セミナーのギスギスが見たい先生   作:せご曇(せごどん)

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ガチクズ先生とリオ② ─こんなの合理的じゃない─

 

 今日の職務が終わり、私は作業拠点を後にして外に出る。

 

 暗くなった夜の道。歩く私の足取りはどうしてか軽い。私はモモトークの画面に目を向ける。

 

『来ても大丈夫だよ』

 

 先生からメッセージがあった。私は画面に映る文字列と先生のアイコンを目にすると、心拍数と歩く速度が上昇するのを自覚した。

 

 これが一体どうしてなのか。あの日から、私の身体に起こり始めている変化に私は未だ解答を見出だせていない。

 

 

 

『幸福"を追い求める姿勢こそ、究極の精神合理性だからね……………』

 

 

 先生のあの日の言葉が、頭の中で木霊する。

 

 思えば………私がこうも特定の誰かと親しくすることなんて、これまで無かったわね。

 

 ネル、トキ、ヒマリ。私と長く交流を持つ人間はいないというのではない。古くからの付き合いは私にもある。

 

 けれども、それはミレニアムや他の学校の生徒たちの多くに見られるような、気軽な関係とは少し違う。学校帰りにカフェに寄って、プラスチックのカップを片手に繁華街を歩き回る関係ではない。

 

 別に、そういった知り合いが欲しいとは思っていなかった。ただ私の目的を遂行するための合理的な関係が築ければそれで構わない………そう思っていた。

 

 ………そのはず、なのだけれど。

 

 アリスたちとの一件を経て、私の中に変化が起きているのかもしれない。

 

 それはこれまでの私からすれば、全く未知の領域の事柄。あるいは………私が本当は欲しかったもの…………?

 

 とにかく、非合理的な要素を多分に含んでいて、言うならば"私らしくない"変化。

 

 けれども…………

 

 けれどもそれは………………

 

 ………お腹、空いたわね。 

 

 私は素早く、先生の待つホテルまでの最短距離を合理的に進んで行った。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 部屋番号は変わらない。初めて訪れた日と同じホテルの部屋に先生は泊まっている。

 

「お邪魔するわ」

 

「リオ!」

 

 先生の温かい笑みが、私を出迎えてくれる。既に先生は頭に三角頭巾を被っていて、エプロンまでしている。

 

 まるでC&Cのメイド姿を彷彿とさせるその佇まいは、"先生"というより"家政夫"に近いかもしれない。

 

「先生、今日も映像を撮らせて貰うわ」

 

「オッケー。しっかりとロボットに学習させてよ」

 

 

 

 私はあの日から、先生のお部屋をお訪ねしている。これからしばらくは仕事でここに長居することになるようで、先生は毎日私の食事を作ることに熱意を燃やしていた。

 

 コスト的には相当な金額が失われているはず。私もお金を出すと言ったのだけれど、"好きでやってるから"の一点張りで受け取ろうとしなかった。

 

 そんなに私との時間が"幸福"なのか。そう意識する度に、私の胸は不可解な高鳴りを計測する。病院に行って診察することも検討したけれど、平常時の行動には何も支障をきたさないから、しばらくは様子を見ることにしていた。

 

 私はタブレットを両手で持って、先生を撮影する。先生のハチマキ、エプロン。普段の仕事に勤しむ先生の姿からはかけ離れた佇まい。それが映像の記録として、そして目の前で起こった現実として、私には当たり前になりつつあった。

 

「どう?その後ロボットの開発の方は」

 

 先生が包丁で人参を切りながら、不意に私に語り掛けてくる。

 

「先生、撮影中は余計な私語は慎んで」

 

「余計?そうかな」

 

「……?」

 

「料理は愛情。そんな言葉があるんだ」

 

 あ、愛情………?

