下げた。

 

「スイープさんのところの人ですね。こんにちは、アストンマーチャンです」

 

 控えめながらも確かな声。私は足を止め、思い出す。

 

「ウオッカとスカーレットと練習してた時に、練習場で遠くから見ててくれてたよね」

「ありがとうございます。マーちゃんを覚えてくれているんですね」

「前、スイープと一緒にプリファイ見てたしね。それで、どうしたの?」

 

 問いかけると、彼女は一瞬遠くを見るような目をして、口を開いた。

 

「波の音が、聞こえますか?」

「……波?」

 

 唐突すぎて意味がつかめない。初対面に近い相手から投げられる話題としては異質で、私は内心少し困惑する。

 

「みんな最後は海に行くものです。でも、こんなにも呼ばれている誰かを、マーちゃん以外に初めて見ましたので」

 

「呼ばれてるって、誰に?」

 

「海にです」

 

「……??」

 

 耳を澄ます。風が吹き抜ける「ゴーッ」という低い音が鼓膜を震わせる。レースで走ったとき、耳に届いた音にもどこか似ていた。けれど、それは風の唸りであって、波ではない。海なんて近くにないもの。

 

「やっぱり聞こえない。ごめんね」

 

「そうですか」

 

 マーチャンはずっと微笑んでおり、何を考えているかが読みにくい。感情を押し隠しているのか、それとも最初から淡々としているのか。ただ、期待して尋ねてきたのだろうに、応えられなかったことが申し訳なく思える。

 

「今日は風が強いからかな」

 

「……風?」

 

 マーチャンの瞳がわずかに見開かれる。胸の奥で、なぜかひやりとした感覚が広がった。

 

「そういう人もいるのですね」

「ごめん、ちょっと話がよく……」

「振り向いてみてください」

 

 促されるまま後ろを振り返る。そこには行き交う生徒たちと、端に並ぶ街路樹。いつも通りの光景があるだけで、特別な変化は見えない。

 

「木は、揺れていますか?」

「ううん」

「さっきから同じです」

 

 そして――。

 

「ずっと……風なんて、吹いていませんよ?」

 

 息をのんで前に向き直ると、もう彼女の姿はそこにはなかった。

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 遠い、夢を見た。青い草原の広がる、どこかの牧場の夢だった。

 私が生まれたそこを風が吹き抜けるたび、草木が波打ち、ごうごうという音が響く。私は毎日、起伏のある丘を駆け回った。昼の光は鈍く、でも確かに地面を温め、土の匂いが足裏に残る。そんな中、たまに、レースに出たり、そんな生活を繰り返す。

 

 そして、どれくらいレースで走ったかも分からなくなってきたある日、私は、遠い異国に飛んだ。その国で、最も強い誰かを決めるレースがあるのだと、いつもお世話をしてくれる人は、嬉しそうに話していた。

 

 一緒に走る相手の中に、私と同じ、灰色の毛並みの者がいた。一目見て、強いことはすぐにわかった。

 

 レースでは、僅差で、私が勝った。

 

 電光掲示板に表示される、2分22秒2というタイム。

 

 観客から囁かれる「もし、オグリがマイルチャンピオンシップからの連闘じゃなければ……」という言葉。意味は分からないけど、それが勝負に納得いかない声だということだけは、よくわかった。だから……だから、私は。

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 ――目を開ける。

 

 いつの間にか、私はトレーナー室の奥の仮眠室で、ベッドに横になっていた。いや、そういえば、さっきマーチャンと別れた後、ここにやってきたような気がする。そして……。

 

 今のは、現実? それとも、夢……? 上半身を起こし、ゆっくりと視線を下ろすと、ふわふわの銀色の髪がベッドの上に広がっているのが目に入った。……こっちが現実、か。

 

 

 

 私は、ため息をついて、ベッドから降りる。

 

 ……思い出した。今の夢のおかげかは分からないけれど。

 

 あの日スイープがしていた、この世のどこからもいなくなる魔導書の話。確かに私は、図書館で、おかしな本を見た。そして……。

 

 

 

 

 トレーナー室に行き、本棚を探してみると、確かにあの時、図書館から借りてきた本が出てきた。タイトルは……『世界を変えるのに、3分もいらない』。ただ、私の記憶と違い、中身は全て、白紙だった。

 

