世界を変えるのに、3分もいらない ―元トレーナー、現ウマ娘として走ってます―   作:うちっち

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アストンマーチャンの2年目夏合宿イベントに触れています。
ネタバレ注意です。


「マーチャンとスパイごっこしてたら、担当の子に捕まって尋問されました」

 次の週から、夏合宿が始まった。朝日の角度が少しずつ鋭くなり、砂は昼前には熱を帯びる。私は波打ち際から伸びる長い直線を行ったり来たりし、砂粒が靴底に喰らいつく感触を確かめながら、何往復も繰り返した。潮の香りと日焼け止めの匂いが混ざる中、ふと立ち止まると胸の奥が重くなるほどの暑さが押し寄せる。

 

 

 そして近頃、さわさわさわ、と草の揺れる音が常にするようになった。日を追うごとに、どんどん音は大きくなっていく。でも、あまり嫌な感じはしない。ていうか慣れてきた。この子の故郷の音なのだろうか。たまに、「ぱかぱか」みたいな軽い音もする。……何の音だろう?

 

 

 

 そんな時、マーチャンが宿舎までの道をとぼとぼ歩いているのを見かけ、私は声をかけた。どうしたんだろう?

 

 話を聞いてみると、マーチャンが担当のトレーナーに、食欲がないことを相談しなかったのだという。言葉は柔らかくても、表情は学園で見せるよりずっとしょんぼりしている。声に張りがない。小さな手がスカートの裾をもてあそぶ仕草が、落ち着かなさを物語っていた。

 

「ヒシアマさんに怒られてしまいました。マーちゃんがトレーナーさんを『ないがしろ』にしていると。意地悪してしまっているのでしょうか……?」

 

「そういえば、私も同じようなことデジたんに言われた。もっと相談しろって」

 

「でも、マーちゃんだけの問題を、トレーナーさんに言う必要なんて、あるんでしょうか……?」

 

「わかる。……あ、でも。担当の子が相談してくれなかったら、切ないかも」

 

「自分はしないのにですか? わがままさんなんですね」

 

「そうだね、わがままさんだったんだ、私。でも、トレーナーなら、きっとみんなそう思うはず」

 

「トレーナーさんは、みんなみんな、変なんですね」

 

「……そうかもね」

 

 私は反論しなかった。そういうことに、しておこう。

 

 

 

 マーチャンと宿舎に戻ると、ロビーの扉が風に押されて小さく軋み、冷えた床タイルに人影が落ちていた。ロビーの椅子に腰かけて、グラスと見知らぬ誰かが話し込んでいる。後ろから、マーチャンがひそひそと囁いてくる。

 

「やや。あれが、わたしのトレーナーさんです」

 

 あれが。優しそうな人、というのが第一印象だった。とても無許可で銅像を立てるようには見えない。まあ、私も理事長室に呼び出される常連だがぱっと見は大人しそうに見えるらしいので、人は見かけによらない、というやつかもしれない。

 

「グラスと知り合いなの?」

 

「いえ、聞いたことはありませんが……」

 

 マーチャンは、そこでいたずらっぽく微笑んだ。

 

「スパイ活動、しちゃいましょうか。マーちゃん調査隊、集合です」

 

 

 

 私とマーチャンは、壁の冷たさに背中を寄せて身を隠し、床に伝わる人の歩幅と声の高さをたどりながら、揃ってぴょこぴょこ耳を傾けた。

 

 ふむふむ、どうやらマーチャン担当のトレーナーさんは、マーチャンが食事をとらずに練習してたことを気づけなかったことに、責任を感じているらしい。……うん、あらためて聞くと、それは深刻にやばいかもしれない。

 

「マーチャンは、自分のことは自分だけで決める、ってところがあって。平気な顔で無理するから、隣にいたのにどうして自分が気づいてあげられなかったんだろう、って」

 

「……その気持ち、わかります!!!!」

 

 どしたのグラス。急に声が大きくなり、場の空気がぴりっとする。いつもの穏やかなトーンから一段上がった声が、ロビーの天井に反射して跳ね返る。ボリュームが三倍になったように感じられて、私とマーチャンは思わず顔を見合わせた。

 

 

「私も何でも相談できるようになって嬉しかったのに、トレーナーさんは自分のことは自分1人で決めちゃうんです。そばで私がどんなに悔しいか、自分が不甲斐ないか、わかりますか!? わかりますよね?」

 

「……わかる……!」

 