 

 先生の口から出てきたひどく生暖かい言葉に、私は一瞬戸惑いを覚える。

 

「料理というのはね、作る人の愛情がこもっていればこもっている程に美味しくなるんだよ。だから、私がこうしてリオとお話をして楽しくなれば、それは料理にも反映される」

 

「そ、そういうものかしら。もしかすると、私の知らない科学合理的な作用が働いて────」

 

 すると、先生は包丁の動きを止めて、まな板の上に置いた。

 

 そして間を開けずに私の方を振り返ると────

 

「…………っ!?」

 

 先生の顔が、気がつけば私のすぐ前にあった。

 

「科学ではないよ。これは私の"経験"さ」

 

「け、経験…………?」

 

「その方が料理が美味しくなった。だから、私はそうしているのさ」

 

 先生は少し顔を離すと、柔和に微笑んだ。そして、タブレットのカメラに向けても同じ顔を見せて、まな板へと再び向き直る。

 

 料理は愛情。科学ではなく、先生の経験。

 

 ………とてつもなく非合理的な理由。先生の経験と実際の味に明確な関係性は存在しているという裏付けは取れない。

 

 むしろ、映像分析の点から考えると余計な動作が入らない方が学習の効率が上がる。そう、だから今の先生の一連の行動には私のロボットへの学習という点からは何一つも合理性が無い。

 

 そのはず………なのだけれど。

 

 どうしてかしら。

 

 私が今、妙な気分の高揚を覚えているのは。

 

 合理性の無い、本来ならば納得出来ない行動。それに対して、私は些かの不快感も覚えていない。

 

 それが私には分からない。

 

「リオ、それでどう?ロボットの開発の方は」

 

「え…………」

 

「順調かい?」

 

 柔らかな声色での問いかけ。疲れで凝った肩を揉みほぐされている時に感じる極楽が、耳から脳を刺激する。

 

 ロボットの開発は滞りなく進んでいる。先生のこれまでの調理映像を学習させ続けて、徐々に先生の動きに近付けている。

 

「え、ええ…………既に簡単な料理ならば作れるようになってきているわ」

 

「そっか、良かった。じゃあ………後少ししたら、もう私の出番も終わりかもしれないね」

 

「………………………!」

 

「何だか寂しくなるなぁ」

 

 出番が終わり…………

 

 もう先生の料理を食べられなくなる………ということ………

 

 ………そうね。元々この時間は、私が先生の動きをロボットに学習させるための時間。私がロボットの開発を終えれば、自然と終わりを迎える。

 

 ………どうしてかしら。開発の進行は私の望む所なのに、こうも良い気がしないのは。

 

「で、でもまだ実用のレベルには至っていないわ。作れる料理のバリエーションも相当限られているし、調理技術も未熟で野菜の切り方が雑になったりいたりもして…………」

 

 そこまで言って、私はハッとした。

 

 現時点でのロボットの欠点を、私は先生に伝えたいという衝動に駆られて口にした。まだ開発は初期段階、だから先生との時間がもっと必要。そう先生に弁明するように。そう自分に言い聞かせるように。

 

 あまりにも非合理的な行動に、自分でも驚きを隠せない。

 

「そっか。ゆっくりやれば良いよ。何事も、じっくりと時間をかけていくことが大切だからね………」

 

「…………………」

 

 私は、知らずの内に口に溜まっていた唾を飲み込んだ。脈拍数が上がり、心臓の鼓動音が半秒刻みに脳を直接揺れ動かす。

 

 おかしいわ………何でもない先生との会話のはずなのに、私は先ほどから随分と取り乱している。呼吸は乱れて、身体が芯から熱くなっている。

 

 ………………………

 

 …………先生。

 

 全て、あなたといるから起こった変化。あなたの一言一句が、どういう訳か私を刺激して止まない。

 

 私はこの身に起きた非合理を、早急に解明しなければならない気がしてきた。この非合理は、私の正常な思考を鈍らせて、もしかすると普段の執務に悪影響を及ぼす可能性もある。

 

 それは………とても由々しき事態。最も避けなければならない、最悪のシナリオ。

 

 そう………解明………

 

 解明しなければならないわ………

 

「はぁ……」

 

 小さく口から漏れた吐息は、信じがたい程に熱く湿っていた。床に固定されていた右足が、垂直抗力から解き放たれて空に浮く。再び地に抗われる頃には、今度は左足が低く弧を描く。

 

「いつか、完全に私の動きを理解したロボットが完成すれば………その時は私の料理と食べ比べて見て欲しいな……」

 

 先生…………

 

「味も完全に同じだったら………もうどっちがどっちか分からなくなっちゃうね」

 

 先生………………………

 

「でも………そしたら……………」

 

 先生………どうか振り向かないで──────

 

 

 

