その日、菊池芳樹の家は、朝から奇妙な熱気に包まれていた。夏の終わりのまとわりつくような湿気とも、あるいは、この家に常に漂う冒涜的な混沌のオーラとも、また質の違う熱だった。それは、期待、という名の熱だった。
「よし……完璧だ……!」
鏡の前で、芳樹は慣れない手つきで締め上げた浴衣の帯を確認し、満足げに呟いた。紺色の地に白い絣模様が入った、ごく一般的な、しかし清潔感のある浴衣。今日の日のために、なけなしの臨時収入をはたいて新調したものだ。
赤紫神社の夏祭り。そして相田千夏との約束。デートというにはあまりにも邪魔な同居人たちが多すぎる。だが、それでも芳樹の心は浮足立っていた。千夏も浴衣を着てくると言っていた。彼女の浴衣姿は、きっと可愛いだろう。
そんな甘酸っぱい妄想に浸っていた芳樹の背後から、尊大な声が響いた。「フン。人間の着るものは窮屈でかなわんな。だが……」振り返ると、そこには息を呑むほどに美しい黄衣の王が立っていた。ハスターは、どこから見つけてきたのか、鮮やかな山吹色の最高級の絹で仕立てられた浴衣を完璧に着こなしていた。その姿は、もはやただの美青年ではない。まるで、遥か東方の失われた王国の若きプリンスのようだった。「この私の美しさを、さらに引き立てるという点においては悪くない衣装だ」彼は扇子を広げ、自らの姿に心底満足げに頷いている。
芳樹は、その隣で別の意味で頭を抱えていた。「……だから、違う!その触腕は、袖に通すんじゃなくて、帯の下に隠すんだって!」「《理解不能。この布は、我が身体構造を、全く考慮していない》」
芳樹は、クトゥルフの着付けに、かれこれ一時間近く悪戦苦闘していた。彼女のために芳樹が選んだのは、夜空のような深い藍色の地に銀糸で星々が刺繍された、美しい浴衣だった。だが、その美しい布は、今、三メートルの巨体と無数の触腕の前で、ただの無力な布切れと化している。袖からは何本もの触腕がにょろりとはみ出し、胸元は、そのあまりにもグラマラスすぎる体躯のせいで大きくはだけてしまっている。一番の問題は帯だった。通常の長さの帯では、彼女の腰(らしき部分)には、到底、一周もさせることができないのだ。
「もう、いい!こうなったらヤケクソだ!」
芳樹は最終手段として、二本の帯を繋ぎ合わせ、さらにカーテンとして使っていた巨大な布を、ストールのように彼女の体に巻き付けた。結果として、そこに誕生したのは、浴衣を着ている、というよりは、「日本の伝統的な布を、前衛的にその身に纏った、異界のファッションモデル」とでも言うべき、奇妙な芸術作品だった。
そして、その足元。炬燵から引きずり出されたツァトゥグァは、どこから見つけてきたのか、子供用の真っ黒な甚平を、腹巻きのようにその毛むくじゃらの腹に巻き付け、頭には、なぜか「必勝」と書かれた手ぬぐいを乗せて、相変わらず眠たそうな顔をしていた。
かくして、一人の人間と、三柱のあまりにも個性的すぎる邪神たちによる、奇妙な一行は、夕暮れ時の喧騒の中、赤紫神社の夏祭りへとその足を踏み入れたのだった。
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境内は既に大勢の人々でごった返していた。屋台から立ち上る、ソースの焼ける香ばしい匂い。子供たちのはしゃぎ声。遠くから聞こえてくる太鼓の音。そして色とりどりの浴衣を着た人々の波。その人間の幸福と営みを凝縮したかのような光景の中で、芳樹の一行は、当然ながらひときわ異彩を放っていた。
待ち合わせ場所に立っていた千夏は、そんな奇妙な一行の姿を認めると、ぱあっとその顔を輝かせた。「菊池くーん!こっちこっち!」芳樹は、彼女の姿を見て息を呑んだ。白い地に朝顔の模様が描かれた、涼しげな浴衣。少しだけうなじを見せたアップの髪型。普段の快活な彼女とは違う、少しだけ大人びたその姿に、芳樹の心臓は不規則に、そして大きく跳ねた。
千夏は、芳樹の隣に立つ異形の神々の姿を見ても全く動じない。「わー!みんな、浴衣すっごく似合ってるね!ハスターさん(と芳樹から聞いている)は、やっぱり何着ても王子様みたいだし、クトゥルフさん(同)は、なんか、すごくセクシー!」彼女の鋼の常識力と、天性の褒め言葉。クトゥルフは、その言葉に六つの瞳をぱちくりとさせている。ハスターは、「フン、当然だ」と、満更でもない様子で扇子を広げた。
そして、神々は生まれて初めて体験する日本の夏祭りに、それぞれの形で興味を示し始めた。
最初の惨劇が起きたのは、「金魚すくい」の屋台だった。水槽の中で、赤い金魚たちが涼しげに尾を揺らしている。クトゥルフは、その光景をじっと見つめていた。《……食えるのか?》
「食えないこともないけど、これはすくって遊ぶもんだ!」