 あれ、なんだか意気投合してる……。2人ですごい盛り上がってる。盛り上がってる話題はどうやら私たちについてらしい。

 

 

 

「やっぱりわたし、トレーナーさんを困らせてしまっていたみたいです」

 

「グラスも怒ってる……」

 

 調査をもう少し綿密に進めようと、私がそっと壁から頭を出したところ、ちょうどグラスと視線が合った。時間がスローモーションになったように、目と目がぶつかる。無防備な私の顔面が露呈した瞬間、空気がぎくりと縮む。……やばい。

 

「……あら?」

 

 さっと身を隠したけれど、無駄だったらしい。すぐにグラスがこちらに近づいてきた。まあ、思いっきり目が合ったもんね。

 

「そこで何をしておられるんですか~?」

 

「マーちゃんたちは、ただいまスパイごっこ中なのです」

 

「……あらあら~。ふふ、ちなみに……スパイって、捕まったらどうなるんでしたっけ?」

 

 まずい、このままだと処断される。そう理解した私がその場にすとんと正座すると、頭上から「飼い慣らされてる……」という小さな呟きが聞こえた。たぶんマーチャンのトレーナーだと思う。聞こえてます。ちなみに、マーチャンは普通にニコニコしながら立ったままだった。

 

 

 

「うちのマーチャンと仲良しなんですね」

 

「さっきもこの人に少しお話を聞いてもらっていたのです。マーちゃんが今、困っていることについて」

 

「えっ……」

 

 マーチャンのトレーナーは、外から見てもわかるくらいに動揺した。相談してくれないって言ってたのに他の子には話をしてるなんて、そりゃショックだよね。……よし、ここは私が!

 

「違うんです。私もマーチャンに気持ちを聞いてもらってたっていうか!」

 

「……っ!」

 

 すると次はグラスの肩がピクリと揺れた。どういうことなの。どっちに転んでも地獄とか。これはどういう場なの。

 

 

 

「また他の子と遊びに行っておられたんですか?」

 

「いや、グラスだって他のトレーナーと意気投合してたじゃない……。私、見ててちょっとそわそわしちゃったもん」

 

「……あら……あら?」

 

「どうしたの?」

 

「もう少しその話、詳しく教えていただけますか? そわそわ、とは?」

 

 すると、グラスの隣で、マーチャンの担当トレーナーが『いいなぁ』という顔をした後、マーチャンにじーっと視線を送った。……訂正。片方が正座したまま話す2人に憧れを感じてるとかだと、確かにこの人、ちょっと変かもしれない。

 

「マーちゃんは、そわそわはしなかったですね。トレーナーさんは話したい相手と話したらいいと思います」

 

 すると、マーチャン担当はがくんと肩を落とした。やばい。明らかにダメージを受けてる。

 

 

 

 担当トレーナーの様子に気づいた感じもなく、ニコニコと微笑んでいるマーチャン。しかし彼女は不思議そうに首を傾けたかと思うと、自分の胸に、そっと手を当てた。

 

「でも、どうしてでしょう……? ちょっともやもやした気持ちはありました。理由は、わかりませんが」

 

 その瞬間、担当トレーナーの顔が、ぱあっと輝いた。私は、1人の人間が救われた瞬間を目撃してしまったことにちょっと感動する。2人の未来に幸せがいっぱい訪れますように。

 

「トレーナーさんにも、聞いてほしいんです。さっきヒシアマさんから怒られてしまったことについて」

 

 2人はそろってお辞儀をし、仲良く並んで歩き去っていった。

 

 

 

 

「私、あの人の気持ち、すごく、すごくよく分かりました。本当に……もう、本当に……!」

 

「そ、そんなに……? でも、よかったね。あの2人、ちょっと仲良くなれそうだったし。ああいうのちょっとやきもきするけど、応援したいよね」

 

「……そうですねえ……あの人も、これからも大変そうですね……本当に……」

 

 そして次の瞬間、グラスがくるりとこちらを向いた。めちゃくちゃ素早い動きだった私が正座を解いて立ち上がろうとするよりも早く、彼女の掌が両肩に静かに置かれた。暖かく、確かな重み。逃がさないという強い意志が、掌越しに伝わってくる。

 

「それよりトレーナーさん。そわそわしたんですか?」

 

「う、うん」

 

「さっきの私を見て、ですか?」

 

「うん」

 

「……本当に?」

 

 なにこれ。めちゃくちゃ疑われてる! なぜ……。

 