「"愛情"の差で………私が勝ってしまうかな?」

 

 

 

 

「───────っ!!?」

 

 

 

 

 

 先生に密着するほどに近付いた私は、その手を先生の腰に伸ばそうとしていた。

 

 そして私の手が先生に触れようかと思ったその時、先生は首だけを私のいる方へと回した。先生の綺麗な瞳が、私をはっきりと捉えていた。

 

 肩が大きく震えて、呼吸が瞬間にして止まる。汗が額からこめかみを伝って顔を滴り落ちていく。

 

「おや…………リオ。どうしたんだい?こんなに近付いて………」

 

「あ…………」

 

 短く漏れた小さな声を皮切りにして、私の呼吸運動が再開する。先ほどよりも短い間隔で胸が上下して、手に汗が滲んでくる。

 

「それにちょっと顔が赤いようだ………どれ」

 

「…………!!?」

 

 先生……!!?

 

「うん………熱は無いようだね………………良かった」

 

 先生は、色白で綺麗な肌をした右手で私の前髪をさらりと撫で上げると、少し身を屈めて私の額に自分の額を重ね合わせてきた。

 

 先生の顔が、私の顔と触れていた。先生の体温が、私の身体の中に直接流れ込んできた。

 

 まずい。

 

 脈が尋常でなく速くなっている。唇はわなないて、瞳の照準が揺れ動いている。

 

「リオは普段からずっと、休まずに頑張ってるからさ」

 

「あ……」

 

「身体を壊さないかって、ずっと心配してたんだ」

 

 先生は額を私から離した。

 

「時には休息も必要だよ、リオ。充電もせずに駆動する機械が無いのと同じさ。人間にも、確かな充電時間が必要なんだ………」

 

 先生は茶目っ気のあるウィンクを私に見せて、私に背を向けて調理を再開した。

 

 私はまた、その場に足が固定されて動けなくなった。瞬間接着剤で接合された木材同士のように、動かそうにも動かせなかった。

 

 既に私と先生との間に物理的な接点はもう消失していた。数秒前まで柔らかな人肌とその奥の硬い骨の矛盾をインプットされていた私の額は、今はただ何も無い虚空と境界線で触れ合っているに過ぎなかった。

 

 そうだというのに……………

 

 私は先生の温もりが、額から斜面を流れ落ちる滝のように身体の中心へと激しく雪崩込んでくるのを実感した。

 

 決して高くはない、彼の平熱36℃強の熱エネルギーが、流行り病を患った時の高熱を思わせる眩暈(げんうん)を伴って、ひどく私を酔わせていた。

 

「さぁ、リオ。そろそろ出来るよ………」

 

 得も言えない恍惚によって酩酊を覚えていた私の頭は、滴る水に耐えかねて傾く鹿威しのように、緩慢に縦に弧を描いた。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 やぁ皆。

 

 私はシャーレの先生だよ。皆お馴染みの、ね。

 

 リオと私の秘密の交流は、普段暗い機械部屋に閉じこもっている彼女にはとても刺激的に感じられていることだろう。その証拠に……………調理をしている間に、彼女の落ち着きを失った息遣いが私にはしっかりと聞き取れたよ。

 

 リオはこれまで、人に疎まれる経験を多くしてきた。彼女なりの正義感や使命感に基づいた行動が、結果的に彼女を孤立させてきた側面がある。今でこそ多少改善されてきたが………あの性格上、彼女が多くの人間とフレンドリーな関係を築くのは至難だろう。

 

 かといって人との関わりを嫌う、あるいは求めないという性格かと問われればそれも違う。彼女は実に面倒な性格をしていてね………ひどく大人びているように見えて、その本質は"子供"。孤立などどこ吹く風と思わせておいて、本当はとても寂しがり屋で人の温もりを欲している。

 

 言うならば、実に"非合理"な性格だ…………まぁそこが人間臭くて良いところなのだがね。それが彼女を、一段上の美しい女性へと仕立て上げている………

 

 少し話が逸れたな。

 

 異性どころか人との関わり自体をあまり持たなかったリオ。そんなリオの側に、彼女の欲する温もりを与える人間がいたとしたなら………?

 

 そして、その人間が異性だとすれば………?