 本の表紙を手のひらでなぞると、ざらついた紙の感触が指先に残る。表紙の文字は少し掠れ、頁をめくると紙の匂いがふんわり立ち上る。だが、中は本当に空白で、指先が白い面を滑るだけだった。ページをめくるたびに心臓が小さく揺れ、背中に冷たい感触が走る。

 

 

 

 

 そのままトレーナー室を飛び出し、学園の門を走り抜けた。南へ。あの神社に行けば、何かわかるかもしれない。

 

 石畳を踏む足音が乾いて反響し、遠くで生徒たちの笑い声が崩れる。胸の鼓動は早く、手のひらはほんの少し湿る。街の空気がいつもより重く感じられ、視界の端に見える景色がほんの少し歪んでいるような気がした。

 

 ところが、神社があった場所に近づくにつれ、どこか違和感が強くなった。あの神社に行くには階段を上ったはずだから、高台にあるはずなのに、一向にそれらしきものが、見えてこないのだ。

 

 

 

 ――やがて、私の足が止まる。

 

 

 

 

 神社があったはずの場所には、空き地が広がっていた。雑草がまばらに生え、風でかすかに揺れる。以前は鳥居が立ち、石段が重なっていた場所は、今は地面が平らに広がるだけで、空に抜ける見晴らしが開いている。

 

 

 

 私がこの姿になった日に、目を覚ました空き地だった。

 

 

 

 

 

 

 

 トレーナー室に戻り、私は本の表紙にそっと手を滑らせる。……間違いない。これが原因だ。

 

 明らかに異質な何か。あからさまに魔法関係っぽいから、参考に話を聞くとすればスイープになるんだろうけど……でも、あの子には、この話はしない方がいい気がする。けど他に、魔法に詳しそうな人なんて……。

 

 

 

 

『……なりたいもの? 当然、グランマみたいな大魔法使いになるのが夢よ!』

 

 

 

 

 私は、ケータイを手に取った。

 

 

 

 画面の照り返しが暗い部屋に小さな光を落とし、指先が伝える冷たさに現実感が戻る。連絡先帳をスクロールして、躊躇いながらもそっと指を滑らせる。呼び出し音が数回鳴り、やがて受話器の向こうから懐かしい声が返ってきた。

 

「状況はあの子から聞いています。なかなか大変ですね」

 

 さっそく、魔法の本の話を聞いてもらう。仮に、という前提で、一通り全てを。

 

 すると、スイープのお祖母さんは、考え込みながらも、自分の意見を述べてくれた。

 一番引っかかるのは、本の通りに呪文を唱えたはずなのに、結果が伴っていないことだという。

 

「何か、おかしなことはありませんでしたか?」

「全部といえば全部おかしいんですけれど……」

「そういう意味ではありません。儀式の手順を守らなかった、用意すべきものを用意しなかった、そういう不備がなかったかを尋ねています」

 

 私は、記憶をもう1度、おさらいした。……儀式のとき? 何か、あったっけ……?

 

「……そういえば、呪文の順番を変えました。1節だけ、唱え忘れてしまって」

「どうやら、それですね」

 

 呪文を間違えると、作用がおかしくなるのだという。だから、私は消えずに、まだここにいる。本来なら、中身もそっくり入れ替わる、そういう儀式だった可能性が高いそうだ。そういう意味では、間違えて助かった、ということになる。

 

 それでも、結果は少しずつ、着実に訪れるらしい。……結果。つまり、この世から、いなくなる。

 

 

 

 それを聞いた瞬間、私はこの話をスイープにしなかったさっきの自分に、心の底から感謝した。きっとあの子は、他人の分まで責任を感じてしまうから。

 

 この世のものではない者を呼ぶには、代わりに何かを差し出さないといけない。今回だと、それが私という存在のはずだった。そして、呼んだ者を戻すためには、その望みを叶える必要があるという。

 

 望みとは、何か。それも明白だった。……『勝ちたい』。オグリに。現役最強ウマ娘である、彼女に。

 

 

 

 お礼を言って、電話を切る。最後に、くれぐれもスイープには今の話を内緒にするよう、お願いしてから。

 

 

 

 

 風の音が耳元でごうごうと吹き抜ける。本当に吹いているのかどうかすら、わからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 それから、もう1つの手がかりであるマーチャンを探して、私は学園中を駆け回った。石畳を打つ靴音が忙しなく響き、渡り廊下を渡るたびに吹き込む風が汗ばんだ頬を冷やす。芝生の片隅でしゃがみ込み、地面に向かって何か話しかけている小さな影が目に入る。マーチャンだ。私は息を切らせて駆け寄った。