「なんだか、落ち着かなかったの。……なんでかなぁ」

 

「……それは、一緒に考えましょうか。ゆっくりとで構いませんから。ふふっ」

 

「嬉しそうだねグラス」

 

「ええ。今、とってもいいことがありましたので。……では、練習に参りましょうか~」

 

 彼女の笑顔が明るく広がると、ロビーの空気まで軽やかに弾んだ。私たちは立ち上がり、ゆっくりとその場を後にした。

 

 

 

 

 

 砂埃が夕陽に赤く染まり、練習場の空気は一日分の疲労と汗の匂いで満ちていた。靴底に噛みつく砂粒の感触が歩幅ごとにはっきりと伝わる。

 グラスの指導は厳しかった。夏合宿が半ばを過ぎるころには、大量に買い込んだドリンクはほぼすべてなくなり、トレーニングで酷使された備品や靴は次々と駄目になった。日曜日は練習がない代わりに、毎週レースに出走する。夏合宿中でも。

 

 そのおかげか、段々と私はうまく走れるようになっていった。いや、走ってるのは正確にはこの子か。私がするのは、主に体のケアと体調管理。

 

 2週目で、足の爪が割れた。練習の間、ずっとじくじくと痛むのがわずらわしかった。他には問題なし。

 

 3週目で、足首が倍くらいに腫れた。脱臼かな。テーピングでがっちがちに固定した。他には問題なし。

 

 走りに影響が出そうなら痛み止めを打とうかと考えていたけれど、楽しそうに走っているのでこの子は痛みを感じてなさそうだった。なら何も、問題はなし。

 

 

 

 

 そして、夏合宿3週目。

 夕暮れどきの涼しい風が廊下を抜けていく中、練習を終えた私は、寮の廊下の奥にある自室へと戻った。

 

 引き戸をスッと横に滑らせて部屋に入る。ほんのりと冷房の効いた空気が頬に触れる。床の畳の感触が心地よく、扇風機の音が静かに回っていた。

 

 その扉が閉まりかけたとき、外からひょいと誰かが顔をのぞかせた。

 

「トレーナーさん。体調はいかがですか?」

 

 グラスだった。

 

「元気いっぱいだよ!」

 

 私がぴょんぴょんと飛び跳ねてみせると、着地するたび、左足にガッツンガッツンと巨大なハンマーを振り下ろされているみたいな衝撃が走った。しまった。上半身のみを使うべきだった。グラスは疑わしそうな目で私を見つめる。

 

「本当ですか?」

 

 もうわかった。最近の私には、どうやら信用がない。

 

「グラスってひょっとして、私のこと信じてないでしょ……」

 

 つい聞いてしまった。やばい。傷口に自分から塩を浴びに行ってしまった感。

 

「いいえ、誰よりも信頼しています。ただ、自分のことについて話すときのトレーナーさんは、正直まったく信じていません」

 

「……えーっと、どういうこと? 結局信じてるの? 信じてないの?」

 

「本当に聞きたいですか? 長くなってしまいますけれど」

 

「……ううん、いい……」

 

 

 

「でも、特に練習の動きも問題ないでしょ?」

 

 別に痛いだけなら、我慢すればいい。やってみてわかったけど、私は結構そういうのが得意だった。

 

「なさすぎておかしいんです。平日みっちり練習して毎週レースに出てるんですよ?」

 

「ほら、私って連勤とか得意だから」

 

 

 

「あのー、それって得意とか苦手とかあるんですか……?」

「故障に気づいてないだけじゃないの?」

 

 スライドドアの隙間から、ひょっこりと別の顔がのぞいた。

 グラスの後ろから、ネイチャとスイープも顔を見せる。

 

「トレーナーさん、最近レース続きすぎじゃない……? いい加減休もうよ……」

 

「ごめん、言いたいことはよくわかるんだけど……あと2週間くらいで終わるから!」

 

 私はカレンダーを指さして主張したが、ネイチャはいっそう呆れたような顔になった。

 

「あと2週走るつもりなんかい。いや、駄目でしょ! 学園でも騒ぎになってるんだよ!? あの子先週も先々週も走ってなかった? って!」

 

「望むところだよ。むしろそれを待ってたまであるの」

 

「どういうことなの……!?」

 

 一方、スイープは腕組みをして、私をじっと見上げた。

 

「……使い魔。先週アタシが言ったこと、覚えてる?」

 

「確か、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」みたいな……」

 

