秋の夜は長い。菊池芳樹の家の縁側では、庭の茂みから聞こえてくる鈴虫の鳴き声が、まるで黒いビロードの夜空からこぼれ落ちる銀の砂粒のように、静かに、そして延々と降り注いでいた。冷たい夜気が、障子一枚を隔てた畳の部屋にまでじんわりと染み込んでくる。
その静謐な空間の中で。芳樹は一人、巨大な、そして極めて難解な敵と格闘していた。彼の目の前の机には、一冊の古びたファイルが広げられている。先日、門倉先輩が気絶した際に落としていった、あの禁断の魔導書の写本だ。芳樹は、大学祭の後片付けの際に、門倉に強引に押し付けられたのだ。「菊池師匠!この古文書の、この一節が、どうしても解読できないのです!師匠の深遠なる叡智をもって、お力添えを!」と。
「……師匠じゃねえって言ってんだろ……」
芳樹は、誰に聞かせるともなく力なく呟いた。彼の目の前にあるページには、ミミズが這ったような、あるいは狂人が夢の中で殴り書きしたような、奇怪な象形文字がびっしりと並んでいた。それは、彼がこれまで学んできたどんな言語とも似ても似つかない。文字そのものから、微かな、しかし確実に正気を蝕むような、不吉なオーラが放たれている。
「……なんなんだよ、これ、本当に……。象形文字っていうより、虫の死骸の集まりみたいだ……」
彼はエナジードリンクを一口呷り、再び、その冒涜的な文字列とにらめっこを始めた。
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その不毛な格闘の様子を。部屋の隅、もはや彼の定位置となった炬燵の中から、一つの巨大な毛玉が気だるげに眺めていた。ツァトゥグァだ。彼は、炬燵布団の隙間から片目だけをうっすらと開けている。その琥珀色の瞳は、芳樹の苦闘を、まるで石ころを相手に延々と一人相撲を取り続ける奇妙な蟻でも見るかのような、そんな純粋な好奇心と、そして底なしの退屈を湛えていた。
やがて、芳樹が根を上げて机に突っ伏した、その時。炬燵の中から、地殻が軋むかのような、低く、そしてひどく眠たげな声が響いた。
「…………ヒュペルボレアの、古代文字だな」
「……へ?」
芳樹は顔を上げる。声の主は間違いなくツァトゥグァだった。「……そんなものも、読めんのか。人間という種は」「ヒュペル……?何だって?ていうか、お前、これ読めるのか!?」芳樹は椅子から転げ落ちんばかりの勢いで、炬燵へと、にじり寄った。「……我にとっては、昨日の新聞を読むようなものだ」ツァトゥグァは心底面倒くさそうにゆっくりと頷いた。
芳樹の目に希望の光が宿った。「頼む、ツァトゥグァ!これ、訳してくれ!お前が神様だってこと、俺は知ってる!いや、神様っていうか、邪神様!お願いだ!」彼は炬燵の前で土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。だが、返ってきた答えはあまりにも無慈悲だった。「…………面倒だ。……却下する」
「そこをなんとか!」
「……我の眠りを、妨げるな。……うるさい」
ツァトゥグァはそう言うと、再びその瞼を完全に閉じてしまった。万事休すか。芳樹が絶望に打ちひしがれた、その時。彼の脳裏に一つの閃きが舞い降りた。古代の神々は供物を喜ぶ。そして、この怠惰なる神の、唯一にして最大の好物は――
芳樹は台所へと走った。そして数分後。彼は一つの祭壇を炬燵の前へと作り上げていた。それは、コンビニで買ってきた、最高級の厚切りポテトチップス(コンソメ味)の大袋。そしてキンキンに冷えた瓶入りのコーラ。彼はポテチの袋を恭しく開封し、その食欲をそそる香りを炬燵の中へと送り込んだ。
ぴくり、と。炬燵の中の毛玉の鼻先(らしき部分)が動いた。芳樹は確信した。「……どうだ、ツァトゥグァ様。これでも、まだ面倒くさいか?」数秒の沈黙。やがて、炬燵の中から黒い毛むくじゃらの手がゆっくりと伸びてきて、ポテトチップスを一枚つまみ上げた。そしてその手が再び炬燵の中へと消える。サクサク、という軽快な咀嚼音。そして観念したかのような深いため息と共に、あの低い声が再び響いた。
「………………仕方ない。……少しだけだぞ。……コーラは、そこへ、置いておけ……」
こうして菊池芳樹は、ポテトチップス一枚を、一単語の翻訳料とする、極めてレートの高い契約を、怠惰なる賢者と結ぶことに成功したのだった。
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ツァトゥグァは、炬燵から顔を出すことすらしなかった。ただ、その眠たげな声だけが、古文書の冒涜的なる一節を、一つ、また一つと芳樹の脳へと送り届けていく。それは、ただの翻訳ではなかった。彼が語るのは、彼自身がその目で見てきた、あるいは体験してきた、この世界の真の歴史。芳樹は、そのあまりにも壮大な物語を、固唾を飲んでノートに書き留めていった。