 

「……さっき話してくれた、海、ってなに?」

 

「海は、海なのです」

 

「しょっぱい、波があるあれ?」

 

「はい」

 

 じゃあ、私のはまた違うの……? 夢で見た、風に揺れる青い草原は、どこか海のようにも見えたから。

 

「海に行くって、どういう意味?」

 

「……」

 

 マーチャンは小首をかしげ、やわらかな笑みを浮かべてこちらを見返す。けれど、答えようとはしない。その仕草は、まるで秘密を抱えた子どものようだった。

 

「海に行かないためには、どうすればいいの?」

 

「川が流れるように、海に行くのは止められません。それが普通なのです。みんな一緒です」

 

「あなたも?」

 

「……」

 

 風が芝を揺らし、緑の影がさざめいた。彼女の答えは沈黙だった。

 

「レースで走るまでは、全然見えなかったし、聞こえなかったの。どうして急に……」

 

「大きな流れに乗ってしまえば、あとは海まで流されるだけです。きっと、あなたのきっかけは、『レースで走る』ということだったんでしょう」

 

 そこでマーチャンは立ち上がり、スカートをぱっぱっと軽く払った。

 

「さて、マーちゃんはウルトラスーパーマスコットになるため、広報活動に行ってきます。これからも、わたしのこと、覚えていてくださいね。わたしも覚えていますから」

 

「海に行くと、忘れられちゃう?」

 

「ええ。そういうものなのです」

 

「それは、寂しいね」

 

「だから」

 

「?」

 

「だから、痕を残すのです。絶対に、消えない痕を」

 

 

 目を閉じたつもりはなかったのに、次の瞬間、彼女は通りの向こうに消えた。行きかう生徒たちの向こうに、小さな王冠をかぶった後姿だけが、ちらりと見えた気がした。

 

 

 

 

 

 マーチャンとの会話を終えた私は、食堂に行ってみることにした。1つ、確認したいことがあったから。ガラス扉を押して中を覗くと、賑わいのざわめきと食器が触れ合う高い音が押し寄せる。視線を巡らせれば、予想通り、山盛りの料理皿が積まれたテーブルが目に入った。……いた。オグリ。

 

 ところが、幸せそうに料理を口に運んでいたオグリは、私の姿を認めると、なぜか食べるのをぴたりと止めた。ざわざわ、と周囲が揺れる。私もちょっと動揺した。あのオグリが、途中で食べるのを止めるなんて。

 

「キミは……?」

 

 つかつかつか、と私の足が勝手に進み、オグリの真ん前までやってくる。そして、びしり、と私の人差し指がオグリに向けられた。うわ、宣戦布告。

 

 同時に、どよどよとどよめく周囲。「あれ誰?」「この前レースで転んでた子だ」と囁きあう声が聞こえる。即刻回れ右して帰りたくなる私。

 

 でもなんだか胸の奥が、燃えるように熱い。グラス風に言うと、「運命的な何かを感じます」って感じ。それはオグリも同じなのか、そっと自分の胸を押さえた。

 

「……なんだ? キミとは初めて会った気がしないな……」

 

「聞いておきたいことがあります」

 

 そのまま、オグリに、今年のローテを聞いたところ、素直に教えてくれた。秋から、今まで誰もやったことのないローテを組む、とだけ言われているという。

 

 ……つまり、夢の通りなのだろう。11月3週目のマイルチャンピオンシップから、翌週のジャパンカップへ。なんというか、無茶するなぁという感想しかない。私はお礼を言って、その場を後にした。

 

 背中に視線を感じた。呼び止められた気もしたが、振り向く余裕はなかった。

 

 

 

 ……私は今、空の向こうに呼ばれている。もし私がいなくなったら、みんながどれだけ動揺するかは知っている。あんなことをまた起こすなんて、耐えられない。何としても避けたい。でも、どうすればいいの……?