 

 その答えは、君たちには分かるだろう。

 

 そろそろ…………仕上げの時間だね。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 先生と夕食を共にするようになってから、どれ程の時間が経ったかしら。

 

 私は今日も、先生のお部屋で先生の作ってくれた食事を完食した。栄養面で以前より大幅な改善が見られるようになったからか、最近は身体の調子が良い。バイタルチェックを行なってみたら、以前より良好な結果が得られた。

 

 これも全ては先生の厚意のおかげ。先生が私に気をかけてくれたから、私はこうして健康を維持出来ていた。

 

 ……………けれども、先生と共に過ごしている時に時折見られる、謎の興奮による身体の異常反応。その解明には未だに至っていなかった。

 

 バイタルチェックの結果でも、身体への異常は全く検知されていない。平常時の呼吸にも何ら問題は無い。

 

 そうであるはずなのに、先生と共にいる時だけ………いえ、先生について考えている時だけ、私は自らに異常を認めざるを得なかった。

 

 あの脈拍は。あの高揚は。あの湿り気は。一体何が私を掻き乱しているのか。

 

 先生が関係している………そう思っているのだけれど、先生に対する何がそうさせているのか。それが私には分からなかった。

 

 でも、その異常は決して不快ではなくて……むしろ私に"幸福"をもたらしていた。

 

 不思議………本当に不思議。

 

「リオ」

 

 先生に名前を呼ばれて、私は間髪を入れずに彼の方を向いた。そこには、瞳に哀愁の色をたたえた先生の綺麗な顔があった。

 

「実は………明日から当分は、ここに戻ることは出来ないんだ」

 

「え…………」

 

 口から漏れた、弱々しく短い声。胸の内側から、"幸福"を感じている時とは別の、とても嫌な鼓動が手足の先まで響き渡る。

 

「どうして──」

 

「ミレニアムの方に仕事が入っちゃって。しばらくはセミナーのお手伝いをすることになったんだ」

 

「セミナーの……………」

 

「まぁ、リオもセミナーだからちょっと変な感じだよね」

 

 私は平常時、ミレニアムで過ごすことは無い。基本的に校外での仕事をこなしている。だから、セミナーの実質的な運営は私ではなく2年の2人が取り仕切っている。

 

 つまり………

 

 私と先生は、しばらく会うことが出来ない。

 

「そう…………そうだったの…………………お仕事と言うならば……仕方の無いことよね…………」

 

 ここを離れる理由は至極真っ当。何一つとして非合理的な話は無い。先生はいつも通り、職務を真剣に全うしようとしているだけ。

 

 …………何かしら、この喪失感は。

 

 先生に会えなくなる。でもそれは、"しばらくの間"というだけ。永遠に会えなくなる訳じゃない。

 

 私の人生、これまで先生と一緒にいない時間の方が長かった。先生と言葉を交わしたのなんて、ものの数カ月のこと。たったそれだけ、それだけの時間の関係。

 

 ………そのはずなのに。まるで生まれた時からずっと側にいてくれた人みたいに、先生という存在が私の中で大きく思えていた。

 

 こんな感情、非合理的だわ。

 

 私はどうしてこんな気持ちに────────

 

「私、待っているわ。また先生と……こうしてお夕食を共にできる日を」

 

「リオ…………!」

 

 先生の顔が明るく照り映える。どこか救われたような心地がしたと同時に、この笑顔が明日から見られないのだと思うと、胸に嫌味な刺激がほとばしった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 先生がミレニアムへ発ってから1週間が経過した。

 

「……………!」

 

 モモトークの着信音が鳴る。私はスマホを即座に手に取って、メッセージの送り主を確認する。

 

 もし先生なら─────

 

 

『ミレニアムサイエンススクール定期安否確認サービスです』

 

 

「……………………」

 

 ………そこにはただの機械的な文字列が横並びになっているだけだった。

 

 私は何を一喜一憂しているのかしら。忙しい先生が、こんな時間にメッセージを送るはずもないと言うのに。

 

 私も私の仕事に集中しなければならないと言うのに。

 

 日が経つにつれて、遠く離れているはずの先生の顔の思い浮かぶ時が長くなっていった。朝起きたら、まず先生が浮かぶ。作業拠点への移動時も、執務中も、拠点への帰りにも。

 

 私の側には先生がいた。

 