「トレーナーさん、それ言ったの私です」

 

 グラスが横でそっと手を挙げた。そして、スイープは一層目を吊り上げ、その場でどんどんと足踏みを始めた。

 

「覚えてないならもう一度言ってあげるわ! ポンコツ使い魔!! レースに出るなって言ったのよ! なのになんでまた出てるの……!? もうここから動いてやーらないっ!!」

 

 

 その後はいくらなだめても玄関から1歩も動かなくなってしまったので、スイープが寝入ってから、私がおんぶして部屋まで連れていった。

 

 

 そして、夏合宿半ばの、7月末。日曜、私は名古屋に飛び、中京記念に出走した。結果は、3着だった。

 

 

 

 

 

 ――『月を前半と後半に区切り、レースに出ていいのは、それぞれ1度まで。つまり、月に2走まで』というルールが学園にできたのは、その直後だった。

 

 

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 

 遠い昔、夢を見た。見たことのない動物が、緑の芝生を駆け抜ける夢だったように思う。詳しい内容は、記憶の彼方に埋もれて、今はもう思い出せない。

 

 ――今ならわかる。あれは、違う世界、おそらくこの子のいた世界、なのだろう。その動物を見た人が、『史上7頭目の三冠バ』と言っていた気がするからだ。……三冠バ。トレセン学園史上、これまでにクラシック三冠を取ったウマ娘は()()()()()()()。ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンだ。トリプルティアラはさらに少なく、メジロラモーヌ()()()()

 

 そして、今はもう朧げになってしまった夢の中で。その黄金の動物が軽やかに駆ける姿を見て、ただ、綺麗だと感じたのは覚えている。

 

 自分が同じようには絶対に走れないことに気づいて、目が覚めた後に少し泣いた。あんなふうに綺麗に走る誰かなんて、もう2度と見られないんじゃないかと思った。

 

 

 

 そんなある日、友人から誘われたことで、私の人生の転機は訪れる。

 

「……ウマ娘?」

 

「うん! 走って、歌って踊って、凄いんだよ! 走るの好きみたいだから、一緒に行かない?」

 

「それ、歌う意味あるの……?」

 

 

 友人の言う通りだった。走る姿も、歌う姿も綺麗だった。自分ができないなら、せめて彼女たちのために何かしたいと思った。そのためなら何もかも、全部あげたって、構わなかった。そうすれば、きっと――。

 

 

 

 

* * * * * * * * * * * *

 

 

 

 

 8月。夏合宿も後半に入った。とりあえず、レースに出続けるのは終わり。というか出続けられなくなった。うーん……あと2レースは出たかったけれど、仕方ないか。

 

 

 夕食後、宿舎の自室に戻り、机に向かって3人の練習メニューを考えていると、コンコン、とノックがされ、扉がそっと開く。ネイチャとスイープだった。

 

「どうしたの? 狭いけど上がって上がって」

「お、お邪魔しまーす……」

 

 2人は妙にそわそわした様子で部屋に入ってきた。スイープは腕を組んで何か決意めいた顔をしているし、ネイチャは笑っているものの、どこか視線が泳いでいる。まるで、用件を言うタイミングを計っているみたいだ。

 

「2人揃って来るなんて珍しいね」

「いやー、たまたま廊下で会ったんです」

 

 ネイチャはいつもより明るい声で答えたが、語尾が少し裏返っていた。……まあ、いいか。

 

 私は筆を走らせつつ、世間話を交わした。けれども2人の返事は上の空で、時折ちらちらと互いに目をやっては、小さく頷き合っている。何を企んでるんだろう。

 

 そして——。

 

「今だっ!」

 

 突然の掛け声とともに、2人が一斉に飛び掛かってきた。畳の上に背中から押し倒され、スイープが足を、ネイチャが肩を抑えてくる。

 

「ちょ、ちょっと待っ——!」

 

 必死に身をよじるが、思った以上に力が強く、抜け出せない。唯一自由になるしっぽだけがぱたぱたと床を叩く。面倒だからって貸し出しの浴衣なんて着てたのもまずかった。あ、そんなに引っ張られると脱げる脱げる脱げるって! 