 

 トレーナー室に戻り、部屋の隅で膝を抱える。ぐるぐると考えが巡り、答えはまとまらない。静かな空間の奥から、ごうごうと風の音が忍び込んできた。思わず耳をふさぐ。

 

 

 するとそのとき、私の体が勝手に起き上がった。そして、とてて、と鏡の前まで歩いていく。ピンクがかった銀色の髪に、同じ色の瞳。少し癖っ毛の、腰のあたりまで伸びたロングヘアー。頭の上から飛び出している、ぴょこぴょこと動く耳。最近見慣れた、「私」が鏡の向こうから、こちらをじっと見つめている。

 

 鏡の中の私は、眉を下げ、困ったような表情を浮かべていた。そして、不意に、そっと手を伸ばしてくる。

 

 やがて、私の手と鏡の中の私の手が、鏡越しに触れた。ひんやりとした鏡の感触の向こうに、確かに感じられる、相手の存在。何を言いたいかは、なんとなく伝わってきた。――『怖くないよ』。

 

 

 私が元気がないと判断したのか、そのまま私の体はくるくると鏡の前で踊り始めた。楽しそうに、ぴょんぴょんと跳ねる自分自身を、私は鏡越しに見つめた。励ましてくれている、らしい。

 

 

 ……あなたは、決着を付けたいから、だからそのために、こんな遠いところまで、来たの? 消えてしまうかもしれないのに。知らない場所に、たった1人で。

 

 

「ねえ。もし、帰れるなら、帰りたい?」

 

 すると、鏡の向こうの彼女は踊るのを止め、じっと考え込んだ。ちょっぴり不満そう。勝負したくて来たのに、って感じだ。どれだけ負けず嫌いなんだろう。

 

「わかった。あなたの望みが叶うなら、きっと帰れると思う。私も帰せるように、ちゃんと考えるから」

 

 ふりふり、と揺れるしっぽ。うん、帰りたくない訳では、なさそう。 

 

 

 

 

 ……よし。

 

 頬をぱんぱんと叩いて、気合を入れる。いなくならない、って約束した。私がいなくなるとしても、それは3人の卒業を見届けてからだ。なら、今ここで立ち止まっているわけにはいかない。

 

 

 私は机に向かい、これから何をしなければいけないかを整理した。ジャパンカップに出ることが前提だが、その前にまず、するべきことは2つ。

 

(1)私が、夢の中と同じくらい走れるようになること。

(2)オグリの無茶なローテーションを止めること。

 

 (1)は、私が呪文を間違えたのが原因だと思うんだけど、うまく走れない。まあ、これは走るのを体に任せておけば、なんとかなる? だって夢が正しければ、世界レコードが出せるくらいのポテンシャルはあるわけだし。ただし、慣れは必要。

 

 問題は(2)だ。学園には、連続出走を禁止するルールなんてない。私が決めることができない以上、止めるなんて……。2週連続でレースを走る子ぐらいいるじゃないか、って言われたらもうどうにもならない。

 

 

 ……オグリを説き伏せる? 望み薄だ。さっきの反応を見る限り、私がすごく走れるなら「万全じゃないと私には勝てない!」みたいな流れで何とかなりそうな気もするんだけど、私って今デビュー戦ギリギリ勝てるくらいだし……。

 

 

 

 ……どうすればいい? そもそもなんで、こんなことになっちゃったんだろう……?

 私が、極端だったから……? だから駄目で、みんなに心配かけて。結局、強制的に休みを取ることになって……休み……休み?

 

 私は椅子を蹴り、思わずその場で立ち上がる。椅子が後ろに倒れ、床とぶつかって激しく音を立てた。

 

 ……そうだ。

 (1)と(2)を同時に成立させる方法が、たった1つ、ある。ただそれは、最後まで走り切ることが、絶対条件だ。

 

 

 

 そして――間違いなく、過酷な道になる。

 

 

 

 もう1度、今度は自分の意思で、鏡の前に行った。鏡の向こうの私に問いかける。

 

「あなたの望む舞台に立つには、覚悟が必要だよ。それでも、構わない? もし構わないのなら……私も、最後まであなたと一緒に走るよ。責任持って、連れて行ってあげる」

 

 

 ぶんぶんと、ちぎれんばかりに揺れるしっぽが、返事だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「理事長。確認なんですけど、レースに出てもいいよ、って言いましたよね。私がレースに出るって言っても別に止めない、ってことでいいですか?」

 

 理事長室に現れた私を、理事長は怪訝そうな目で見た。もはやアポなしで現れたことは咎められなかった。この件が無事に終われば、改めて1度、謝りに来ようと思う。

 

「確かに言ったが……どうかしたか? 別に好きにすればいいが……」

 

「いっぱい出ようと思います」

 

 ペンを落としそうになり、理事長の顔が固まる。隣に控えていたたづなさんも、ぱちくりと目を瞬かせた。

 

「どうしましょう理事長。私、嫌な予感がしてきました」

 