 けれども、それは私の願望が生んだ空想でしかない。瞬きをすれば先生は消えて、その肌に触れようとするとただ空気を抉って終わる。

 

 今もこうして、私は私の使命を全うすべき時に完全に個人的な感情のために思考を割いている。それがミレニアムの生徒たちの幸福に繋がるものではないと知っているのに。

 

 合理性の欠片も無い、危うい心持ち。私は何とかしてこれを正さなければならないわ。

 

 何とかして……………

 

 …………………

 

 昼食の時間ね…………

 

 先生に言われた通り………食事はしっかりと摂らないと………

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 既に、先生の動きを学習させた料理ロボット「トレビアン君」は先生の優れた料理技術を忠実に再現するに至っている。

 

 包丁さばき、火加減の調整、その他様々な料理の技を身に着けたトレビアン君は、私の生活には欠かせない存在になっていた。

 

「……………………」

 

 ……黙っていると、先生のことが思い浮かんでしまうわね。この時間も有効活用して、今日の残りの仕事に取り掛からないと。

 

 そうして調理時間の空白を埋めること数十分。トレビアン君は、私に料理が完成したことを知らせてきた。

 

「………………」

 

 食卓に並んでいるのは、とても健康的でバランスの取れた食事。インターネット上にある様々な文献から学習させた栄養の知識で、トレビアン君は私に必要な最適な食事を提供出来るようになっている。

 

 あの頃の………偏った栄養の弁当食品と、サプリメントで食事を済ませていた時の卓上とは、似ても似つかない。そこには温かみがあって、そこには命の礎があった。

 

「サメナイウチニドウゾ」

 

「…………いただきます」

 

 お腹が減ると、気持ちが沈む。しっかりと満腹感を得て、この低迷した感情を元に戻す必要があるわ。

 

 …………………

 

 ……………………………

 

「美味しい………」

 

 …………先生の味とよく似て。

 

 先生の料理を研究させてきたトレビアン君。トレビアン君の料理には、先生の味が染み込んでいた。

 

 とても美味しくて、とても温かい、先生の味が…………

 

「………………」

 

 …………咀嚼をする度に、胸のあたりが鈍く痛む。

 

 せっかく気分転換を狙って食事に臨んだのに。

 

 結局、先生のことを考えてしまった。

 

 先生が側にいないのに、先生の味がすることが余計に私を苦しめた。

 

 ……………

 

 この感情……………

 

 これが…………"寂しい"というものなのね………

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 先生が私のもとを離れてから1ヶ月が経った。

 

 月日が流れると、人間の記憶は薄れていく。人は忘れる生き物。

 

 そう言われ続けてきた。そう学んできた。

 

 そうだと言うのに、私は先生のことを少しも忘れられなかった。

 

 今でも思い描けば、目の前に先生の顔がある。先生の声が聞こえてくる。

 

 どうしてかしら。人間の機能と、明らかに相反している。

 

 先生は………先生はどうなの?

 

 私のことを、少しずつ忘れている頃かしら。

 

 私の声、私の顔、少しずつ先生の記憶から薄れていっている。

 

 それが人間として自然な在り方。側にないものから忘れていく。

 

 とても合理的で、否定のしようが無い摂理。

 

 ……………今、私は否定しようとしたの?

 

 そうあっては欲しくない。そんな非合理な願いを抱いた……?

 

「はぁ…………」

 

 溜め息が漏れてくる。

 

 最近、溜め息の数が増えてきた。

 

 これまで全くと言っていい程に無かった習慣なのに。

 

 酸素が足りていないのではない。

 

 息を切らしているのでもない。

 

 心肺機能に異常も無い。

 

 なのに、ただただ息が漏れる。

 

 まるで何年も前から何かを思い煩っているかのように、胸の奥底の遣瀬のない感情が重い空気となって漏れていく。

 

 先生…………

 

 あなたならば…………その理由が分かるかしら………

 

 あなたならば、この重たい感情の名前を…………

 

「……………!!?」

 

 モモトークの着信音…………?

 

 久しぶりに聞いたわね………

 

 私に連絡をくれる人なんて、今はほとんどいないから。

 

 誰かしら…………

 

 また前みたいに、定例の安否確認サービスが───

 

 

『久しぶり、リオ』

 

 

 

「………………………先生」

 

 先生だ。

 

 先生がメッセージを送ってきた。

 

 先生が……………

 

 ………………って……!!?