芳樹は彼女に、紙でできた「ポイ」を渡し、遊び方を説明する。だが、彼女は、なぜこんなにも脆い道具で俊敏な生き物を捕らえなければならないのか、その「遊び」のルールが全く理解できないようだった。彼女は数回ポイを水につけ、それがすぐに破れてしまうことを確認すると、やがて心底面倒くさそうな気配を漂わせ始めた。そして次の瞬間。彼女の体から十数本の緑色の触腕が、音もなく水中へと伸びた。その動きはもはや神業だった。触腕は、水槽の中の全ての金魚を、一匹たりとも傷つけることなく、しかし一匹たりとも逃すことなく、瞬く間に絡め捕らえてしまったのだ。そして彼女は、捕らえた金魚の群れを水ごと空中に持ち上げて、芳樹に「これでよいか?」とでも言うように見せつけてきた。その光景を目の当たりにした屋台の頑固そうなおじさんは、「ひ……」と短い悲鳴を上げると、そのまま白目を剥いて後ろへ倒れた。芳樹は、気絶したおじさんの前にそっと代金を置いて、その場を足早に立ち去った。
次の惨劇は、「射的」の屋台で起きた。挑戦したのはハスターだった。「フン、王たる私に不可能はない。あの最もけばけばしい景品を、我が伴侶のために撃ち落としてやろう」彼は、コルク銃をまるで芸術品でも扱うかのように優雅に構える。だが、数発撃っても、コルクの弾はふわりと力なく飛び、景品に当たることすらない。彼の、王としてのプライドが傷つけられた。「……チッ。人間の玩具は欠陥品ばかりか」ハスターは吐き捨てるように言うと、次弾のコルクを指先で摘んだ。そして、その小さなコルクの塊に、自らの神としての魔力をほんの少しだけ込め始めた。コルクが禍々しい黄色の光を放ち始める。
「まずい!」
と芳樹が叫んだ時には、もう遅かった。ハスターは、その光り輝くコルク弾を銃に込めると、引き金を引いた。放たれたのはもはやコルク弾ではなかった。それは、黄色の破壊の閃光。閃光は一直線に景品の棚へと突き進み、狙いのぬいぐるみだけでなく、その棚を、背後の壁を、そして屋台そのものを半壊させ、夜空へと消えていった。屋台の主人は腰を抜かし、その場にへたり込んでいる。芳樹は再び財布から数枚の紙幣を取り出すと、半壊した屋台のカウンターにそっと置いた。
その間、ツァトゥグァは、芳樹が買い与えた、りんご飴を手に持ったままじっと見つめていた。千夏が不思議そうに尋ねる。「ツァトゥグァさん(仮名)は、食べないの?」すると、ツァトゥグァは心底面倒くさそうに芳樹を見上げ、そしてその黒い口をわずかに、あー、と開けた。それは言葉を発しない、無言の要求。「…………え?俺が、食わせるの?」ツァトゥグァはこくりと頷く。芳樹は、周囲の奇妙なものを見る視線を感じながら、真っ赤な顔で神にりんご飴を食べさせてやった。
夜も更けてきた。芳樹と千夏は、なんとか二人きりになる時間を作ろうと必死だった。だが、彼らが話そうとすると、必ずその間にクトゥルフがぬっと割り込んでくるか、あるいはハスターが、「我が伴侶よ、何を密談している?」と尊大に話しかけてくる。やがて、祭りのクライマックス。花火が打ち上がる時間となった。人々が夜空を見上げる。芳樹と千夏も、人混みの中で自然と、その肩が触れ合うほどの距離にいた。
ヒュルルルル……と最初の花火が空へと昇っていく。今だ。今しかない。芳樹が何かを言おうと口を開きかけたその瞬間。彼の右肩にずしりと重く、そしてひんやりとした感触。見ると、クトゥルフがその巨大な頭部(らしき場所)を芳樹の肩にこてんと乗せて、寄りかかってきていた。そして同時に、彼の左耳に熱い吐息。「――我が伴侶よ。この程度の矮小な光で満足か?」ハスターが、その美しい顔をすぐ真横まで近づけて囁きかけてくる。右からは深淵の重圧と、嫉妬のオーラ。左からは王者の独占欲と、熱い吐息。
ドン!と最初の花火が夜空に大輪の花を咲かせた。綺麗だった。とても綺麗だった。だが、芳樹の心は全くときめかなかった。(……ロマンチックのかけらも、ねえ……)彼は夜空に咲き乱れる、色とりどりの花火を見上げながら、心の中で静かに涙を流した。
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その時、芳樹たちは気づいていなかった。そんな奇妙で混沌とした彼らの一団を、人混みの少し離れた場所からじっと観察している一団の者たちがいたことに。彼らは皆、揃いの法被を身に纏っていた。その背中には一つの不気味な目玉のような紋章が染め抜かれている。その中の一人、リーダー格と思われる男が、恍惚とした、そして狂信的な光をその瞳に宿しながら、ゆっくりと呟いた。「…………間違いない…………。あの方々こそ、我らが待ち望んでいた…………」「…………この地に降臨されし、神々だ…………」
その声は、花火の轟音の中に掻き消され、誰の耳に届くこともなかった。だが、新たなる混沌の足音は、確かにすぐそこまで迫っていた。