「……ふむ。……これは、遥か一億五千万年前の記録だな……」ツァトゥグァは、ポテチを咀嚼しながら語り始める。「……まだ、汝ら人間という騒々しい猿が生まれるよりも遥か昔。……この惑星は、我々とは別の星から来た、古のもの(エルダー・シング)と呼ばれる、樽型の、五芒星頭の、やかましい連中が支配していた……」彼は、まるで昨日の近所のゴシップでも語るかのような気だるげな口調で、地球の先史時代を語る。「……奴らは、労働を美徳としていた。……愚かなことだ。……そして、自らの奴隷として、不定形の、便利な生体部品を、作り出した。……それが、ショゴスだ。……家の床を掃除している、あれの、原型だな……」「……だが、奴らの支配も長くは続かなかった。……我、くとぅるふ、そして、他の者たちが、星々の彼方からこの惑星へとやってきた。……そして、まあ、なんだ。……ちょっとした、戦争のようなものが、あった……」その、「ちょっとした戦争」が、大陸を沈め、山脈を隆起させ、この惑星の生態系の全てを一度リセットしたほどの、大災害であったことなど、芳樹は知る由もない。「……やがて、星辰の巡りが変わり。……我らは皆、眠りについた。……くとぅるふは、海の底の、ルルイエで。……我は、地下の、ンカイで。……そして、この惑星は、つかの間の静寂を、手に入れた。……汝ら、人間が、繁殖を始めるまでの、な……」その、あまりにも壮大で、あまりにも自分たちの存在が矮小に思える物語。芳樹は、まるで神話の講義でも受けているかのような、奇妙な感覚に囚われていた。
古文書の解読は続く。ツァトゥグァは、時折コーラをすする音を立てながら、面倒くさそうに、しかし正確に、その知識を芳樹へと与えていく。そして、芳樹は、その古文書の中に、一つの見慣れた単語を発見した。
「……なあ、ツァトゥグァ。ここの部分……『赤き紫の丘』って、書いてないか?」
ツァトゥグァは、しばし沈黙した。そしてこれまでで最も面倒くさそうな声で答えた。「…………ああ。……それは、この土地の、古い呼び名だ……」
「この土地……?まさか、この赤紫市のことか!?」
芳樹は身を乗り出す。ツァトゥグァは、肯定も否定もせず、ただその続きを淡々と語り始めた。
「――赤き紫の丘には、星への扉が眠る――」
「――混沌の主が、戯れに遺した、世界の綻び――」
「――その扉が開かれる時、全ての秩序は意味を失い、万物は、歓喜と狂気の中に、融解するであろう――」
芳樹は、その不吉な預言をノートに書き写しながら、背筋が凍りつくのを感じていた。「……星への、扉……?世界の、綻び……?それって、一体どういうことなんだ……?」
芳樹の問いに、ツァトゥグァは答えた。それは、彼のこの狂った日常の根幹を揺るがす、恐るべき真実だった。
「…………お前が、ここに、呼ばれたのは…………」
「…………偶然では、ない。……ということだ…………」
芳樹の呼吸が止まった。間違い電話。あれは、ただの偶然のはずだった。自分の不注意が招いた、不幸な、しかし、ただの事故だったはずだ。だが。「……どういう、ことだよ……?」
ツァトゥグァは、その問いには直接答えなかった。彼は、ただ心底迷惑そうに、こう呟くだけだった。
「…………この土地は…………」
「…………“アイツ”の、お気に入りの、遊び場だからな…………」
アイツ。その三人称の単語。それは、クトゥルフでも、ハスターでも、そしてツァトゥグァ自身でもない、全く別の第三者の存在を明確に示唆していた。芳樹の全ての日常。それは、ただの偶然の産物ではなかった。何者かの掌の上で踊らされているだけだった、とでも言うのか。
芳樹はあまりの衝撃に言葉を失っていた。ツァトゥグァは、そんな芳樹の様子など全くお構いなしだった。彼は、大きく一つあくびをすると、こう言い放った。
「…………もう、飽きた」
「…………ポテチも、なくなったしな。……あとは、自分で、やれ…………」
それだけを言うと、彼は再びその意識を完全に眠りの深淵へと沈めてしまった。芳樹は一人、部屋の真ん中に取り残された。手元には、解読された古文書の不吉な記述。頭の中には、「混沌の主」という謎のキーワード。彼の、ただのドタバタラブコメだと思っていた日常は、どうやら、もっと壮大で、悪趣味で、そして救いのない、何かの物語の、一部に過ぎなかったのかもしれない。その言い知れぬ巨大な陰謀の気配。芳樹は、ただ呆然とその場に座り込んでいることしかできなかった。
その重苦しい沈黙を破ったのは、けたたましい電子音だった。芳樹のスマートフォン。画面に表示された名前は、「門倉健」。芳樹はためらいながらも、その通話ボタンを押した。電話の向こうから聞こえてきたのは、門倉のいつもの興奮した声ではなかった。それは、恐怖と焦りに上ずった悲鳴のような声だった。
『――た、大変だ、菊池くん!』
『――大学の七不思議の一つ……!『開かずの資料室』の扉が、今夜、開いているんだ!』
『――そして……!そこへ肝試しに行った数人の学生が……!』
『―――行方不明に、なったらしいんだ!』