 

「先生っ!!?」

 

 あっ…!

 

 スマホを床に落としてしまったわ………

 

 私は驚きでスマホを手から滑らせるという痴態を晒した。周囲に見ている人がいなかったのが唯一の救い。

 

 ……画面にもヒビは入っていないわ。

 

『久しぶりね。どうしあの?』

 

 …………急いで入力したから、誤字のまま送信してしまったわ。

 

 頬がほんのりと熱を帯びるのを感じ取る。

 

『これからリオと会って、少しお話がしたいんだけど………時間はあるかな?』

 

 ………お話?

 

 直接会って……ということは重要なお話よね。通話やメッセージでのやりとりでは駄目な、重要な要件。

 

 …………まだ今日の分の作業は残っている。

 

 けれども、私の手は、それらを考慮することなく返信のメッセージを入力していた。

 

『構わないわ』

 

『良かった!じゃあ………』

 

 先生は集合場所を私に伝えた。ここから行くには少し時間を要する所。

 

 けれども、そんなことは問題ではない。

 

 行かなくては。

 

 少しでも早く、先生と合流しないと。

 

 ただそのことだけを考えて、私は作業拠点を離れて行った。

 

 走ったからかしら。

 

 胸がひどくうるさく、落ち着かない。

 

 息が苦しい。運動は得意でない私には、明らかに向いていない動き。

 

 しかし、肉体に重なる苦痛とは裏腹に、私の口元はどうしてか靴紐の解けたシューズの履き心地のように緩みきっていた。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

 目的地に着いたのは夕方頃。

 

 今では特に誰かに使われているでもない、無人のビルの屋上。

 

 黄昏が柵状の手すりの鈍色をほんのりと紺に染めて、今日という日の最後の煌めきを表現している。

 

 先生はこんな所に私を呼び出して、一体何の話をするつもりなのかしら。

 

 確かに、ここは目立ってもいないし、誰かに会話を盗聴されるリスクは少なくて談合には合理的な場所だけれど………

 

「………………」

 

 静か………よね。

 

 でも、とてもうるさく思えてくる。

 

 私の胸が、とても速く鼓動を刻んでいるから。

 

 走って息を切らしていたのは、もう随分前の話。

 

 とっくに呼吸は整っている頃合い。

 

 でも、これから先生と会うのだと、久しぶりに先生に会えるのだと分かると、全身の血流が滾り、心の臓器が素早く足踏みを開始していた。

 

 緊張……しているのかしらね。

 

 ………少し、汗臭い………?

 

 ここへ来るまで、初めは遮二無二走っていたものだから、汗は間違いなく流れている。

 

 先生との久しぶりの再会だというのに、エチケットに気を配る余裕も無いだなんて。

 

 ………というよりも、エチケットなんて気にしたのは初めてのことね。

 

 そんなもの、些かの合理性も無いと、以前の私ならば切り捨てて見向きもしなかった。

 

 ………………

 

 …………手鏡、あったかしら。

 

 急に前髪が乱れていないか不安になってきた。

 

 ………無いわね。

 

 仕方ない、スマホの画面で代用するしかないわ。

 

 ………………

 

 ……………………

 

「リオ」

 

「…………っ!!?」

 

 えっ………!?

 

「あ………」

 

 スマホが………

 

「おっと」

 

 スマホを落としそうになった。けれども、作業拠点にいた時とは違って、床と衝突することは無かった。

 

「危ない危ない………大丈夫?」

 

 スマホを手に持って、私に差し出してきたのは───

 

「先生…………」

 

「久しぶり、リオ」

 

 1カ月ぶりに私の前に立った、笑顔の先生だった。

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

「先生………………」

 

 西日に焼かれて、顔の半分が朱に染まる先生。その微笑みは、あの日まで見たものと何も変わらない。

 

「リオ………元気だったかい」

 

 元気…………?

 

 元気……………………

 

「…………いいえ」

 

 ………!!?

 

 ………私は何を言っているの………?

 

「毎日………毎日が辛かったわ」

 

「……………」

 

「あなたに会えない毎日は………とても寂しかった」

 

「……………」

 

 何を……私は何てことを言っているの………!!?