 

 その間にネイチャが押し入れから布団を引っ張り出し、スイープが「ほら!」とばかりに力を込め、私は強引に布団の上へと運ばれた。

 

「さ、寝なさい! 今日は休むの!」

「そ、そうそうトレーナーさん! 休養も練習のうちだから!」

 

「いや、ちょっと待って! もう少しだけ! 練習メニューいい感じのができそうだから!」

 

「いやいや、明日のメニューなんて明日考えましょうよ!」

「違うの。さっき考えてたのは来週のメニューで……」

「寝ろ!!!!」

 

 

 

 私と2人が布団の上でわちゃわちゃと掴み合っていたその時だった。音もなく、部屋の扉が大きく開く。

 

「ここ玄関がちょっと開いてて不用心ですよー……って」

 

 そこに立っていたのはタンホイザとターボ。揃って口に両手を当て、何か見てはいけないものを見た顔をしている。目が皿のように丸くなっていた。

 

 その瞬間、私の緩んだ帯がほどけ、ずるり、と白い肩があらわになった。

 

 

 

「ネイチャがぁぁぁぁぁ!? 新入生の服脱がせて布団に引きずりこもうとしてるぅぅ!!!」

 

 ターボの絶叫は廊下全体に響き渡り、一気にざわざわと騒がしくなる気配がした。一方、タンホイザは冷静な顔で、真剣な声を投げかけてくる。

 

「無理やりは駄目だよ。ちゃんと合意を取らないと」

 

「ち、違うの! これは……そのっ!」

「そ、そうよ! 勘違いしないで!」

 

 私が必死に浴衣を直していると、ネイチャは青ざめ、小さくつぶやいた。

 

「こ、こんなところ……グラス先輩に見られたら……」

 

 ——その直後。

 

「……あら、いったい何の騒ぎですか~?」

 

 振り返ると、廊下には大荷物を背負ったグラスが立っていた。口元には柔らかな笑み。しかし、その笑顔を見た瞬間、なぜか私はこれまでで一番「死」を覚悟した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 3人でグラスには何度も説明した。納得してくれた……と信じたい。うん。「後でトレーナーさんにはお話があります」とか言われた気がするけど、たぶん気のせいだと思う。

 

 

 そして、グラスはほう、とため息をついて座り、そっとお湯吞みを手に取った。

 

「ところでトレーナーさん。……今後のレース予定は?」

 

「とりあえず、ジャパンカップまでにあと4走はしたいかな。8月は合宿に集中して、9月に2回、10月に2回」

 

「トレーナーさんってなんで1月2走ルールができたか理解してないとこあるよねぇ」

 

 ネイチャが、ちゃぶ台の隅で額を抑える。表情は見えないが、絞り出すような小声が聞こえた。

 

「で、でも! 先月までのペースからだと半分になってるもん!」

「半分でもえげつないんだよねえ……」

「パパが週6であんみつ食べてたのを週3にしたって聞いた時みたいな気分だわ」

 

 

 

 その瞬間、トン、とグラスがお湯呑みをちゃぶ台の上に置いた。

 

「わかりました。ではそのプランで行きましょう」

「……ちょっと! グラス、本気?」

「その代わり、条件があります。今のままではトレーナーさんの体調を管理できません」

「いや、それこそ私の仕事でしょ。トレーナーだよ私?」

「左足首、痛めてますよね?」

 

 間髪入れず、首を振った。だって私は走れてるもの。テーピングとサポーターを駆使すれば、あと2週は走れる自信があった。ということは、これはまだ、痛めていない。

 

「質問を変えます。私が同じ状態だったら、トレーナーさんはどうしますか?」

 

「走……らせ、ないけど」

 

 絶対安静にさせて保健室から1か月は出さない。特にグラスは足を痛めやすいから。でも私はいいの。

 

「私って昔から走るのが好きで、そう! 走ると嬉しいからつい走っちゃうの!」

 

「まるで犬ね」

 

 

 

 

 

「ということで、いいですね?」

「え、何が?」

 

 私がスイープと話している隣で、グラスが話を続ける。あれ、結局何の話だっけ……?