「奇遇ッ! 私もだ!」

 

 手を取って寄り添うたづなさんと理事長。……うん。やっぱり、何度か謝りに来よう。

 

「とりあえず、これから4週ほど続けて出ます。レース場が私を呼んでますから」

 

「限度を知らないのか君は!? 1か月に4走だと!? 却下ッ! 駄目だッ!」

 

「そんな、いいって言ったじゃないですか。それに……"レースに連続出走しちゃ駄目"、ってルールも別にないですし。では、失礼します」

 

 何か言われる前に頭を下げ、早足で退出する。

 

 ……よし。これで種は蒔いた。理事長のあの感じだと、ストップがかかるのは4週か、5週目かな。3週目までは様子を見そうだ。それまで、走り続けられる?

 

 

 とりあえず、バイタル系のドリンクを限度一杯発注しておく。あっても怪我したら終わりだが、ないよりはましだ。私にできるのは、この子を舞台へと案内することまで。あとは、この子次第。

 

 

 タン、と軽く私の足が床を踏み鳴らした。任せて、と言ってくれている気がした。

 

 

 

  続いて、トレーナー室に戻り、担当の子達に話をした。私が元の姿に戻るために、この子を元いた場所に帰すために、私も走る必要があるらしいこと。目標はジャパンカップ。

 

 3人は一様に不思議そうな顔をしながらも、特に反対はしなかった。

 

「で、結局さ、なんで使い魔がこうなったのかはわかったの?」

 

「ううん、そこに関してはさっぱり」

 

「なら、どうして戻れるって分かるんでしょうか?」

 

「夢のお告げ……かな」

 

「かっこよく溜めて言っても、あやふやさが全く隠しきれてないんですケド」

 

 

 

 

 

 

 

 

 マーチャンとは、その後もたまに学園内で顔を合わせた。「海」の話も参考に聞きたかったが、彼女からその話が出ることはほとんどなく、私達はたいてい、アリ村さんや猫の忍び丸を眺めながら、とりとめのない話をした。

 

 

「あなたが白すぎなくてよかったです。白すぎる白は苦手なので」

 

「真っ白なのは嫌いなの?」

 

「消毒液の匂いがする気がして」

 

「わかるようなわからないような……」

 

 

 

 

 

「お父さんがドライブ上手なので、わたしも大人になったらすぐ免許が取れますよ。どやや」

 

「ふふふ、私はもう免許持ってるもんね。どやあ」

 

「やりますね。スパイとして一歩先を行かれてしまいました」

 

「あ、でも今運転したら無免許か」

 

「……本当に免許、持っていますか?」

 

 

 

 

 

「わたしの担当トレーナーさんは、変な人です」

 

「へー」

 

 トレーナーはやっぱり変な人が多いらしい。でも、どういう風に変なんだろう?

 

「マーちゃんのお願いを聞いてくれます」

 

「あれ優しい」

 

「無許可でマーちゃんの銅像立てたりしてくれます。理事長室に呼び出されてました」

 

「愛がすごい……! あと、後半はちょっと親近感」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして訪れた、6月最終週の日曜日。宝塚記念にグラスとスイープが出走し、最後方からの大外一気でスイープがレースを制した。輝くような笑顔でこちらにぶんぶんと両手を振るスイープに、私も思いっきり両手を振り返す。

 

 

 

 みんなで一通り、喜び合った後。控室で2人っきりになった時、スイープが化粧台に向き合ったままで、独り言のように口を開いた。鏡の中のスイープと目が合う。

 

「使い魔さ、最近グランマと連絡取った?」

 

 口調がさりげなさすぎて、私はとっさに首を横に振ることしかできなかった。

 

「ううん。……どうして?」

 

「……そう。なら、いいわ」

 

 珍しく、スイープは言葉を濁した。鏡に映る彼女は、何かを飲み込んだような表情をしていた。

 

 

 

 その後、グラスに付き添って医務室へ。グラスは別に問題ないって言ってたけど、レース中、3コーナーで外に膨らんだ子のあおりを受けて、後ろに下がった時にバランスを崩したのが見えたから。

 

 

 診察の結果、骨に異常はなかったものの、擦り傷と、関節を少し痛めているらしい。まずは大事に至らなくてよかったと、ちょっとほっとする。

 

 

 

 医務室の待合室の椅子に座り、包帯を足首に巻いたグラスは、こちらを見上げた。鼻をつく、消毒液の匂い。白い包帯を見て、私はマーチャンの話を思い出す。白すぎる白と、消毒液の匂い。