 

 早く訂正しなくては………

 

 頭ではそう考えているのに、口がそれを受け入れてくれない。

 

 まだ、私は続きの言葉を残しているようだった。

 

「気が付けばあなたのことが思い浮かんでいたわ。眠る時も、仕事の時も、食事の時も………何もかもをあなたと結びつけて考えていた………」

 

「リオ……」

 

「どうしてかしら………こんなの非合理的よ…………何も………何もかもが間違っているわ…………」

 

 ………………

 

 そう………本当に非合理的。

 

 こんなことを口走るのも、全くの理解不能。

 

 自分の身体なのに、自分で制御出来ないなんて。私は一体、どうしてしまったのかしら。

 

「……………おかしいことなんて何も無いんだよ」

 

「え………………」

 

「私も………同じなんだ」

 

「…………っ!!?」

 

 先生は急に私の手を掴むと、自分の胸にビタリとくっつけた。

 

「先生……!!?」

 

「感じるかい…………?」

 

「え…………」

 

「今、私の心臓はバクバクさ…………」

 

 バクバク……………

 

 …………確かに、掌に伝わってくる先生の心臓の鼓動は、とても速く忙しない。

 

 ………まるで今の私と同じで。

 

 先生は私の手を放した。私は胸の奥にむず痒さを覚えて、急いで伸ばした手を引っ込める。

 

「………ごめん、急にこんな所に呼び出して」

 

「それは…………構わないと言ったはずよ」

 

 ………どうしたのかしら。先生の表情が、強張っていてぎこちない。

 

「…………………先生?」

 

 何か様子が変よ。

 

 もしかしたら、体調が優れないのかも………

 

 歩み寄ろうとした私を、先生が手で制する。どうしてか口元を緩めて、私から目を逸らした。

 

「その……………ははっ。ちょっと待っててほしい。一回深呼吸するから」

 

 ………深呼吸?

 

「スーッ、ハーーッ…………………」

 

 大きく息を吸って、大きく吐く。大げさに仰け反って、大げさに身体を畳み込む先生の姿は、私の謎を益々深いものにした。

 

「うん、もう大丈夫。気持ちは整ったよ」

 

 気持ち………

 

 何の気持ち…………?

 

「………うん。あんまり長々と話すことでもないから、恥ずかしいけれどはっきりと言います」

 

 恥ずかしい………?

 

「先生、何を──」

 

 

「ずっと、ずっと君のことが好きでした」

 

 ……………

 

 …………………

 

 …………………………!?

 

 ………………………………!!!?

 

「えっ………!!?」

 

 好き…………?

 

 好き………

 

 好きって…………

 

「私は君が好きだ。この気持ちに嘘はつけない………!」

 

 先………生………………?

 

 

「これが私の正直な…………正直な君に対する気持ちだ…………どうか受け取って欲しい………………………リオ」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆

 

 

 

「待って…………待って先生…………」

 

 何が起きたか分からない。

 

 頭の中がクラクラする。

 

 回転した訳でもないのに、三半規管がひどく痙攣を起こしている。

 

「好き…………って…………?」

 

「………あちゃー………伝わらなかったか………」

 

「だから、先生は何を…………!」

 

「じゃあ………もっとストレートに言うね」

 

 先生は、私のすぐ目の前まで寄ってきた。

 

 先生の少しもブレることのない眼差しが、私を掴んで離さない。

 

 私の気持ちは目を逸らしたいって叫んでいるのに、身体が言うことを聞いてくれなかった。

 

「私は…………リオに恋をしている」

 

「………………………………は」

 

「これは嘘でも冗談でも何でも無い。私の心からの言葉なんだ」

 

 恋………

 

 恋………………

 

 恋って……………………

 

「……………………!!!!?」

 

「……ははっ。ようやく伝わってくれたかな」

 

 えっ……………!!?

 

 恋って…………!!?