 

「レースを走るのは認めます。それが必要だとトレーナーさんが判断されたなら、そうなんでしょう。だから、いいですね?」

「うん。……えーっと、それで、何が?」

「よくわかってないのに頷いちゃうのってトレーナーさんの悪い癖だと思うなアタシ」

「夏合宿中、私もこの部屋で過ごします。トレーナーさんの自己管理だけに任せておくのは心配ですから」

 

 どうやらグラスが持ってきた大荷物はそのためだったらしい。

 

「いやトレーナーさんはそういうのダメって言うでしょ。……ねえ?」

 

 ネイチャが困ったように笑ってこちらを振り向いたので、私は首を縦に振る。

 

「いいけど。ただ、2人だと狭いよ?」

 

「いいんかい。え、じゃあアタシも!」

 

 ぱっとネイチャが手を挙げる。

 

「じゃあ、グラスとネイチャの布団貰ってくるね。なんとか寝られるでしょ」

 

 するとネイチャは、部屋の中をぐるりと見回した。合宿所の狭い部屋は、居間と、そこから玄関に続く狭い廊下だけ。居間は2つ布団を敷いたら一杯になりそうなスペースしかない。

 

「いや、トレーナーさんはどこで寝るの?」

「今まで言う機会がなかったから言わなかったけど、私、押入れで寝るの好きなんだ」

「うわ、また嘘つく……」

 

 嘘って。秘密基地みたいで悪くないと思うよ? まあ、暑くて寝るにはちょっとコツがいるのは確か。私はいいけど、この子たちを寝かせるのはちょっと問題があるだけ。

 

 

 

 ところが、私が押入れの方に視線を送ると、ちょうどスイープがきらきらした目で覗き込んでいるところだった。

 

「じゃあアタシが上の段ね。使い魔は下! これは譲れないわ! いい魔法が思いつけそう!」

「……うん、ちょっと待ってて?」

 

 

 

 

 

 とりあえず、宿との交渉の結果、空いていた3人用の部屋に移らせてもらうことになった。さっそく4人分の布団を敷くと、ネイチャが布団にぽふんとダイブして、こっちをニコニコしながら振り向いた。

 

「なんだか、合宿みたいだねえ……!」

「今まで何しに来てると思ってたわけ? にしても、4人だとちょっと狭いわね」

 

 スイープはそう言いながら、名残惜しそうに押し入れを振り返る。まだ諦めていないらしい。押し入れって暑いんだよね。ここはどうにか私が押し入れに入れないものか。

 

 

 

 そんな風に考え込んでいると、グラスが私の前にやってきて、すっと正座をした。とても真剣な表情だった。

 

「トレーナーさんがいつも自分より私たちを優先するのは、トレーナーさんがトレーナーで、私達がウマ娘だからですか?」

 

 そうだ。それの、何が問題なんだろう……?

 

「なら、今はそれ、やめませんか。だって、今のトレーナーさん、ウマ娘ですし。扱いは同じでいいと思います」

 

「……確かに。グラス、いいこと言うわね」

 

「今のトレーナーさんの自分の扱いはウマ娘を大切にしてないと思う!」

 

「ごふっ……!」

 

 パリンとアイデンティティの崩れた音が聞こえ、私は布団の上に崩れ落ちた。ウマ娘を大切にしない私? それってもう何が残るの?

 

 

 

「あっ、使い魔が倒れた! やっちゃえ!」

 

「……や、やっちゃえ! わー!」

 

 うつぶせになっている私の頭に、ぽふぽふ、と枕がぶつかってくる。ネイチャも一緒になって投げてきた。しかし、すぐにストップがかかる。グラスだった。

 

「もう、2人とも、もっと慎みを持たないと……トレーナーさんにも迷惑ですし……」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「何よ! 別にいいじゃない!」

 

 いや、でもきっと、ウマ娘同士だからって思って2人もやってくれたんだと思うし……よし! 

 たぶん大丈夫。たぶん切腹まではさせられない。そうだといいな。

 私は決意を持って、枕をこっそりと拾い上げる。……それ!

 

 

 

 

 そして、無防備なグラスの横顔に、私の軽く投げた枕が、ぽふっと音を立ててぶつかった。グラスが信じられないものを見たような顔で、こちらを振り向く。

 

「……トレーナーさん……? いったい、何を?」

 

「わ、私もウマ娘だから、今はいいかなって……思って……」

 

 

 

 グラスは、視線を落とし、じっと足元の枕を見つめる。顔を上げたグラスは、泣いているような笑っているような不思議な顔をしていた。その手が、枕をがっしりと掴む。

 

「……もう!」

 

 

 

 

 

 

 ……切腹はさせられなかったものの。グラスの投げる枕はずっしりと重かったことを、ここに記しておきたい。

 

 

 

 




トレーナー
 マイルチャンピオンシップからジャパンカップへの連闘を阻止するため、学園のルール自体を捻じ曲げるという暴挙に出る
 月に2走までしかできないのはこの人のせい
 これ以降、三冠とトリプルティアラを同時に取ることは制度的にもできなくなった
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