 

「トレーナーさん。お話があります」

 

 控えめなのに、どこか決意を含んだ声音だった。

 

「どうしたの?」

 

「気になったことがあるんです。その子を帰してあげたい、っていうのはわかりました。とても、トレーナーさんらしい話です」

 

「うん」

 

「……もし、帰せなかったら、どうなるんですか? トレーナーさんの姿はそのまま? あくまでジャパンカップにこだわるなら、また来年ですか?」

 

 じっと見つめられ、返答に詰まる。窓の外では木の葉が風に揺れているのに、この部屋だけが止まったように感じる。

 

「……先のことはわからないけど……勝てなかったらとりあえず、調査が終わるまでは身を隠して、そのままみんなの手伝いをできたらいいなって」

 

 ……また来年のジャパンカップまで待つ? それは、果てしなく遠い未来のように思えた。走ったら、走っただけ、きっとあの音は近づく。だからチャンスは、1度だけ。来年は、ない。

 

 

 グラスはこちらを真っすぐに見つめたあと、ゆっくりと目を閉じた。まつげの影が頬に落ち、吐息がわずかに震える。

 

「……なるほど」

 

「ゆっくり治そうね。秋まではGⅠもないし」

 

「トレーナーさん。この前約束した、お願いのことなんですが」

 

「あ、決まった? 何でも聞いちゃうから! 言って言って!」

 

 私はそう言いながら、頭の中で口座の残高を思い出す。うん、バイタル系のドリンクを全種類品切れになるまで買い占めたから、少々心もとないけど、大丈夫。

 

「旅行に行きませんか?」

 

「いいね! どこに行きたい?」

 

「そうですね~。温泉なんていかがでしょうか?」

 

「うん、足にも良さそう! いつがいい? 来月あたりに……」

 

「トレーナーさんはジャパンカップが終わるまではお忙しいでしょうから、年末か年明けにでも、いかがでしょうか?」

 

「年末か……年明け……?」

 

 その言葉に胸が詰まる。もし失敗すれば、きっと約束は果たせない。いや――勝てばいい。勝って、守ればいい。でも、守れない可能性のある約束を、してしまっていいのだろうか。

 

「……じゃあ、そのつもりでいるね」

 

 私が答えると、グラスはそっと目を閉じた。

 

「いえ。私も今ので、よく、わかりました。……トレーナーさんは、これから、走るんですね」

 

 私が頷くと、グラスは真剣なまなざしでこちらを見上げた。

 

「なら、私が隣で見ます。トレーニングも、レースも。私がトレーナーさんのトレーナーになります。みんなのメニューも一緒に考えます」

 

「え?」

 

「私が走るのを隣で見てくれるのがトレーナーさんなら、トレーナーさんが走るときに隣にいるのは私です。『表裏一体』ですよ?」

 

「そんな。いいよ、トレーニングのことなら私が一番知ってるし」

 

 その瞬間、グラスはおもむろに立ち上がった。いや立たないで! 座って! とりあえずグラスをもう1度無理やり座らせる。ていうかなんで今立ったの足怪我してるのに!

 

「トレーナーさん、ウマ娘になってみて、トレーニングがよくわかるようになったって言っておられました。なら、私も隣で見ることで、得られるものがあるはずです」

 

「駄目だよ! ぜったい無理なんてさせないからね!」

 

「ちなみに、トレーナーさんのレース予定を先ほど見たのですが。次はいつ、走られますか?」

 

「ら、来週……だけど」

 

「その次は?」

 

「再来週……かな……」

 

「……その次は?」

 

「……もう! 見たなら知ってるでしょ!? なんで聞くの!?」

 

「説得力がないのを自覚していただきたくて。それに、無理はしません。私が無理をしたら、これから先、トレーナーさんに『無理しないように』と言えなくなってしまいますから。……いいですね?」

 

「……ぐうの音も出ない」




マーチャン
 放っておいたら海に行って消えてしまいそうなウマ娘
 スイープとは「プリファイvsスパイキャッツ」を一緒に視聴する仲
 実は初めから「私」のことを「人」と呼んでいる



最後までお読みいただきありがとうございます!(だんだん1話が長くなっている気が……)
ここ数日、感想やお気に入り、評価やここすきが増えているのを見ると、『……ありがてぇ……』と小声で呟きながらPCに向かっています。いつも。
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