 

「突然過ぎたかな………」

 

 心音が跳ね上がる。息が荒れて、目眩までしてくる。

 

 ミレニアムの女子生徒が、毎日のように話題にする感情。ひどく青臭くて、合理性の欠片も無い不安定な心情。

 

 それが、"恋"。

 

 そしてそれは…………しばしば異性が異性に抱く感……情………

 

「あ、あ………」

 

「ん……?」

 

「あな、あなたは、私に………」

 

「うん」

 

「ど、どうして、恋を………」

 

「…………どうしてかな。きっと、孤独に頑張る君のことを、私は好きになったんだと思う」

 

「ぁ…………」

 

「気が付いたら、君のことを考えている自分がいたんだ。眠る時とか、仕事の時とか、ご飯の時とか………」

 

「え………………」

 

 それって………さっき私が言った………………

 

「君と離れてから、その感情はどんどん強くなった。日が経つにつれて、私はリオのことばかりが頭に浮かんだ。リオの声、リオの顔、リオの言葉。夢にまで出てきたこともあるよ……」

 

「…………………」

 

「でも………私は先生だ。生徒にそんなこと伝えたら、困惑させてしまうかもしれない。………もしかしたら嫌われるかも」

 

「そんな!嫌うなんて──」

 

「ありがとう。でもそれだけじゃない。先生である私が、特定の生徒に好意を抱いて良いものか………悩みに悩んだよ」

 

「……………」

 

「けれどもね…………やっぱり私は、自分に嘘を吐くことは出来なかった」

 

「え…………」

 

「君が常々言っているじゃないか。"合理性"って」

 

「………………」

 

「私にとっての"合理性"って何だろう?それを考えた。あの日、リオにご飯を作った時のことを思い出した…………そしたら、私はもうその時、自分で答えを言っていたんだ。"幸福"を求める姿勢こそ───」

 

「究極の………精神合理性……………」

 

 先生はゆっくりと頷いた。

 

「だから………私は自分の合理性に従った。先生かどうかじゃない…………一人の人間として、君のように合理的にあろうとした」

 

「……………」

 

「………こんなところかな。私がこの気持ちを伝えるに至った経緯は」

 

 ……………………

 

 ……………………………

 

 ……………………そう…………そうなのね………

 

 先生は………とても悩んで………それでも私への気持ちが勝って…………

 

「…………………」

 

 ……………先生に言われて、分かったわ。

 

 私が抱いていた、非合理的な感情のことが。

 

 私の身体に様々な落ち着きのない反応をもたらした、正体不明の病状が。

 

 ……………私も、先生に"恋"をしていたのね。

 

 気が付けば先生のことを考えていた。

 

 先生のことを思い浮かべると、言い様の無い幸福感に包まれた。

 

 とても………温かい気持ちになれた。

 

 そう………これが…………

 

 これが………"恋"なのね…………

 

「それで……………リオ。返事は聞けるかな……………」

 

「………………………」

 

 こういう時………どう返すべきなのかしら………

 

 いい加減には答えられないわ…………何か適切な言葉選びがあるはず…………

 

「………………ダメ、ってことかな」

 

「…………………!!?」

 

「そっか…………リオがそう考えてるなら、私はそれに──」

 

「違うわっ!!!」

 

 ………!?

 

 自分でも驚いてしまうほど、大きな声が出てきた。

 

「その……………先生…………笑わないで聞いてくれる…………?」

 

「…………うん」

 

「……………私も…………あなたに恋をしていたみたい………なの………」

 

「………えっ!?」

 

 っ…………!!?

 

 熱い…………身体の内側が燃えるように熱い……………!

 

 顔が蒸発してしまいそうな程熱い…………

 

「……………ははっ、そうだったんだ」

 

「っ………笑わないでって言ったでしょう!!?」

 

「あ………ごめん、つい…………」

 

「………………それで、こういう時、どう返せば良いものか…………私には分からなくて…………」

 

 ………声が尻すぼみに小さくなっていく。

 

 これも………"恋"のせいかしら…………

 

「……………そっか。じゃあ………」

 

 ……………!!

 

「先生…………?」

 

 先生は、私の手をそっと取った。

 

 この世界のどんな存在よりも………私を優しく、先往く道へ導くように。

 

「私はリオが好きだ。こんな私だけど…………恋人になってください」

 

 ……………

 

 ………………………

 

 ……………単純な二択の質問……………

 

 答えなんて…………決まっている。決まりきっている。

 

 先生の誠意には、誠意で答えなくてはならない。

 

 私も、先生のことを………

 

「…………はい」

 

 "好きだ"って、思っているのだから。

 

 

 

 

 

 

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